1 :
神も仏も名無しさん :
2010/05/05(水) 12:34:04 ID:idJFTPOb あなたの天を、あなたの指の業を わたしは仰ぎます。 月も、星も、あなたが配置なさったもの。 そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものなのでしょう。 人の子は何ものなのでしょう あなたが顧みてくださるとは。(詩篇8章)
とりあえず2を取っておこう。
3 :
神も仏も名無しさん :2010/05/06(木) 11:13:28 ID:imE6LtZS
ヨブ記は難しい。わかるようでわからない。 でも、あまり深く考えないで、感想程度からスタートしましょう。 まちがったら訂正し、曖昧だったら追加すればいい。 ゆっくり、のんびりやりましょう。
わかるようでわからない。じれったいですね♪ こういう場合は、改めて見直したり、からめ手から攻めたりします。 さしあたりネットを調べるとあるわあるわ。 読めば読むほど混乱し、真相どころか濃霧の中に突入していく感じ。 でもそうせざるを得ないのが悲しき性ですか。
ヨブ記のおおざっぱなアウトライン @ 成立(推測)・・・バビロン捕囚(BC597年)以後 A 場所(推測)・・・死海の東、エドムの地(異民族・異教徒) B 作者不詳(推測)・・・捕囚から帰還したイスラエル人 C テーマ・・・なぜ正しい人が不幸に会うのか D 舞台設定・・・族長時代か(BC1400年頃)
なにしろ大昔のことなので、ほとんどが推測に次ぐ推測になる。 細かいことに拘ることも意味があるのだけど、 基本的にはテーマ、なぜ正しい人が不幸に会うのかに話の重点を置こう。
7 :
神も仏も名無しさん :2010/05/07(金) 11:23:40 ID:iOA4rKeC
ヨブ記の構成 @ プロローグ(散文) ・・・「事の起こり」1章〜2章 A 三人の友人との議論(詩文) ・・・ 3章〜31章 B エリフ登場(詩文) ・・・ 32章〜37章 C 神の登場(詩文) ・・・ 38章〜42章1−6節 D エピローグ(散文) ・・・「結び」42章7−17節
これから、ヨブ記の構成ごとに、ヨブ記の流れに沿って語り合いたい。 もちろんおおよそです。話が先走ったり、後に戻ったりも可。 気に入った文章の書き込みも歓迎したいです。 まず最初に、プロローグ「事の起こり」1章〜2章からスタートです。
☆ 1章9節 サタンが答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。・・・」 この範囲であれば、まずこれが目に付きますね。 サタンは、いわゆる現世利益の信仰はニセモノである、と言っている。 御利益を売り物にしている教派宗派は耳が痛いですね。
それでは次、三人の友人との議論3章〜31章です。 友人たちはヨブを「悪いことをしたから災いに遭うのだ」と責めたてる。 しかしヨブは「わたしは潔白である」と強く反論する。 友人たちの論拠は、善因善果・悪因悪果の因果応報論です。 サタンが目的と手段で現世利益を語るのに対し、 友人たちは原因と結果でサタンと同じ内容を主張しています。 しかしヨブは、カルマの法則、因果応報論を否定します。
☆ 31章35〜37節 どうか、わたしの言うことを聞いてください。 見よ、わたしはここに署名する。 全能者よ、答えてください。 わたしと争う者が書いた告訴状を わたしはしかと肩に担い 冠のようにして頭に結びつけよう。 わたしの歩みの一歩一歩を彼に示し 君主のように彼と対決しよう。 自分は正しい。絶対に正しい。 自分の正しさを神の裁きの場で裁いてほしいと、ヨブは言っている。
12 :
神も仏も名無しさん :2010/05/07(金) 18:35:30 ID:QCgc2Nj5
もうエリフ登場32章〜37章まで来てしまったか。 これでは、もうじきスレ終了になりそうな勢いになっている。 もっとゆっくりやらねばいかんね。
エリフに関しては3説が考えられる。 @ そのまま受け取り、最初からいた若者だとする説 A エリフの話を後世の追加とする説 B エリフはもう一人のヨブであり、ヨブ自身の反省であるとする説 個人的にはB説を採用したい。 話の流れに違和感がなく、むしろ作者の積極的な意図があるのであり、 エリフがヨブを代弁しているような印象を受ける。 それになによりも、エリフの話が神の登場を密かに用意している。
15 :
神も仏も名無しさん :2010/05/08(土) 11:35:52 ID:xoM8tZ2j
☆ 33章8〜12節 あなたが話すのはわたしの耳に入り 声も言葉もわたしは聞いた。 わたしは潔白で、罪を犯していない。 わたしは清く、とがめられる理由はない。 それでも神はわたしに対する不満を見出し わたしを敵視される。 わたしに足枷をはめ 行く道を見張っておられる。 ここにあなたの過ちがある、と言おう。 神は人間よりも強くいます。 これがエリフの考えであり、自分を正しいとすること自体を批判している。 これは現世利益や因果応報とはまったく異なる視点である。
☆ 38章2節 これは何者か。 知識もないのに、言葉を重ねて 神の経輪を暗くするとは。 いよいよ神の登場38章〜42章です。 神は、ヨブの疑問、なぜ正しい人が不幸に遭うのか、には答えず、 自分はこんなにすごいのだぞとひたすら自慢するばかり。 高い所からヨブを見下ろしている。
☆ 40章3−5節 ヨブは主に答えて言った。 わたしは軽々しくものを申しました。 どうしてあなたに反論などできましょう。 わたしはこの口に手をおきます。 ひと言語りましたが、もう主張いたしません。 ふた言申しましたが、もう繰り返しません 神が登場したのは、もうサタンとの勝負が終わったからである。 ヨブがサタンに勝ち、神はサタンとの賭けに勝ったのだ。 あれ? ヨブの身にいったい何が?
たぶん、37章から38章にかけての空白で、 ヨブは神(聖霊)に出会ったのだろうと思います。 38章〜42章1−6節は、ヨブの心情を吐露したものです。 ヨブはもう答えを知っているのであり、 ヨブの神への賛歌が神の自慢として表現されています。
☆ 42章5−6 あなたのことを、耳にしてはおりました。 しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。 それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し 自分を退け、悔い改めます。
20 :
神も仏も名無しさん :2010/05/08(土) 15:02:30 ID:wbEl2YCu
エピローグ「結び」42章7−17 この部分については蛇足であるという批判が多い。 しかし読み返して見ると、軽く入って軽く出るという意味において、 この蛇足を肯定的に評価したい。「結び」があったほうがいい。
ざっと眺めたけど、さらに丁寧に追いかけてみよう。 作者は神を認めているから、ヨブ記の冒頭「事の起こり」で神が登場するのは わかる。しかしサタンもいる。作者はサタンを認めていたのだろうか。 認めないと物語が始まらないから認めていたのだろう。 このサタンは冒頭で登場したきりで姿を消してしまう。 どこへ消えたのか。これも不思議である。
その後にサタンらしい記述がないわけではない。 40章〜41章に登場するベヘモットおよびレビヤタンである。 ただしベヘモットは川の生き物であり河馬を連想させる。 そうすると残るのは海の怪物・レビヤタンである。 創世記1.21「神は・・・大きな怪物・・・創造された。」 天地創造の5日目であり、人の創造に先立っている。
☆ 41章24−26 彼の進んだ跡には光が輝き 深淵は白髪をなびかせる。 この地上に、彼を支配する者はいない。 彼はおののきを知らぬものとして造られている。 驕り高ぶるものすべてを見下し 誇り高い獣すべての上に君臨している。 被造物であるのに、この地上に君臨しているのはサタン以外にない。 個人的には「レビヤタンがサタンである」と推測する。
24 :
神も仏も名無しさん :2010/05/09(日) 13:25:03 ID:2E4vpjAS
レビヤタンがサタンなら、神とサタンの関係も推測できる。 神はベヘモットを神の傑作と自慢する(40.19)のだから、 レビヤタンは傑作中の傑作になる。これが神とサタンの関係である。 サタンは神に信頼され、神に従順に仕えている。 ヨブ記における神とサタンの関係は、エデンの園における神と蛇の関係や、 イエスを誘惑する悪魔を考える際のヒントになると思う。 黙示録のサタンについても再考が必要だろう。
神とサタンの関係がわかれば、なぜ正しい人が不幸に遭うのか、 という疑問を解く手がかりが得られる。 サタンは神のために働いている。ヨブの不幸はヨブを救うためである。 神は、人の霊魂を救うために、サタンを送り出す。 ☆ 36章15説 神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し 苦悩の中で耳を開いてくださる。
神だとかサタンだとか霊魂だとか、 この辺は聖書を信じなければ理解できないかもしれない。 多くの作者によって聖書は書かれている。 そのために、矛盾したり一貫しない記述も見つかるだろう。 それでも聖書が重要なのは、主要な部分に関し、 多くの作者が同じメッセージを発し続けているからである。 かれらの土台は体験にある。思考や表現方法はその次である。
☆ 1章1節 ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、 悪を避けて生きていた。 これを読めば、ヨブが正しくて清らかな人であることがわかる。 そのヨブがサタンによって不幸のどん底に落とされる。 ヨブは自分は正しい。神の正義はどこに消えたのかと訴える。 この話で思い出すのは、イエスの山上の説教である。
☆ マタイ伝5章3−8節 (心の)貧しい人々は、幸いである。 天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである。 その人たちは慰められる。 柔和な人々は、幸いである。 その人たちは地を受け継ぐ。 義に飢え渇く人々は、幸いである。 その人たちは満たされる。 憐れみ深い人々は、幸いである。 その人たちは憐れみを受ける。 心の清い人々は、幸いである。 その人たちは神を見る。 * 心の貧しい人々 → (心の)貧しい人々 個人的には、(心の)は削除すべきであり、後の改ざんを疑っている。
>>28 山上の垂訓は
御国が地上に出現したときの律法ですよん
だから心の貧しいもの でいいと思う
山上の垂訓は 主によって贖われ 主の再臨で新生したものが実現すべきことですので
いまの私たちには実行できなくて当然なんで。。。
>>29 必要なのは、その解釈を証明することです。
ルカ伝6章20節では、
「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」とあり、
(心の)貧しい人々になっていない。
「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
マタイ伝19章24節(マルコ、ルカにも同じような話がある)
イエスは、金持ちが神の国に入るのは困難だと言っている。
だから間接的に、貧しい人々の方が神の国に近いことになるのでは。
31 :
神も仏も名無しさん :2010/05/09(日) 19:42:56 ID:vDLhDgVq
マタイ伝の山上の垂訓は、その真っ先が「心の貧しい人々」であり、 垂訓の全体が<精神的なもののように>感じられる。 しかし人間の悩み・悲しみなどは、その大部分が「貧しさ」から生じてくる。 心の貧しさから生じるのではない。 仕事もなく、食事にも事欠くような群集に対し、 心の貧しい人々よ、などと、間の抜けた呼びかけをするだろうか。 ここはどうしても、貧しい人々よ、でなければならない。 やはり、「心の貧しい人々」は後の改ざんだろうと思う。
>>31 物にたいする執着が問題の根源
ラクダと門の例えもそれでしょ
モノの流れがスムーズで高きから低きへと流れれば問題ないのだし
>>32 「心が貧しい人」でどんな人をイメージしますか。
「心が豊かな人」でどんな人をイメージしますか。
具体的にイメージしたほうがわかりやすいと思う。
話を空転させないためにも。
飢えている子供にパンをやるのは 心が貧しいから、それとも心が豊かだから? 困っている高齢者を助けるのは 心が貧しいから、それとも心が豊かだから? 弱い生き物をいじめるのは、 心が貧しいから、それとも心が豊かだから? ずるいことをして利益を得るのは、 心が貧しいから、それとも心が豊かだから? 天国に近いのはどっち?
>>34 神の前で 自分の心が貧しいと自覚している人のことですね
→心が貧しいヒト
>>36 神の前で自我が砕かれるってこと
キリスト教の基本中の基本
>>38 それは別の話だと思うよ。
自我が砕かれるというのは、心を砕かれるという意味ですね?
日本語の使い方として、心を砕かれることを「心が貧しい」などと言わない。
それに心が砕かれたら、心をうんぬんすることもできない。
それでは、心を砕かれていない人は、心が豊かなのだろうか?
>>38 だから 神の前で 例えば「私はこれだけ律法を守っている」「これだけ捧げ物をした」
などと誇ることができない 自分は罪にまみれている 神の慈愛にしかすがるものがない
そういって誇ることなく謙虚に認める人のことです
所有物の多少も問題ではありませんね
>>39 それは心の貧しい人ですね?
では心が豊かな人はどんなイメージになるわけ?
>>40 簡単にいえば イエズスの時代のパリサイ
私はこんなに信仰してますよーって神の前で披露するようなヒト
>>41 ちょうど正反対になりましたね。
心の貧しい人がほめられ、心の豊かな人が非難されることはありません。
そういった用法は日本語にありません。
ルカ伝では「貧しい人々は、幸いである。」と言っています。
これとの調整はどうするのですか。
>>42 日本語の使い方は無関係ですね
この場合ルカにも 心の をくわえて解釈すべきですね
先行のマタイやマルコに準じるべきでしょう
44 :
神も仏も名無しさん :2010/05/09(日) 21:47:36 ID:vDLhDgVq
>>42 ルカ伝の「貧しい人々は、幸いである。」に(心の)を加えたら、
意味が通らない文章になりますよ。
改ざんできないからそのままになっているのです。
ルカ伝6章20−26節
貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。・・・
しかし、<富んでいるあなたがた>は、不幸である。
あなたがたはもう慰めを受けている。・・・
心が貧しい、というのは、霊的に貧しいということ。 心が豊かである、というのは、霊的に豊かであるということ。 心が貧しいに、よいイメージは何もありません。オチ
>>44 だからパリサイの祈りと収税人の祈りの例えですよ
47 :
神も仏も名無しさん :2010/05/10(月) 17:48:11 ID:HKxRrD7y
48 :
神も仏も名無しさん :2010/05/10(月) 21:26:49 ID:wY+94QbM
ヨブ記を最初に読んで思ったこと 最後に神がご褒美にヨブに新しい家族を与えるが 娘はとびきり美人だった 「顔はアレだが信仰に厚かった」とかじゃやっぱりダメなんだろう 女はと言うか人はやっぱり顔なんだと思った ひねくれ者だったわたし
>>48 収入はないが信仰に厚い、という男性と相性がいいと思う。
割れ鍋に綴じ蓋ですか。
たぶんマリヤやマルタの系統ですね。
50 :
神も仏も名無しさん :2010/05/10(月) 23:39:52 ID:AvMGWIvj
ヨブの娘たちも、ヨブの財産を公平に相続する。 ここに男女平等という作者の思想が明確に現れているではないですか。 紀元前に男女平等を主張する人がいた。 息子の名前は不明。しかし娘の名前はしっかり記録されている。 ここにも作者の主張がある。
ヨブの妻は、最初10人の子供を産み、再び10人の子供を産む。 えー20人も産んだわけ・・・? まあ、ありえないことはないですがぁ 常識的に言えば、作り話だと思った方がいい。 ヨブは、詩文(3〜42章)の中で、失った子供について触れてない。 自分の話に終始する。無垢で正しい人がそんなに薄情なのか。 ほんとうに10人も子供を失ったのか。マユツバです。 最初の10人がマユツバなら、最後の10人もマユツバだろうと思う。 ヨブ記は、事実ではなく、霊的な真実を伝えようとしている。 その辺を頭において読むべきなのでしょう。
ヨブの生業、牧畜業についても疑ったほうがいい。 これも詩文の中に出てこない。牧畜業をうかがわせる記述がないのだ。 詩文から推測するに、ヨブ=作者はかなりのインテリである。 作者はバビロン捕囚を経験している。 たぶん、祭司階級か、それに近い人だろうと思う。 ヨブ記冒頭のような、連続する不幸を経験したことは想像できる。 だからまったくの作り話を書いているわけでもない。 事の起こりから結びまで、ヨブ記全体は心のドラマを描いている。
>>47 心を入れないと 確実に物質の所有の問題だと勘違いされますからね
54 :
神も仏も名無しさん :2010/05/11(火) 18:40:04 ID:kNkjP31a
☆ 2章9−10節 彼の妻は、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」 と言ったが、ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、 神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」 このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。 ヨブの妻は、子供を失ったのに、財産を失ったのに、 病気のヨブを見捨てないで世話をしている。当時、皮膚病は社会的な死を意味する。 だからなかなか見上げた女性なのです。この会話は妻の方が正論でしょう。 それからここは、大昔の男女の関係が垣間見れて興味深い。 歯に衣を着せない妻、それをなだめるばかりの夫、 夫婦の愛情が感じられると同時に、男と女の関係が対等ですねえ。
>>53 該当部分は「真福八端」というらしいですね。これらは祝福です。
最初の祝福は問題にしているテーマなので除きますが、
他の祝福は(これから、将来的に)幸せになりますよ、という話です。
これに対して、(心の)貧しい人々を、ルカ伝18.9−14で解釈すると
(将来の話)でなくなってしまうのです。
つまり(心の)は削除すべきであると言うのが答えになります。
それに53さんの論拠はルカ伝ではないですか。
マタイ伝をルカ伝で証明するのはどうでしょうか。邪道ですね。
56 :
神も仏も名無しさん :2010/05/13(木) 17:29:44 ID:TCWws+ht
マタイをルカで読み、ルカをマタイで読む。ぷっ
57 :
神も仏も名無しさん :2010/05/13(木) 22:38:09 ID:jPeeTBLj
(´・ω・`)・・・・・
58 :
神も仏も名無しさん :2010/05/14(金) 18:41:53 ID:09IspGSH
☆ 3章8節 日に呪いをかける者 レビヤタンを呼び起こす力ある者が その日を呪うがよい。 これはヨブが自分の生まれた日を呪う場面の一節です。 しかしそれよりも、レビヤタンに言及していることに注目したい。 ベヘモットではなくレビヤタンであり、 レビヤタンを40〜41章に登場させる伏線です。
☆ イザヤ書 27章1節 その日、主は 厳しく、大きく、強い剣をもって 逃げる蛇レビヤタン 曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し また海にいる竜を殺される。
☆ 詩篇 74章13−14節 あなたは、御力をもって海を分け 大水の上で竜の頭を砕かれました。 レビヤタンの頭を打ち砕き それを砂漠の民の食料とされたのもあなたです。
☆ ダニエル書補遺 龍神の物語 27節 そこで、ダニエルは、ピッチと油脂と毛髪とを取り、一緒に煮て、 だんごを作り、竜の口に入れた。竜はそれを呑み込むやいなや体が裂けた。
<黙示録の竜> ☆ 12章3節 また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、火のように赤い大きな竜である。 ☆ 12章9節 この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、 全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。 その使いたちも、もろともに投げ落とされた。 ☆ 20章2節 千年至福 この天使は・・竜を取り押さえ・・底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ・・ ☆ 20章9−10節 サタンの敗北 すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽くした。 そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。
☆ マルコ伝1.12−13 それから、霊はイエスを荒れ野に送り出した。 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、 野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
☆ マタイ伝4.1−3 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。・・・ ☆ マタイ伝4.11 そこで、悪魔は離れ去った。すると天使たちが来てイエスに仕えた。
☆ ルカ伝4.1−2 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。 そして、荒れ野の中を霊によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を 受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 ☆ ルカ伝4.13 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。
☆ 創世記3.1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。・・・ ☆ 創世記3.14−15 主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は あらゆる家畜、あらゆる野のケモノの中で、呪われるものとなった。 お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。 彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」
☆ 民数記21.6 主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、 イスラエルの中から多くの死者が出た。 ☆ 民数記21.8−9 主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。 蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」 モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、 その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。
☆ サムエル記上16.14 主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった。 ☆ サムエル記上18.10 次の日、神からの悪霊が激しくサウルに降り、家の中で彼を ものに取りつかれた状態に陥れた。・・・
☆ 列王記下18.4 ユダの王ヒゼキヤ ・・・モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた。イスラエルの人々は、 このころまでこれをネフシュタンと呼んで、これに香をたいていたからである。
70 :
神も仏も名無しさん :2010/05/14(金) 23:48:19 ID:S3ZEQygX
サタンを想像できそうな聖書の記述をだいたいアップしました。 これらを眺めれば、サタンの正体が見えてきそうです。 ・・・聖書ではサタンの実在が主張されています。 @ 神がサタンを造った(天地創造の5日目) A サタンは霊的に存在する竜である B サタンはレビヤタンであり、それは東洋的な竜のイメージに近い C サタンは神の忠実な僕である D エデンの園(賢い蛇) → 黙示録(赤い大きな竜)
サタンがどうして存在するのか。サタンはなぜ必要なのか。 これについては次のように考えられる。 世の中を知り、ずる賢くなった人間にはもうサタンは必要ない。 自分から滅びの道を歩んで行くからである。 しかし正直で素朴な人間には可能性がある。 そういった人間には霊魂を救う可能性が残されているのであり、 そのためにサタンの試練がやってくる。 → ヨブである。
正直で素朴で正義感の強い人間は利用されて苦労する。 先を越され、じりじりと追い抜かれ、下のほうへと追いやられる。 そういったことを知り、要領を学び始め、人間はしだいにずる賢くなる。 外見は善良、内面は自分中心。そういう人間になる。 かれらは神から見捨てられ、サタンからも見捨てられる。
自分からずる賢い生き方を選択するような人間に、 さらにサタンが力を貸したらどんどん悪くなって収拾がつかなくなる。 放っておいても自然に滅びるからそのままにする。 落ちていく人間を助けないのか。助けない。 サタンが人助けをするはずがない。
サタンの役割は何か。 良心を筋金入りにすること。これが試練の意味である。 ☆ 28章3−4 人は暗黒の果てまでも行き 死の闇の奥底をも究めて鉱石を捜す。 地上からはるか深く坑道を掘り 行き交う人に忘れられ 地下深く身をつり下げて揺れている。
サタンは神なのか。そんなことはない。 かりにサタンがレビヤタンなら、サタンに形があることになる。 形あるものは神ではない。被造物である。 サタンにコウモリのような翼があるのか。 そんなものがあるはずがないだろう、必要ないから。 コウモリのようなサタンは人間が想像したサタンにすぎない。 サタンの翼は、サタンが空を飛べるというメッセージでありシンボルである。 サタンが霊なら翼がなくても空を飛べる。
☆ イザヤ書6.3 セラフィムの三聖頌 「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、血をすべて覆う。」 ☆ 黙示録4章8節 「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、 かっておられ、今おられ、やがて来られる方。」 セラフィムの原義は「蛇」であり、正確には「炎の毒蛇」であるらしい。
☆ 民数記21.8−9 主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。 蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」 モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、 その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。 旗竿の先だが、翼のない蛇が空を飛んでいるではないか。
78 :
神も仏も名無しさん :2010/05/16(日) 17:54:12 ID:25gyW0TM
サタンは、レビヤタンであり、セラフィムであり、天使なのか。 であれば悪魔祓いとはいったい何か。難問ですね。
ヨブ記じゃサタンは神に近況報告してる役割ですよね。って事はサタンは 神への密告者、つまりチクリ屋って事ですよねw
サタンはチクリ屋ではありません。なぜなら神は全知全能だからです。 神はサタンの近況報告がある前にすべてを知っているのです。 それでもチクリ屋風に記述されているのは、 ものごとの成り行きを人間にわからせるためではないでしょうか。
で、サタンに『俺に従うかどうか少々痛め付けてこい』と神はヤクザの親分のように 命じる訳ですよね。つまり組員の忠誠心をチェックする為にサタンという子分を 使って探りを入れさせているとw つまり神はヤクザの組長でサタンは幹部でヨブは末端組員であるという関係ですね。
神とサタンの関係は上意下達の直線的だろうと思います。 しかし神と人間の関係は対等に近いです。 なぜなら人間の霊魂は、神の分霊であり、神自身のようなものだからです。 ここでネジレが生じています。神>サタン<人間
ふ〜ん・・・・ って事は人間の方がより神に近い存在って事になりますよね。 ですが多くの場合、人間は悪の誘惑に負ける・・・つまりサタンの誘惑に負けて ますよね。神により近い筈の人間がどうして何時もサタンにしてやられるので しょうか?
84 :
神も仏も名無しさん :2010/05/16(日) 19:16:38 ID:OgsPyxD+
ヨブ記は、何だか新約臭いね。「神を信じれば、ハッピーエンド」。実に 浅薄で、つまらん。全般と後半とは、違う作者ではないのか。
サタンは霊的な存在です。しかし物質に対しては無力です。 それに対して人間は霊と肉を生きてます。 サタンは、人間の霊に働きかけ、人間の霊を惑わす存在です。 サタンに惑わされ、物負けすることもあります。 しかし人間は、常にサタンに負けるわけではなく、勝つこともあります。 サタンに勝つこと、それが悟りだろうと思います。
>>84 前半と後半が、なぜ違う作者だと思ったのですか。
前半とは何章までですか。
あなたは、ハッピーエンドではなくて、アンハッピーがいいのですか。
ハムレットのような悲劇が好きなのですか。
87 :
神も仏も名無しさん :2010/05/16(日) 20:51:50 ID:v1FwhxA6
>>86 「人間にあらざる神」など持ち出したら、「人間そのもの」は描けない。
人間の霊魂は神に由来する。 人間を描こうとしたら、神にさかのぼらなければならない。 神を忘れたら、底の浅い芸術になるだろう。
旧約聖書に出てくる神は時々自分を信仰してる人間を試していてアブラハムにも 『お前の息子を生贄に捧げな!』と命じてる訳ですし、ヨブも散々イジメても 自分に従うかどうかを試してる訳ですよね。そんなに厳しい神様なのですか?
90 :
神も仏も名無しさん :2010/05/17(月) 19:16:08 ID:tDrEdGv9
☆ 創世記3章24節 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、 エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。 命の木を守っているものは、剣の炎から、たぶんセラフィムだろうと思う。 セラフィムは、炎の毒蛇であり、車輪のようにとぐろを巻く。
>>89 よくわかりませんので、神さまに直接聞いてください。
すいません、無神論者なもんで神様はいないのです、私にはw ですから貴方にお答えして欲しかったんですね・・・・
日本にはニワトリが上に乗った御輿があるが、 元々はイスラエルに起源があり、イスラエルで誤って解釈されたものが モデルなったのではないだろうかと思っている。 神域を守るもの → 天使 → 天使なら翼があるはず → ニワトリ @ 創世記3章24節 エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。 A 出エジプト記37章9節 一対のケルビムは向かい合い、顔を贖いの座に向け、翼を広げてこれを覆った。 B イザヤ書6章1−2節 わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。 衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。 上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、 二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。
この推測が正しければ、ケルビムやセラフィムには翼がなく、 天使にも悪魔にも翼がないことになる。 かれらの翼は、空を飛べるというシンボルにすぎない。
☆ エゼキエル書1.5−11 またその中には、四つの生き物の姿があった。その有様はこうであった。 彼らは人間のようなものであった。それぞれが四つの顔を持ち、 四つの翼を持っていた。 → 翼は四つ ☆ 黙示録4.8 この四つの生き物(獅子・雄牛・人間・鷲)には、 それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった。 → 翼は六つ(イザヤ書と同じ)
96 :
神も仏も名無しさん :2010/05/18(火) 18:49:06 ID:M8GGmcXe
天使には翼がある・・・こういう記述があったら、 マユツバだと思っていい。信憑性がその分割り引かれることになる。 ミカエルやガブリエルなどの天使がいるかどうかはわからない。 個人的にはいないと思う。しかしサタンはいる。
そもそも天使とサタンは両立しないのではないか。 サタンが離れないと天使が来ない。サタンやって来れば天使は逃げる。 これでは守護天使の役割を果たしていない。 ☆ マタイ伝4.1−3 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。・・・ ☆ マタイ伝4.11 そこで、悪魔は離れ去った。すると天使たちが来てイエスに仕えた。
しかしマルコ伝は少し違う。 天使はサタンと戦わない。しかしそばにいて<仕えている>のだ。 天使は何をしているのだろう? 野獣から守る? 何のことだろう? 狼の群れが荒れ野にいたのだろうか。 ☆ マルコ伝1.12−13 それから、霊はイエスを荒れ野に送り出した。 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、 野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
ルカ伝ではそもそも天使が出てこない。 そのうえイエスは、荒れ野を霊によって引き回されている。 ジーッと座って瞑想している、わけではない。 ☆ ルカ伝4.1−2 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。 そして、荒れ野の中を霊によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を 受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 ☆ ルカ伝4.13 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。
いずれにしても天使とサタンは戦っていないのだ。 それにしても影のうすい天使たちw これがポイントか。 いや、黙示録ではそんなことはない、と思うかもしれない。 しかしもしかしたら、黙示録の読み方をまちがっている可能性がある。 ミカエルが妄想の産物であり、サタンが神の忠実な僕であれば、 黙示録はまったく別のことを語っている。
さらに重要なメッセージがある。 イエスは聖霊を受けてからサタンの試練を受ける。 聖霊を受けた後に、卒業試験のようにサタンの試練がある。 試練 → 聖霊 → 荒れ野でサタンの試練 サタンは重層的に最後に現れる。 これが福音が伝えている、ものごとの経過である。
黙示録には理解できない不思議な話が連続している。 千年至福もそのひとつである。サタンは千年至福に入る前に、 天使によって一度捕まっている。それなのにどうして千年後に解放し、 再びサタンと戦うのか。謎である。 この謎はイエスが受けた試練で解決するように思う。 試練(七つの災い)の後で聖霊(キリストの再臨)を受ける。 しかしそれだけでは終わらない。サタンとの対決(卒業試験)が残っている。 これに合格した後、さらに命の書に基づいて裁かれる。 神に近づくには二重、三重のチェックを受けるということだろうか。
103 :
神も仏も名無しさん :2010/05/18(火) 23:26:02 ID:DomjOKpj
黙示録を<心のドラマ>として読むこともできそう。 横道にそれたが、ヨブ記にサタンが登場し、 そのサタンはレビヤタンであり・・・ということから、 作者はサタンを知っていたと推測する。
104 :
神も仏も名無しさん :2010/05/19(水) 18:22:42 ID:BuWblRfL
☆ 3章20−21節 なぜ、労苦する者に光を賜り、悩み嘆く者を生かしておられるのか。 彼らは死を待っているが、死は来ない。・・・ ******* 死にたいと思うことと、死を決意することは別のことなのだろう。 ヨブは死にたいと思っている。しかし死を選ばない。 死なないのはどうしてなのだろう?
