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亭白:
>正思(しょうし)
>自分は正しく思ったか。自分の修行の志(こころざし)は正当か。心の中にむさぼりや怒りや
>愚痴・不平不満、などの悪い想念を抱かなかったか。他人に対して悪しき思いを抱いたり、
>害心をもたなかったか。慢心したり、相手の仏性(善き存在であること)を疑わなかったか。
>邪見(善因善果、悪因悪果を否定する見解)を持たなかったか
☆「正思」としての好ましい姿は、三つの条件からなっています。
「素直」「自助努力」「謙虚」の三つの条件であります。
ここで述べている「自分は正しく思ったか」「自分の修行の志(こころざし)は
正当か」を合わせたものが「正思」の姿勢そのものであります。
@「素直」
正しく思ったかという心は、神仏の御心のお考えに適う思い方を「正しく思う」
ということになります。そのためのあるべき姿勢の正しき心とは、神仏の御心に
素直であれということで、自分の肉体の五感から来る感情に素直になることで
もなければ、煩悩に振り回される心を素直ということではありません。
小成して慢心しますと、努力精進の目標がなくなりますので、神仏の御心のお考
えに適う思いが摩り替わり、煩悩に振り回される心を良しとして、自分に甘くなり、
神仏の御心に適った考え方の素直な心が無くなって、自分自身の満足の心が優先
して、神仏の御心に適った考え方より優位に立つことにより、神仏の御心を軽んじ
る思いが支配されてまいります。
そうなると、自助努力精進の前提の神仏への信仰心が軽んじられて、正しい心に
遠く及ばない凡人以下の心境になってしまいます。
そうならないためにも、神仏の御心の考え方を忖度し、神仏の御心に素直に心を
合わせてゆくことが大事になってまいります。