仏教 議論スレッド その4

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457神も仏も名無しさん
http://sports2.2ch.net/test/read.cgi/entrance2/1276657363/41
> “名称に於ける具現化”というのは、「常見」ぽい弊害もあるような気がします。
「常見」となるかどうかは別にしても、名称が付くことによる弊害はありえます。
(参:>>48>>49>>50
 しかし、名を付けることで把握し易くもなります。用心深くあることで名称と付き合ってゆくべきでしょう。)

> 水の流れ=川を永続的な実体あるものと見なすように
少し違うのだろうと思います。
その喩えなれば、《「流れ」という名称》と見るべきでしょう。
「川」という実体があるでもなく、水という実体が(とどまって)あるでもなく、
「水」と呼ばれる名色が、所縁によってそこに生じており、その変転する(流れゆく)在り様を指して、
『(水の)流れ』と称しています。この時、そこには確かに『流れ』という在り様が生じているわけです。
そしてそれは、一瞬前と同じではありません。二度と同じ在り様となることもありません。
しかし、そこに『(水の)流れ』は【生じ続けて】います。(勿論この場合、縁が変われば滅することもありましょう。)
そのように「法身」もあるのではないか、と。
(そして、この場合に於いては、縁が変わる事も無くあり続け、
 (具体的には)道を修めた者達によって体現され続ける(伝承され続ける)、と。)
つい最近、一在家の「単純常住」をタンポポに譬えました。(>>215
あそこまで単純なものは論外としても、実は相似した見方はとても重要だと思います。
「古人の古径を発見した」という言い方がありますが、
『諸法の在り様が縁起するものとしてある』ということ、このことは、
上で譬えた「(水の)流れ」の如く、《「諸法の在り様として」あり続ける》という意味に於いて、
(少なくとも大乗仏教に於いては(≒華厳等の法界に於いては?))許容され得るのだ、と。
うむ・・、今一どころか、今二今三だなw (縁起一代の添削がないと駄目だな・・・w 眉唾で読んでくれw)

> パーリが・・・・・・と思います。
私も、感覚的にはそのような印象を持っています。
パーリは(≒原始仏教は)、現場に即した、最適な、即戦力となる「おしえ」で(あった)ろう、と・・・。