その答えはたぶん、ヨブの問いかけの仕方にある。 生きている意味とは何か、という問いかけ自体が死を選択させない。 答えがわからないから問う。生きるべきか、死ぬべきか・・・ 結論がまだ出ていないのだ。だから死ねない。 ☆ 28章4節 地上からはるか深く坑道を掘り 行き交う人に忘れられ 地下深く身を吊り下げて揺れている。
生きる意味がわからなくて悩んでいる人は多いだろう。 ヨブ記はそれを教えてくれる傑作である。 難しいけど、繰り返し読めば理解できるようになる。 固い食べ物は繰り返し噛めばいい。
107 :
神も仏も名無しさん :2010/05/19(水) 23:17:54 ID:TQyk9cfE
息抜きに、関連するテーマをネットから拾ってみよう。 賛成できるものもあれば、賛成できないものもある。 人生の意味、人生の価値について人が問うた瞬間、人は病む。byフロイト 自分の人生を無意味なものと考える人は、単に不幸なだけではなく、 生きていくことさえ難しい。byアインシュタイン もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、私たち自身が問いの 前に立っていることを思い知るべきなのだ。・・・生きるとはつまり、生きる ことの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、 時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることに他ならない。byフランクル
人生の意味、人生の価値について人が問うた瞬間、人は病む。byフロイト 生きる意味を考えるのは、順境ではなく逆境にいるときである。 逆境に会えば、人は<自然に>人生の意味を問い始める。 人生を考えることは必要であり、人生哲学を学ぶチャンスでもある。 しかしフロイトは病気であると言う。フロイトは神経症を危惧している。 生きる意味、その答えはその問いの本質上、簡単には得られないのであり、 神経症に落ち込んでいく可能性がきわめて高いのである。 これは次のように言い直すことができる。 生きている意味、その答えは、神経症と密接な関係があり、そうであれば、 神経症の研究をしていたフロイトに学ぶべきものがあるはずである。 そしてたぶん、フロイトの真のテーマは生きる意味にあった。
フロイトを読むメリットは二つある。 @ フロイトに学びながら、自分自身の精神分析を行い、 神経症にならない用心ができる。あるいは神経症の治療ができる。 A フロイトの考えは、生きる意味を考えていく上で参考になる。 フロイトはかなり読み、長所短所を含め、それなりに理解し、身につけ、 十分な成果もあったせいか、ユングへの興味がまったく湧いてこない。 ユングはヨブ記に関し『ヨブへの答え』という本を書いている。 ネットでの紹介を見れば、彼はヨブ記を読み損なっているとしか思えない。 いまのところ、興味を持たなくて正解だったようである。
自分の人生を無意味なものと考える人は、単に不幸なだけではなく、 生きていくことさえ難しい。byアインシュタイン アインシュタインがそう思って人生を貫けたかどうかはきわめて疑わしい。 波乱万丈だったから、落ち込んだこともあったのではないだろうか。 それより、彼が「光」を研究テーマにしていたことに注目したい。 聖書に書かれている「光」が出発点だった? 神の「光」への、特別な思いが大発見につながったのかもしれない。
もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、私たち自身が問いの 前に立っていることを思い知るべきなのだ。・・・生きるとはつまり、生きる ことの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、 時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることに他ならない。byフランクル フランクルはナチスの強制収容所を体験したユダヤ人である。 その体験記『夜と霧』はずしんと重い本だった。
112 :
神も仏も名無しさん :2010/05/20(木) 21:05:22 ID:sfBQFtWo
フランクルは生きる意味を考えることに敵意を抱いているように思える。 ヨブのような体験をしているのに・・・どうしてなのか。 わからないわけではない。もうパンクしそうな極限状況なのである。 生きる意味は何かなどと、一歩退いて考える余裕すら失っている。 生き別れた妹との再会が支えになったという。 ヨブ以上の体験だったのかもしれない。
しかしフランクルの主張は、周囲への従順を説くばかりであり、 自分自身を見失っているような気がする。 やはりヨブのように、生きる意味を問わなければならない。 ヨブは答えを見つけている。答えはある。
生きる意味を考えるかどうかは状況によって違うのだろう @ フランクルは、今日明日の命も保証されない日々を生きており、 今日生きていくことが精一杯であり、すべてであるような極限状況である。 この場合、意味よりも、生きること自体が優先される。 A ヨブは不幸の連続で打ちのめされている。しかし死はやって来ない。 死はまだまだ先であり、不幸を引きずって生きなければならない。 この場合、生きる意味が問題になり、答えを求めて悩み苦しむ。 B 人生が順調であれば、生きることに疑問を感じないから、 生きる意味を問うこともない。あるいは浅く薄い問いで終わってしまう。 この場合、生きる意味ではなく、「どう生きるか」という問題になる。
どう生きたいかだってえ? かっこよく生き、かっこよく死にたいに決まってるじゃないか。 こんな言葉が聞こえてきそうだけど、 これってニヒリズムだよね。
かっこよく生き、かっこよく死にたい。 これは「人生は無意味である」という誤った思い込みから湧いてくる。 外見や、周囲からどう思われるかが万事に優先する。 簡単に言えばナルシストなのだろう。
人生の意味、人生の価値について人が問うた瞬間、人は病む。byフロイト これを再度、問題にしたい。ヨブがまさに当事者だからである。 生きる意味を問うと、人はなぜ病気になるのか。 いくら考えても答えが出てこないからである。だから神経症になる。 宙ぶらりんの状態は神経をむしばむ。 大昔から人間は、生きる意味を考え続けている。 しかし聖書など、古書を読んでも答えが見えてこない。なぜだろう? 答えを見つけた人もいるはず。ヨブもその一人だろう?
なぜ、いくら考えても答えが出てこないのだろうか。 人は言葉で考える。生きる意味、その答えが出てこない理由は言葉にある。 答えが出てこないのは言葉自体の限界なのである。
毎日毎日、どっぷり漬かっている言葉の世界をほんの少し考えてみよう。 言葉は大きく二つに分かれる。 事物そのものを示す言葉と、事物と事物との関係を示す言葉である。 @ 事物そのものを示す言葉・・・太陽、月、星、地球、リンゴ、バナナ、 人、男、女、犬、猫、小鳥、PC、TV、CD・・・ A 事物と事物の関係を示す言葉・・・地球は太陽の周りを回っている、 わたしはリンゴを食べる、人は犬や猫を飼う、PCを楽しむ・・・
こうやって言葉を分類すると見えてくるものがある。 宗教用語にも二種類あるということ。 @ 事物そのものを示す言葉・・・神、聖霊、霊魂、サタン、霊体など A 事物と事物の関係を示す言葉・・・愛、善、真理、平和、誠実など
ヨブが探し求めたのは神そのものである。 いくら考えても、いくら話しても、言葉だけでは解決しない。 言葉の限界があって、神そのものを体験することができないからである。 人は愛や善や平和という言葉では納得しない。 それらは関係概念にすぎない。
122 :
神も仏も名無しさん :2010/05/21(金) 21:08:02 ID:HQjqVUou
なーんだ、言葉は関係概念であって、結局は何も語っていないじゃないか。 カラッポじゃん ・・・ というのが、仏教の「空」である。 だからまるっきりでたらめを説いているわけではない。 しかし、キリスト教が問題にしているのは神や聖霊の存在である。
神そのものを体験したことのない人にとって、 言葉でいくら説明されても、神そのものは決してわからない。 言葉には言葉の限界があるからである。 ここから次のようなことが自動的に導かれる。 神についての難解な本をいくら読んでもほとんど役に立たない。 神を知るには、神そのものと直接出会うしかない。
言葉の限界に気づくのも困難だが、さらに困難なのは神に出会うことである。 多くの人が道半ばにして倒れてしまう。だいたい神経症になる。 神に出会うには、自我や本能が砕かれ、自己愛が砕かれなければならない。 そのためには、ヨブがそうであったように、不幸のどん底に落ちる必要がある。 なぜなら、自我や本能、自己愛などが不浄(罪)だからである。 だいたい、何をやっているかわからずに、神探しをするのだ。 どこにいるのか、どんな方なのか、手がかりがまったくないのである。
生きる意味を問うのは、ヨブがそうであったように神探しである。 それがどれほどのものかはヨブの労苦が教えてくれる。 わたしたちに手がかりがまったくないわけではない。 そのために聖書が書かれたのである。 わたしたちが何に悩んでいるのか、その悩みはどうしたら解決できるのか、 また逆に、どの程度の深さで解決したのかを教えてくれる。
┌┤´д`├┘ ふぅ… 要するにヨブは、死にたくても死ねないという宙ぶらりんでありぃ 生きる意味を考えるとはそういうことなのだぁ
問題は複雑であり、長期戦を覚悟したほうがいい。 生きる意味を考え始めると、日常生活から遊離してしまいそうになる。 世間から孤立し、ひとりでぼんやりと月日を重ねてしまう。 こんなときに役立つのがフランクル。 最低の義務を決め、それだけは果たすように努力しよう。 もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、私たち自身が問いの 前に立っていることを思い知るべきなのだ。・・・生きるとはつまり、生きる ことの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、 時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることに他ならない。byフランクル
生きる意味を考えることが危険だからといって、 それを考えないわけにもいかない。 でも考えてばかりで、日々の生活を放棄するわけにもいかない。 生活が破綻しない程度、精神が破綻しない程度、 ほどほどにすべきなのだろう。 神経症と、生きる意味を考えることとの関係は別の機会にする。
☆ 4章8節 エリファズ わたしの見てきたところでは 災いを耕し、労苦を蒔く者が 災いと労苦を収穫することになっている。
☆ 8章4節 ビルダド あなたの子らが 神に対して過ちを犯したからこそ 彼らをその罪の手にゆだねられたのだ。
☆ 8章13−14節 ビルダド すべて神を忘れる者の道はこのようだ。 神を無視する者の望みは消えうせ 頼みの綱は断ち切られる。 よりどころはくもの巣のようなもの。
☆ 11章4−5節 ツォファル あなたは言う。 「わたしの主張は正しい。 あなたの目にもわたしは潔白なはずだ」と。 しかし、神があなたに対して唇を開き 何と言われるか聞きたいものだ。
ヨブを訪れた三人の友人(エリファズ、ビルダド、ツォファル)は、 因果応報(善因善果、悪因悪果)からヨブの不幸を理解し、 正しい信仰に立ち返るように主張する。
☆ 13章 2−3節 ヨブの反論 あなたたちの知っていることぐらいは わたしも知っている。 わたしが話しかけたいのは全能者なのだ。 わたしは神に向かって申し立てたい。
☆ 15章4−5節 エリファズA あなたは神を畏れ敬うことを捨て 嘆き訴えることをやめた。 あなたの口は罪に導かれて語り 舌はこざかしい論法を選ぶ。
☆ 18章20−21節 ビルダドA 未来の人々は彼の運命に慄然とし 過去になった人々すら 身の毛のよだつ思いをする。 ああ、これが不正を行った者の住まい これが神を知らぬ者のいた所か、と。
☆ 20章12−14節 ツォファルA 悪が口に甘いからと 舌で抑えて隠しておき 惜しんで吐き出さず 口の中に含んでいれば そのパンは胃の中に入って コブラの毒と変わる。 ******* ビルダドAもそうだが、ひどいことを言うものだとあきれてしまう。 苦悩するヨブを犯罪者扱いである。濡れ衣、冤罪だなあ。
☆ 21章2節 ヨブの反論A どうか、わたしの言葉を聞いてくれ。 聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ。 ☆ 21章7−16節 なぜ、神に逆らう者が生き永らえ 年を重ねてなお、力を増し加えるのか。 ・・・彼らは神に向かって言う。「ほうっておいてください。 あなたに従う道など知りたくもない。なぜ、全能者に仕えなければならないのか。 神に祈って何になるのか。」 だが、彼らは財産をてにしているではないか。・・・
ようやく因果応報論への批判が出てきた。 世の中を見渡せば、むしろ善人の方が不幸に会う確率が高い。 組織では要領がよくないと出世しないし、 犯罪の被害者はだいたい女性や子供や高齢者である。 善因 → 悪果、悪因 → 善果 ・・・ ヨブはこれを指摘している。
人の一生がこの世だけなら、因果応報では説明できないことが多すぎる。 因果応報は理論として破綻していると思う。 そのため「あの世」「輪廻転生」まで含め、因果応報を主張する人々もいる。 しかしその前に、因果応報自体を検証する必要がある。 ヨブ記は因果応報思想を否定しているように思えるからである。
☆ 22章21節 エリファズB 神に従い、神と和解しなさい。 そうすれば、あなたは幸せになるだろう。 ******* その通りなのだけど、神に出会ったことがなく、神を知らないのである。 ヨブは神に出会いたいと主張している。
☆ 25章4−6節 ビルダドB どうして、人が神の前に正しくありえよう。 どうして、女から生まれた者が清くありえよう。 月すらも神の前では輝かず、星も神の目には清らかではない。 まして人間は蛆虫 人の子は虫けらにすぎない。
143 :
神も仏も名無しさん :2010/05/23(日) 00:14:25 ID:yl10d3uN
ビルダドBは、神に訴えたいと言うヨブに対し、 神の前では、人は虫けらでしかないと語り、分をわきまえよと言っている。 そうなんだけどさぁ、ヨブにしてみれば納得できない。 理不尽な仕打ちとしか思えない。 ヨブにとっては、死んだらお終いという意味で、自分は全宇宙に匹敵する。 死ねば全宇宙も無意味だからである。
144 :
神も仏も名無しさん :2010/05/23(日) 10:32:32 ID:bQ566Ll/
1 因果応報(善因善果、悪因悪果)を検証しよう (善因)暴飲暴食しなければ → (善果)長生きができる (善因)農作業に精出せば → (善果)十分な収穫を得ることができる こういった因果応報は成立しているようである。
2 因果応報を検証しよう (善因)暴飲暴食しなくても → (悪果)食中毒で苦しむことがある (善因)農作業に精出しても → (悪果)収穫を盗まれることがある こういった場合は、原因と結果の関係が希薄であり、 因果応報の例として不適切である。別の因果関係がそこにある。 (偶然)細菌 → 食中毒、 (悪意)泥棒 → 盗難事件 ヨブの不幸はここに分類される。偶然と悪意が原因である。
3 因果関係を検証しよう (悪果)食中毒で苦しむ → 病気になった者に悪因がある (悪果)収穫を盗まれる → 被害者のほうに悪因がある 因果応報を信じる友人たちは、不幸の原因をヨブ自身に求める。 ヨブは反発し、いわれなき不幸を神に訴える。 友人の主張は誤りだとわかる。→2 しかし問題は、ヨブの主張がどう解決されるかである。
4 因果応報を検証しよう
ところでヨブは因果応報を否定していない。
それが正しくなされていないことに異議申し立てをしている。
☆ 13章 2−3節 ヨブの反論 (
>>134 3行目が抜けていた orz)
あなたたちの知っていることぐらいは
わたしも知っている。
あなたたちに劣ってはいない。
わたしが話しかけたいのは全能者なのだ。
わたしは神に向かって申し立てたい。
5 因果応報を検証しよう・・・以上から次のように推測する まず因果応報とは原因と結果のことである。 そして善因善果・悪因悪果とはその人にとっての善と悪である。 (泥棒は、泥棒することが善因であり、その盗品が善果になる。) 因果応報とはこの世(物質世界)の秩序である。 なぜなら原因と結果は時間の流れの中にあるからである。 時間を超越した神の秩序ではない。ヨブが求めているのはこれである。 → では、この世に因果関係を超越した秩序がありえるのか。
☆ 31章35〜37節 ヨブの反論B どうか、わたしの言うことを聞いてください。 見よ、わたしはここに署名する。 全能者よ、答えてください。 わたしと争う者が書いた告訴状を わたしはしかと肩に担い 冠のようにして頭に結びつけよう。 わたしの歩みの一歩一歩を彼に示し 君主のように彼と対決しよう。
ここまでくればヨブがなぜ友人たちに苛立っているのかがわかる。 ヨブを犯罪者のように責め立てているからである。
6 因果応報を検証しよう 病気や事故や事件などで、若くして亡くなった人のことを思えば、 この世だけでは因果応報が成立しない。あの世がなくてはならないと思う。 死ぬと忘却の川を渡り、この世の記憶を失うことだろう。 しかし、意志や感情における、その人らしさは失われることなく、 あの世でも生き続けることになるだろう。 あの世では、その人の内面がより露骨に表現される。 外見を偽ることもありうるが、それはごく少数の強情な霊に限られ、 大部分は内面がそのまま外見になる。 こういった空間で因果応報が問われるのだろう。 若くして亡くなった人たちは、もっと生きたかったと刻印されており、 転生する可能性が高いような気がする。
7 因果応報を検証しよう 神(いのち)が存在するなら、あの世(霊界)も存在することになる。 汚れから、神の元に帰れなくなった霊があの世を形成する。 (いのち)は、この世(物質の世界)の世界に降りてきて生き物になる。 死ぬと、肉は塵になり、霊は神の元に帰ろうとする。 しかし、霊は物に囚われ、神の元に帰れないでさ迷うのである。 これがあの世であり霊界である。 こういった事情があるからといって、 この世よりもあの世(霊界)が劣るというわけでもない。 どちらも(いのち)の居場所なのである。
8 因果応報を検証しよう・・・違いを要約すれば この世・・・物的秩序(因果応報) > 神的秩序(空中散歩) あの世・・・物的秩序(因果応報) < 神的秩序(空中散歩)
155 :
神も仏も名無しさん :2010/05/23(日) 20:54:09 ID:aMNwt232
☆ 37章23−24節 エリフ 全能者を見い出すことはわたしたちにはできない。 神は優れた力をもって治めておられる。 憐れみ深い人を苦しめることはなさらない。 それゆえ、人は神を畏れ敬う。 人の知恵はすべて顧みるに値しない。
<人の知恵はすべて顧みるに値しない>
言葉の性質はすでに検討した。
>>119-123 神は、言葉ではなく、神を直接体験しないとわからない。
そして体験すれば、人の知恵はすべて顧みるに値しない、と言っている。
もうひとりのヨブがエリフであるとすれば、
ヨブの心に何が生じたのかを想像することも可能である。
>>155 の直後に神が登場する。
☆ 38章1節
主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。
ヨブは、子供を失い、財産を失い、皮膚病にかかった。 妻には「死んだ方がましでしょう」と言われ、 周囲の人々はヨブを嘲笑い、忌み嫌い、顔に唾まで吐きかける。 こんな不幸に、ヨブはいったいどんな思いだったのか。 わたしは悪くない。わたしは罪を犯していない。 わたしは間違ったことをしていない。わたしはまったく正しい。 そう思うことによって必死に耐えていた。 自分に正義がある、と思うことで、不幸や軽蔑に対抗していた。
ヨブを襲った不幸や軽蔑は現実である。 しかし、<自分に正義がある>という思いは、単なる思いにすぎないから、 砂上の楼閣のようなものである。 不幸や軽蔑が増すにつれ、いくらでも限りなく大きくなる。 周囲から見れば病的に見える場合もあるが、 そうやって対抗し、心のバランスを取る必要があるからである。 ヨブを犯罪者扱いをする友人たちの議論は、 <自分に正義がある>というヨブの思いをパンパンに膨らませてしまう。 自分でも何か変だぞと思うくらい膨らむ。
繰り返しになるが、そのパンパンに膨らんだ心の状態がこれである。 芝居がかり、神と対決するなどと舞い上がっている。 ☆ 31章35〜37節 ヨブの反論B どうか、わたしの言うことを聞いてください。 見よ、わたしはここに署名する。 全能者よ、答えてください。 わたしと争う者が書いた告訴状を わたしはしかと肩に担い 冠のようにして頭に結びつけよう。 わたしの歩みの一歩一歩を彼に示し 君主のように彼と対決しよう。
161 :
神も仏も名無しさん :2010/05/24(月) 23:10:24 ID:2x3oFFxx
それをエリフ、もうひとりのヨブが見抜いてしまう。 自分に最初から正義がなかったことに気づき・・・悔いる。 その瞬間、パンパンに膨れ上がっていたヨブの思いが、パンクする。 やっと支えていた心が壊滅してしまう。 「生まれ生まれ生まれ 生まれて生の始めに暗く・・・」 という空海の言葉があるけど、たぶん同じ思いに打たれたのでしょう。
ヨブはサタンに勝った。そして38章、神が嵐の中に現れる。 えっ、どうして? 神を呪わないで、自分の生を呪ったから勝ったわけ?
ヨブは自分を呪ってはいないと思う。 人の存在自体が罪であることを洞察したのではないか。 友人たちも同じである。 かれらも、自分を正しいと思い、ヨブと同じように生きている。 人はみな、自分を正しいと思って生きている。 しかし、正しさの正体は自分自身であり、自分のことしか考えてない。 それは正しいことだろうか? 正しくはない。 ヨブはそんなことを思ったのではないか。
164 :
神も仏も名無しさん :2010/05/25(火) 21:18:05 ID:e2UBibOf
いわゆる自己中、自分中心に気づいたということか。 でもそんなことは、ぎりぎりまで追い詰められて気づくことではなく、 よく知られた社会常識のようなものだろう? ヨブは無垢で正しい人という設定がある。 世の中に逆らってでもわが道を行く、というタイプだろうか。 そんな人もけっこういるものである。
ヨブのすごいところは絶望しないところだろうか。 生きる意味を考えている間は絶望していない。 その答えを探している。 人の存在自体が罪であると洞察しても絶望していない。 自分には最初から正義がなかったと知り、心が壊滅してしまったのに、 人の存在とはそういうものだと受け入れている。 逆に、そういうものだから平静でいられる。
ヨブとサタンの勝負は一瞬で終わる。 ヨブは、神の助けを借りることなく、自分の正義を自分の意志で折ってしまう。 真実の正義のために自分の正義を折る。その瞬間にヨブが勝つ。 ☆ 37章23−24節 エリフ 全能者を見い出すことはわたしたちにはできない。 神は優れた力をもって治めておられる。 憐れみ深い人を苦しめることはなさらない。 それゆえ、人は神を畏れ敬う。 人の知恵はすべて顧みるに値しない。
ヨブ記はすごい。計算され推敲されつくしている。 これを書いた人は神を知っている。ヨブ記は聖書の中の聖書である。
168 :
神も仏も名無しさん :2010/05/26(水) 00:12:06 ID:3S3gNxpM
エリフはいつヨブの所に来たのかな?他の3人についてきたのかな?
