>>265 続きます。
A「自助努力」
正しく思うということは、ただ単に方向性無く漂うのではなく、志としての正しい
方向性が問われてまいります。
そこで注意しなければならないことは、手段が目的となり、目的が手段となった
場合、神仏の御心に適った自助努力の精進の思いとは違った方向にズレてまいります。
神仏の御心に適った手段は手段として、目的は、目的として見極めることが大事で
あります。
むさぼりの心や慢心の心から、自助努力精進と反対の自助努力精進の放棄につな
がり、嫉妬の心から恨みの心へと邪悪な思いが先行して、邪見(善因善果、悪因悪果を
否定する見解)を持つことになり、自助努力の精進の意味が軽く感じられるようになり、
退転してまいります。
勤勉的自助努力の持続こそ延長線上に圧倒的神仏の認識力に限りなく近づく正しい思い
であります。そのためにも、神仏の御心に適った奉仕の心としての神仏への御手足とし
てお役に立ちたいという正しい思いが内在されていなければ、なかなか勤勉的自助努力
精進の持続の思いは、強まらないと思います。
目的と手段を踏まえた正しき方向性としての自助努力の精進の正しい志であります。
B「謙虚」
謙虚さについては、神仏の光を通すために必要な心掛けであります。
人間に対して謙虚になることではありません。
正思における謙虚とは、神仏に対しての謙虚さであります。
神仏に対しての謙虚さがなくなれば、慢心の自惚れの心が不平不満の心となって怒り
の心になってしまい、他人に対して悪しき思いを抱いたり、害心を持つようになり、
相手への仏性をも否定してしまう誤った思いに駆られることもあります。
そうなれば、正しい思いからはずれて、神仏の光も通らなくなります。