>>88 そう。
まさに、そのような側面で釈尊は(≒【原始仏典に於いては】)法を説かれている。
(そうした時系列(因或いは縁の和合・結実、根境(識)の和合と感受)が捨象される危険を孕むから、
私は龍樹に近付かないのだが・・。(近付くならば、中論のみではなく、
他の教えも併修されねばならない。))
だがそれは、「 >現実世界(リアル世界)で 」ということではなく、
「人の認識の(生理的)システム故の時間性」、
「認識・思惟・観察・考察等に於ける時間性(順序性)」に依るからだ。
それらを、外せない基本の文脈(枠組み)とするからだ。
《行じることにより「苦の滅」という果が熟す》という「時間的」文脈が軸となっているからだ。
勿論、
≪『たとえ彼・彼女が、【その時には】「苦」として【認識】していなくても、
執着が生じている時には、既に「苦」もまた生じている』、
『彼・彼女がそれに気付いていない(→「苦」として認識していない)』、
『執着があること、そのこと自体が「苦」である』≫ と、(龍樹的にw)見ることもできる。
ダンマパダを始め、「一切行苦」と言われる通りだ。
(※この際の(論理的)同時性は、決して(数式のような)『可逆的なもの』『双方向性のもの』ではない。
だから、87後者についても問うた筈だ。こちらについての返レスも欲しい所だ。
※※「執着以外にも苦の因はある」という返答は無しなw
後者は、《「因(或いは縁)」無き「果」があり得るか?》という問いなのだから。)
だが、初期仏教に於いては、そこから時間性が排除されることはない。
なぜなら、因・縁の遮断により苦の滅という果を結ばせるのが釈尊の教えだから。
※ちなみに、法華経に於いても、
『どんなに楽しく幸せ【に感じながら】過ごしていようとも、
それは燃え盛る火宅の中のことである』 という一節がなかったか?w