☆ 42章5節 あなたのことを、耳にしてはおりました。 しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。 ******* ヨブは神に出会ったと書いてある。 神に出会い、生きる意味が解けたということなのだろう。
ヨブは神を見た。 神を見る? そう、神を見ることがありえるのだとヨブ記は言っている。 ヨブの恐ろしい不幸を癒せるのは神しかいないだろう。 神が登場する以外に解決しないのだ。
☆ 42章7節 主はこのようにヨブに語ってから、テマン人エリファズに仰せになった。 ******* これは話の都合であって、神がエリファズに現れることはありえない。 エリファズは試練を受けていないから。 ☆ 42章10節 ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、 更に財産を二倍にされた。 ******* 二倍であるかどうかはわからないが、 サタンの試練が終わったのだから、運が良くなって当たり前だろうと思う。
173 :
神も仏も名無しさん :2010/05/26(水) 22:06:20 ID:mom/t+Hv
<ヨブが友人たちのために祈ったとき> ヨブが神に出会えたのは、友人たちがきっかけであったとも言える。 友人たちの「存在の暗さ」が、自分の「存在の暗さ」を気づかせてくれた。 ヨブは内心、友人たちに心から感謝したはずである。 そういったヨブの心が、こういった表現で示されているのではないか。
1 ヨブ記の「結び」は必要だろう 32〜37章、エリフはもうひとりのヨブである。これは自分との対話である。 38〜42章、神の登場は神への賛歌であり、心のドラマである。 友人たちは、ヨブに何が起きたのかまったく知らない。
2 ヨブ記の「結び」は必要だろう 神が「結び」に出てくるのは話の都合に過ぎないと思う。 友人たちは試練を受けていないから神に会えるはずがないのである。 神に会ったように書いてあるのは目くらましだろう。 しかし友人たちがヨブに家畜を贈ったのはありえる。 各人雄牛7頭・雄羊七頭、友人3人だから合計牛21頭・羊21頭である。 それに兄弟姉妹、かっての知人たちもそれぞれ銀や金を贈る。 ヨブが一息ついたのは間違いない。
176 :
神も仏も名無しさん :2010/05/28(金) 00:02:15 ID:WtH+13zK
3 ヨブ記の「結び」は必要だろう ヨブは10人の子供をもうけた。それは失った子供の数でもある。 男女比も同じで意味深だね。家畜は以前のちょうど二倍になったという。 このようにヨブの幸運が語られているわけだが、 作者は、以前より幸運になったことを、読者に伝えたいのだと思う。 どうして以前より幸運になったのか。 サタンが離れるだけなら以前と同じである。しかし以前よりよくなる。 それは、サタンがヨブに仕え始めたからだろうか。 そういえばサタンも天使でしたね。
☆ 1章6節 ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。 ******* 神を信じない人は、ここでもうヨブ記をまともに読めない。 神? 神の使い? サタン? えぇー何のことぉー? 事の起こりもそうだが、結びもそうであり、計算された目くらましである。 神やサタンを信じない人には読めないようになっている。 かれらにはぼんやりとしか見えない。
☆ 1章9節 サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。・・・」 ******* 御利益ねらいでは偽りの敬いでしょう、とサタンは言っている。 ネコはエサが欲しくてすりよってくる。しかし腹がふくれたら離れてしまう。 サタンは「ネコと同じじゃありませんか」と疑ったわけですね。
多くの日本人が、クリスマスを祝い、除夜の鐘を聞き、 年が明ければ神社に御利益祈願で参拝する。 このいい加減さは、御利益があればどこの神様仏様でも構わないという、 日本人のアナーキーな精神世界を象徴している。 残念ながら、日本人はサタンの格好の餌食でしょう。
☆ 1章21ー22節 わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。 主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。 このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。 ******* ヨブは神とサタンによって不幸が生じたことを知らない。 知らないのだから、神を非難する思いなど湧くはずがないのである。 しかし、子供を10人も失ったのに、まるで他人事のようであり、 余裕さえ感じられるのはどうか。 神への信仰が本物だという、単なる文章テクニックか。
☆ 2章10節 ・・・わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、 不幸もいただこうではないか。・・・ ******* 皮膚病にかかり、妻から「死ぬ方がましでしょう」と言われた時の答え。 現世利益で神を信仰しているのではない。だから「不幸もいただこう」となる。 しかし何とすました答え方だろうか。 これはたぶん、妻を宥めるための、言い訳のようなものかもしれない。 ヨブは不幸に苦しみ、不幸の理由を知りたいと思っている。 その理由が、友人たちとのテーマになっている。
1 神の居場所を推測する ☆ ダニエル書10.4−6 一月二十四日のこと、チグリスという大河の岸にわたしはいた。 目を上げて眺めると、見よ、一人の人が麻の衣を着、純金の帯を腰に締めて 立っていた。体は宝石のようで、顔は稲妻のよう、目は松明の炎のようで、 腕と足は磨かれた青銅のよう、話す声は大群衆の声のようであった。 ******* ここに描かれているのはたぶん天の御使いでしょう。
2 神の居場所を推測する ☆ ダニエル書12.5−7 わたしダニエルは、なお眺め続けていると、見よ、更に二人の人が、 川の両岸に一人ずつ立っているのが見えた。その一人が、川の流れの上に立つ、 あの麻の衣を着た人に向かって、「これらの驚くべきことはいつまで続くの でしょうか」と尋ねた。 ******* この川は三途の川です。川の流れの上に立てるのは霊体だからです。 川の両岸にいる二人も霊体です。
184 :
神も仏も名無しさん :2010/05/28(金) 22:00:14 ID:frVmuNNf
3 神の居場所を推測する ☆ ダニエル書12.7 すると、川の流れの上に立つ、あの麻の衣を着た人が、左右の手を天に差し伸べ、 永遠に生きるお方によってこう誓うのが聞こえた。 「一時期、二時期、そして半時期たって、聖なる民の力が全く打ち砕かれると、 これらのことはすべて成就する。」 ******* 麻の衣を着た人が、三途の川の上で、左右の手を天に差し伸べる。 ということは、神は三途の川の上、はるか上空にいらっしゃる。
4 神の居場所を推測する 三途の川は、この世とあの世の中間に流れている。 神は両方の世界を支配するため、三途の川のはるか上空にいらっしゃる。 この世の上空でもない。あの世の上空でもない。
5 神の居場所を推測する 神が三途の川の上空にいるなら、 あの世の上空、あるいはこの世の上空にする説はすべて誤りである。 たとえばスエデンボルグの霊界太陽は誤りである。
6 神の居場所を推測する この世とあの世の中間に神がいることは合理的である。 両方の世界を支配するのに便利である。 この世の人も、あの世の人も、神に会える可能性がある。 それに生死を分ける三途の川ほど重要な場所はない。 なぜ神に会うことが困難なのかも説明がつく。 死のすぐ手前まで行かないと神に会えないからである。 死ぬほどの体験をしないと神に会えない。 でも体が死んでしまうと三途の川を渡ってしまう。 生きたままで、精神的な死を体験できるかどうかだろうか。
7 神の居場所を推測する ヒンズー教では聖なるガンジスで沐浴する。 ユダヤ教徒・洗礼者ヨハネは、ヨルダン川で悔い改めの洗礼を行った。 神道でも川で禊をする。 神と川とは縁があるようですね。
8 神の居場所を推測する ☆ エゼキエル書47.1 彼(主)はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。 すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東のほうへ流れていた。 神殿の正面は東に向いていた。 水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。 ☆ エゼキエル書47.12 川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が 大きくなり、葉は枯れず、果実は絶えることなく、月ごとに実をつける。 水が聖所から流れ出るからである。その果実は食用になり、葉は薬用になる。
9 神の居場所を推測する ☆ 黙示録22.1 天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川を わたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、 その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。 そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。
191 :
神も仏も名無しさん :2010/05/30(日) 13:12:08 ID:Rv0mYPOY
10 神の居場所を推測する ☆ 創世記2.10 <エデン>から一つの川が流れ出ていた。 園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。 ☆ 創世記2.16−17 主なる神は人に命じて言われた。「・・・<善悪の知識>の木からは、 決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」 ☆ 創世記3.2−3 女は蛇に答えた。「・・・<園の中央に生えている>木の果実・・・」 ☆ 創世記3.22 主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。 今は、手を伸ばして<命の木>からも取って食べ、 <永遠に生きる者>となる<おそれ>がある。」 ← 神が恐れる?
11 神の居場所を推測する 創世記、エゼキエル書、黙示録では、 川の両岸が神の国であるかのように書かれている。 では、聖書の川はあの世だけに流れているのか。 それとも、三途の川のように、この世とあの世を分けて流れているのか。 判断しにくい。しかし三途の川だと解釈できないこともない。 神への信仰があるのは、どこかのだれかが神の存在を知ったからだろう。 そう考えれば、あの世だけでなく、この世からも近づけなければならない。 やはり、神は三途の川の上空にいるのではなかろうか。
☆ 2章6節 主はサタンに言われた。「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。 ただし、命だけは奪うな。」 ******* 命を奪うな、という命令が有効なのは、@サタンが神に従順であるか、 A神が生死の権限を握っているか、そのどちらかである。 @のケース ・・・ サタンには、自殺しない程度に相手を苦しめる能力がある。 Aのケース ・・・ サタンは、神の手のひらの上で動いている。 ではサタンの役割は何。神の代役? あるいは汚れ役?
いや、どちらかではなく、@とAが同時に成立しているのだろう。
サタンには、自殺しない程度に相手を苦しめる能力がある。
そのサタンを神は、手のひらの上で使っている、ということかもしれない。
>>58-103 で、サタンはレビヤタンだと想像した。
そして神が三途の川の上空にいるなら、レビヤタンもたぶん三途の川にいる。
川の中か、川の上か、いずれにしろこの周辺にいる。
レビヤタン(セラフィム、ケルビム、きらめく剣の炎)が守っている? ・・・それはエデンの園にある命の木ではないのか。 まさか三途の川に、神がいて、サタンがいて、エデンの園があるなどと、 だれが思うものか。信じられるわけがない。 そう思うのももっともなので、この話はこれくらいにしておきましょう。
この世とあの世の並び方を追加しておこう。 @ 直列型・・・神 → あの世 → この世 このタイプだと、神と人間は隔てられている。神を直接知ることはできない。 まずいことに、あの世の地獄の下に、この世がつながっている。 スエデンボルグの霊界太陽はこのタイプだろうか。 A 並列型・・・神 → (あの世・この世) あの世とこの世とが三途の川を境界に地続きに連続している。 神は三途の川の上空におり、どちら側からも神に近づくことができる。 この方が臨死体験の報告にも合致している。
☆ 1章21節 わたしは裸で母の胎をでた。裸でそこに帰ろう。 主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。 ☆ 1章10節 お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、 神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。 ******* これらの言葉は、ヨブが不幸を受け入れたのだと読者に思わせる。 しかしそれだったら、次のようなことを言うはずがない。 ☆ 3章25−26節 恐れていたことが起こった。危惧していたことが襲いかかった。 静けさも、やすらぎも失い 憩うこともできず、わたしはわななく。
不幸の直後は、呆然として気持ちが上滑りしている。 しかし時間が経過し、やがて不幸の重さを知り、不幸に打ちのめされる 心理的にはこういったことなのかもしれない。
☆ 4章3−5節 あなたは多くの人を諭し 力を失った手を強めてきた。 あなたの言葉は倒れる人を起こし くずおれる膝に力を与えたものだった。 だが、そのあなたの上に何事かふりかかると あなたは弱ってしまう。 ******* 経験が不足し、練れていないうちはそんな風になる。 困っている人を助けたいという思いが、他人から見れば思い上がりであり、 偉そうにしていたということになるのだろう。
200 :
神も仏も名無しさん :2010/05/31(月) 21:55:29 ID:WjsvYGc0
ヨブは、言葉でも行い(31章)でも、正しいと思うことを実践した。 良心に生きようとした。仏教でいえば八正道を行ったのである。 しかしそれが不幸の元であった。神やサタンに目をつけられたのである。 ヨブは破綻し、周囲はヨブの善行をオゴリであり、 「お人よしである」と見なした。ヨブは二重に損をしている。 相手のことを思っているのに相手から憎まれてしまう。なぜだろう?
12 神の居場所を推測する このテーマはもうよそうかと思ったけど想像を刺激しますね。 生き物が地上に現れた太古の時代をイメージしよう。 神が造った生き物は、肉はチリになり、霊は神の元に帰ったのではないか。 これなら三途の川はいらない。あの世は存在しない。 しかし、生き物が進化すると、神の元に帰れない生き物が現れ始めた。 その代表が人間だろう。その結果としてあの世が造られる。 死ぬことができない(いのち)の居場所である。 こうして、あの世ができ、三途の川ができあがる。
13 神の居場所を推測する 境界がなんであり、なんで川なのだろう? よくわからない。でも、みんなそれで納得すると思う。 境界は、山ではなくて、川なのである。 三途の川に渡し舟などない。そんなものがあってはおかしい。 六文銭などいらない。地蔵菩薩もいないし。 でもね、三途の川は、小川だったり、浅瀬のようだったり、深い大河だったり、 橋がかかっていたり。その人の思いや行いに応じているのかも?
14 神の居場所を推測する ☆ ヨハネ伝14章1−2節 心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 わたしの父の家には住む所がたくさんある。 もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと 言ったであろう
イエスよりも前に、もうすでに、住む場所が用意されているのですねえw
>>203 の、新共同訳の該当箇所は次のようになっている。
もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと
言ったであろう<か>。
最後の<か>に注目。これがあるために文章の意味がわからなくなっている。
<か>は削除すべきですね。これは、疑問文ではなく仮定文でしょう。
エデンは、考古学的にはチグリス、ユーフラテスの上流、 トルコのワン湖や、アルメニアなどが有力らしい。 しかし神話的には、三途の川の周辺が有力である。 臨死体験者によれば、そこには心安らぐ美しい草原があり、 吸い込まれるような魅力を感じるという。
207 :
神も仏も名無しさん :2010/06/02(水) 22:36:10 ID:yMZnkbBZ
閑話休題、ヨブ記の主たるテーマは生きる意味である。
そこで、生きる意味を考えることがなぜ危険なのかを再度考えてみよう。
>>117-118 人間は精神である。精神とは何であるのか。精神とは自己である。
自己とは何であるのか。自己とは自己自身に関わる一つの関係である。
・・・『死に至る病』キルケゴール
208 :
神も仏も名無しさん :2010/06/03(木) 23:25:36 ID:VEesukNl
契約の箱には、十戒の石板、アロンの杖、つぼに入れたマナが入っていた。 かたや三種の神器は、鏡、草薙剣、勾玉である。 なにか似ているような印象がある。 アロンの杖は、エジプト王の前で蛇に姿を変えた。 草薙剣は、ヤマタノオロチの尻尾から出てきた剣である。 どちらも蛇に関係している。
少し訂正しておきます。生きる意味を考えること、 これがなぜ危険であるのか、という問題設定は誤りだったようです。orz 危険があろうがなかろうが、人間は生きる意味を考えざるをえない、 ということなのだろうと思います。
☆ 創世記3.24 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために エデンの園の東に<ケルビム>と、<きらめく剣の炎>を置かれた。 ******* <ケルビム>とは何だろう。<きらめく剣の炎>とはいったい何だろう。 かれらがエデンの園の番人らしいことはわかる。 しかし具体的にイメージできないのだ。
a flaming sord flashing back and forth これが<きらめく剣の炎>に該当する英文である。 直訳すれば、<前後にきらめいている、燃えるように赤い剣>である。 新共同訳とはだいぶイメージが違う。 新改訳(?)では、<輪を描いて回る炎の剣>になっているようである。
これでこの箇所の意味がだいたいわかりました。 ケルビムと赤い剣は、別のものではなく、たぶん同じ一つのものなのです。 <ケルビムである> <前後にきらめいている、燃えるように赤い剣> ここから想像できるのは、牙をむいて待ち構えている蛇です。 ケルビムとは、炎の毒蛇・セラフィムのことです。
神社の太い注連縄が、鳥居にあり、神殿の前にある。 あれはどうみても交尾する二匹の蛇ですね。 ということで何が言いたいかといえば、 神に近づこうとするのは相当に危険だよ、ということですね。 危険性については、このぐらいの警告しか許されていない気がする。 むしろ、みんなやって来い、という話なのだろう。
214 :
神も仏も名無しさん :2010/06/04(金) 18:47:05 ID:awt483c8
荒れ野には<マナ>という食べ物が実際にあるという話には驚いた。 海鳥が風に流されて落ちることもあるらしい。 モーセは、エジプトで人を殺し、遊牧民であるミディアン人のもとに逃れ、 そこで砂漠のことをいろいろ学んだのですね。
少し古いけど、カフカの『城』『審判』は、それが何を言っているか、 ユダヤ・キリスト教世界からすれば一目瞭然である。 カフカの『城』はたとえ話である。 Kは城にいる領主から測量を頼まれ、Kは出かける。 しかしKは、現地に出かけるが、領主のいる城にどうしてもたどり着けない。 Kは、なんだかんだと時間を潰すが、目的地にどうしても到着できない。 城は霧に包まれている。そして霧が深くなるばかりである。
216 :
神も仏も名無しさん :2010/06/04(金) 20:28:21 ID:H0CPj7DR
『審判』はもっと簡単だろう。 人間はさ、というか生き物はさ、やがて死ぬ死刑囚じゃないか、という話。 悪いことをしないのに、なぜ死刑にならなければならないの? というのがカフカの問い。かれは早死にしたんだよんね。
さて話をもどすと、<炎の毒蛇>が命の木を守っていることがわかった。 世間には毒蛇の先には宝物があるという物語もある。 しかしこれは物質の世界の話ではない。心の世界の話である。 心の世界の話であれば、だれの心にもその奥底には<炎の毒蛇>がおり、 それが命の木を守っていることになる。 わたしたちはエデンの園から締め出されているのである。
ヨブがそうであったように、生きる意味を考えることは、 自分探しであり神探しでもある。それは心の奥底に向かうことであり、 いずれ<炎の毒蛇>と対決することになる。 しかし勝つ見込みはない。 ヨブ記を読めば何が問われているのかがわかる。 自分という存在そのものが問われている。 人の精神が依存しているところの、ありとあらゆる精神的な価値である。 財産・地位・名誉・評判・過去の栄光・プライド・人間関係などなどであり、 それらを壊されることで自我が壊され、本能までも壊される。 ヨブがそうだったように、神に近づくとはそういうことなのである。
219 :
神も仏も名無しさん :2010/06/05(土) 12:43:26 ID:rnjvFoww
口で信じますと言い、水を降りかけられたら救われる? ヨブ記を読めば、そんな甘いものじゃないことを教えられると思う。 救われるか救われないのか、それは心の奥底のドラマである。 そこには<炎の毒蛇>がいる。人は<精神的な死>を求められている。 ☆ ヨハネ伝3.5−6 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。 だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
人の心の底には、エデンの園があり、そこには命の木がある。 例外はない。あらゆる人にエデンの園がある。 しかし人は、そこから締め出されている。 神は、人が勝手に入って来ないように<炎の毒蛇>を置いた。 ここから、たとえば次のようなことが考えられる。 @ 他の誰か、かりにそれがメシアであっても、 自分の代わりに、自分の<炎の毒蛇>と戦うことはできない。 A 仏教で説いている「空」は最終的な人生の奥義に到達していない。 空は空論であり、ごまかしであり、人を救うことができない。 信じないより信じるほうがよさそうに思う。 しかし信じることで救いが遠のくという側面もあるような気がする。
神を知らない、いわゆる信仰というものは、 多くの人が参入しやすい易行道として機能している。 →(ヨブの信仰も、神に出会う前は易行道である。) しかしもともと、救われていないのに、救われたと思い込むカン違いであり、 救われていない精神を依存させ、砦・逃げ場のような機能も果たしている。 それは、思いこみであり、蜃気楼であり、砂上の楼閣である。
神に近づくことは、世俗的な価値を失うことを意味する。 では、世俗的な価値を残したまま、神に近づくことはできないのだろうか。 どうもできないようである。 財産や地位などを残したまま、精神的に死ぬことは不可能なのだろう。 金持ちが、わたしは金に執着していない、と思うようなものである。 かれは自分の財産を貧しい者に分け与えることができない。 かれの精神はどうしてもかれの財産に依存してしまう。 精神がモノで汚れ、精神がそれだけモノ化しているということだろう。 ☆ ルカ伝18.25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。
人間は社会に出て、金で動いている現実に直面する。 その時、ほとんどの人間は、周囲に合わせて金に仕えようと思う。 ☆ マタイ伝6.24 だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、 一方に親しんで他方を愛するか、どちらかである。 あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。 ☆ マタイ伝7.13−14 狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、 そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、 その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。
金に仕えようと思った人々は、地位や権力が金を生むことを知り、 地位や権力や名声も追いかけ始める。出世競争である。 仕事も大事だが、だましだまされる神経戦を仲間同士で繰り返す。 金に余裕ができれば、女性が近づいてくるようになり、 やがて結婚し、子供ができる。家も購入し、金はさらに必要になる。 もう後には引けない。ひたすら前進するばかりである。 そして老いを迎える。病で引退するケースもあるだろう。 子供たちも巣立ち、時間の余裕もでき、ここでようやく人生を振り返る。 過ぎ去った日々が夢のように思われる。←これがポイント 人生は夢のようだ、という思いが、仏教の「空」を支えている。 この世は、夢、幻、蜃気楼、砂上の楼閣である。これが「空」である。
225 :
神も仏も名無しさん :2010/06/05(土) 17:30:11 ID:79yHdA+q
仏教では「空」を深遠なものであるかのように論じる。 しかし「空」は、昔から空論と言われて世間からバカにされて来たのだ。 それなのになぜ生き残っているのか。支持者がいるから! 支持者は、神を捨て、金や権力に仕えた人々から湧いている。 かれらには、社会から引退したとき、 人生は夢のようだったという実感がそこはかとなくある。 それに、争いや保身のためにやらざるを得なかったアクドイことも、 いっさいが「空」であるなら、負い目も消え、ひどく好都合なのである。 もともと若い頃に神を捨ててしまった。神などいない。 →「空」は無神論者たちの墓場かも
そんなことを言ったら、結婚もできないし、子供もつくれない。 家を買うこともできないじゃないかw 人類が滅びるw だからさ、人生の若いころ、30ぐらいには神を知るべきなのです。 そして神を知ってから結婚するべきなのです。 教育も、世の中も、みんなみんな間違っていると思う。 年寄りが神を知るチャンスもある。 若い頃より難しいけど、がんばってください。
日本仏教は基本的に「空」を説く。 ナムアミダブツ、南無妙法蓮華経は易行道であり、 それらの根本もやはり「空」である。
228 :
神も仏も名無しさん :2010/06/05(土) 23:32:06 ID:HFFd6caE
☆ 19章8節 ヨブA 神はわたしの道をふさいで通らせず、行く手に暗黒を置かれた。 ☆ 19章21節 憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ、神の手がわたしに触れたのだ。 あなたたちはわたしの友ではないか。 ☆ 19章25−27節 わたしは知っている。 わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。 この皮膚が損なわれようとも、この身をもって わたしは神を仰ぎ見るであろう。 ******* 神はいるのか。ヨブの心が揺れている。
☆ 33章23−25節 エリフ 千人に一人でもこの人のために執り成し、 その正しさを示すために、遣わされる御使いがあり 彼を憐れんで、「この人を免除し、滅亡に落とさないでください。 代償を見つけて来ました」と言ってくれるなら 彼の肉は新しくされて、若者よりも健やかになり 再び若いときのようにようになるであろう。 ******* 執り成しという考え方はイザヤ書53章(主の僕の苦難の死)からだろうか。 エリフはもうひとりのヨブである。ヨブには神に見捨てられたという思いがある。 だれでもいいから助けてくれという、衰弱したヨブのか細い声か。 ヨブは不幸の底なし沼で溺れかかっている。
☆ 37章23節 エリフ 全能者を見いだすことはわたしたちにはできない。 ******* ヨブがこう思った時、ヨブは神を頼りにすること、神に依存することを ふっきったのではないだろうか。ヨブは神を否定していない。 しかし、神が(いてもいなくても)どちらでもいい、という決意、 弱弱しいが決意のようなものが聞こえてくる。 ヨブは無信仰者や無神論者に近いところにいる。 神を知らない信仰の真相は、そういったものかもしれないのである。
☆ 37章 23−24節 神は優れた力をもって治めておられる。 憐れみ深い人を苦しめることはなさらない。 それゆえ、人は神を畏れ敬う。 ******* ヨブは、神が(いてもいなくても)どちらでもいいと決意した。 であれば、その舌の乾かないうちに神を語る意味は何か。 それは、神がいなくても、神の正義を行うべきであるという決意だろう。 そんなことをするのは、バカだと言われ、損をするばかりであり、 死んでしまうかもしれない。でもそうしよう、という弱弱しい決意である。
☆ 38章 24節 人の知恵はすべて顧みるに値しない。 ******* ヨブの救いは、自分が正しく生きてきたという思いであった。 しかしそれも誤りであることに気づいてしまった。 その時、ヨブは<当たり前のように>自分の正義を折る。 神のために折るのではない。<正義のために>自分の意志で自分を折る。 これも消えてしまいそうな意志である。 もうヨブには何もない。ヨブはこの時、消えそうな<意志>である。
233 :
神も仏も名無しさん :2010/06/06(日) 13:33:23 ID:QTNvG7Wd
☆ 38章1−3節 主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。 これは何者か。 知識もないのに、言葉を重ねて 神の経綸を暗くするとは。 男らしく、腰に帯をせよ。 わたしはお前に尋ねる。わたしに答えてみよ。 ******* 神の出現に、ヨブはびっくりしたと思う。 でもヨブは、知らず知らずに神を選んでいたのである。 正義、それが神なのだから。
234 :
神も仏も名無しさん :2010/06/06(日) 16:10:06 ID:9pybDUpc
善い嘘などありません。 嘘も方便などは詭弁です。 罪に例外はありません。 自己正当化しないこと。 旧約聖書 ヨブ記 「全能者が法を曲げるだろうか。」
235 :
神も仏も名無しさん :2010/06/06(日) 16:11:25 ID:9pybDUpc
>>234 補足
嘘で誤魔化すくらいなら、沈黙してろ。
黙秘のほうがマシだから。
「沈黙は金なり」
236 :
神も仏も名無しさん :2010/06/06(日) 16:15:41 ID:9pybDUpc
>>235 さらに追加
ノーコメント、答えたくない、言えない、わからない、失念した、
など、嘘で偽らなくても返答の仕方はある。
ヨブはついに神に出あうことができた。 ということは、神がヨブを本物の義人として認めたわけである。 神はどこにヨブの義を見たのか。
1 神はどこにヨブの義を見たのか ヨブは31章で自分が正しく生きてきたことを列挙して訴えている。 わたしは自分の目と契約を結んでいるのに どうしておとめに目を注いだりしようか。31.1 わたしがむなしいものとともに歩き この足が欺きの道をいそいだことは、決してない。31.5 わたしの歩みが道を外れ 目の向くままに心がうごいたことは、決してない。31.7 わたしが隣人の妻に心奪われたり 門で待ち伏せたりしたことは、決してない。31.9
2 神はどこにヨブの義を見たのか わたしが奴隷たちの言い分を聞かず はしための権利を拒んだことは、決してない。31.13 わたしが貧しい人々を失望させ、 やもめが目を泣きつぶしても顧みず 食べ物を独り占めにし みなしごを飢えさせたことは、決してない。31.16−17 着る物もなく弱り果てている人や 体を覆う物もない貧しい人を わたしが見過ごしたことは、決してない。31.19
3 神はどこにヨブの義を見たのか わたしが裁きの座で味方の多いのをいいことにして みなしごに手を振り上げたことは、決してない。31.21 わたしが黄金を頼みとし 純金があれば安心だと思い 財宝が多いことを喜び 自分の力を強大だと思ったことは、決してない。31.24−25 太陽の輝き、満ち欠ける月を仰いで ひそかに心を迷わせ 口づけを投げたことは、決してない。31.26−27
