>>701 また、或いは、
外部の者□ →← ●内部の者
こういう図式も立てられる。この時もまた、対論者である外部の者は、
上で述べたような責務を負う必要は無い。相手の発言を理解する上で、
「●は××という風に言っているけれども、それについてはコレコレこうである」
【という評】をすることに何の問題も無い。
(勿論、「(自らが)証拠を探し出して検証する」という手法はあってもいいが)、
(絶対的なものとして)『証拠提出の義務』を負うことはない。
彼の立場はそういうものである、と許容できないかい?
(またこれも、以前貴方が指摘していた形式だと思うが・・?
「外部の者が【歩み寄りとして】予習してあげてるのに、
【きちんと説明せず(或いは「実践・実証」せず)】、相手の不勉強のせいだとするのは傲慢である、と・・。)
まあ、貴方が言うような
「つまらなくなる」「面白味の減少」、へと繋がるものでもあろうとは思いますが・・w
(また余談ながら、
今の貴方の問いとほぼ同じ(或いは相似した)問いを、彼は既に過去しているよ。
で、今は、それはそれとして、(そうした仏教内部の伝承(≒悟りの継承)を認めた上で)、
じゃあ、どう考えられるのか、という考察をしているのだと思うよ。)