法華経こそが末法の一切衆生を救う本当の仏法である

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500神も仏も名無しさん
>>494
あのですね。いろいろな学説があっていいのですよ。
「1052年・末法元年」説を否定する人がいても全然かまいません。
それが真摯な研究結果であれば、ちゃんと受け入れますし。

ただ、本当に大事なのは、像法か末法か、ではないのです。
それは釈尊が便宜的に設けた大まかな時代区分に過ぎないのですから(これは私個人の考えですよ)。
釈尊や大聖人が法を説いたのは、一切衆生の救済にあります。
そこから考えれば、衆生の機根がどうであるか(>>470)、というのが最大のポイントになるのです。
その衆生の機根を判断する一番有力な基準は世相でしょう。
その世相を見て、「経文に照らして、今の世相はまさに末法である」と見抜かれたのであれば、それは末法なのです。
仮に、1500年を末法元年としましょう。
では1499年(1400年でもいいですよ)は、末法ではないのか?
杓子定規に考えれば末法ではありません。像法です。
しかし、仏法が衰退し、争いの絶えないような世相になっているとすれば、1499年も末法なのです。
そもそも、衆生の機根が、ある年を境に激変するなどということは、まず考えられません。
ある程度、長い年月をかけて、ゆっくりと変化していくものでしょう。
ですから、釈尊も500年や1000年単位で、衆生の機根の変化を説いたのです。
そのへんを理解せずに、チョコマカと電卓でも叩くように計算しても、ほとんど意味などありません。
もう少し法の本質に目を向けてください。
こう言っては悪いけれども、貴方がたの主張は、単なる机上の空論ですよ。
宗教本来の目的である、人間の幸せ・生命の尊重などに、ほとんど何の関係もない話なのですから。