4 神はどこにヨブの義を見たのか わたしを憎む者の不幸を喜び 彼が災いに遭うのを見て わたしがはやしたてたことは、決してない。31.29 呪いをかけて人の命を求めることによって 自分の口が罪を犯すのを許したことは、決してない。31.30 わたしの天幕に住んでいる人々が 「彼が腹いっぱい肉をくれればよいのに」 と言ったことは決してない。31.31 見知らぬ人さえ野宿させたことはない。31.32
5 神はどこにヨブの義を見たのか わたしがアダムのように自分の罪を隠し 咎を胸の内に秘めていたことは、決してない。31.33 わたしが金を払わずに収穫を奪って食べ 持ち主を死に至らしめたことは、決してない。31.39 ☆ 29章14節 ヨブB わたしは正義を衣としてまとい 公平はわたしの上着、また冠になった。
6 神はヨブのどこに義を見たのか ヨブのように生きたらたいしたもの。神もヨブに注目している。 ☆ 主はサタンに言われた。 お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。 無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。 ******* しかし義とするには、まだ足りないようである。
7 神はヨブのどこに義を見たのか。
37章23−24節 エリフのところで見たように(
>>230-232 )
神は、神がいなくても、正義を選ぶような霊魂を探しているのではないか。
ヨブのように、まったく何もない<どん底>であっても、
それでも正義を選べるのかどうかを見ている。
神は、自分の命よりも、正義を選ぶ<意志>を義としている。
8 神はヨブのどこに義を見たのか 人の知恵はすべて顧みるに値しない。37.24 神は、義のために知識や教養を要求していない。 モーセの律法も不要である。神が問うのはその人の<意志>である。 どん底になっても、そこで正義を選べなければ単なる不幸に終わる。 どん底の状態でも正義を選べるかどうか。そのためにはどうしたらいいのか。 ヨブのように日ごろから、正しい生活を心がける以外にない。 日々、良心を導きにし、考えながら反省しながら、正しく生きる努力をする。 そうすればそれが性分になり、いざという時に役立つのである。 性分であれば、不幸に襲われ、頭が混乱しても、自然によい選択ができる。
9 神はヨブのどこに義を見たのか ヨブ記によって、人間にどんな資質が必要なのかを学ぶことができる。 ひと言で言えば、正しく生きようとすることある。 素直であり、純粋であり、誠実であり、公平であり、正義を重んじる。 こういった資質が、サタンに勝つための武器なのである。 ぎりぎりの状態を突破するために役立つ。 知識は役立たない。
248 :
神も仏も名無しさん :2010/06/07(月) 21:51:29 ID:aSj/l7r8
10 神はヨブのどこに義を見たのか 神が義とするのは、信仰の有無ではないように思える。 かりに無神論者であっても、その人が自分の命より正義を重んじるなら、 神はその人を義とするのかもしれない。 資質や性分は重要であり、そういったものは一朝一夕で身につかないから、 子供のころから、大切に養い育てるべきなのだろう。 ずるさを覚えたらそれで終わる。
ヨブ記を何回読んでも思うことがある。 神に出会う前、ヨブは本当に神を信じていたのだろうか。 ユダヤ教なのだろうが、 ヨブからは宗教の枠にはまった窮屈な印象を受けない。 神を信じなくても、ヨブのように問うことができそうなのである。 無神論者であっても、正しく生きようとすることは可能である。 たぶんかれらも神に会えるのだろう。 素朴な、宗教のない原始時代からスタートし、 ヨブのような人間から、神への信仰が始まったとする方が正解だろう。 今の宗教はむしろ、人間を神から遠ざけているのかもしれない。
ヨブに幸いがもどる42章の結びは、 応報論に戻ってしまったのではないかという疑問もある。 しかしこれでいい。 ヨブ記が問題にしたのは、サタンによる偶然や悪意による不幸である。 結びはちょうど正反対、偶然や善意による幸福である。 因果関係である応報論とはちがう。それは運の善し悪しである。 運がいい、運が悪いというのは、応報論の善因善果・悪因悪果とはちがう。
なぜ財産が二倍になるのかはよくわからない。 ただ、運が悪い時は相手のためを思ってもそれが逆効果になり、 まるで相手の値打ちであるかのように受け取られ、 相手を増長させてしまうものである。 ある意味、二倍の損をしているようなものである。 運がよくなると、これの裏返し、二倍の得が起きるのかもしれない。
ヨブはサタンに勝ったが、その後サタンはどこに消えたのだろう? サタンはヨブの守護天使になったのかもしれない。 サタンはそういう役割を担っている? 彼は試練を作り出し、人が試練に負ければ、サタンの僕にされてしまう。 人が試練に勝てば、サタンがその人に仕え始める。
253 :
神も仏も名無しさん :2010/06/08(火) 23:46:59 ID:3jqORpfj
レビヤタンがサタンである。レビヤタンは悪魔でもあり天使でもある。 役割はひとつ、しかし人間には別々の役割のように感じる。 悪魔と天使という別々の存在のように感じる。
☆ 1章21節 わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。 主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。 ☆ 2章10節 わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、 不幸もいただこうではないか。 ******* これらは不幸の直後、あ然としているヨブの上滑りである。 そんなにすましたものではなかった。ここからヨブの苦悶が始まる。
ヨブ記はつらい話の連続かと思いきや、 あちこちに作者のユニークなセンスがちりばめられており、 そういった詩句を味わう楽しさもある。たとえば ☆ 5章6−7節 エリファズ@ 塵からは、災いは出てこない。土からは、苦しみは生じない。 それなのに、人間は生まれれば必ず苦しむ。 火花が必ず上に向かって飛ぶように。 ☆ 5章14節 エリファズ@ 真昼にも、暗黒に出会い、昼も、夜であるかのように手探りする。 ☆ 17章13−14節 ヨブA わたしは陰府に自分のための家を求め、その暗黒に寝床を整えた。 墓穴に向かって「あなたはわたしの父」と言い 蛆虫に向かって「わたしの母、姉妹」と言う。
☆ 22章13−14節 エリファズB だからあなたは言う。「神が何を知っておられるものか。 濃霧の向こうから裁くことができようか。雲に遮られて見ることもできす、 天の丸天井を行き来されるだけだ」と。 ☆ 30章26節 ヨブB わたしは幸いを望んだのに、災いが来た。光を待っていたのに、闇が来た。 ☆ 13章12節 ヨブ@ あなたたちの主張は灰の格言、弁護は土くれの盾にすぎない。 ☆ 13章18−19節 ヨブ@ わたしは知っている、わたしは正しのだ。 わたしのために争ってくれる者があれば、もはや、わたしは黙って死んでもよい。 ☆ 10章4−5節 ヨブ@ あなたも肉の目を持ち、人間と同じ見方をなさるのですか。 人間同様に一生を送り、男の一生に似た歳月を送られるのですか。
☆ 7章1−3節 ヨブ@ この地上に生きる人間は兵役にあるようなもの。 傭兵のように日々を送らなければならない。 奴隷のように日の暮れるのを待ち焦がれ 傭兵のように報酬を待ち望む。 そうだ、わたしの嗣業はむなしく過ぎる月日。 ☆ 9章25節 ヨブ@ わたしの人生の日々は、飛脚よりも早く飛び去り、 幸せを見ることはなかった。 ******* いくらでも見つかりそうなので、このくらいにします。 表現がユニークなだけでなく内容も濃いですね。
32章に登場するエリフは<もうひとりのヨブ>である。 ということはヨブの精神が分裂している? 神に出会うことと精神が分裂することは関係しているのか。 関係しているとしたら、それはどういった関係なのか。 分裂は統合を失うこと。どちらも同じ内容を表している。
これは、すでに指摘した言葉の構造に関係している。
>>119-120 言葉は事物そのものを示すか、事物と事物の関係を示すことしかできない。
ここで神や聖霊や霊魂は事物そのものに分類される。
神や聖霊などは、いくら説明しても、それらを体験させることは不可能。
何とか伝えようとしている聖書であっても不可能。
言葉(ロゴス)とはそういうものである。
神や聖霊を知りたいと思う人が直接、自分で体験する以外にない。
260 :
神も仏も名無しさん :2010/06/10(木) 00:07:47 ID:BVX/93/N
言葉の世界に神はいない。 いくら本を読んでも、いくら考えても、神に出会えるわけがない。 しかし人間は、なぜか言葉を用いて探そうとする。なぜだろう。 逆境に出会う → 生きる意味は何だろうと考え始める。 ここから神探し・自分探しがスタートするわけだが、 その問題意識がそもそも言葉なのである。 言葉を持たないなら、そもそも問題意識など生まれない。 言葉があるから問題意識が生まれ、それを解決しようと言葉で考える。 人間はそういった道筋を歩むように造られている。 だからまずは言葉で考える。そして言葉の落とし穴に落ちてしまう。
1 言葉それ自体を考えようじゃないか ☆ ヨハネ伝1章1節 初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。 ******* 福音書の中でも、この部分は謎めいている。 えっ、ウソでしょう? と思う人も多いのではないか。 わたしもそのひとりである。
2 言葉それ自体を考えようじゃないか 常識的に考えれば、言葉は現実を映す鏡のようなものであり、 言葉(ロゴス)は現実の記号にすぎない。 言葉の世界(二次元) < 現実の世界(三次元) である。 しかし、物心ついたころから言葉の世界に住んでおり、 だいたい物心つくこと自体が言葉の世界の住人になることである。 人間は言葉で動き、言葉に支配される。 言葉を信頼し、言葉に左右されることが、人間の条件になっている。 これが、言葉に対する<被暗示性>の由来である。 鬼三郎もはまった言霊信仰である。
3 言葉それ自体を考えようじゃないか きっかけとしては逆境とか不幸とかもあるけど、 生きる意味を考え始めるのは普通、20前後、青年時代だろうか。 すでに書いたように、言葉があるから問題意識が生じ、 従って当然のように言葉で考え始める。 巣立ちの不安、謎解きのような面白さもあり、多くの若者がのめりこむ。 まずここに、病気になりそうな落とし穴が隠れている。 生きる意味、それは<自分>の生きる意味であり、 それを考えることは、自分自身に<閉じこもる>ことでもある。 そして周囲に無関心になる。 フランクルは、破綻しないように、日々の義務を果たせと忠告する。
4 言葉それ自体を考えようじゃないか
人間は精神である。精神とは何であるのか。精神とは自己である。
自己とは何であるのか。自己とは自己自身に関わる一つの関係である。
・・・『死に至る病』キルケゴール
これはすでに書いたものである。
>>207 これを読むと、キルケゴールが<人間を言葉で考えていた>ことがわかる。
言葉の構造のひとつは、事物と事物の「関係」だからである。
それから、自己とは自己自身に関わる一つの関係である、と述べ、
日常の自分とは違う、もうひとりの自分を区別していることがわかる。
キルケゴールは精神の分裂を意識していたのだ。
5 言葉それ自体を考えようじゃないか 神や聖霊や霊魂など、それらを実際に体験したことがないならば、 言葉の関係性、関係概念をひたすらさ迷う以外にない。 炎天下の砂漠をグルグル回るようなものであり、 何か手答えがあったとしても、蜃気楼のオアシスのようなものである。 妄想とか思い込みの類である。それを事実であると主張すれば病気である。 フロイトは、生きる意味を考えることに警戒信号を発した。 その危険性を理解していたからである。 神や聖霊や霊魂などは深い霧に包まれている。 カフカは『城』で、そういったものは言葉で測量できないと主張する。
6 言葉それ自体を考えようじゃないか もう一人の自分のナゾは、霊魂の存在を仮定するとわかりやすい。 霊魂が心の現実であり、本物の自分であるとするなら、 日常的な自分は虚構ということになる。 ただ問題なのは、自分の霊魂を実際に見たことがないことだ。 体験していない以上、言葉の世界に事実として存在することはできない。 霊魂があるという感覚があるのに抑圧する。精神の分裂である。
7 言葉それ自体を考えようではないか 仏教は霊魂を認めない。人間は、実体のない虚構のような存在である。 そういった人間が何を体験しようが、やはり虚構でしかない。 人生は虚構、この世は虚構。これが仏教の「空」である。 これで正しいかどうかは大いに疑問である。 しかし「空」は、生きる意味に対するひとつの答え方ではある。
キルケゴールの立場は「空」との共通点がある? 自己とは自己自身に関わる一つの関係である、という彼の主張は、 人間を関係として把握し、認識している。 → これは「空」である。 自己自身・・・の内容は、霊魂ではなく、家族や恋人や友人や教会など、 その人をとりまく環境のすべてを意味しているのかもしれない。
8 言葉それ自体を考えようじゃないか キリスト教は仏教と異なり、神も霊魂も認めている。 ここで問題なのは、人々が神も霊魂も体験していないことである。 人々は、神や霊魂が存在していると言われても、 そう言っている人の作り話であり、妄想かもしれないと思う。 そこで宣教師は、「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。 言葉は神であった。」ヨハネ伝1.1 などと語り、 福音と手紙を信じさせようと工夫をする。 神や霊魂を知らないうちは、いわゆる信仰は単なる思いい込みに過ぎない。 しかし信仰は、生きる意味に対するひとつの答え方ではあるだろう。
270 :
神も仏も名無しさん :2010/06/11(金) 19:43:46 ID:HkRwY5kG
しかしどうもですね、生きる意味を考える → 精神が分裂する という関係がはっきりしないのである。 (ノ゚ο゚)ノ オオオオォォォォォォ- すっかり忘れていた! 考える際の判断基準、これがなければ考えることなどできやしない。 善悪の知識の木があったじゃないか。
人は、エデンの園で、善悪の知識の木から、神によって禁じられていた その実を取って食べた。神は、人をエデンから追放し、ケルビムである、 前後にきらめく、燃えるように赤い剣によって園を守らせた。 ☆ 創世記 3.22 主なる神は言われた。 人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして 命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。 ☆ 創世記 3.23−24 主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に自分がそこから取られた土を 耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、 エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。
1 前後にきらめく燃えるように赤い剣 人間は不幸や逆境に出会って<生きる意味>を考え始める。 そしてそう考え始めた時には、精神の分裂がすでに進行しつつある。 自分のイメージがふたつに分裂する。 @ 周囲から評価されない。自分は悪いイメージをもたれている。 → ここに悪いイメージの自分がいる。 A しかし悪意で動いたことはない。自分は善意で動いている。 → ここに善いイメージの自分がいる。
2 前後にきらめく燃えるように赤い剣 ギャップが小さければ、それほど悩まないですむだろう。 自然に忘れたり、努力が報われ周囲の評価が好転することもある。 自分に対する、周囲の評価と自分の評価が一致すれば、 問題意識は消滅し、人格は統合して安らぐ。 しかしその人の努力では、どうしても解決できないケースもある。 たとえば、身体的コンプレックス、歴史的なコンプレックス、孤児など。 こういったケースは精神の分裂がさらに進行するおそれがある。 ただ、それが善いか悪いかは、まったくの別問題である。 この道は狭くて険しい。しかしこの道の先に<命の木>がある。 アブラハムもモーセもイエスも・・・みんなこの道をたどったのだ。
3 前後にきらめく燃えるように赤い剣 ヨブの場合も、ヨブの努力では解決できないケースである。 妻や友人や周囲の人々は、ヨブが悪いから不幸に襲われたのだ非難する。 これに対してヨブは、自分は正しいと主張する。 ヨブの精神はすでに分裂している。 だれからも評価されないヨブと、それに必死に対抗するヨブがいる。 分裂は深刻であり、このままでは精神が破滅する。 しかしヨブ記は少し様相がちがう。 必死に抵抗するヨブの中から、もうひとりのヨブが姿を現すのである。 それがエリフである。蛇が脱皮したような構造になっている。
4 前後にきらめく燃えるように赤い剣 ヨブであるエリフは、単純に自分自身を反省しているようでもある。 反省という行為自体が、自分を<もうひとりの自分>で観察するのだから、 精神の分裂を前提にしていると言ってもいいのかもしれない。 分裂の病的な諸相は、もちろん精神の分裂から生じてくる。 しかし、それを病的にするのは、分裂を拒み、統合を試みようとする 心の防衛本能から生じているように思う。 求められているのは逆であり、目の前の剣で真っ二つに切られてしまうこと。 何が切られる? 何を切られる? 善と悪が粘っこく糸を引いている判断基準。判断基準そのものである。
5 前後にきらめく燃えるように赤い剣 人種が異なり、言語が異なっても、言葉の構造は同じである。 善悪という判断基準も同じである。そういった脳を持って生まれてくる。 言葉、ロゴスが神だとは少しも思わない。 しかし言葉の構造が、神の配慮の下にあることは間違いない。 どんな人種であっても、どんな言語であっても、同じ試練を乗り超えないと、 命の木に至ることはできない。神は公平である。
6 前後にきらめく燃えるように赤い剣 人間は言葉によって人間になる。 その言葉は、善悪という判断基準によって生じ、支えられている。 でも、その判断基準が精神を分裂させているw やっぱし、善悪の知識の木から、その実を食べたことがまずかったw いや、精神の分裂は、永遠の命を得るための方法なのであり、 エデンに至る唯一の道である。
279 :
神も仏も名無しさん :2010/06/12(土) 16:34:22 ID:nx3Me6FJ
☆ 黙示録19.15 この方の口からは、鋭い剣が出ている。 諸国の民をそれで打ち倒すのである。
「前後にきらめく燃えるように赤い剣」 → 「前後にきらめく、燃えるように赤い剣」に変更します。 この方が語調的にいい。このテーマはまだまだ続けたいですね。
7 前後にきらめく、燃えるように赤い剣 自分から切られる? こんなことは簡単にできるわけがない。 切られる前に準備する必要があるだろう? その通り! 準備が必要なのだ。 善も悪も、「空」であることを洞察しておかなければならない。 切られやすくすためである。 善があるから悪があり、悪があるから善がある。 善がなければ悪もなく、悪がなければ善もない。 これを最初に洞察しよう。 善悪は相関関係であり、その実体は「空」である。実体がない。
8 前後にきらめく、燃えるように赤い剣 それでは仏教の「空」に似ていないか・・・アーメン、似ている。 しかし仏教は、この世のすべてを「空」にしてしまう。 それに対して聖書は、善悪という判断基準だけを「空」にしている。 太陽や月や星や、米や小麦やトウモロコシや、松や杉やヒノキや、 ワシやカラスやハトや、犬や猫や人は、「空」ではない。 それらには実体がある。 そうではなく、世間が「空」であり、「世間虚仮」ということである。 地位や名声など、世間で重んじられる事柄が「空」なのである。 これらには実体がない。
9 前後にきらめく、燃えるように赤い剣 無人島に流れ着いたロビンソン・クルーソーを想像しよう。 彼にとって食べ物は必要だが、地位も名誉も財産も何にも必要ない。 その日一日が無事に暮らせればいい。 何が「空」であり、何が「空」でないかは明白である。 まず最初に、聖徳太子の「世間虚仮」を知ろう。 これが本当の「空」である。
284 :
神も仏も名無しさん :2010/06/12(土) 23:14:59 ID:G8wKINHy
10 前後にきらめく、燃えるように赤い剣 善と悪とが相関関係にあり、その実体が「空」であることを知れば、 善や悪へのこだわりがうすれて切られやすくなる 言葉では簡単に表現できるけど実際にはそんなに簡単ではない。 わたしは時間をかけ、弁証法を学んでいる。
11 前後にきらめく、燃えるように赤い剣 善と悪との関係は、一枚のコインの裏表のようなものである。 善を語れば、その後ろに悪がひそんでいる。 悪を語れば、その後ろに善がひそんでいる。 善と悪とが「空」であれば、精神の分裂も存在しないことになる。 世間の評価は意味をなさない。であれば「空」によって統合が成立する。 そう実感すれば、実際に分裂が遠のいていくのである。 解決不能と思われた、身体的コンプレックスや、歴史的コンプレックスや 家庭的コンプレックスが解決する。 こういった悩みは、無人島のロビンソン・クルーソーには存在しない。 であれば精神的に、ロビンソン・クルーソーになればいい。
12 前後にきらめく、燃えるように赤い剣 世間虚仮なら、世間から離れて暮らせばいい。 寺の息子なら迷わずにそうするだろう。 しかし一般人であれば、世間のチリにまみれて暮らさなければならない。 そのとき「どう生きるか」 → やっと「生きる意味」から解放された! @ どう生きても「空」なら、世捨て人のように生きる A どう生きても「空」なら、この世間を積極的に楽しみたい B どう生きても「空」なら、損をしてもいいから善い人生を送りたい 結論を先に言えば、Bが正解、@とAはハズレ
13 前後にきらめく、燃えるように赤い剣 Bが正解なのは、まだまだ先があるからである。 まだまだ、ほんの入り口にすぎない。 この「空」は、頭だけで、洞察するだけで実感できる。 瞑想不要、座禅不要、修行不要、言葉そのものを考えるだけでいい。 しかしこの「空」を実際に生きることは困難である。 周囲が自分の利益を追いかけているのに、 損をしてもいいと思っていると、確実に損な役回りを押し付けられる。 やがて、生活の破綻、人間関係の破綻がやってくる。 それでもあなたは、善い人生を送りたいか。
14 前後にきらめく、燃えるように赤い剣 善と悪は相関関係にあって「空」であると洞察した。 その洞察によって、損をしてもいいからと、善を選ぶことを決意した。 しかし破綻に瀕している。 これがヨブの状況でもある。上の話をよく読み返してみればいい。 善を選ぶも何も、善そのものを知らないのだから、 自分が善いと思うことをやっていたにすぎないのである。 なんだ! 善どころか、自分中心に生きていただけじゃないか。 これは「空」とは異なる、「存在そのもの」への絶望的な洞察である。 善も悪も自分でしかなかった、ということは、 善悪の消失ではなく、善悪の正体を見てしまったということである。
15 前後にきらめく、燃えるように赤い剣 善悪の正体、それが自分であることを洞察し、それを否定する。 その瞬間的な出来事のなかでヨブは神に会う。 神は善そのものである。神はヨブの前に現れた。しかし悪の姿がない。 悪の姿はないのだが、善と悪とが二つに切られたことはわかる。 善である神が現れた以上、悪である存在もどこかに必ずいるはずである。 レビヤタンはどこにひそんでいるのか。
290 :
神も仏も名無しさん :2010/06/13(日) 10:05:59 ID:v/Jy/z7U
16 前後にきらめく、燃えるように赤い剣 神が現れたということは、レビヤタンとの戦いが終わったということだ。 えっ、いつどこで戦ったの? 言葉の構造を調べていただけじゃん。 いや実は、それがレビヤタンとの戦いだったのだ。 レビヤタンは言葉の世界ひそんでいる。 生きる意味を考え始めると、エデンの園を守るためにレビヤタンが動き出す。 人間は想念では戦えない。主戦場は言葉の世界になる。 ☆ 黙示録 19.15 この方の口からは、鋭い剣が出ている。 諸国の民をそれで打ち倒すのである。
17 前後にきらめく、燃えるように赤い剣 繰り返すが、言葉の世界がレビヤタンなのではない。 言葉の世界にひそんでいるだけである。 ではヨブはレビヤタンを見たのか。 ヨブ記を読めばわかるが、ヨブがレビヤタンを見たような記述はない。 ヨブが見たのは神だけである。 ヨブは神を見た。これでいい。ここからこの神が何であるかがわかる。 それは<聖霊>であり、ヨブは聖霊に癒されたのである。 作者は知っている可能性が高いのだが、レビヤタンとの出会いは、 気合のいる出来事であり、聖霊体験より先の話になる。
18 前後にきらめく、燃えるように赤い剣 善悪という判断基準は、真っ二つに切られ、神とレビヤタンが現れる。 しかし、切られたのか切ったのか、この辺りは微妙である。 古い自分は切られる。だれが切ったのか。 → 新しい自分である。 言い換えれば、新しい自分が、古い自分を切ったのである。 つまり、古い自分にひそんでいたレビヤタンが切られたことになる。 いや、レビヤタンに古い自分が切られたのかもしれない。 この辺は交錯していて人知ではよくわからない。
19 前後にきらめく、燃えるように赤い剣 かくして神探しに成功し、生きる意味がしだいに明らかになってきた。 いままでの流れをまとめると次のようになる。 @ 善悪を生きる ・・・ 世間と自分が善悪にわかれて精神が分裂する A 空を生きる ・・・ 世間虚仮で、自分において統合が成立する B 神に出会う ・・・ 世間と自分を捨て、神において統合が成立する ☆ 42章5−6節 あなたのことを、耳にしてはおりました。 しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。 それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し 自分を退け、悔い改めます。
20 前後にきらめく、燃えるように赤い剣 ヨブは神探しに成功した。 しかし、人間には霊魂があるのかどうかという、自分探しを欠いている。 その存在は暗示されている。しかし霊魂をテーマに追いかけない。 サタンであるレビヤタンも放置されている。 これらは次のように考えられる。 空 → 聖霊 → 霊魂 → レビヤタン が物事の順序なのである。 まずは最初の難関、聖霊を体験しなくてはならない。
295 :
神も仏も名無しさん :2010/06/14(月) 20:11:46 ID:Lvw8ZLxT
聖霊については、ネットにも神学本にも満足できないはずである。 情報の発信者にその体験がないからである。 なかには、快楽物質エンドルフィンが脳に作用して生じる現象などと、 わかったような妄想をふりまいている学者もいる。 お前はエンドルフィンを体験したんかい、と突っ込みを入れておく。
☆ 38章1節 主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。 ******* 聖霊はいつ現れたのか。それは38章1節。 聖霊は雫のようなものであり、ほんの一瞬の出来事である。 しかし38章から42章まで神が登場している? それはヨブにとって、 そんなにも聖霊の衝撃がすごかったことを表現している。 神さまはこんな方だったんですね、という神への賛歌だろうと思う。 ヨブの賛歌でもあるし作者の賛歌でもある。
ほかの聖霊体験を聖書に探せば、 アブラハムの話、創世記15章9−12節、17節(神の約束) ヤコブの話、創世記23−32節(ベヌエルでの格闘) ただ、モーセの召命、イザヤの召命などは別の体験かもしれない。
聖霊と言えば、使徒言行録2章のペンテコステが有名である。 この話は相当に怪しい。そのひとつは、イエスが処刑された直後の、 ごく内輪の集会に各地の外国人が参加しており、 信者たちの<異言>を確かに外国語だと認定していることである。 どれくらいの外国人がその集会にいたかといえば、 パルティア、メディア、エラム、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、 ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、リビア、 クレタ、アラビアなどである。 → 読むのも面倒。ルカの作り話としか思えない。
この話で思い出すのは、創世記にある<バベルの塔>のである。 ここでは逆に、<異言は神罰である>と書かれている。 ☆ 創世記11.6−7 彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことを し始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が 聞き分けられぬようにしてしまおう。
300 :
神も仏も名無しさん :2010/06/15(火) 21:52:04 ID:woO0+Ql4
☆ 使徒言行録2.1−4 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が 吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、<炎のような舌が分かれ分かれに現れ> 一人一人の上にとどまった。すると、一同は<聖霊>に満たされ、 霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 ******* <炎のような舌が分かれ分かれに現れ> ん? まるで蛇の霊、悪霊が降って来たような印象を受ける。
☆ 使徒言行録 2.13 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、 あざける者もいた。 ******* ここはルカの文章テクニックだろう。偏った話だけでは疑われるから、 疑う者がいたことで公平を装い、偏っていないことを暗に伝えようとする。 しかし逆に、その場にその光景を疑う者がいたことを知り、 いったい何だろうかと、冷静さを取り戻してしまう読者もいるかもしれない。 ゴニョゴニョ得体の知れない言葉を出している人たちのそばに、 それを白けきって眺めている人たちもいたということだ。
この出来事は、聖霊ではなく、集団催眠であったろうと思う。 集団催眠なら、酔っ払いのようにゴニョゴニョつぶやくのもあるだろうし、 笑い転げたり、力が抜けて椅子から滑り落ちたり、床に寝てみたり・・・ 他方で、それらを白けきって眺めている人がいてもおかしくない。 本当の聖霊体験ならこんなことは決して起きない。 ヨブがそうだったように、神を知ってひたすら冴え渡るのである。
ヨブ記から、聖霊体験に必要なのは、 どんな状態であっても正義を選ぼうとする<意志>であることを知った。 この<意志>は、泥酔していればその働きが弱る。 薬物で頭がもうろうとしていればいっこうに働かないだろう。 酒も薬物も聖霊体験を遠ざけてしまう。 神に近づくには<意志>が問われる。 その<意志>を弱くしたら、戦う前からレビヤタンに負けている。
聖書的な空 → 聖霊体験 → 霊魂体験 → レビヤタン体験 これが大きな流れであって、この流れに沿って歩むべきだろうと思う。 聖霊体験までは瞑想不要・座禅不要。 目を開け、正しく生きようと努力し、日々の生活をときどき反省する。 幸い聖霊体験ができたら、もはや言葉の世界を卒業したのだから、 瞑想でも座禅でも思いっきりするといい。 主戦場は想念の世界になる。神界、霊界で試される。
霊的成長の順序を無視し、いきなり霊魂体験をしようとしても無理である。 ましてレビヤタン体験などできるわけがない。 仏教では座禅によって空を体験しようとする。 しかし空とは実体がないのだから、実体がない空など体験できるわけがない。 もし体験したら、精神がやられたと思ったほうがいい。
☆ 使徒言行録 2.14−16 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。 ・・・今は朝の九時ですから、<この人たちは> あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。 そうではなく、これこそヨエルを通して言われていたことなのです。 ******* これは嘲られたことに対するペトロの弁明である。 ペトロは<この人たちは>と言うことで、自分たち十二使徒は ゴニョゴニョ言わなかったことを明らかにしている。 そうするとだ、十二使徒には聖霊が降らなかったことになってしまう。
ペンテコステの経過を再度確認しておこう
@ 十二使徒は、エルサレムにある、ある家の二階で祈りの集会を持った。
婦人たちや、イエスの母マリア、イエスの兄弟たちもいた。
百二十人ほどの人々が一つになっていた。1.13−15
そんなに多人数が入れる二階を持った個人の家があったのだろうか。
それだけでかなりの規模の教会である。
A 五旬祭の日に、一同は聖霊に満たされ、異言を話し出した。2.1−4
B 物音に驚いた、外国での居住経験のあるユダヤ人が集まってきた。
これらは最初からの参加者ではない。2.5−12
天からの音がし、百二十人がゴニョゴニョやればかなりの物音になった?
