仏教 議論スレッド その3

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645神も仏も名無しさん
>>627
644付記:
(これは、私の(個人的w)興味だが)、
仏典中多くの場面で、ブッダは
「私は、〜」とか「私が○○の時、〜」とか「私に於いて、」とか述べている。
だが、同時に、「如来は、〜」という記述もあることに留意してもいいと思っている。
判り易く有名所で、梵網経に於いては「これについて【如来の知るところは】こうです」という箇所がある。
(全文献を精査して、この区別を抽出してみると、存外面白い結果が出るんじゃないかと推測しているんだが・・w)
ま、それは別として、いずれにしろ貴方の疑義は上のリンク先で全て解決する。(筈のものと思うw)
【《知覚・自覚する何者か》が居るのではなく、《知覚・自覚(という作用)のみが、そこにある》】
というのが、縁起の骨子だと俺は思う。諸法無我(非我)とはこのことである、と・・。

*(そしておそらく、いま少し触れた「私(aham)」と「如来」の区別も同様に見ることが出来るだろう。
 「私(aham)」と言われるときは、
 《「具体的、既に生起済みの(或いはこれから生じるであろう)、当該個人の諸々」に密着関連した事象だから》、
 「私(aham)」で言及されるのだ、と。
 「如来」と言われるときは、そうした個別的な「個人を特定する必要のない場面」或いは「おしえ・勝義に関する場合」等、
 《そこに「(世俗的)主体を立てることがふさわしくない場面」》、或いは、
 《誰とかと特定せずに、行を完成した聖者全てを(→誰でもを)指す故である》、と言えるのではないか、と。)


644付記2:
再度言う。
≪「無為」とは【「有為でないもの」の総括・総称】≫であることを忘れるな。
そして、貴方が延々主張していることも、(ニルヴァーナ意識だろうが高次の意識だろうが)、
全て「有為」なんだよ。