>>535 (向こうの繰り返しにもなるし、「このスレにはふさわしくない」のでこれ一レスだけにするがw)、
だから >別にして と但し書きした。
スパンのある、(善悪苦楽の価値判断を伴った)業果の連続性(その“甘受”の主観性)は、二つの方向性を持つ。
一つは、今生(≒日々)に於いてのみ見、確認し、自省・懺悔(さんげ)と新たな歩みへと繋げるもの。
今一つは、過去世来世まで視野に入れ、自省・懺悔(さんげ)と新たな歩みへと繋げるもの。
そして、ここに於いて重要なことは、
前者は、観察と確認・頷きでもって、(確かなこととして)受け止めてゆくのみでよいが、
後者は、「三世・輪廻という世界観と、歴代の聖者(阿羅漢)達(のおしえ)」への『信』が大前提(必要)となる、ということだ。
だから、「信なき場合、ふざけたこと言うんじゃねぇ!」ということになる。
逆に言えば、そこに信が生じていれば、『詳細』(一対一対応、或いは法則性のある対応)までは触れずとも、
(―信があれば、或いは世界観の共有、確立が既にあれば―)、
過去世から今生の苦への繋がりを語ることを非難される謂れは無い。
当人の主観に於いて、『今後の行為の羅針盤として』受け止められているのだから。
向こうのスレで、ダライ・ラマと或る親子の逸話が貼られたことがある。それが、ノンフィクションかどうかはともかく、
その場に於いて、ダライ・ラマは、「過去世の業果だと受け止めなさい」と言った。
(※そして、この場に於いては既に『詳細』が必要なくなっていることにも注意。)
この声掛けが成立するのは、そこに(両者の間に、親子と仏教との間に)信があるからだ。
当人が、主観的に「縁起と業果」を受け止めているからだ。(少なくとも批判的ではないからだ。)
貴方がずっと拘り続けている今一つのポイントは、(『詳細』についてであるのは了解済みw)、
そこに介在する『信』の有無でしょう。『信』無き者には、どんな言葉でも、誰が口にしたとしても、
刃でしかない、と・・・。
軽くまとめてみたが、どう?w