集まって着たのはユダヤ人であり、最初から参加していたわけでもなかった。
>>298 をお詫びして訂正します。 orz
C 酒に酔っているという嘲り 2.13
D ペトロの弁明
<わたしたちは>でなく、<この人たちは>という言い方もあるか。
しかし逃げているような気がしないでもない。
集団催眠ではなく、集団ヒステリーかもしれない。
>>302
使徒言行録の聖霊体験は、だれがその光景を見たのか知らないが、 異言にしろ炎のような舌にしろ、第三者的に外側から見ているだけであり、 肝心の、心のドラマがまったく伝わってこない。 約120人の人たちが神を見たはずなのに、そんな感動がまったくないし、 むしろ嘲りの言葉にペテロが弁明しているぐらいである。 これが約束の聖霊体験であるなどと言ったら笑い話になってしまう。 ☆ 使徒言行録 2.38 するとペテロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、 イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。 そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
いったい何なんだろうと考えてみた。 当時、外国語が話せることは極めて重要であり、 聖霊の賜物として異言、外国語が話せることをアピールすることは、 キリスト教の宣伝に多大な効果があったのではないか。 今でもそうだろう。モルモン教の宣教が効果を挙げているのは、 ただで英会話の勉強ができると思う、打算的な若者がいくらでもいるから。 パウロについて諸国を遍歴したルカ、しかも医者だから、 言葉の壁に苦労したことは想像できる。 通訳を介しないで、異言を話せることがルカの夢だったのかもしれない。
聖霊のイメージとして近いのは、神の油やヒンズー教のティッカだろうか。 ティッカはヒンズー教徒がしている額の印のことである。 第三の目を意味し、肉眼では見えない世界を見ることができるらしい。 女性がしている赤い印、ビンディーはファッション感覚。 釈迦の額にある白ゴウも似たような意味であり、 それが一本の毛であるところが違う。毛とは赤い糸のようなものか。
聖書にある聖霊のイメージは神の油でしょう。 水による洗礼はケガレを洗い清めるというシンボルである。 では神の油とは何か。心の傷や心の罪、それらをすべて覆い尽くしてしまう 聖霊のシンボルである。油は一瞬のうちに、心の表面を覆いつくし、 心の傷や心の罪を癒してくれる。しかしそれらを帳消しにしたわけではない。 必要なら、いくらでも思い出させ、揺さぶりをかける。 神の油は、心の奥底から湧き出し、ほんの一滴で心の表面を覆いつくす。
313 :
神も仏も名無しさん :2010/06/17(木) 19:19:43 ID:5PFH+YuR
神の油は、イスラエルの王に注がれた油のことであり・・・ しかしそれは、聖別の油としてそれ以前から存在していたのである。 王と神の油との関係は、サムエルとサウロ以後である。
額の赤い印・ビンディー、釈迦の額にある白い毛の環である白ゴウ 赤は命を表している。白は知恵を表している。 赤い糸は命と命のつながり、還暦の赤は生まれ変わりの命、赤子は命の子。 知恵なら老人を象徴する白髪の白。あるいは光を象徴する白。 どちらも第三の目、ティッカに起源がありそうである。 大昔、だれかが聖霊体験をした。しかし奥義として伏せられ、 その後だれも体験できなくなった時、その意味が忘れられ形骸化したもの。 それがヒンズー教のティッカではないだろうか。
神の油は、聖別の油として登場する。 出エジプト記30節22−33節 作り方と使用方法が書かれている 出エジプト記37章29節 出エジプト記40章12−15節 幕屋建設の命令 モーセはアロンとその子らに聖別の油を注ぐ。 レビ記8章30節 祭司の聖別の任職識 モーセは、聖別の油と祭壇にある血を、アロンとその子らの祭服に振りまく。 ******* 血と油が聖別のために使われている。 赤い血は命であり、それは神の油でもある、というような理解だろうか。
☆ サムエル記上10.1 サムエルは油の壺を取り、サウルの頭に油を注ぎ、彼に口づけして、 言った。「主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされたのです。 ☆ サムエル記上16.13 サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。 その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。 ******* 神の油は、王たるにふさわしい者に注がれる、といった意味だろうか。 聖別という本来の意味が忘れられ、形骸化したように思う。
☆ マルコ伝1.10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、 霊が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。 ☆ ルカ伝3.21−22 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。・・・ ******* これらは、いつどこで聖霊体験をしたかは別にして、 イエスが<ヨブのような>聖霊体験をしたことを伝えている。 ということは、イエスが復活する前に、すでに聖霊が存在したことになる。 さらに、イエスが聖霊そのものであるということもありえない。
☆ マルコ伝 14.3 イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に 着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った 石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。 ******* これはユダの裏切りにつながる重要な出来事を記述した箇所であるが、 イエスは埋葬の準備をしてくれたのだと弁護している。 いやそうではなく、マグダラのマリアは、 イエスをユダヤの王として心から祝福したのだろう。それは願望である。 しかしマリアは、それを自分の仮想空間の中でやってのけたのだ。
このマグダラのマリアは不思議である。 最後の晩餐に登場し、高価なナルドの油を惜しげもなく注いでしまう。 イエスの墓にも、香油を持って真っ先に駆けつける。 これらから、相当に裕福な家庭の女性ではないかと想像できる。 使徒言行録、冒頭に、二階に120人を収容する大邸宅が出てくる。 あれはこの女性の家かもしれない(--;
ということで何が言いたいかといえば、 神の油の本当の意味が失われ、形骸化してしまったということである。 油という比ゆはいい。しかし量が多すぎる。 ヒンズー教のティッカぐらいだろう。ほんの一滴でいい。 神の本質は多少に無関係である。
サムエルも量が多すぎる。壺や角からドボドボと注いだのだろう。 モーセは血まで振りまいているし。 指に油をつけ、額に少し塗りつけてやればいい。 これが聖霊のシンボルである。 斜め上、見上げるように神は存在している。 わたしたちはそれを拝む。
322 :
神も仏も名無しさん :2010/06/18(金) 23:13:27 ID:a9BK8mFR
異言については、パウロも否定的な考えを持っていた。 常識的な考え方なので安心した。 ☆ 一コリント 14.23 教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、 教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、 あなたがたのことを<気が変だ>とは言わないでしょうか。
マグダラのマリアについてはカン違いだったかも・・・
>>318-319 orz
マグダラはガリラヤ湖の沿岸にある漁師町
ベタニアはエルサレム近くの町
マグダラのマリアが、ベタニアで香油を注いだ女性と同一かどうかは
判然としない。墓穴に真っ先に駆けつけたあたりは、
エルサレムに住んでいたかのような印象を与えないだろうか。
マルコの母もマリアという。 この家がエルサレムにあり、120人収容の大邸宅の持ち主という説もある。 ここにペテロをリーダーとするエルサレム教会が置かれた? 最後の晩餐もここで行われた? 四つの福音書や使徒言行録や手紙などで、話の内容が少しづつ異なったり、 まったく異なったり、曖昧だったり、 事実がいったい何であったのかを想像することが困難な記述もある。 さらにマリアという名前が複数登場する。 イエスの母であるマリア、マルタとマリアという姉妹のマリア、 十字架近くにいたクレパの妻マリア、マグダラのマリア、 マルコの母マリア ・・・ 初心者はこれだけで混乱してしまう。
今回、使徒言行録により、イエスのイメージがかなり変わった。 イエスはひとり、ガリラヤで宣教を開始した。 ホームレスのような宣教活動の中で、少しづつ弟子を増やし、 最後には、エルサレムだけで120人ぐらいの集団に囲まれていた。 イエス処刑後の不穏な時期、集まること自体、相当危険なのに集まってくる。 こんなことができるのは、弟子の中でも核となる弟子に限られるだろう。 ということは、かれらの外側にさらに多くの支持者がいた? わずか三年ぐらいの活動でねえ。信じられない。
イエスは多くの弟子や支持者に囲まれていた。 支持者からの献金があり、貧しい者を援助することも可能だった。 現在のような、ホームレス風情だったわけではない。 野宿は節約あるいは用心のため。 それにイエスの一行は、剣を下げた武装集団であった?
聖霊・・・新約には重要な聖霊がもうひとつ登場する。 ☆ マタイ伝 1.18−20 ・・・母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、 聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。・・・
これが事実であるとすれば次のようになる。 聖霊はイエスと無関係に昔から存在する。 であればヨハネ伝の、復活したら聖霊を与えるという記述は誤りである。 約束の聖霊である、ペンテコステの聖霊降臨も作り話である。
聖霊がイエスと無関係なら、 キリスト教を信じても聖霊を与えられるわけではなく、 その真実性を保証するものが何もない。 むなしく「信じなさい」と繰り返している。 神を聖霊によって知るから、イエスの言っていることを真実だと思うのに、 キリスト教にはその聖霊を体験させる力がない。 神学者は、聖霊体験がないだけでなく、新約の中に含まれている矛盾から、 まともな「聖霊論」ができないでいるのかもしれない。 だれのアイデアなのか、聖霊によって身ごもるには弱りましたね。
三位一体が絡むと、もっとややこしくなる。 神とイエスと聖霊は一体であるから、マリアはだれの子を身ごもったのか。 何とも馬鹿げた話をでっちあげたものである。 それもこれも、イエスを神だと信じさせたいがためなのだろう。 もうそろそろ、イエスが我々と同じ人間であったことを認めた方がいい。 そうすれば、無益な、馬鹿げたことを論じ合う必要もなくなる。
331 :
神も仏も名無しさん :2010/06/19(土) 17:07:07 ID:kP4p2wYH
新約の中では、パウロが神秘体験をしている。 これが聖霊体験かどうかといえば、判定は否であろう。 聖霊は神である。言葉は発声器官を必要とするから神ではない。 使徒言行録 9.1−18 ルカの脚色だろうが、目からうろこが落ちるような体験をする。 二コリント 12.1−5 第三の天、楽園にまで引き上げられ、言い表しえない言葉を耳にした。
332 :
神も仏も名無しさん :2010/06/20(日) 22:41:42 ID:Aiq31zpM
イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル、黙示録、そしてパウロ。 かれらは、いったい何を、いかなるメカニズムで体験したのか。 まだ不明な部分があって考慮中。これも難問ですね。
エルサレム教会が120人収容の大広間を持っていた? ひとり一畳のスペースであれば120畳 1階の部屋数で計算すれば10畳の部屋が12 → ありえなくはない! むしろ土地の有効活用にも気がつく。 1階を居住空間に、2階を大広間にし、教会として利用する。 パーティーにも使える。 マルコの家はかなりな有力者だったのだろう。
334 :
神も仏も名無しさん :2010/06/21(月) 22:04:44 ID:HSVqqGly
資料は乏しいけれど、想像しやすいのはパウロだろうか。 霊界の言葉はダニエルも聞いている。ダニエル書でも明らかなように、 言葉を発するのは、神ではなく、それが霊界の存在だからである。 パウロが体験したのはダニエルと似たようなものだろう。 パウロの体験はこれだけ? であればパウロは聖霊を体験していない。 第三の天は、あの世(天国・地獄)と、この世という直列の数え方だろうか。 天国の天、地獄の天、この世の天である。
それにパウロは、異言と預言を明確に区別できないでいる。
ダニエルは微妙。 外典も含め、全体としてダニエルは聖霊体験をしているような印象を受ける。 しかし残されたダニエル記は、三途の川での高級霊との出会いと、 未来を預言する高級霊の言葉である。
モーセ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどなど、 かれらが高級霊と出会えたのは、民族の破滅という時代に出会えたからかも。 幕末に、西郷隆盛、勝海舟、坂本竜馬などが現れたようなものか。
アダムスキーはマユツバ
イザヤ、エレミヤ、エゼキエルは、聖霊体験をしているような印象を受ける。 不思議な<霊>体験をするのは、破滅的な時代を生きているから。 こういった時代には、かれらのような体験もあるのかもしれないと感じる。
こんなアバウトな話で何が言いたいかといえば、 聖霊体験がなくても、<霊>体験がありうるということか。 <霊>体験とは<幻を見る>ことである。 それは夢と似ている。 まず、日常的な、普通の夢と区別されなければならない。 しかし、荒唐無稽で解読不能であれば<霊>体験、というわけでもない。 だれかが解読し、それは<霊>体験ではないと言うかもしれない。 それが<霊>体験なのかどうか、判別は難しい。
夢といえば、ヤコブの息子・ヨセフ、ダニエル記のダニエルが有名である。 かれらは夢の解き明かしを行った。 わたしたちはこれによって、ユダヤ人も予知夢を重視していたことを知る。 逆に、日常的な、普通の夢はどんな特徴を持っているのか。 その答えは、昼間に思ったことが夜の夢になる。 ほんのちょっとした心の動きをテーマに、過去の記憶のカケラが動員され、 荒唐無稽なリアリティーのある映像を作り上げる。 夢を性的なものと解釈するフロイトの考えはどうだろう? 部分的にはあたっていると思う。 しかし、あらゆる夢をすべて性的に解釈するとしたら誤りだろう。 その辺を知れば、別にフロイトを捨てることはない。
昼間に思ったことが夜の夢になる。 これが夢の秘密であり、よい夢を見たければよい思いをもって生活し、 悪い夢を見たければ悪い思いをもって生活すればいい。 イスラエルの預言者たちは、なぜイスラエルの将来を幻に見たのか。 かれらは、破滅したイスラエルの再興を心から願い、 狂ったように、いつもいつも、そればかり願っていたからだろう。 やがて心底思ったことが幻になって現れる。 モノが豊かで平和ボケした人たちは、 通常、こういった切実な思いをもたないから、ふやけた夢しか見ない。 夢にせよ、<霊>体験には届かない。
悪い夢は悪い思いの結果である。 よい思いで生活すれば、よい夢を見るようになる。 ☆ 7章14節 あなたは夢をもってわたしをおののかせ 幻をもって脅かされる。 ☆ 33章14−15節 神は一つのことによって語られ、 また二つのことによって語られるが、人はそれに気がつかない。 人が眠りに包まれ、横たわって眠ると、 夢の中で、夜の幻の中で 神は人の耳を開き、懲らしめの言葉を封じ込められる。
イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエルなど、 幻の中で主や御使いと会話している。こんなことは可能なのだろうか。 これも難問の部類ですかね。表現が難しい。 そこには、量の変化 → 質の変化 という微妙なものがある。 <霊>体験が深まれば、見ただけで相手の心が伝わり、言葉は不要である。 しかし浅いレベルなら言葉がいるだろう。 夢の中で、相手と筋の通った会話をし、意思疎通をする。 あなたはこんな夢を見たことがあるだろうか。こんな夢もあるのですね。 変わった夢だから、わりとはっきり覚えている。 でもやはり、言葉は意識と関係し、浅いレベルの眠りだったと思う。
イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル、黙示録など、 主や御使いとの会話が出てくるからには、やはり、 かれらの<霊>体験が浅かったことを意味するのだろうか。 もちろん、そうではないだろう。 聖書としては、いくつかの要素を総合して成立するからである。 @ かれらの<霊>体験がベースになる。 A かれらの知識や経験や意図などがそれを補強する。 B モーセ五書など、過去の書物に依拠し、それを尊重する。 C ネットワークの共通理解を尊重する。 D その上に、周囲から支持されそうな考えをそっと盛り込む。 E しかし後世に残るかどうか、その取捨選択は他人(祭司階級)が行う。 F そうやってやっと伝えられたのが聖書である、などなど。
346 :
神も仏も名無しさん :2010/06/22(火) 21:56:47 ID:8kcrlsst
イザヤは預言者の子供、エレミヤ、エゼキエルは祭司の子供、 幼い頃から、神を信じることや、神に関する知識を教え込まれたのだろう。 かれらこそ、イスラエルであり、モーセであり、アブラハムである。 かれらは国家や国民の行く末を案じている。そして神がかれらを支えている。 こんな指導者が何千人、何万人もいたらきっと幸せになるね。 国民の幸福の総計が、国家の豊かさであると胸を張る。
うーん、死者の霊を語るのは、神以上に難しいですね。 なぜなら、生者と死者が交流し、おたがいに影響しあったら、 神などいらないように思うのですね。 そこには自由意志もないし、カルヴァンの予定説もない。 あの世とこの世がゴチャゴチャ入り混じっているような話にならないか。 エドガーケーシー、シルバーバーチなどは、 はたして聖書以上のメッセージを伝えているだろうか。 あの世があるかどうかを伝えている? その前に悔い改めではないか。
死んだ親が夢に出て、こうしてくれと言われたら、 それに逆らえる子供はまれでしょう? たかが夢なのに、人は自分の自由意志をまったく失ってしまう。 その親が、親を見せかける低級霊の仕業なら、 その低級霊に惑わされて行動すれば、 神の予定も、低級霊に簡単に左右されることにならないだろうか。
死者との交流が可能であると説く人たちは、 おおよそ同時に、カルマの法則(善因善果・悪因悪果)を説いている。 しかしこの二つは矛盾しているのではないだろうか。 そして結局、神を否定していないだろうか。 死者と生者は、相互に影響を及ぼし、カルマの法則を左右できる。 → わたしたちは神の支配下にいない。 他方で、この世もあの世もカルマの法則に支配されているから、 万事が機械的に進行しなければならない。 → 神がいなくても世界の秩序は保たれている。
♪♪♪♪♪♪♪ 霊の世界になってから、話が散漫になったような気がする。 もう一度、気を引き締めて再アタックしよう。 ♪♪♪♪♪♪♪
351 :
神も仏も名無しさん :2010/06/24(木) 19:42:35 ID:v90HASYr
もともと、霊の世界の話は、曖昧模糊とした霧に包まれている。 @ 検証できる事例がきわめて少ない。 A 体験者が、体験のプロセスをほとんど明かさない。隠してしまう。 B そのため、体験者の真実であっても、客観的な真実性を持っていない。 C こういった事情を利用し、霊体験をかたる不届き者も現れる。
聖霊体験と、霊の世界と接触することはまったく別の話である。 聖霊体験は「神の霊」を体験することであり、 霊の世界と接触することは「あの世」との交流を体験することである。 聖霊体験がなくても、「あの世」との交流を体験することができる。 それは臨死体験者が報告し証明している。 しかしそれを体験するためには、臨死状態になるぐらいの、 極限状況になる必要があることを確認しておこう。 本を読んだり、研修に出席したり、音楽を聞いたり、 そんなことで「あの世」が体験できるなどと思わないでほしい。 ペテン師が金儲けをもくろんでいるだけである。
イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどにしても、 どのあたりが真実であり、どのあたりが脚色なのか判然としない。 スエデンボルグ以降の霊能者も、スエデンボルグを含め、 ブラバッキー、エドガーケーシー、シルバーバーチ、日本の追随者などなど、 あれもこれも、どれもこれも真実ではないかもしれない。
有名になりたい、金を儲けたい、というペテン師もいるだろう。 こういった人たちはあの世で神罰を受ける。 感じたこと、思ったことが、霊界との接触のように思える人もいるだろう。 このタイプはわりと多いのではないだろうか。 そんな気がする → そうに違いない、という変換をしてしまう。
☆ レビ記 19.31 霊媒を訪れたり、口寄せを尋ねたりして、汚れを受けてはならない。 わたしはあなたたちの神、主である。 ☆ 申命記 18.10 あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、 呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などが いてはならない。 ******* 旧約は、紀元前の大昔から、死者との交流を禁止している!
これで旧約に、霊界の話や、死者との交流などが書かれてない理由がわかった。 当時、そういったことを信じる人がいたのだろう。 しかし旧約は、そういった行為を、<人を汚す>ものとして認識した。 なぜ<人を汚す>のか。 十戒の第一違反、神以外のものに心を奪われるからだろうか。
☆ イザヤ書 19.3 エジプト人の思いは、胸の中に乱れる。わたしが、その謀を乱すので 彼らは、偶像と死者の霊、口寄せと霊媒に指示を求める。 ******* そうすると、スエデンボルグは何をやっていたのか、という話になる。 ブラバッキー、シルバーバーチなどは降霊会をやっていた。
死者との交流がありえないとは思わない。 しかし本当にしても、死者との交流にはいかがわしいものがある。 かれらの心は、神を忘れ、本来ならケガレである死者の霊に向かっている。 それは神の否定であり、偶像崇拝になるのではないだろうか。
人は聖霊体験によって神を知る。 しかし、臨死体験などで、神を知る前に霊界の存在に気づくなら、 その人の心はたぶん、霊界に釘付けになるだろう。 なぜなら、霊界の体験は強烈で、その人の人生観を一変させるほどなのに、 神のイメージが何もないからである。 臨死体験がなくても、近親者との別れで霊界を感じる人たちもいる。 かれらは、別れを悲しみ、霊媒や口寄せに頼るかもしれない。 それが神の否定になることも知らず。
霊界、転生、前世記憶など、 あの世の話をする自称・霊能者には警戒したほうがいい。 だいたいがペテン師である。 有名になりたいのか、信じやすい人を騙して金儲けがしたいのか、 そんな気がするだけの妄想であるか、あるいはそれらの組み合わせである。 かりに本当でも、死者の霊と交流するだけ。何もいいことはない。 自己愛にまみれ、エゴの中に死んでいった人々である。 霊界でも同じ、自分のために生きている。 穢れるだけでなく、憑霊され、体をのっとられるかもしれない。
近親者との別れを悲しみ、思い出すことはかまわない。 そのぐらいにしておくべきでしょう。
362 :
神も仏も名無しさん :2010/06/25(金) 21:30:33 ID:q5bWTNeh
霊体験の中身、そのメカニズムなどは、 聖書を探してもわからないし、いわゆる霊能者を調べてもわからない。 かりに真実が書かれていても、自分で体験しないことには真実にならない。 そこで仏教の座禅に学びましょう。 仏教の座禅は、「典外の法」を知るための「手段」です。 それは目的ではなく、瞑想や観想でもありません。 昔から、霊体験をするための方法として開発されてきたものです。
といっても、まったくの自己流ですので悪しからず。 サマタは心を静めるもの、ヴィバッーサナは心を観察するもの、 こんな区別も知らないでスタートしたド素人です。 それでもよかったら参考にしてください。 いま思うと、ヴィパッーサナを知らず、サマタだけやっていた。 呼吸を、イチ、ニー、サン、・・・・ジュウ、と数える数息観である。 ジュウまでいったら、またイチに戻って繰り返す。 なんで座禅=数息観=サマタ瞑想になるのかはよくわからない。 霊に導かれてとしか言いようがない。
聖霊体験がないなら、自分を観察するヴィバッーサナ瞑想だろうか。 静かに自分を観察し、反省する時間をもつ。 これが重要なのであり、聖霊を体験するために欠かせない。 しかし道場に行く必要などまったくない。 ヴィバッーサナ瞑想にこれといった形はない。 毎日の、自分のやっていることを思い出して反省すればたくさん。 こんなことに金を使ってはいけない。
365 :
神も仏も名無しさん :2010/06/26(土) 18:40:55 ID:X79rnq66
ペテン師が、サマタ瞑想とか、ヴィバッーサナ瞑想とか、 思わせぶりな言葉を使い、金儲けを企んでいるような気もする。 どうして座禅ではダメなのか? 空海も夢窓も座禅であり、ヴィバッーサナ瞑想ではない。
数息観とかサマタ瞑想とか、 観や想の字がくっついているところで誤解するじゃないか。 そうじゃなくて、座禅は無念無想になることから始まる。 始まるということは、その先があるということ。 数息観は数息法に変えるべきだろう。
聖書的な空 → 聖霊体験 → 霊魂体験 → レビヤタン体験 この中でどれが難しいかと言えば、聖霊体験。 しかし聖霊体験ができれば、個人差もあるが、後は一年ぐらいで終わる。 聖霊体験が最大の難関。 急がば回れ。フロイトと<弁証法>をすすめたい。 必要なのは洞察力です。
仏教の「空」は、残念だけど永遠に体験できない。 なぜなら、「空」には実体がなく、実体がなければ体験できないのであり、 そんなものを体験したら逆に異常なのです。 仏教の修行者は、修行以前に、こういったことを考えてほしい。
座禅作法については、古くから『天台小止観』という本があります。 しかし今は、ネットで検索すればだいたいわかるでしょう。 さて座禅をすると何を体験するのか。 たとえば一時間座ったとして、ただボーッと一時間座っているのではなく、 心の状態が変化しいます。大きく四つのプロセスに分けられます。
