仏教 議論スレッド その3

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709神も仏も名無しさん
>>701
少し彼を擁護すれば、

当事者○ →← ●当事者

という論議の場があったとする。
この時、当事者同士は、貴方が言うように(「或るときには極論でもって」)「断定し合って」もいいし、
それが宗教の姿(≒面白味)だと言えるだろうが、ここに

当事者○ →← ●当事者
        ↑
        ■
       .外野

外野(観客席)が存在し得る。
(以前、貴方がスポーツの観戦に譬えたように―そして、今でも貴方の立ち位置は外野でしょう?―)、
外野は、理解は示せども、どちらの立場に組するでもなく、双方の言い分を【それなりに】受け止めながら
議論に参加することが可能だ。勿論、野次にしかならないという意見もあろうが、
それでも、議論に加わることは出来る。そして、外野の者は『(極論でもって)断定する必要は無い』ということだ。
『●に言わせれば、××だそうだよ』で十分だ。
(それを実証する義務が生じるとすれば、当事者の方であろう。(また、この件での以前の貴方の指摘は、
 まさに、その『当事者なればこその実証義務や言行一致が必要である』というものだったと思うが?
 『それをするのは「外野である自分たち」ではなく、「当事者(である仏教徒)」であるべき』というものだったと記憶する。))
で、当然、彼は外野の者だ。彼に対してそこまで追求することもあるまい?
また、
貴方は、(ディベートが如く)当事者の立場に自分の身を移設して発言することが多い筈だ。
だから、>>701のような発言になると思う。だが、皆が皆その手法を取らねばならないということもあるまい?