仏教議論スレッド 6

このエントリーをはてなブックマークに追加
982/2
>>88
87前者についての88は、以上のように、貴方の反論には大きな理がある。
(私自身、その視線を外すことを良しとしないから龍樹に距離を置いている。)
「認識に於ける時間性」を外すことはできない。
(→「根境の和合による感受があり、苦として認識される」という流れ(→縁起)を外すことはできない。)
無時間的“景色”は、あくまでも「俯瞰的概要、全体像」でしかない。説明の際の絵図でしかない。
華厳教学、或いは曼荼羅は、おそらく、この極致なのだろうが、
それは、実践的視座ではなく、仏の(悟りの)視座の象徴的謂いだと思われる。
そして、釈尊が説かれたのは、まさに、
「この苦は何に依っているのか?」という実践的問いに対する実践的答えに他ならない。
「三法印として全体像を見る」としても、同時に、自身に生起し続ける一一の縁起を観察し、
「善き縁起は繋ぎ、増長させ」、「悪しき縁起は断ち、減衰させる」ところにこそあろう。

 ──────────
一つ断っておけば、
私個人は、「無時間的縁起(→同時性の強調、縁起の相依的解釈)」に重きを置いてはいない。
>>87は、あくまで、「縁起に於ける同時性とはどういうことか」という説明の一つに過ぎない。
(それの最大の拡大版が「重々無尽の縁起」であり、
 時間的先後なき視線だからこそ、不生であり不死であり、前世過去世も来世もなく、
 「すべてが同時に(同時のものとして)見られている」仏の眼差しという大乗の世界観へと繋がるものと思う。)
私自身は、時間的先後抜きに縁起は語れないと考えるものだ。
「苦の滅という果へ向かう歩み(行)」の文脈、枠組みの上で、
因と果は先後として見られなければならない、と。
(先後の消失は、苦の滅が成った時、そこに顕現することである、と。)