仏教 議論スレッド その4

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5021/4
>>493
まだかなり甘い所もあるが、それでも、
それくらいの述べ方をして初めて、「この記述はこう読める」「私はこう読む」、という意見になるんだよ。
原文(必ずしも翻訳以前の原典でなくとも)の意味を歪曲しない発言になるんだよ。
一応「了解」としても良いが、ついでだから、もう少しツッコんでおく。

> つまり「輪廻」にも関係のある異教の修行者ポッタパーダ質問でした。
当時の者達(求道者達)が、《「アートマン」が永続し、輪廻を繰り返す》と解していたとしても、
ここでの問いは、やはり「輪廻について」のものではない。
アートマンが永続しつつも輪廻しない場合も考えられたからだ。(たとえば解脱した後・梵我一如として)。
故に、「アートマンは常住か、世界は常住か」という問いは輪廻と関係なく成立する。
また、輪廻そのものについては、当時に於いて問うまでもないことなれば、
(ここだけでなく「無記として括られる際の問いの質」としても)、
貴方のように、輪廻とアートマンの(弱い)関係性で無理に結ぶよりも、
端的に「アートマンと世界の常住」について問われている、と見るのが《素直な》読みだ。
つまり、ここで、問いの内容を【『輪廻について』問うている】とするのは無理がありすぎる、ということ。
輪廻について問うならば「何が輪廻するのですか」「(これこれの人は)どこに往く(生まれる)のですか」
「なぜ輪廻するのですか」「輪廻に終わる時はありますか」等といった問いになるだろう。
(それが仏典の叙述の特徴というものだ。(参:>>343))
 辛うじて最後の問いだけが、
 アートマンが常住でなかったときは、《「アートマンの終わり」が「輪廻の終わり」となる》点で
 関係するとは言い得るが・・。)
5032/4:2010/06/23(水) 18:20:24 ID:9FTATiKb
>>493
>一方、自分の弟子達への【案内の言葉】は「修行が完成すれば再び母胎に宿ることはない。」と。
> スッタニパータの説法を引用しましたが、沙門果経などの六神通の中の一つにて前世
> (つまり輪廻)を説かれている他例をあげましょう。説法対象は異教徒ではなく
> 弟子達だったと記憶しますが。
これも>>502と同様で、
≪「【前世が】説かれている」のでもなく「【輪廻が】説かれている」のでもなく、
 「【《為すべきことが為されたならば》《次の生を受けることがない》ということ】が【述懐】されている」≫のです。
辛うじて『次の生を受けることがない』という部分だけが、《輪廻の停止という意味で》関係するとは言い得るが・・。
で、沙門果経等の記述は、【今は関係ない】だろ?文脈も違うし場面も違う。説かれ方も違う。
貴方の姑息さは、こうした、文脈無視の
≪或る一語の一致が、さも「密接な、本質的な、重要な繋がりである」「同じ内容である」かの如き発言≫
にあるんですよ。(解っててやってるようだから余計に性質が悪いw)
それは、「類推・推測による読み」や「解釈の多様性」を踏み越えた、捏造のレベルなんですよ。
5043/4:2010/06/23(水) 18:22:09 ID:9FTATiKb
>>493
> 4種類の入胎の法は、自歓喜経でも説かれており、それ以外では無かったのでは。
> そして2経とも舎利弗がリピートしておりますので、最初に舎利弗だけに説かれた
> 説法で、その後に他の弟子にも(舎利弗より)広がったかと認識しております。
南伝大蔵経索引によれば、「入胎」の語では
自歓喜経・等誦経の他、〔中部38大愛尽経、93アッサラーヤナ経、(及びミリンダ王問経)〕にある。
ミリンダ経はさておき、中部38は単に生物学的な受胎、中部93は未見だが、
(仮に四種の入胎としても)経名からして舎利弗相手ではない。バラモンの章と括りがあることから、
バラモン相手ということになろう。(同席していたかは不明(おそらく居ないだろうが・・。))
「舎利弗に関して」という点では、貴方の言う通り。しかし、重要なことが2点ある。
《【その経自体は】、舎利弗【に対して】説かれてはいない》ということと、
《両経とも【目録】【列挙】でしかない》ということ。(舎利弗がこれまで学んだおしえの列挙でしかない。)
あと2点加えるなら、《舎利弗は法将軍と呼ばれるほど「おしえに通じている」ということ》
《(舎利弗に限らず)他者の為に説かれている教えを、同席して聞き、理解し把握する場面も多い》ということ。
貴方の仮説は、あくまでも【「根拠の弱い」推測、想定】でしかないことを自覚すべきです。
何がしかの因縁(事件や、或る者からの疑問・誹謗・誤解等)から説法が為されているにしても、
上の二つの経に於いても、個々の多くの内容が(全て)舎利弗の為に説いたものかどうかは
仏典からは不明だということです。
5054/4:2010/06/23(水) 18:58:39 ID:9FTATiKb
>>493
> 最初に【舎利弗だけに】説かれた説法で、《その後に》・・・略・・・《広がった》かと
特に《》部分に関しては、そういう事態が考えられないわけではない。
(実際、俯瞰して見た、(歴史的・時間的な)『おしえの伝播』はそのような経路だとも言える。)
だが、証拠は何一つ無い。状況証拠すら無い。特に今回の【舎利弗だけに】は。
文献に対する視線、おしえ・教義の変遷を考える時、そうした推測や仮説は意義のあることだ。
だが、貴方のような≪あたかも、『仏典の記述がそのようになっている』かの如き要約≫は、やはり、捏造と変わらない。
(引用がされていればまだマシな方だが、それですら、繋ぎ方や読みに於いて、
御隠居並みの(以上の?w)勝手な妄想が盛り込まれている。
原仏スレ(談話室)の時から続いた自歓喜経紹介の仕方も、指摘をスルーしながら微妙に書き方を変えつつ、
片手じゃ足りないくらい指摘されて、ようやく全体の不備を自白してたよな?
そういう姑息さから腐臭が漂うんだよ。)