座禅の四つのプロセス @ 雑念が湧いてくる 数息に意識を集中しようとする。しかし、どうでもいい雑念が 次から次へと湧いてきて、なかなか集中できない。 A 感覚が鋭敏になる 雑念が消え、小さな物音にも心が敏感に反応する。 顔や手に、虫にさされたような痒みを感じることもある。 B 無念無想に至る そこを過ぎると、自分にも周囲にも左右されない、落ち着いた心境になる。 息をしていないくらい息が細く、もはや息を数えていない。 C 稀に魔境を体験する
>>369 変化しいます → ○ 変化しています
三番目の<無念無想> ここまで行けたら成功ですね。
通常、これで座禅が終了します。平均して約一時間です。
ストレスの解消になり、気持ちよく座禅を終了することができる。
問題は次の<魔境>です。
魔境が何かは人によって考え方が異なると思う。 だからここで書くことが絶対なのではない。 それを前提に、魔境の特徴をランダムに並べてみよう。 @ それは夢に似ている。 A 現実感のある、現実的なカラー映像である。 B その映像の中に自分がいる。それは100%自分である。 C しかし反省がない。自分がどこのだれかといった意識が欠落している。 D 周囲の風景は、見たこともないし、経験したこともない。 E それなのに違和感がない。 F 何かを感じ、何かを思い、判断することができる。 G 座禅終了後、その内容を鮮明に覚えている。
まず夢と魔境を区別しよう。 夢・・・昼間思ったことが夜の夢になる。よい思いがよい夢になり、 悪い思いが悪い夢になる。夢は<思い>の結果である。 これが夢の中で夢に翻弄される理由である。翻弄される原因は、 夢の中にあるのではなく、昼間の<思い>にある。 夢は結果であり、すでに決定されており、手の施しようがないのだ。 よほど変わった夢でなければ、夢は目覚めるとじきに忘れてしまう。 闇から闇に消えてしまった夢も数限りなくあるのだろう。 夢に鮮やかな色がついている? そんな夢はあまり見ないだろう。
夢と魔境を区別しよう 夢の中に登場する自分は、夢に翻弄されて受動的である。 横暴な夢に押し流されているだけである。 それが嫌ならうなされるか、その恐ろしさに目覚めてしまう。 悪い思いに対する神罰のようなものである。 これに対して魔境は、昼間の結果として見るのではなく、 そこで何を思い、どう判断するのかを問いかけているのではないだろうか。 現実のような空間があり、そこで自由に思い判断し行動する。 実際に体験したのと同じような意味を持っている。
夢と魔境を区別しよう 夢には昼と夜という時間的なワンクッションがある。 しかし魔境にはない。そこで思ったことが即座にストレートに展開する。 選択を誤れば、悪夢を現実のように体験することになる。 これが魔境として恐れられる理由なのだろう。 人の思いが魔境の中身を左右する。思いの善し悪しがここでも問われている。 考えてる時間はない。ほとんど瞬間的な判断であり、 そうであるからこそ、その人の隠しようのない心情が明らかにされる。
夢と魔境を区別しよう 魔境では、この世の知識や教養が消去され、 そんなものがあったことさえ、まったく思い出さない。 問われるのは、その人の心情だけである。 ここまでくれば、なぜ 聖霊体験→霊魂体験 なのかがわかるだろう。 聖霊体験がないと、魔境を突破できないからである。 人の思いが問われるのだから、その思いを純化させておく必要がある。 聖霊体験をしてから → 座禅をするという順番になる。 どうしても座りたいなら、自分を見つめる瞑想・観想にすべきである。
377 :
神も仏も名無しさん :2010/06/27(日) 23:17:17 ID:bgA8LW6w
夢と魔境の区別ができたら、座禅の魔境だけでなく、 夢の中に紛れ込んでいる魔境を拾い出せるかもしれない。 聖書ではヨセフやダニエルが夢の解き明かしをしている。 しかしかれらは、普通の夢ではなく、魔境の解き明かしをやっている。
話を戻すと、座禅のプロセスのうち、三番目の無念無想が、 仏教でいう「空」の境地に近いのではないか。 しかし実際に体験すればわかるが、 自分の中に、何らかの主体があることを認めざるをえないのだ。 座禅は理論に反し、人が「空」ではないことを教える。
では、その何らかの主体とは何か。 それが霊魂である。ヒンズー教で言うアートマンである。 その霊魂はどこにいる? 魔境を超えた「神界」にいる。 だからこそ、魔境を突き抜けなければならない。
魔境は、夢でもなくこの世でもなく、「神界」でもない。 ではいったいどういった空間なのだろう? 魔境には川が出てくる。その川の向こう側にはどうしても行けない。 なぜなら、向こう側に行ったら戻ってこれないからである。 川によって、あの世とこの世が分けられている。 魔境は「霊界」にあり、向こう岸にあの世を眺めることができる。
381 :
神も仏も名無しさん :2010/06/29(火) 20:40:53 ID:Lu+tOplj
人の心は、この世のことを知るだけでなく、 霊界を知ることもできるし、神界を知ることもできる。 そんな風にできているのかもしれない。 ただし、霊界があることを知り、神界があることを知れば十分である。 神の許しがなければ、それさえも知ることができない。
♪♪♪♪♪♪♪ 雲をつかむような話なのでやむをえないが、 どうも話が散漫になってしまう。 もう一度、気を引き締めて再アタックしよう。 ♪♪♪♪♪♪♪
いままでの話を補足して要約すれば、 @ 霊体験(死者との交流)は、聖霊体験(神の油)がなくてもありえる。 臨死体験や、座禅から魔境(霊界)に入り込むケースである。 A 聖霊体験があれば、座禅によって魔境に入り、神界に到達できる。 神界に到達することが霊魂体験である。霊魂はアートマンとも言われている。 B 聖霊体験も霊体験も霊魂体験も個人的なものでしかない。 しかし、それらを体験できる方法が明らかになれば、客観性をもつ。 C それらを体験できる方法が霊体験のメカニズムでもある。 聖霊体験はヨブ記によって、霊体験は座禅によって、古くから知られている。
アートマン、霊魂体験をするには神界に入らなければならない。 幸い、霊魂体験ができれば、霊魂こそが自分自身であることを知る。 自分とは何か。自分はどこから来て、どこへ行くのか。 人は神ではない。 しかし、神のふところから出て、神のふところに帰るのである。
聖霊体験によって神を知る。霊魂体験によって自分を知る。 これで完璧に人生の謎が解けた? いや、まだレビヤタン体験が残っている。これは魔境の出来事として生じる。 レビヤタンが霊界の霊的生き物だからである。 レビヤタンは何をしにやって来るのか。 自分の住む想念の世界で、最後の戦いをするためである。 それによって自分の態度を決めるためである。 霊魂体験をしてもレビヤタンに負けると霊魂を奪われる。 勝てば、レビヤタンがその人に仕え始める。
霊魂=アートマンは、キリスト教で言われている「永遠の命」である。 それは、キリスト教で説かれているようなものではなく、 あらゆる人が潜在的に持っているものである。
387 :
神も仏も名無しさん :2010/06/30(水) 21:02:24 ID:SWhrSKor
☆ ヨハネ伝6.53 はっきりいっておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、 あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは、 永遠の命を得、わたしはその人を終りの日に復活させる。 ******* 人は、死ねばすぐに霊界に行く。 イエスと同じように、人は死んですぐに復活する。 そしてさらに、人には最初から霊魂があり、 むしろ逆に、霊魂があるからこそ、生きていられるのである。
人は死ぬと、霊の体になって霊界に行く。 本来なら神のもとへ帰るべきなのに、物質世界に汚されてしまったために、 神のもとへ帰れなくなってしまったのだ。 霊の体は霊魂と異なる。霊の体は普通に人間の形をしており、 男女の別があり、身体的障害などは跡形もなくなる。五体満足である。 かれらは春に合わせたかのような軽装である。 霊の体は肉の体とは違う。肉の体はチリに帰る。 人は、死ねば霊の体になって霊界に行き、そこで暮らすことになるだろう。 キリスト教徒だけが復活するのではなく、 仏教徒もヒンズー教徒もイスラム教徒も無神論者も復活する。
☆ ヨハネ伝 20.27 あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を 伸ばし、わたしのわき腹にいれなさい。 ******* これは復活を疑うトマスに対するイエスの言葉である。 しかしこの話は、霊の体を誤解しており、作り話のような印象を受ける。
390 :
神も仏も名無しさん :2010/07/02(金) 00:20:31 ID:aSt3DdOA
霊界では、歩けない人が歩けるようになり、見えない人が見えるようになる。 この世では不満だった体が修復され、不満のない体になる。 不満がなくなるから体を意識することはない。 釘跡も槍跡も残っていない。八つ裂きにされても元通りである。 霊の体とはそういったものである。
しかし記憶が失われる。この世の知識や経験は思い出さない。 博識な学者も、無学な庶民も、みんな同じ位置からスタートする。 大統領も前線の兵士も同じ扱いを受ける。 男でも女でもない。金持ちでも貧乏人でもない 霊界で問われるのは、その人の<思いの善し悪し>だけである。
死ねば記憶がなくなる。 かりにそうであるなら、「人は何度も転生して霊的な成長をする」 という話はダレかの与太話である。 こんなことを語って金儲けをたくらむ連中もいる。 霊界では記憶を失う。 しかし近親者同士は、会えば近親者であることが即座にわかる。 霊と霊の間にはテレパシーのようなものが働く。
三途の川は、死の川であり、忘却の川である。 この川を超えたら、この世のことを思い出すことはない。 これが本当であれば、死んだ人間にはこの世の記憶がないのであり、 この世を思って、この世にやってくることはありえない。 この世のことを思い出すきっかけがないのだ。 自称霊能者が、死んだ霊を見たり聞いたりする、という話は、 99.99999・・・%、マユツバである。 こちら側には、臨死体験や魔境体験の困難さがある。 霊の側には、この世にやって来る動機がないという困難さがある。 そこにいる自称霊能者を疑ったほうがいいだろう。
前世の記憶がある? そんなものがあるわけがないじゃないか。 死んだ段階で記憶を失うのに、どうして前世の記憶があるのだろうか。 三途の川を渡れば、この世の記憶を思い出すことはない。 この世とあの世は、三途の川によってきっちりと分けられている。 しかし霊魂があれば転生は考えられる。 前世は思い出さないが、転生するという可能性は否定できない。 前世は、あるかもしれないし、ないかもしれない。
前世を語るような自称霊能者は、 まず100%、詐欺師でありペテン師ではないだろうか。 自称霊能者は、曖昧であり、検証できないように話し、一方的であり、 相手の質問を受けつけない。もっと詳しく聞こうとしても何も答えない。 答えられないのである。 かれらの話を具体的に追及すればすぐにウソがばれる。
死者の霊と話せるかのように、相手の前世がわかるかのように、 周囲に見せかける自称霊能者もいる。 そんなことができるなら聞いてみたいことは山ほどある。 未解決の殺人事件がいくらでもあるじゃないか。いったいだれが犯人なのか。 しかし、かれらに聞いてみても何の役にも立たないだろう。 もともとそんな能力はないからである。 有名になりたい、金儲けがしたい、何となくそんな気がしたとか、 ウソをつく動機はいくつか考えられるだろう。 もちろん、それを心から信じ、ウソだとは思っていないケースもある。 こういった人はほとんど病気だろう(^^)
397 :
神も仏も名無しさん :2010/07/02(金) 22:25:40 ID:zbAmwmAb
死者の霊と簡単に会えるはずがない。 あのダニエルでさえ、三途の川でやっと出会うのである。 自称霊能者が好きなように出会えるはずがない。 それでもウソをつくのは、ウソも方便だと思っているからだろうか。 でまかせに死者の思いを語り、前世のことを語るのは<人助け> これがウソツキを支えている正義? そうであるなら、法華経のような、ある種のいかがわしさを感じますね。
♪♪♪♪♪♪♪ 人生は逆説に満ちている。 深淵に落ちながら高みへと昇り、 出生街道を歩みながら奈落へと落ちて行く。 ♪♪♪♪♪♪♪
「ウソも方便」は法華経が出所である。 しかしこれは真理なのか。 なにかしら「いかがわしい」ものを感じないだろうか。 「いかがわしい」の意味 @ ほんとうかどうか疑いがもたれる。信用できない。 A 道徳上や風紀上、よくなくておおっぴらにできない。
法華経は、衆愚を救うためにはウソをついてもいい、と説いている。 目的が善ければ手段を問わない、ということである。 しかしほんとうにそうなのか。 その目的が善いのかどうかはどうやって判断するのだろうか。 その基準が明らかになっていない。 それにいったい、だれが判断するのだろうか。 ウソをつく人に決まっている。かれらは自分の判断でウソをつく。 自分がそれを善だと思うからウソをつく。 こういう考え方を独善的だと思わないのだろうか。
法華経には「空」の思想が流れている。 これと「ウソも方便」が結びつき、さらに退廃的な考え方になる。 目的が「空」であり、実体がないのだから、 相手のためだったウソが、自分のためのウソになってしまう。 あるいは、そういった意味をもともと内臓していた、ともいえる。 きれいごとをはがしてしまえば、目的のためには手段を問わない、 これが法華経の説く「ウソも方便」ではなかろうか。 「方便」の意味 目的のためにとる、その場しのぎの手段や都合のいい方法。 もと、仏教で、ほんとうの教えに導くためにとる、便宜上のたくみな手段。
これとカルマの法則(善因善果・悪因悪果)を比較してみよう。 目的のためには手段を問わない・・・目的(結果)と手段(原因) カルマの法則(善因善果・悪因悪果)・・・原因と結果 こうやって並べてみれば、どちらも時間の流れ、 原因と結果という因果関係をベースにしていることがわかる。 そうするとその意味は、だいたい同じであると理解してもいいだろう。 では、これらの何が問題なのか。 時間の流れに、自分あるいはエゴというフィルターをかけることである。 すべてが自分中心になり、そのためにひたすら知恵を絞る。
仏教の「空」には実体がない。 その「空」を信じることは、自分中心に生きることとイコールになる。 無意識に、本能によって導かれるからである。 相手のために、公平に平等に判断しているつもりでも、実際にはそうならない。 本能によって、無意識に自分の利益を実現してしまうからである。 そのために好都合なスローガン それが「ウソも方便」「カルマの法則」ではなかろうか。 自分、エゴという動かし難いもの、それがここに逃げ込んでしまう。 法華経もカルマの法則も、つまんない教えを説いたものだと思う。 それを有り難いと思っている人もいるが、 自分を超えられない壁、バカの壁になっていると気づいてほしいね。
404 :
神も仏も名無しさん :2010/07/03(土) 19:02:15 ID:zCrDE0tV
自称霊能者は次のように弁解するかもしれない。 悩んでいる相談者がいて、その人の悩みを解決するために、 霊や前世を話している。相談者は、自信を取り戻し、人生に前向きになり、 自分たちはその報酬を受け取る。だれも損をしていないじゃないか。 もっともらしく聞こえるけどウソだなあ。 相談者にとって、その場しのぎであり、麻薬のようなものであり、 何も解決していないから、また悩みの中に放り込まれる。 他方で自称霊能者は喜んで言うだろう。 そうなったら、またわたしの所に来ればいい。いつでもいらっしゃい。 しかし内心、いいカモができたわい、と皮算用している。
ウソも方便だと自分自身に言い訳しながら、 お金のために、周囲をだまし続ける自称霊能者が後を絶たない。 それをマスコミが視聴率だけで放送する。 しかし、それに影響され、わき道にそれて行く人々の不幸は計り知れない。 悩んでいる、苦しんでいる、幸せを感じない。 だからこそ、宗教に救いを求めてやって来るのに、 自称霊能者とその貧困ビジネスに裏切られ、さらなる地獄へと落ちていく。 取り締まる法律はないのだろうか。詐欺罪がある。 しかし、自称霊能者がよっぽどアクドイことをやらない限り適用されない。 それどころか、宗教法人になれば税制上の特典に浴してウハウハ。 日本はなんとみだらな国なのだろう。
ウソも方便、この考えは犯罪哲学ではないのか。 ウソを吐いて相手に財産上の損害を与えたら刑法上の詐欺罪が成立する。 法華経は始まりも始まり、その二章で、「ウソも方便」を説いている。 法華経が古くから読まれ、日本人の心に浸み込んでいるとしたら、 恥ずべき国民性としてえぐり出し、これを断罪しなければならないだろう。 法華経など、ゴミ箱に捨ててしまえ。 まあゴミというか、博物館に過去の遺物として保管すれば十分だろう。
407 :
金有財 ◆M5il315GSQ :2010/07/04(日) 18:19:56 ID:oQDt65b9
ヨブ記って、法華経のなかに出てくるんですか?
408 :
神も仏も名無しさん :2010/07/04(日) 20:58:56 ID:eV0uMwPr
ここは過疎スレなので、思いつくままに書き込み、 ついつい横道に外れ、何を話していたのかを忘れてしまいそうです。 一応、カルマの法則(善因善果・悪因悪果)と、 目的のためには手段を問わないというサタンの主張を並べて比較しています。 霊の話 → 自称霊能者 → ウソも方便 → 法華経という展開ですね。 カルマの法則はヨブ記前半のメインテーマです。 しかし霊界でカルマの法則がいかに働くのか、それがはっきりしない。 結びで、なぜヨブの幸せが二倍になるのか、難問です。
409 :
金有財 ◆M5il315GSQ :2010/07/04(日) 22:03:57 ID:oQDt65b9
ヨブ記なんてくそ。 あんなのありがたがるほうがおかしい。 とにかく、悪魔も神と対等に話ができるってわけだ。 だいたいな、悪魔に付き合ってやってる神なんて最低だぞ。 全知全能の神も地に落ちたわ。
410 :
神も仏も名無しさん :2010/07/04(日) 23:51:01 ID:F09GQarV
よくわからないな。ヨブ記のどこが「くそ」なんだろう。 聖書の中の聖書だと思うが。 福音書には、イエスが悪魔の誘惑を受ける記述がある。 これはいったいどういうことなのだろう? まるで悪魔のほうがイエスより上位者のようではないか。 黙示録20章にも不思議な記述がある。 なぜいったん捕まえた悪魔を、千年が経過した後に<わざわざ>解放し、 聖なるものたちの陣営に戦いを挑ませるのか。
人は「自分のために」ウソをつく。 法華経のように「相手のために」ウソをつく人はいない。 なぜウソをついてはいけないのだろう? @ ウソで相手を左右する → 相手の主体性に対する冒涜である。 A ウソに基づいた判断の誤りは → だまされた相手が負うことになる。 B 相手を思うなら、真実を語り、相手に判断させるべきである。 横道にそれるが、 医者は癌だろうがHIVだろうが患者本人に告知すべきである。 トラブルを避けたい、家族に知らせる、というのは医者のずるさだろう。 患者は病名を知らなければ病気と闘うことができないのだ。
すべてのウソは、自分を守り、相手を攻める武器である。 ウソは戦争や犯罪で利用される。相手をだまし、陥れるためである。 それなのに法華経は、「ウソも方便」と説き、 長い間、悪くないウソがあるかのように思わせてきた。 仏の教えで、悪いことを説かないはずの仏教で説くから始末が悪い。 善男善女は、ありがたい教えだと思い、実践にはげむ。 法華経の罪は大きい。
413 :
神も仏も名無しさん :2010/07/06(火) 00:28:18 ID:o3LKsjUB
日常的なレベルで言えば、ウソをつくのは愛されたいからであり、 相手のことを愛しているからではない。 あるいは、相手から評価されたいからであり、 相手を評価しているからではない。 こんなことを書いてると、思い当たるふしがいくつもあるにゃあ(- -; いつも肝に銘じていないとだめだにゃあ
414 :
神も仏も名無しさん :2010/07/06(火) 19:39:36 ID:ZtM1ZMpE
はっきり言って、法華経は相当に気持ちが悪い。 洗脳の道具、あるいは洗脳を意識して書かれたものだろうと思う。 同じ話を繰り返し、読んでいると眠くなる。 その内容は、ほとんど無内容であり、有り難い教えだと自画自賛するばかり。 そして、どの宗教も経典に盛り込む、この経典を認めるものは祝福され、 認めないものは呪われるという、呪文のような言葉である。 その書き出しは最低だ。釈迦の臨終の、その日の出来事である。 その後に「ウソも方便」という犯罪的な教えが続く。
ユダヤ教、キリスト教には十戒があり、 そこで「隣人に関して偽証してはならない」とある。 仏教にはそういった戒めがないのか。 法華経のように、「ウソも方便」でウソをススメているのか。 不妄語戒を釈迦自らが犯すのか。 法華経を認めることは、仏教を否定することにならないのか。
結局のところ、法華経が説いているのは「空」の思想です。 法華経は「空」の思想? → そうなのですね。 これで法華経の、広大で無限で奇妙奇天烈な話が、すべて想像であり、 妄想に過ぎないことをわかってほしいものです。 何を話そうが「空」であるという、斜に構えた作者が目に浮かぶ。 その場その場で適当なことを言えばいいんですよ。 もっと利口にならなくちゃ。・・・こんな言葉が聞こえてくる。
☆ 1章9節 サタンは答えた。ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。 ******* 利益が目的であり、その手段が神になっている。 つまり、目的のためには手段を問わないと、値踏みされている。 サタンは人間をそういうものとして値踏みしている。 法華経が「ウソも方便」を説いたら、それはサタンの思うツボ。 サタンのささやきのようなものである。
418 :
金有財 ◆M5il315GSQ :2010/07/06(火) 22:14:19 ID:aJ7wmUjE
「法華経」は、何も説いていません。 「法華経」は、「法華経」という「未知の教え」の宣伝をしているだけです。
419 :
神も仏も名無しさん :2010/07/08(木) 22:52:08 ID:lSRV1xfj
法華経は、法華経の中で法華経をひたすら宣伝している。 その手法は、法華経を祝福するものは祝福され、呪うものは呪われるという、 お決まりのやり方である。しかも、それがかなり細かく描写され、 そのうえ繰り返し説かれ、けっこう気持ち悪いものがある。 読む者を洗脳しようという意図が露骨すぎる。
百歩譲って、その時代を考慮すれば、 空の思想だとか、菩薩行だとか、六波羅蜜だとか、 新しい思想を盛り込んでおり、それなりに評価できるかもしれない。 しかし、神通力や前世の記憶だとか、神や梵天や帝釈天だとか、 事実として確認できないものものをやたらと書き込んでいる。 現代人がそんなものを信じるわけがない。いたら時代錯誤である。
まあ小説のようなものだけど、 法華経の最大の弱点は「ウソも方便」という考え方にあるのではないか。 これは犯罪哲学であり、これが法華経のバックボーンになっている。 目的のためなら手段は問わない、これが「ウソも方便」である。 では法華経の目的は何か。 → 法華経である。 法華経が神格化され、法華経を如来のごとく崇拝しろと説いている。 文字でしかない法華経を「南無妙法蓮華経」と有り難がる。
経典を金科玉条にして有り難がる傾向はどこにでもあるね。 イスラム教のクルアーンもそうだし、 聖書のみを説くプロテスタントにとっての聖書もそうだし、 教祖に盲従している新興宗教の信者もそうだろう。 そうしないと組織の結束が保てないという事情もあるのだろうが、 それによって信仰が歪むとしたら本末転倒である。 今の時代なら、組織に入らないほうが神に近く、「さとり」に近い。
法華経を崇拝して恥じないのは、 法華経が空を説いているからであり、その行為自体が空を暗示しており、 それが本質的な意味を持っているからである。 法華経は → 空を説く。 法華経の崇拝は → 無意味な行為であり → 空を無意識に感じさせる。 → それは空を崇拝していることとイコールである。背筋が寒いぞ〜
sage
♪♪♪♪♪♪♪ 話がよく見えなくなったかもしれない。少し整理しようか。 ♪♪♪♪♪♪♪
時間の流れを自分の善悪でコントロールする @ 因果関係 ・・・ 原因 → 結果 因果関係は、原因があるから結果があるという、時間の流れに過ぎない。 この段階では、それはまだ無色透明である。 A カルマの法則 ・・・ 善因→善果・悪因→悪果 因果関係は「こうすればこうなる」ということだから、 これによって将来を予測し、将来を左右することが可能になる。 因果関係を自分の善悪で色分けする → これがカルマの法則である。 善悪とは、自分の物質的な利益が善、その損失が悪である。 この段階ではまだ、善因のなかに道徳的な内容が含まれている。
時間の流れを自分の善悪でコントロールする B 目的(結果)と手段(原因) 自分の利益に関し、より意識的になれば、 時間の流れをひっくり返し、目的と手段の関係に読み替えてしまう。 この方が結果に対し、カルマの法則よりも効率的である。 手段(原因)には、カルマの法則にあった善因という道徳性が消えている。 しかし中立的であり、他人への悪意・攻撃性は表面化していない。 C 法華経の「ウソも方便」 目的のためには手段を問わない、というケースである。 目的を理由に、場合によっては他人への悪意・攻撃性を認める。 たとえば法華経を非難するものに対する「呪い」
法華経の場合は、法華経自体が如来に匹敵するような存在であり、 法華経が絶対視され、法華経自体が目的になっている。 法華経は絶対であり、 絶対だからこそ、法華経を広めるために手段を問わないのであり、 ウソも方便として肯定する。 しかし、ウソを肯定したら誤りであり、法華経の信頼性はゼロである。 空中に塔が浮かんだり、地面から無数の菩薩が湧いたり、 釈迦は永遠の昔からいたのだなどと、どれもこれもウソになる。
ウソつきは泥棒のはじまり、というから、 ウソも方便を説く法華経は、民衆に悪影響を与えてきたと言える。 これが法華経の本質ではないかと疑っている。 何かしら穢れたものを持っている。 宗教の役割は民衆を善導することにある。 それなのに法華経は、民衆にウソをすすめていたことになる。
430 :
神も仏も名無しさん :2010/07/10(土) 00:47:19 ID:sCKSe+I/
法華経が偽経であることはよく知られている。 無内容であり、同じ話が繰り返され、時代遅れであり、 ウソウソウソのオンパレードであり、 一乗思想や久遠実成の本仏などはもはや骨董品でしかない。
431 :
神も仏も名無しさん :2010/07/10(土) 00:52:28 ID:QjwoKpfJ
そんなの他の仏典だってほかの宗教の聖典だって似たようなものじゃん
ヨブ記のスレッドじゃないんですか?
