御隠居の言う「生命」は、(或いは一般的語彙としての「(広義の)生命」も同様だが)、
『(五蘊存在としての)【人間(ヒト)により】【観念として】構想されたもの(→仮設されたもの)』
なんだけどねぇ・・・。
目を塞いでるんだよねぇ・・。「肉体」とか「生きている状態」を引っ張り出して当て嵌めて・・。
自分で、そういう具体性に置換できないもの、それらは一部分・顕現した様相、或いはそれらを生み出す源、
として述べているのに、それに気付かないんだよねぇ・・。
そこが、「生命教」と言われる所以なのにねぇ・・・。
試論
《「生物」=「生命」》 ・・・(具体的存在)
例:「海は生命の源」「生命(いのち)の惑星(ほし)地球」「火星に生命は存在しない?」
《「生きている状態」》 ・・・(具体的様相、顕れ)→=「いのち」
例:「おい!こっちはまだ生命反応があるぞ!」
《「生きている状態を持続させる力」(=所謂「生命力」)》・・・(「機能・働き」、或いは「本能」)→抽象的
例:「枯れたと思ったら今年も芽が出たよ。生命って凄いな・・」
「未遂に終わったのは、ためらい傷が多いのは、“生きたい”というあなたの生命(いのち)の叫びだよ」
《「そこに見出される価値や意味」「その“存在意義”を成立せしめる“本質”」》
・・・(心理的意味付け・価値付け)→抽象的→無機物にも存在させ得る
例:「人形、包丁、針等の生命(いのち)」「国歌の生命」「(サッカーボール等を指し)“これが俺の生命(いのち)”だ」
《具象物・観念を問わず、「存在するもの」「存在すること」》・・・(一つ目の亜種、或いは上記と同じ)
例:「ここが我が国の生命線だ。これを突破されたら命運尽きる。国家の存亡がかかっている」
《およそ生きているものを生じさせる、根源的「力」》 ・・・(全ての始原としての何ものか)
→「繁殖の原動力、理由」も含まれる→抽象的→不可知
例:無し。(強いて言えば、各種宗教が設定しているような「根源・始原・力・意志」と同質・同義)。