仏教 議論スレッド その4

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254神も仏も名無しさん
>>251
>換言しますと、釈尊は自分自身の為に「苦」にこだわったのではなく、
>衆生済度(人類救済)の為に「苦」にこだわったということです。

釈迦が「異常に」苦にこだわったのは、精神医学的には、彼の双極性障害(躁うつ病)
故の、極度の抑うつ感、苦悩感、厭世感からである。
衆生は、釈迦と同様な精神病者を除いては、それほど異常に苦にこだわってはいない。
「苦あれば、楽あり。楽あれば、苦あり」という「真理」を悟り、どんなに苦しい時
でも、常にささやかな喜びを見出し、懸命に生きてきた。苦も、生存に不可欠な心的
現象であることを、少なくとも無意識的に知ったいたのである。
また、釈迦の感じた苦は、何不自由ない生活からの、純粋に精神的な苦である。
衆生の物質的不足による苦は知らない、「贅沢病」「我侭病」の一種である。純粋に
精神的な苦は、我執を離れて、家族などの身近な他者に心を移すことにより軽減・除去
される。釈迦は、このことには思い至らなかった。極度の物質的不足から生じる苦の除
去は、物質的充足以外には方法はない。不思議なことに、釈迦の苦には、衆生の最大の
苦である「貧」からの苦が含まれていない。生死に係わることだから、「貪欲」などで
片付けられる問題ではない。
釈迦が説教を続けたのは、己や弟子の生活のためではなかったのか。説教を続ける限り、
托鉢がもらえるから、食うには困らないからである。昔も今も、宗教は、「職業の一つ」
であることを、忘れてはならない。すべては、動物の一種としての人間の「肉体的生存」
のためである。にも拘らず、宗教が生命を以って生命を否定するという倒錯に陥っている
点において、他の職業とは異なる。