>>431 法華経が日本社会に与えた影響は計り知れない。
その意味で、ほかの経典とは異なり、別格の経典ではないだろうか。
そのうえ、そんなにも重要な経典が「ウソも方便」を説く。
法華経のように「ウソも方便」を積極的に説くような経典はない。
ウソは悪いことだという認識があるからである。
>>432 →
>>408 ヨブは、カルマの法則を主張する友人と議論し、ついに神と出会う。
そのとき、ヨブが知ることになった法則とは何か。
それをヨブの法則と名づければ、この法則はカルマの法則とは異なるし、
法華経の「ウソも方便」とはちょうど正反対になっている。
こんなことから法華経にこだわっている。
因果応報と輪廻転生が関係したカルマは若干違う気もするが…
因果応報は通常、この世の話としてなされる。 それに対してカルマの法則は、輪廻転生する前世・来世も持ち出し、 この世の幸不幸を説明しようとする。 その意味では、区別して話を進めるほうが正確かもしれない。 しかし、それらの考えは、この物質世界の時間の流れに沿っており、 原因・結果をベースにしているという共通性を持っている。 話を煩わしくしないために、ふたつをまとめてカルマの法則にした。 目的と手段は、時間を逆転させ、 目的(結果) → 手段(原因)という順序で考え、行動する。 法華経の「ウソも方便」はこれの展開である。 これらは、法華経の問題点を明らかにするために区別した。
原因と結果にしろ、目的と手段にしろ、 因果応報にしろ、カルマの法則にしろ、「ウソも方便」にしろ これらの考えは、この世の法則、ものごとの成り行きをベースにしている。 言い換えれば、人間の心は、物質世界に密着しており、 物質世界の法則に縛られ、物質世界そのもののようになっている。 だからかりに、<霊界>があったとしても、死者の霊は 物質世界の法則に縛られ、因果応報やカルマの法則に縛られ続けるだろう。 死者の霊は、あの世でもこの世と同じように反応をせざるをえない。
ヨブの場合と何が違うかと言えば、 友人の善因善果・悪因悪果は<自分>の善悪で色分けしているのであり、 これはカルマの法則も同じである。 目的と手段は、<自分>の利益で目的を選択する。 法華経の「ウソも方便」も同じである。 目的のゆえに、手段の道徳性が不問にされ、それを意識しなくなる。 それを問う心の働きが弱まり、眠らされ、意識から隠される。
ヨブの場合は<自分>が消えている。 原因である善因の善は、自分の善ではなく、善そのものを意味する。 将来ではなく、今この瞬間の善がすべてである。 結果である善果の善は、自分の善ではなく、<神>の善を意味する。 ヨブは結果を求めていない。それは<神風>である。 ☆ 38章1節 主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。
440 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2010/07/11(日) 13:07:22 ID:WAi7lupc
普通の人が<神風>を呼び起こすことは不可能である、 自分が邪魔をしているから。 そのために身を清め、過酷な修行をし、呪文を唱えたりするわけだが、 どれもこれもこれといった効果はないだろう。 生きようとする限り、そこには消そうとして消えない自分がいる。
441 :
神も仏も名無しさん :2010/07/12(月) 22:00:27 ID:BmGR2+2O
ヨブ記の結びでは、ヨブは神によって<二倍>の幸福を得る。 この<二倍>の意味を次のように整理できないだろうか。 たとえば神風に値段があり、それが1億円だとしよう。 そのとき、お金を払ったわけでもないのに、たまたま神風が吹いたとしよう。 そうするとこの人は一億円を丸儲けしたことになる。 しかしよく考えれば、一億円を得るには一億円が必要なのに、 ただで一億円を得たということは二億円を得たことにならないだろうか。 なぜなら、1億円(自分の得)+1億円(相手の損)=2億円(総利益) 相手との距離を総利益だとすれば、こういった算式もありえるからである。 <二倍>の意味は双方の距離を見ているのではないだろうか。
その後、もう一度考え直し、 あの世とこの世を合わせて計算する考え方に気がついた。 これがたぶん、作者の考えではないだろうか。 ヨブは再び子供10人を得るが、これは以前の二倍になっていない。 しかし、あの世で生きる子供10人を合わせれば20人になる。 財産に関しても、これと同じように計算してみよう。 まず、サタンの攻撃が終わり、以前の財産状態に戻るのは当然である。 問題は、失った財産の霊は存在しないから、それをどう復元するかである。 この世にプラスすれば(この世+あの世)で二倍になる。
二倍というのは、実際に想像してみれば納得できる数字である。 たとえば、だれかに100万円盗まれたとしよう。 その後、犯人が捕まり、盗まれた100万円が返ってきたとしよう。 盗まれた側はこれで十分に納得できるだろうか。 それだけでは十分じゃない、という気持ちが残るように思う。 では、謝罪の気持ちをこめ、300万円を返してきたらどうだろう。 今度はもらい過ぎのような気がするだろう。 やはり、100万円の原状回復と、盗まれた財産の<霊>として100万円、 合わせて200万円が妥当な金額のように思われる。
☆ 42章10節 ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、 更に財産を<二倍>にされた。 ******* 以上、二倍の意味は、あの世とこの世の合計ではなかろうか。
445 :
神も仏も名無しさん :2010/07/14(水) 21:59:41 ID:sl4X1gVB
阿含宗桐山教祖の逮捕歴 昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕 警視庁西新井署 十二月手形詐欺容疑で逮捕 千葉県松戸署 二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕 警視庁防犯課 二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決 五月入所 十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪
446 :
神も仏も名無しさん :2010/07/19(月) 21:55:53 ID:zX0weI6C
ヨブ記で遠藤周作の『沈黙』を思い出した。 カトリック信者であった遠藤秀作も<神の沈黙>をテーマにしている。 ****************** 棄教したロドリゴは、フェレイラと同じ道を歩んで、切支丹弾圧の協力者に なってゆく。町の人々は、「転びのポウロ」とあだ名して嘲笑した。 罪の意識のため、鋭い爪の先で胸をかきむしられるような思いにかられる 瞬間もあったが、奇妙に神はロドリゴの心中に生きていた。 ロドリゴを棄教に導いた張本人の井上築後守(いのうえちくごのかみ)が、 「この日本国は、切支丹の教えは向かぬ国だ。切支丹の教えは、 けっして根を下ろさぬ。パードルは、けっして負けたのではない。 この日本と申す泥沼(どろぬま)に敗(やぶ)れたのだ。」と言うのに対して、 彼は「いいえ、私が闘ったのは、自分の心にある切支丹の教えでございました。」 と答えた。かれはこう考える。自分は、教会や聖職者を裏切りはしたか、 神を裏切ってはいない。聖職者たちが教えている神と私の主は別なものだ。 ―― やがて江戸送りとなったロドリゴは、名も岡田三衛門(おかださんえもん)と 改め、日本人の妻をめとって(娶る)、小石川の切支丹屋敷に住んだが、 六十四歳で病を得て、この地に没した。
448 :
神も仏も名無しさん :2010/07/19(月) 23:17:35 ID:zX0weI6C
「この日本という泥沼に敗れたのだ」 日本を泥沼にしたのは、「ウソも方便」を教えた法華経ではないだろうか。 遠藤周作の問題意識はキリスト教VS法華経にまで広がっていく。 ずるがしこく、その場その場で都合のいいことを言い、 要領よくやればいい、そうやって生きることが「悟り」なのだ教えている。 日本人はバカげた教えにたぶらかされている。 キリスト教にも問題がある。しかし日本人の霊性にも問題がある。 仏教の「空」の思想、特に法華経が日本人の霊性を歪め、 まるで泥沼のようにしているという認識なのではないだろうか。
何が法華経だ、日本をただの泥沼にしただけじゃないか。 遠藤周作の「泥沼」という表現の仕方に、 日本を腐敗させている「法華経」という、批判的な思いを感じてしまう。
450 :
神も仏も名無しさん :2010/07/21(水) 00:16:41 ID:OVNyKbrF
空の思想に対しては、二通りの受け止め方が可能である。 この世は空であり、これといった実体がないのだから、周囲との争いを避け、 世間から離れて静かに暮らそう。 → 厭世的な出家主義ですね。 もうひとつは、この世が空なら、限りある人生をできるだけ楽しもう。 そのためには「ウソも方便」、要領よく世間を渡って行こう。 → 法華経の立場で、現世利益を重視し、現実を積極的に肯定する。 宗教であるかのような振りをしているけど、実際にやっていることは、 神を信じない人々と同じ、単なる現実主義にすぎないように思う。 もともと空の思想は、キリスト教的な唯一神を認めない。 法華経の神々は、ヒンズーから借用した、想像上のキャラクターでしかない。
人間は弱いもので、ひとりで生きていくことは非常に難しい。 そんなとき、心に頼れるものがあるなら、ずいぶんと力強いだろう。 それが信仰の力だが、たとえば法華経を信じても同様である。 困難に出会う度に、南無妙法蓮華経を唱えれば落ち着き、 萎縮しないで冷静に対処できる。萎縮しなければよい結果が生まれる。 よい結果が生まれれば、信仰への思いはいっそう深まる。 そのうえ法華経は、経典の中に、信仰者を守護する神々を用意している。 第二十六陀羅尼品では、薬王や毘沙門天や増長天や鬼子母神などが現れ、 法華経信者を守護し、その敵と戦うことを釈迦に誓っている。 信者の心をくすぐる、なんとも有り難い設定ではないか。
四天王や鬼子母神などは想像上のキャラクターにすぎない。 しかし、信者にとっては実在する神々なのであり、 そう思い込むことによって、法華経への思い入れをより強化する。 神々が自分と共にいてくれる。そう思わせる。 信者をより深い洗脳に導いていくための巧妙なワナである。
法華経の陀羅尼品に、鬼子母神や羅刹女たちの呪詛がある。 若(も)しわが呪に順(したが)わずして、説法者を悩乱せば、 頭(こうべ)は破(われ)て七分と作(な)ること、阿梨記樹(ありじゅ)の 枝の如くならん。父母(ふも)を殺(しい)する罪の如く・・・ ******* これが知る人ぞ知る、頭が七つに破れるという、恐ろしーい呪いですね。 まるでビルの屋上から突き落とされたかのような死に様。 日蓮の板本尊にも、鬼子母神・羅刹女の名前がしっかり書き込まれている。
日蓮は立正安国論で、法華経を謗るような者は殺してもいい、 むしろ殺すことで地獄に落ちることのない善行をしたことになると、 涅槃経を引用して語っている。
455 :
神も仏も名無しさん :2010/07/22(木) 20:51:15 ID:C/zzdBGx
法華経は最初に「ウソも方便」を説く。 その考え方は、日本人にはごく自然なことに思えるかもしれない。 しかし実際には、犯罪性を内包させており、その到着地点は殺人肯定である。 法華経に敵対する人々を殺すことは善行であるという。 これでは「嘘つきは殺人のはじまり」である。
法華経の書き出しは、インドの霊鷲山に、弟子や菩薩や神々や精霊たちが 10万人以上集まるという設定である。これがだいたいウソである。 洗脳されてなければすぐにわかるウソだ。 ******* 法華経は「ウソも方便」を前提に書かれている。 経典それ自体がウソであり、方便でしかないということである。
見宝塔品では、地面が割れ、多宝塔が地上数千キロメートルまで浮上する。 その中に多宝如来なるものがいる。 釈迦も浮き上がり、この如来と話し、多宝塔に入り、二人で並座する。 ******* いまの時代、洗脳されていなければ、こんなものを信じないだろう。 冷静に読めば、多宝塔は遺骨を安置している遺骨塔であり、多宝如来は白骨。 であれば、釈迦は遺骨と親しく話し、バラバラの骨と並んで座るわけだ。 気持ち悪い話だが・・・信者にとっては有り難い話になるのだろう。
譬喩品には、火宅のたとえがあり、舎利佛がウソの弁解をしている。 命が助かり、最上の車(菩薩乗)をもらったのだからウソにならないと。 ******* しかし法華経を読めばわかるが、菩薩乗とは<法華経の宣教>であり、 教えの内容は<空の思想>でしかない。 <空の思想>が最上でなければ → 法華経も最上ではなく、 火宅から救われたことにならないし、最上の車をもらったことにもならない。 弁解しても「ウソも方便」のウソだけが残る。 舎利佛の弁解、それに同意した釈迦は、ウソを少しも浄化していない。
法華経がどうして<空の思想>なのかといえば、 @ 外見の壮大さ・悠久さ・華麗さに反し、内容が見事に欠けている。 内容がない → 作者の意図であり、<空の思想>を示すためである。 A 法華経の中で、法華経こそは最高の教えだと繰り返し主張している。 えっ、それって何と、考えさせるようになっている。 B その手がかりがないわけではない。縁起とか四諦とかが書かれている。 法華経に悟りの内容を探すとすれば<空の思想>しかないのだ。 C 最澄も、中国の天台宗チギも、<空の思想>にウェイトを置いたと思う。 しかし日蓮は、法華経を丸呑みしたのではないだろうか。
日蓮が法華経をどう受け止めたのか。板本尊を見ればいい。 まず周囲を四天王(毘沙門天など)が守護する。 真ん中に「南無妙法蓮華経」とあり、両脇に多宝如来・釈迦如来があり、 さらに地湧の菩薩(上行・浄行など4菩薩)があり、 その下に諸菩薩、その下に天輪聖王・竜王などがあり、 その下に鬼子母神・十羅刹女があり、 その下に天台大師・竜樹菩薩・伝教大師などがあり、 さらにその下に天照大神・八幡大菩薩の名前がある。 ******* これが日蓮の考えていたことであり、序列である。
461 :
神も仏も名無しさん :2010/07/23(金) 21:34:22 ID:BCKupU2T
燃えてしまえば灰だから、板本尊など何の役にも立たない偶像である。 しかし日蓮が何を考えていたかを知る上では貴重である。 注目すべきは、日蓮は上行菩薩であると意識していたと言われるが、 それよりも下の方に<竜樹>の名前が見られることである。 竜樹は<空の思想>の大成者である。 またもうひとつ、経典もそうだが、インドの神々が板本尊の主役であり、 日本の天照大神、八幡大菩薩が下の方に踏みつけられている。
日蓮の法華経に対するイメージは板本尊に集約されている。 かれの心には、本のタイトルでしかない題目が如来以上にそびえ立ち、 その脇役が、法華経を保証する多宝塔如来と、久遠の本仏である釈迦如来。 かれは、想像上の菩薩や神々や精霊などを見たこともないのに、 実在すると心底信じていたのだろう。 であれば、輪廻転生や前世の記憶や神通力なども信じている。 ついでに日本の神々も信じたのだろう。 もっとも、日本の神々はインドの神々に踏みつけられてランクが低い。 日蓮は本当に日本人だったのか、疑問を感じないではない。
日蓮は千葉の漁師の子供であり、12歳で清澄寺へ入山し、 17歳から鎌倉で四年過ごし、それから京都の比叡山などで修行する。 故郷に戻り、新たな出発をするのは32歳である。61歳亡。 当時のことを思えば、お寺が最新の教育機関であり、 そこを遍歴すること20年、ひたすら仏教を追い続けたわけだ。 その成果が法華経である。 日蓮はなぜ法華経を選んだのか。 かれが歩んだ時代と寺院遍歴の中に答えがあるような気がする。
漁師の子供が当時、寺で学問すること自体が異例だったろう。 上流階級出身の子供たちが周囲にいる。師も兄弟子たちもそうである。 差別や嫌がらせが相当あったのではなかろうか。 そういう場所で、かれはいったい何を感じて育ったのだろうか。 身分差別、職業差別への怒りと、 法華経の、神通力や輪廻転生や前世の記憶や守護神などへのあこがれ、 つまりスーパーマン妄想ではないだろうか。 かれは法華経の中にスーパーマン妄想を見つけだした。 法華経を丸呑みするで、かれの精神的な苦しさが救われることになった。
法華経の内容のない、外見だけのきらびやかさ。まるで成金趣味であり、 それを軽蔑する人もいるが、その悪趣味をあえて好む人もいる。 見かけの豪華さ、これも日蓮の気質にあっていたかも。 たぶん成り上がり者、豊臣秀吉のようなタイプだったかもしれない。 自意識過剰であり、誇大妄想的であり、常にそう状態である。 日蓮は、分裂タイプではなく、そううつタイプだろう。
>>464 訂正
かれは法華経の中にスーパーマン妄想を見つけだした。
法華経を丸呑みするで、かれの精神的な苦しさが救われることになった。
↓
かれは法華経の中にスーパーマン妄想を見つけ出した。
法華経を丸呑みすることで、かれの精神的な苦しさが救われることになった。
佐渡流罪のおり、役人に連れられた日蓮は、鶴岡八幡宮で、 幕府の守護神である八幡大菩薩を叱りつけたらしい。 いかにも日蓮らしい。八幡大菩薩が実在するものと信じて疑わない。 かれは、想像上のキャラクターを、実際に実在するものと思い込んでいる。 時代のせいなのか、気質がそうさせるのか、 幕府の守護神を叱りつけた勇気は買うが、神仏の作り話にどっぷりと漬かり、 見事に洗脳され、狂気のようなものさえ感じさせる。
キリスト教徒いないみたい
要するに、日蓮と法華経の相性がよかったということですね。 日蓮も上行菩薩だと意識していたらしいし。 ← 自意識過剰 さて話をもどすと、「ウソも方便」で始まった法華経は、 陀羅尼品で十羅刹女・鬼子母神がついに人殺しも辞さないと釈迦に誓う。 釈迦もそれに「よろしい、よろしい」と満足している。 ******* ウソも方便で始まり人殺しを誓うことで終わる。 この経典の底にはどす黒いものが横たわっているのではないか。
日蓮の立正安国論には、正法である法華経を謗る者があれば、 これを殺してもかまわないとあり、 また五戒を守るより刀や弓や鉾を持つべきであるとも主張している。 (五戒・・・不殺生戒、不倫盗戒、不妄語戒、不邪淫戒、不飲酒戒) それが正法かどうかは自分たちで勝手に決め、 それを批判するなら殺してもかまわない、という過激な主張である。 そのために刀や弓や鉾を持てとも言っている。 ここまで来れば、もはや宗教集団ではなく、犯罪集団ではないだろうか。
471 :
神も仏も名無しさん :2010/07/25(日) 00:15:44 ID:tuV1wVBS
ウソも方便、要領よく生きる、うまく立ち回る、 目的のためには手段を問わない・・・ こういった考え方の中に、どす黒い犯罪が沈み込んでいる。 もともと<空の思想>は、何をやっても空だから、 手段を問わないのは当たり前、目的が空だから空が二重になっている。 空が二重になって手段を正当化している。 法華経はやはり犯罪のススメであり、犯罪哲学ですね。 もちろん<空の思想>がそういった内容を持っているのだが、 五戒があるうちはかろうじて踏みとどまっている。
日蓮と言えば四箇格言が有名だ。念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊
これは他宗への悪口なんだけど、なぜこんなに攻撃的なのか。
>>464 に関係するけど、
法華経だけではなく、かれの来歴が影を落としているのではないか。
なぜ日蓮は攻撃的だったのかを推測する @ かれは各地の寺で修行した。しかしそこで出会ったものは、 先輩たちのいじめ、差別や嫌がらせであった。 → 既成の宗派に対する敵意や軽蔑が醸成される。 A さらに、各地の寺を巡り、自分の居場所がないことを知る。 漁師出身の坊主には未来がない。出世街道から除外されている。 → 自分で宗派を立てるか、漁師にもどるしかない。 B でも、仏教に20年を費やし、いまさら漁師にはもどれない。 このまま突っ走るしかない。日蓮は辻説法という一から出発する。 → 生か死か。日蓮にはまったく余裕がない。 C こういった背景が日蓮を攻撃的にした。窮鼠ネコを噛む、ですね。 日蓮はかなりの野心家だったかもしれない。
こうやって想像すると日蓮の立場にも同情したくなる。 四箇格言も、他宗への悪口ではなく、方便だったんだよね。 しかし、だからと言って、後世への悪影響を帳消しにするわけにはいかない。 その悪影響はいまだに続いている。 たとえば自称霊能者たちは、守護霊だとか前世の記憶だとか神通力だとか、 怪しげなことを語って善男善女をたぶらかそうとする。 そのタネ本のひとつが「ウソも方便」を説く法華経なのである。 この宗教板でも、法華経に洗脳されたような人を見かける。
475 :
神も仏も名無しさん :2010/07/26(月) 19:26:36 ID:EMvuGB+l
日蓮が生きた時代、漁師がどう扱われていたのか。 井沢元彦氏の『仏教・神道・儒教・集中講座』からの引用です。 ******* 鎌倉時代は、仏教が大衆化すると同時に日本化した時期でもあります。 それまでの仏教では、獣を弓矢で射殺す猟師や、魚を網で捕獲する漁師は 地獄に落ちると言われていました。それは、彼らが仏教では 禁止されている殺生を生業としているからです。 彼らを救う教えは、何もありませんでした。 そこに親鸞や日蓮が登場し、そうした人々も含めすべての人が救われるのだと 説いたので、彼らの教えは大衆に非常に支持されたわけです。
センダラ(不可触賎民)の子、日蓮も幼い頃からずいぶん苦労したのか。 高名な宗教家の多くも幼い頃から辛酸をなめている。 釈迦は生後まもなく実母を失い継母に育てられているし、 ムハンマドも孤児として育つ。 法然や親鸞や道元なども家庭的には不幸だった。 イエスはもっとつらかったかもしれない。イエスは私生児であり、 その母マリアは石打の刑で殺されてもおかしくはなかった。 マリアはヨハネ伝の姦淫の女を思わせる。 みんな、ヨブ記のヨブのような育ち方をしている。 ヨブは成人しているから、知識や経験であれこれと考えることができる。 しかし子供には両方ともない。ただ苦しむばかりである。
イエスは神に祈るのに「父よ」と呼びかける。 この呼びかけ方に養父ヨセフとの関係が想像できないだろうか。 イエスはヨセフに父親を感じなかった。実際の父親がいないから、 神に対して心から「父よ」と呼びかけることができた。 むしろそう呼びかけることで心の安らぎを得ることができた。 神に「父よ」と呼びかけることは、普通なら実際の父親とダブったり、 神は男性なのかと余計な疑いも生じて祈りづらいものである。 むしろ「神さま」のほうがしっくりしないだろうか。
母親マリヤや兄弟ヤコブ・ヨセフ・シモン・ユダとの関係も悪そうである。 少なくても家族との間に精神的な隔たりがあったことは確かだろう。 マタイ伝12.46−50 イエスの母、兄弟 イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したい ことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい、 母上とご兄弟たちが、お話したいと外に立っておられます」と言った。 しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。 わたしの兄弟とはだれか。」 そして、弟子たちの方を指して言われた。 「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの 天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」
☆ ヨハネ伝7.3−5 イエスの兄弟たちの不信仰 イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている 業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに 行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世に はっきり示しなさい。」兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。 ******* イエスの兄弟であるヤコブは、原始キリスト教会のリーダーになっている。 最初はペトロだったが、じきにヤコブが実権を握ってしまう。 不信仰なヤコブが、イエスの弟子たちの上に君臨する。 これがキリスト教なら、イエスは最初から否定されていたような気もする。
☆ ヨハネ伝19.25 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロバの妻マリアと マグダラのマリアが立っていた。 ******* 自分の息子が処刑される有様を眺めている母親? → 信じられない。 その神経はけっこう冷酷だ。そこまで冷酷ではないだろう。 母親はガリラヤにいるほうが自然であり、これは作り話だと思う。
☆ ヨハネ伝19.26−27 イエスは、母とその愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。 あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。 あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に 引き取った。 ******* これも作り話だろう。 マリアはヤコブなど、自分の子供たちと暮らしたはずである。
482 :
神も仏も名無しさん :2010/07/30(金) 00:29:05 ID:8LBTlusT
福音を読む限り、イエスとその家族の関係は不幸なものであり、 それは生まれてすぐに始まったのではないだろうか。 イエスは、養父ヨセフにとっては当然、母マリアにとっても 歓迎されない生まれ方をしたのであり、つらい育ち方をしたように思う。 ユダヤ社会では、私生児の存在は許されない。 マタイ伝やルカ伝にある生誕、幼少時代のエピソードは作り話だろう。
それに自分の母親を「婦人よ」と言うだろうか。 そんな言い方は絶対にありえない。 母マリアとイエスとの関係は他人以上に悪かったとしか言いようがない。 イエスは生まれたときから不幸だった。 養父ヨハネからも嫌われ、実母マリアからも嫌われた。
484 :
神も仏も名無しさん :2010/07/31(土) 20:51:26 ID:78VE/0uD
イエスの家族もイエスの弟子たちも、 イエスが神であったなどと、これっぽっちも思わなかったろう。 イエス自身が自分は「人の子」だと繰り返している。 もうそろそろ、人間を<神>扱いすることはやめたらどうだろうか。 人間は人間であり<神>ではない。 イエスも釈迦もムハンマドも天皇も大川も人間でしかない。 こんな簡単なことに気づかないなんてwww あなたは見事に洗脳されている。
マリヤに対しては、母親ではないと言ってる。 弟子たちのことを母親であり兄弟であると言ってる。 イエスの家族関係は氷のように冷え切っていたことは明らかだ。
>>485 イエスをひとりの人間として見れば不幸な一生としか思えない。
私生児として生まれ、家族からは嫌われ、あげくは罪もないのに処刑される。
そのうえ死んだ後も不幸が続く。
本人の了解がないのに、イエスに人類の罪をなすりつけている。
イエスはゴミ捨て場ではないだろう。
487 :
神も仏も名無しさん :2010/08/02(月) 17:56:14 ID:DnlulyZ7
日蓮は自分のことを次のように言っている。 「石中(いそなか)の賤民が子なり」 「海辺(かいへん)のセンダラが子なり」 「片海(かたうみ)の海女が子なり」 センダラは何だろうかと思っていたが、 インドのカースト、シュードラ(奴隷階級)のことではないだろうか。 シュードラはカーストの最低、不可触賤民である。
ネットで見たら訂正があるので、インドのカースト制度を整理しておこう。 上位の階級から順次並べると @ ブラフミン(バラモン)・・・ 祭司 A クシャトリア ・・・ 王侯、武士 B ヴァイシャ ・・・ 市民(商業や製造業) C シュードラ ・・・ 人々の嫌がる職業にしか就くことができない。 ブラフミンに対しては影にさえ触れることを許されない。「奴隷」とも 翻訳されることがある。先住民族であるが、支配されることになった人々。 さらにその下に、アチュートという不可触賎民(アンタッチャブル)がいる。 現在、約1億人がいる。かれらは自分たちのことをダリットと呼ぶ。 これは「壊された民」という意味である。
センダラがシュードラではないかという推測はたぶん正しいと思う。
しかしシュードラが不可触賎民というのは誤り。
>>487 orz
ちなみに、仏教が滅びた時、仏教徒はシュードラに編入されたという。 他宗からヒンズー教に改宗した者はシュードラになる。 今の時代、日本人は優遇され、ヴァイシャ(市民)扱いになるらしい。
話を戻せば、若い頃の苦労が優秀な宗教家を育てる。 かれらは、どんなに苦労しても「よく生きよう」と思い続けている。 なぜそう思い続けているのか。→ 天命なのかもしれない。 これに対して、苦労が人生を歪めてしまう場合も多い。 この方が普通かもしれない。
もっと話を戻そう。日本がキリスト教にとって「泥沼」なのはなぜか。 もともとこれをテーマに法華経や日蓮を眺めてきた。 その結果、いくらか糸口が見えてきた。 日本を「泥沼」にしているのは仏教だけでなく<神道>も関係している。 そして神道と法華経の共通項は<現世利益>である。
井沢元彦氏は『仏教・神道・儒教・集中講座』の中で、 日本文化を象徴するものとして「折り紙」と「ビーフカレー」を挙げている。 「折り紙」とは、自然に対する霊性を感じてはいるが、 これといった教義らしきものが存在しない<神道>のことである。 「ビーフカレー」とは、外来の儒教や仏教を、日本風に作り変えてしまう 日本人のあり方をいう。インド人は決して思いつかないだろう。 つまり、ベースに「折り紙」としての神道があり、 切ったり貼ったりしないで、外来の宗教を日本風に織り上げてしまう。
伝道する側にすれば、 日本人のこのあり方が「泥沼」のように思えるのではないだろうか。 わかったような顔をし、わかったような受け答えをするが、 どうやら違うものを信じている。真意が伝わっていないのである。 その違いを追求していけば、話し合いは決裂してしまう。 日本人は「折り紙」として存在している。強制すれば破けてしまう。
神道は霊的なものを認めている。 しかし、あの世ではなく、<この世のために>霊的なものを崇拝する。 言い換えれば、この世の幸せや利益のために崇拝する。 霊的なものを認めはするが、それよりも自分の利益のほうが優先している。 それを認めるのは、自分の利益になりそうな範囲内でしかない。 この範囲が「折り紙」の広さになるのだろう。
自分を神より優先させることは罪であり誤っている。 これがヨブ記の中心テーマである。 その視点から見れば、神道は罪と誤りにまみれた信仰ということになる。 神の前では、自分を退け、自分を否定しなければならない。 それなのに神道は、霊的なものの力まで借りて自分を肯定しようとする。 わかりにくいけど、その精神的態度は根本的にまちがっている。 霊的なものとは、本居宣長が次のように定義している。 「何にまれ世の尋常(つね)ならずすぐれたる特(こと)のありてかしこきもの」
神道は自分の利益のために神を崇拝する。 この考え方の誤りは、役に立たないなら見捨ててしまおうという 不埒な思いが背景に控えているからである。 たたりをする神も同じである。 たたるから祭るのであり、たたらない神なら無視し、見捨ててしまう。 表面的には神を崇拝しているように見える。 しかし本質的には神の否定だろう。役に立たないなら見捨ててしまう。 役に立ちそうなら、どこの神でもいくらでも受け入れる。
当然、神道は多神教のように思われている。 しかし、神々を自分の利益のために利用しているわけだから、 自分は八百万の神々を従え、その頂点に自分が君臨していることになり、 その意味において<自分という一神教>になる。 自分中心に生きる人間には周囲が迷惑する。 その人間が、妄想にしろ、神々の力まで借りて自分を主張するとしたら、 周囲の迷惑は並大抵ではない。 その典型が戦前の国家神道ではないだろうか。 神道と異質なのではなく、神道の本質が露骨に現れたものではなかろうか。
この現実を肯定し、現世利益を重視する神道は、同時に 自分たちの属する集団を自分のように思い、その和を乱すことを厳しく戒める。 なぜならそれが自分たちの利益だからである。 ところで、神道が持っているこういった特徴は、 世界的に見て異質なのだろうか。あるいは優秀なものなのだろうか。 旧約には、イスラエルの民が現世利益を求め、偶像を崇拝していたことが 書かれている。それに対して、一神教を奉じる祭司階級が怒り、 創造神へ立ち帰ることを訴え、あきれ返っている。 現世利益を求める傾向は日本人だけでなく、 イスラエル人も同じであり、ヒンズー教を奉じるインド人も同じであり、 キリスト教を信じる人々も同じなのではないだろうか。
人間の基本的あり方が自分中心であり、 かりに霊的なものに気がつき始めてもその傾向が持続し、 現世利益的な信仰にしかならない。 これは世界中で共通しており、神道だけに特殊なのではないと思う。 その意味で、世界中の人々が「折り紙」をしているとも言える。 切ったり貼ったりしないのは、角を立てないで暮らしていくチエである。
夏目漱石の『草枕』の冒頭に、「知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。 意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」とある。 世間を渡って行くためには、「折り紙」のように、 切ったり貼ったりしないチエが要求されている、ということか。
502 :
神も仏も名無しさん :2010/08/04(水) 13:15:59 ID:MbxhL/mk
井沢元彦氏のもうひとつ、「ビーフカレー」については、 もともとの大乗仏教を作り変えたというより、数ある大乗経典の中から、 日本人にあった経典を選んだということだろうか。 最澄は「法華経」であり、空海は密教である。 どちらも現世利益的であり、呪術的な傾向が強いのではなかろうか。 その傾向は、日本仏教の大きな流れとなって現在に至っている。 もともとの仏教、上座部から見れば「ビーフカレー」なのだろう。 しかしインド大乗から見てもそうなのかはよくわからない。 日本仏教でも、基本的にインド大乗の経典が使われているからである。
503 :
金有財 ◆M5il315GSQ :2010/08/04(水) 13:31:50 ID:eOhNFRoj
>>502 経典は使われているが、それをみんな読んでない。
読んでいるのは、日蓮、親鸞、道元の書いたもの。
真言宗にいたっては、なにか読んだりはしないのでは。
大乗仏典を口語訳して、それをきちんと読むと、
親鸞や日蓮の教えがちょっとずれていることが分かる。
だから、教団は、あまり経典を口語訳して読ませようとはしない。
なんのかんのいって、葬式仏教になった時点で終わってるけどね。
>>503 ありがとう、参考になりました。
経典だけでなく、宗祖の著作も信仰を導く教材にされてましたね。
たとえば、親鸞の『教行信証』、道元の『正法眼蔵』など。
読んだことはないけど、経典よりさらに、
現実肯定、現世利益の傾向を強めているのでしょうね。
あるいは庶民により迎合しているとか。
いまの仏教は葬式仏教になってしまい、
かってのような命がけで真理を探究するという姿勢がなくなりましたね。
僧侶は職業でしかなく、肉食妻帯当たり前、
かれらの生活は単なる在家のようになってしまった。戒が失われている?
もちろん、すべて僧侶がそうだとは思わないが。
もともとの仏教は、この世は苦であり、 この苦から逃れるにはどうしたらよいか、という問題意識からスタートしている。 自殺は根本的な解決にならない。輪廻転生するからである。 これに対して日本の大乗仏教は、法華経の「諸法実相」や 涅槃経の「一切衆生は、ことごとく仏性を有す」(一切衆生、悉有仏性)から、 この現実を肯定する立場に転進する。この世の肯定である。 空の思想によって現実をいったん否定し、 その後に、空なのだから現実を肯定してもいいだろう、というスジである。 ちょうど正反対なものに変質したわけだが、これが日本の大乗仏教であり、 井沢元彦氏から「ビーフカレー」と言われる理由である。
空海の密教は、現世利益、呪術的傾向を強めた時代の仏教である。 最初から「ビーフカレー」なのである。 空海自身がそういった宗教を求めていたのかどうか。 それに関しては、時代に制約された選択のような気がしないでもない。 三教指帰の序にあるように、 空海の場合は体験が優先しているように思えるからである。
>>504 の訂正
× もちろん、すべて僧侶がそうだとは思わないが。
○ もちろん、すべての僧侶がそうだとは思わないが。
欧米のキリスト教は一神教であり、人々は神との関係で原罪を意識し、
個を確立しようとしている ・・・ というのは、
教科書的であり表面的な理解なのかもしれないと疑った方がいい。
欧米でキリスト教が当たり前になっているのは、
キリスト教が認め、国教としたローマ帝国以来の歴史があるからである。
政治権力が民衆を支配する道具としてキリスト教を利用したからだ。
>>507 の訂正 × キリスト教が認め → ○ キリスト教を認め
欧米にキリスト教が根付かせるために何があったのか。
それに反対する者を村八分にし、捕らえて拷問し、時に処刑する。
権力による暴力的な強制があったのだ。
これは、イスラム教も同じであり、ユダヤ教も同じである。
仏教も儒教も道教も神道も同じである。
国家権力は、それが選んだ宗教以外の宗教を暴力的に排除する。
力のない民衆はただ従うばかりである。
こうして欧米はキリスト教徒の多い国になったのであり、
それが真理だったから受け入れられたのではない。
日本でも戦国時代、キリスト教徒が急激に増えたが、 これは領主が民衆に強制したからであり、自然に受け入れたからではない。 南米のすべての国がカトリックなのも欧米人の強制だろう。
510 :
神も仏も名無しさん :2010/08/04(水) 22:19:36 ID:2J19PKEO
民衆にとっては、世界中どこでも現実が優先するのであり、 かりに霊的なものを認めても、<現世利益>レベルではないかと思える。 人間なんてみんな似たようなものじゃないか。 それなのにキリスト教だイスラム教だヒンズー教だ仏教だ儒教だ神道だと 差別すること自体がまちがっているのかもしれない。 政教分離、これは人類が到達したチエですね。
511 :
神も仏も名無しさん :2010/08/11(水) 18:55:09 ID:p1kUgQSf
★ ★ ★ 泥沼に関連し、神道についてもう少し検討しよう。 それにしてもわかりにくい宗教ですね。 ★ ★ ★
井沢元彦氏の、神道=「折り紙」説によれば、 道教も儒教も仏教も、最初から神道をベースに織り上げられている。 別の言い方をすれば神道的に歪められ粉飾されている。 神道は逆に、道教や儒教や仏教から影響されている。 従って神道に、そういった要素が見られるからと、神道は道教である、 儒教である、仏教であるなどと主張することはできない。
神道は現世利益の宗教である。 ヨブ記によれば、現世利益はサタンの宗教であり、 原因と結果の転倒、目的と手段という発想がその背景にある。 目的と手段という発想が「泥沼」を作っているのではなかろうか。 これが直感的な結論である。 わたしたちはいつも、明日のことに引っ張り回され、慌しい日々を送っている。 マスコミに踊らされているのか、世の中全体が前のめりになっている。 その背景にはたぶん、目的と手段という発想がある。
今日という日は、明日の手段になっている。 明日という日は、さらに未来の手段になっている。 未来のことを思い続け、今という貴重な時間を見失っていないだろうか。 これがずっと続いたら、むなしい一生にならないだろうか。 むなしい一生、これが収穫である。
神道とブードゥー教の違いはどこにあるのか。 ブードゥー教は基本的に個人の利益を拝む。 これに対して神道は、基本的に共同体(家族、氏族、国家)の利益を拝む。 神道は個人的な利益も排除しない。ブードゥー教の発展的解消だ。 この比較から、神道は共同体の宗教として洗練されているらしいのであり、 多くの人々から共感を得られる形態に進化している。 素朴であり、際立った個性がない・・・人々の共通項のような印象がある。
宗教とは何か。そのひとつの標識は「自己否定」にある。 人は自分の力で解決できないような巨大な壁にぶつかったとき、 自分の力に絶望する。これが自己否定である。 でも、何とかならないかと思い続け、その思いを岩肌に描く。 あるいはナスカのように地上に描く。 自己否定、これが祈りの始まりであり、宗教の始まりではなかろうか。 自分は成功者だと思っている人間は宗教に無縁である。
問題は、自己否定が非常に困難であることだ。 自分の限界を感じ、神々に祈るまではいいだろう。 しかし、神々を利用し、自分の利益を祈るのであれば、 神々の力を借り、自分の利益を実現しようという逆転した話になっている。 自己否定どころか、神々も巻き込んだ自分自身の肯定である。 神々にひざまずく自己否定は見せかけである。 しかし、それが見せかけであることに本人自身が気づいていない。 この状態は、神々を道具にし、無神論者より悪質である。
神社には円形の鏡が置かれ、参拝者はこの鏡に向かって拝む。 これは何なのか。鏡には自分が写っており、それを拝むということは、 自分自身を拝むことではないのだろうか。 神々を拝んでいるような見せかけがある。 しかし実際には、神々の力を借り、自分の願いを実現することが本音である。 見せかけと本音の間にはギャップがある。 神道はこういった信仰によって成り立っている。 人々は、神々のことよりも、自分自身にしか関心がないのである。 ここにあるのは「自分という一神教」なのだけど、 こういうのを「ブーメラン信仰」と言うのだろうか。 信仰のご利益は自分に帰ってくる。
自己否定という基準で眺めれば、 神々を利用しようとする人々の方が欲が深くて悪質であり、 神社に行かない無神論者の方がいいことになる。 神々から好意を持たれるのは、 無神論者 > 現世利益を求めて拝む人々 ということになる。 なんにせよ、よくよく考えないとダメですね。
ここまで来れば、なぜ神道が一神教を拒否するかがわかるだろう。 神道は現世利益を目的にした「自分という一神教」なのであり、 本質的に「自分」を否定する一神教(ユダヤ教・キリスト教など)を認めない。 道教や儒教や仏教は多神教だから受け入れられたのである。 ヨブ記は「自分」を砕くことがテーマであった。自己否定の極北である。 これに対して神道はいまだに「自分」を温存している。 目的と手段という発想はよくよく検討する必要がある。 効率という概念はここから湧き上がってくるし、 だいたい「目的」という概念自体が「執着」そのものなのである。
一神教と多神教の違いも見えてきたのではないか。 多神教は神々の否定である。 多神教に寛容なのは、「自分という一神教」を信じているからである。 多神教という、その言葉とは裏腹に、神々は無視され否定される。 逆に、一神教を認める立場では、多神教を絶対に受け入れない。 十戒の第一、「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」 神を認める以上、それは一神教でなければならない。
日本人の精神的なベースは神道にある。 神道はブーメラン信仰であり、その本質は「自分という一神教」である。 これに対してキリスト教はさしあたり一神教だろうか。 そのため、キリスト教の一神教と「自分という一神教」とが正面衝突する。 日本人にすれば、キリスト教の創造神もイエスもマリアも聖霊も、 有り難い神々のひとりであり、そういった存在として受け入れようとする。 それらは仏教の諸仏、神道の神々と対等な存在であり、 どれもこれも有り難く、仏教・神道・キリスト教を並べて拝もうとする。 こういった日本人の受容の仕方が、キリスト教の伝道者に対して、 ズブズブした泥沼のような印象を抱かせたのかもしれない。 泥沼に足を取られてしまった伝道者の嘆き、苛立ちが聞こえてきそうだ。 キリスト教は多神教じゃないのにぃ〜
日本人は基本的に「自分という一神教」である。 であるから、「自分」という「神」を否定するような宗教である、 ユダヤ・キリスト・イスラムを本能的に拒否する。 たとえわずかにしろ、キリスト教が受け入れられたのは、 父なる神、子なる神、聖霊、聖母マリアなどという多神教的な要素があった からではないだろうか。その弱点が逆にプラスしたのかも。 しかしイスラム教はだめだろう。日本人は唯一神を否定する。
524 :
神も仏も名無しさん :2010/08/12(木) 19:58:43 ID:R+NFoD3N
★ ★ ★ 本居宣長の、神道における「神」の定義を再掲しておこう。 何にまれ世の尋常(つね)ならずすぐれたる特(こと)のありてかしこきもの ★ ★ ★
本居宣長の定義に従って神道の「神々」を探してみよう。 まず自分がいる。その周囲に世界がある。 世界の中で、よく知ったもの、自分の支配下にあるものは、自分の手段であり、 道具である。それらは「神々」ではない。 つまり、「常なるもの」は「神々」になることができない。 人間はしだいに成長し、世界のことを少しずつ学びそして知る。 知れば知るほど「常なるもの」は拡大し、 よくわからない世界、得体の知れない世界が小さくなっていく。 実は、この小さくなりつつある、得体の知れない世界の中に、 本居宣長の言う「神々」が住んでいる。
自分の住むこの世界で、自分以外の、 「常なるもの」ではない ・・・ 日常的なものではない 「すぐれたもの」を持つ ・・・ 自分の能力を超えていると思われる 「かしこきもの」・・・ 何かしら霊的なもの それが「神々」である。
これらは自分にとっての意味であり、 自分にとって意味がない、役に立たないものは「神々」になれない。 たとえば自分の使用人が「神々」になることはない。 その一方、菅原道真やジンギスカンは「神々」のひとりに数えられる。 タタル能力も評価されるのであり、たたらないような存在は無視されるのだ。 神道は、自分と世界との関わり方であり、世界との関係である。 これが神道であり、神を介在させた、処世訓のようなものかもしれない。 神道的な風景は職場でも地域社会でも繰り広げられている。
靖国神社は国家のために死んだ兵士たちを祀っている。 これは神道のスジであり当然だろう。 国家のために貢献した人々はたぶん「神々」になる資格があるのだろう。 そういった人々を祀るのが神社の仕事でもある。 しかしだからと言って、兵士たちが「あの世」で生きているという話ではない。 あくまで「この世」の教訓として祀っているにすぎない。 国家への貢献を祀ることで、次の世代にその思いを育てようとするのだろう。 「あの世」のことではなく「この世」の話である。それが神道である。
神道という言葉に神という字がついているので、 キリスト教的な神のイメージを持ってしまう人もいるかもしれない。 しかしどうやら神道は、この世の生き方を追求しようというものであり、 そのウェイトは「道」にありそうだ。 神道は、神に至る「道」といった意味なのかもしれない。 そういった意味であれば、千年杉を祀ることも理解できる気がする。 植物に過ぎないが、人生の先輩としての風格を感じるのだろう。 古いものには風格があり「神々」をイメージさせる。
繰り返して話せば、この世には自分と自分以外の世界がある。 自分以外の世界は、自分の支配できる領域と、その他の領域に二分される。 そして「神々」はその他の領域にいる。 これらの関係は、自分が目的、自分が支配できる領域が手段になる。 つまり、目的と手段の関係で世界を認識している。 神道における「神々」は、その他の領域にいる、支配できない存在である。 支配できないから手段にすることができない。 ということは、目的であるべき自分に対抗する独立した存在なのである。 支配できない領域にいる存在は次の三種に分けられる。 @ アリガタイ・・・自分の味方である・・・神として祀る A タタル・・・自分の敵である・・・たたらないように祀る、神である B 何の役にも立たない・・・いないものとして無視する
神道を要約すれば、 わたしたちの日々の、感じ方、考え方、行動の仕方そのものである。 集団における人間のあり方だから、日本だけに限らず、 世界中に共通するのであり、これを宗教と言うべきかどうかは微妙である。 しかし神道はこれを宗教として成立させたわけであり、 その点に関してはユニークな宗教であると言えるかもしれない。
532 :
一輝 :2010/08/13(金) 00:49:32 ID:4Knc2RK6
>>531 あなたとは前にも話しをしました。
相変わらず、頭脳明晰ですね。
>>532 えっ、どこで話したのだろう? まったく記憶にない。
過ぎ去ったことはどんどん忘れたほうがいい。
いま現在を生きよう。
頭脳明晰? とんでもない!
読み返すと恥ずかしくなる。酔っ払いが管を巻いている。
まるでさらし者ですね。
534 :
神も仏も名無しさん :2010/08/13(金) 18:47:41 ID:lvg99rA4
★ ★ ★ 山家集異本 西行 「何ごとの、おわしますかは 知らねども、かたじけなさに、涙こぼる々」 万葉集 柿本人麿 「葦原の 水穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国」 兼邦百首歌抄 卜部兼邦 「天地の 中にみちたる 草木まで 神の姿と みつつ恐れよ」 本居宣長 「敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂う 山桜花」 ★ ★ ★
535 :
一輝 :2010/08/13(金) 23:36:06 ID:4Knc2RK6
>>533 いや、どこかで話しをしてますよ。。
あなたの言葉は、決して断言をせず、信じる側とそうでない側の中間的
存在のように思いました。私は信仰があるから、、どうしても断言を。。
あなたのような深い考えを聞いているのが心地よい人間もいたり
するんですよね。。
ちなみに私だって私の書いたものを読み返す時、恥ずかしく思います…
でも、書いてしまう。。。それは何故なのかな…
いずれにしても、自分の本質を文字にするのは、それと反して心地よい
ものですよね。
>>535 このスレを最初から読めば、イエスや釈迦は神ではなく人間でしかない、
と主張していることがわかるだろう。
でもね、神や霊魂の存在はしっかり認めている。
話を断定すると、その話に食いついてくる人たちもいるのであり、
いちいち議論するのがうっとうしいから。
★ 神道を簡単に要約しておこう ★ @ この世界は、自分と、それ以外の世界に二分される。 A 自分以外の世界は、日常的な世界と、非日常的な世界に二分される。 B 日常的な世界は、支配が可能な世界である。 C 神道の神々は非日常的な世界にいる。 D 基本的に人間は、神々のいる非日常的な世界を支配できない。 E しかし神道は、神々を祀ることで、神々を操ろうとする。 F それが可能であれば、人間は非日常的な世界も支配できることになる。 G その結果はどうなるのか。 人間は、神々を祀ることで、日常的な世界ばかりでなく、 非日常的な世界も支配することになる。そして自分が世界の主人公になる。 これが神道の意義であり神道の役割である。
人間は根源的に自分中心である。 しかしそれは、共同体にとって猛毒である。 神道のテーマは、これをどう浄化するのか、ということだろう。 神道は、神々を祀ることにより、人間を超える存在があることを教え、 それを敬えば御利益があることを教えこむ。 そうすることで自分中心という共同体の猛毒を浄化しようとする。
神道のあらすじは、共同体のリーダーにとって好都合である。 自分たちが神々の座に座ればいい。 そのために重要なのは、下々から非日常的な存在に見えることである。 たとえば雲の上にいるようなイメージだろうか。 神々を祀れば、願いが叶い、御利益に預かれるという話である。 御利益があるなら、下々にとっても居心地がいい。 この構図がそのまま共同体の構図に重なっていく。 自分中心に行動するより、神々に従って共同体の利益配分に参加した方が 利巧かもしれない、という思いを抱かせるからである。
神道は、人間の持っている自分中心という猛毒を、 完全に無害にしたわけではない。しかし薄めることには成功した。 神道は共同体のリーダーにとって好都合である。 そのため、古くから、権力を維持するための道具として精力的に布教され、 いまや全国いたるところに神社や神を祀る祠がある。 現代社会において神道は衰退したように思うかもしれない。 しかし「自分という一神教」は、日本人のバックボーンのようになっている。 これには長所も短所もある。自分中心という猛毒を薄めてはいるが、 逆に、神々によって自分の思いを正当化し強めてもいる。
自分中心という猛毒は、 共同体にとって猛毒であるという理由で薄められている。 キリスト教のような、神に対する反逆という意味で否定されるのではない。 聖徳太子は17条の憲法で「和をもって貴しとなす」と言っている。 神道は共同体の維持・調和に重大な関心を持っている。
神道にはこれといった教義がない。つかみようがないという理由もあるが、 その本質を明確にするとマズイという判断もあるような気がする。 神道はブーメラン信仰であり、結局は自分の利益を拝んでいるからである。 御神体である、鏡の中にいる「自分」を拝んでいる。 そんなことを教義にまとめ、信者に教えるわけにはいかないだろう。 信者は、意識的には、自分など少しも有り難くはないと思っている。 しかし無意識的には神だと思っている。 そして神道は、このギャップの上に成立しているのではなかろうか。 自分は神ではない、という思いが、神道によって、 自分は神であるという無意識的な思いに、秘密のうちに接木されるのだ。 こんなことを明らかにすることはできないだろう。
神道の「自分という一神教」は「自分たちの一神教」であり、 言い換えれば「共同体という一神教」である。 ブゥードー教も現世利益を追求する。 これもブーメラン信仰だから「自分という一神教」ではないのか、となり、 神道はそれを含めた発展的な解消であると言っても誤解される。 聖徳太子の「和をもって尊しとなす」は共同体の維持発展を目的にし、 神道が「共同体という一神教」であることを踏まえている。 そこで「自分という一神教」から→「共同体という一神教」に訂正したい。
544 :
神も仏も名無しさん :2010/08/14(土) 23:45:45 ID:bbEg4zob
神道と他の宗教、仏教やヒンズー教やキリスト教などとの違いは、 神道のエネルギーが共同体へと向かっていることか。 その共同体信仰は、現実を肯定し、現世利益を追い求め、 共同体の維持・発展をひたすら追い続ける姿勢になって現れている。 日本人の集団主義もこの共同体信仰に基づいている。
神道は、神々を利用し、共同体の維持・発展を目論んでいる。 神々は、人々のエネルギーを共同体に折り返させることにより、 それらを浄化するための道具のようなものである。 だからたとえば、精霊を、それ自体として祀っているのではない。 そういったものが祀られることもあるが、 迷信の闇が晴れたら、精霊たちは神々の座から滑り落ちてしまう。
現代においては、神道がそれほど影響力があるとは思えない。 しかし神道の本質である「共同体という一神教」はしつこく維持されている。 家族、地域社会、教育現場、企業、役所など、 ありとあらゆる共同体の中に、盲目的な共同体信仰がはびこっている。 共同体の維持・発展に貢献することが善であり、 これに反することが悪である。共同体のリーダーにとっては好都合である。 かれらは熱心に、共同体信仰を拡大再生産することに努めている。 マスコミは共同体信仰を毎日のように煽っている。
靖国神社はA級戦犯を祀っていることで非難される。 しかしかれらは、国家のために行動し、国家のために死んだのである。 神道の視点から見れば祀らないわけにはいかない。 かれらを戦犯として扱うのは神道の自殺行為に等しい。 かっての国家リーダーを祀る。それが神道として譲れないスジである。 しかし、国家のリーダーが戦犯として処刑されたことは事実であり、 神道が国際的に処刑されたことと同義でもある。 神道、そしてその本質である共同体信仰は、時間はかかるだろうが、 いずれ衰退し、消滅することはまちがいない。
共同体の力学は、信仰とは無関係に、どこの国にもどこの人間にもあり、 それを無視して生きることは難しい。 だからそれを知って、それに配慮することは処世として欠かせない。 問題なのは、それを宗教として成立させ、神々を利用して浄化し、 共同体は善であるという洗脳を施すことにある。 善である共同体は成員の目的である。 そのために貢献することはどんなことであれ善である。 手段の是非は問わない。問われない。 目的のためには手段を問わない。 → ぴったり法華経の世界ですね。
神道が持っている特色、 すなわち現実肯定、呪術的な現世利益、国家鎮護という共同体信仰は、 法華経にも見られ、最澄や空海の仏教にも見られる。 何か変だ。歪んだものが隠されている。
目的と手段・・・ わたしたちが目的にしてよいものは、唯一、「いのち」ではないかと思う。 共同体信仰は、共同体を善なるものとし、共同体の維持発展を目的にする。 しかし待てよ、共同体は人間が生きていく環境であり、手段ではないか。 共同体のために人間の「いのち」が消費されたら転倒である。 手段であるべき共同体が、共同体信仰によって目的へと姿を変える。 これが共同体信仰の根本的な誤りなのではないか。 国家のために死んでいった兵士たちの「いのち」は、 共同体の道具として手段として、ムダに消費されたのではないだろうか。
法華経の目的は、ブッダ最高の教えである法華経の布教である。 そのためならウソも方便、手段を問わないという。 しかしそんなこと言ったら、法華経自体が方便の教えになってしまう。 神道は、神々を媒介させ、共同体信仰を成立させる。 手段である共同体が、まるで目的であるかのようにふるまう。 しかし特攻や玉砕など、「いのち」を粗末にしたら悪魔の宗教である。 なぜこういった詭弁にコロリとだまされてしまうのか。 詭弁を垂れ流し続けることで利益を得ようとする勢力の影響は無視できない。 しかしそればかりでなく、わたしたち自身が 目的と手段という考え方に慣れきっているからではないだろうか。
552 :
神も仏も名無しさん :2010/08/15(日) 11:19:56 ID:WgSjOl/s
時間の関係は、原因と結果で見るのが正しい。 これをひっくり返し、目的(結果)と手段(原因)にしたら転倒である。 目的にしていいのは「いのち」だけである。 それ以外の、たとえば国家や共同体などを目的にしたら転倒である。
553 :
神も仏も名無しさん :2010/08/17(火) 18:31:30 ID:l78c51+F
空海の「御遺告」を読んでみた。 やはり空海は、体験先行の人だったのではないかと改めて思った。 三教指帰の序「谷響きを惜しまず 明星来影す」こそ、 空海の原点であり、空海の到達した極北ではないだろうか。 密教や真言は戯言だろう。空海に近づきたければ空海のように修行し 空海と同じような体験をすればいい。
空海は24歳までに究極の「悟り」を体験している。 うーん、すごいねえ。 その後の人生は、その体験が何だったのかを明らかにするために 費やされた。それが密教や真言宗である。 真言宗・・・空海の言葉へのこだわりを思わせる。 神道も言霊といい、言葉へのこだわりには並々ならぬものがある。 言霊には鬼三郎もはまったし、、ヨハネ伝冒頭にも見られる。
梅原猛氏の『空海の思想について』を読んだ感想だが、 空海の『声事実相義』や『うん字義』は言葉にこだわり過ぎだろう。 何でこうなってしまうのだろう? 下種の勘繰りをすれば、ヒマで退屈だったのかもしれない。 こういうときは観念論に傾くものである。
>>555 ○『声字実相義』
空海が密教を選び、真言宗を開くことになったのは、
時代の制約であり、現代であれば異なる道を歩んだのではないか。
『御遺告』を読むとそんな風に思う。
これは遺言であり、もっとも大事だと思うことを簡潔に伝えている。
そこに竜王の宝珠が出てくる。これが空海の体験だろう。
ただし、ヨブのような聖霊体験があったのかどうか不明。 なかったような印象を受ける。 聖霊体験がなくても、霊魂体験をすることがあるのかもしれない。 聖霊体験がない → その代わりに過酷な修行がある。 空海が行った虚空蔵求聞持法は、50〜100日の間に、ある陀羅尼(真言)を 100万回唱える修行である。 これは日蓮も、清澄寺にいた17歳頃までにやったという。
なぜこんなに陀羅尼を唱えるのかといえば、 脱魂した霊魂が、神界から戻ってくるのに必要だからである。 霊界ではなく、神がいる神界である。 神界に入った霊魂はそのままでは戻ってこない。 その時、ひたすら唱え続けた陀羅尼が雷鳴のように轟いてくる。 これが「谷響きを惜しまず」という意味だろう。 陀羅尼を唱えるのは、脱魂を導くためでもあり、その一瞬のためでもある。 だから、聞こえてくるのは陀羅尼であり、自分の声でもある。 これがないと地上に戻ってこれない。 → そのまま死ぬ
ちなみに日蓮の場合、虚空蔵菩薩らしき高僧が現れ、明星のような宝珠を 授けられたという。→ しかしこれは幻覚か魔境だろう。
三教指帰を読むと、話は立て板に水、その内容は現代でも色あせず、 ユーモアのセンスもあり、ひょうきんな人柄もうかがえる。 とても24歳の作品とは思えない。やはり天才だ。 御遺告には、酒の話があり、病気ならば塩酒一杯を許すとある。 ここまではいいとして、酒屋から酒を買って戻るときは、 (人目につかないように)別のカメに入れ替えなさいと指示している。 かゆいところに手が届き、弟子たちにすれば有り難い指示である。 高野山の冬は寒く、酒が飲みたくなる時もあるのだろう。
略して言えば、密教はマンダラである。 密教は、この宇宙を大日如来の体であるとするばかりでなく、 そこで生きている人間もまた大日如来であるとする。 マンダラの中には無数の仏がおり、相互に関係し合い照らしあっている。 宇宙も人間も大日如来、宇宙と人間は本質的に一体であり、 これが人間の真相であると主張している。
密教はヒンズー教の梵我一如とよく似ている。しかし微妙に違う。 梵我一如の場合、宇宙真理がブラフマン、個人実体がアートマンであり、 個人がブラフマンと合一することが究極の悟りになる。 アートマンが消え、ブラフマンだけになる。 (現象が本質に吸収される → 唯名論である) これに対して密教は、宇宙真理のブラフマンと個人実体のアートマンが マンダラの中にそのまま描かれ、アートマンが消えていない。 ブラフマンとアートマンを区別した悟りである。 (現象を認め、現象と本質を区別する実在論に近づいている) 唯名論・・・現象(属性)と本質(基体)を区別しない。仏教の立場である。 実在論・・・現象(属性)と本質(基体)を区別する。
密教では、仏たちが宇宙そのものとは別に独立して存在している。 本質は同じ大日如来なのだが、宇宙には区別されるべき現象がある。 そのためマンダラには多数の仏たちが描かれる。 ヒンズー教の梵我一如なら、宇宙真理である大日如来だけになる。
マンダラの仏たちは現象だから、 正確にはアートマンではない。しかし仏たちは大日如来でもあり、 本質(ブラフマン)を内に秘めた現象ということになる。 現象である仏たちの内にある本質(ブラフマン)がアートマンである。 密教のマンダラはそういった思想のシンボルであり、 空海もそう理解したはずである。
565 :
神も仏も名無しさん :2010/08/19(木) 20:30:05 ID:xQokYtrO
わかりにくい話になったので再度説明しよう。 マンダラの中の仏たちが丸い円光に囲まれているのは、 かれらの内にある大日如来(ブラフマン)の輝きが外側に現れたのである。 仏たちに、大日如来という本質が備わっているという主張でもある。 そしてその本質は、ヒンズー教でアートマンと呼ばれている。 だからマンダラは、アートマンを認め、それを主張をしているのであり、 空海はこれに共感し、密教を選んだのではないだろうか。 空海の体験はアートマン(霊魂)体験である。
ヒンズー教の梵我一如はなら大日如来だけと言ったが、 空海も、マンダラではなく、大日如来だけでいいのかもしれない。 しかしアートマン(霊魂)にウェイトがある。 ヒンズー教の梵我一如はブラフマンにウェイトがあり、 空海とはベクトルが逆になる。
>>566 ○ ヒンズー教の梵我一如なら大日如来だけでいいと言ったが、
空海に欠けているのは「神」の体験である。 実際には体験している。しかしそれを「神」として認識できなかったのは、 聖霊体験がなかったことと時代の制約ではないだろうか。 空海が今の時代に生まれたら、大乗仏教だけでなく、 原始仏教や聖書やクルアーンやヒンズー教などを学ぶことができる。 たぶんまったく別の主張を展開していたと思う。 空海の限界は、この現実を精神世界の限界にしたことではないだろうか。 仏教は基本的にこういったスタンスであり、あの世を認めない。 しかしあの世を認めないなら「死んだら終り」ということだ。 仏教も密教も、どうでもいい話になってしまう。
空海のことを悪く言っているのではない。 そうではなくて、空海のような体験をしたいなら、空海のような修行、 虚空蔵求聞持法をやれ、と言っているだけである。 護摩を焚いたり、少しばかりの陀羅尼を唱えたり、独鈷杵を振り回しても、 華を撒き散らしても、悟りのためにほとんど役に立たないだろう。 三毒をいかに退治するか、これが問題なのである。
570 :
一輝 :
2010/08/19(木) 22:59:58 ID:pHIEw+zN 私も議論に参加せしめる、、うっとおしい類の人種なのかも… 面白いことに、この世は様々な考えがなければバランスがとれない ものだと私は思っている。 だから私は個々の様々な考えが愛おしく思う…