☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート27

このエントリーをはてなブックマークに追加
778神も仏も名無しさん
>>774
あのぉ・・・
素朴に疑問なんですけど、
「輪廻(転生)」は世俗のこと(≒事象)であり、「一切」に含まれるわけですね。
で、今、仏は(龍樹は)「二諦」を説いていますよね。
さて、
・「勝義において」「一切」が「空」であると言われた時は、
 「輪廻」どころか「世俗の諸々すべて」が「空」と言われているのであり、有無を問うものではなくなる。
では、
・「世俗義において」「諸々が“ある”」と言われた時、
 「喜びや悲しみ」や「土地建物や海や山や川」や「貧富や差別(区別)」や「生まれ老い、病に罹ったり」などは、
 《ある》と言われるし、また、『人々も《ある》として生きている』。
 この《ある》や《前提とされている》ことを、よもや貴方も否定しないでしょう?
 勝義では「空」だが、世俗において「ある、見られる」と・・・。

もし貴方が、上記諸々の世俗の事象を認めるなら、
『同じ「世俗の事象」として(【勝義ではないこととして】)「輪廻」もまた認められねばなりません。
今、勝義と世俗という区分しか為されていないのだから・・・。
もし、「喜びや悲しみは“ある”けど輪廻は“無い”」とするならば、
【同じ、世俗の領域内で、更に区分される】ことになる。それは、
【世俗内で(世俗の言辞・事象として説明し得る形で)有無を問うことになる】。
(これをしていたのが10氏他数名。)
だから貴方は、≪【勝義において】、「無い」(或いは空、有無は無い)≫と言ってはいけない≫のです。
なぜなら、≪他の諸々も同じように「無い」(或いは「空」、「有無は無い」)と言われる≫からです。
(たとえば、『我(自己)』と同じように・・。)
≪【世俗において】、「他の諸々」は「ある」と言われ、「輪廻」が「無い」と言われるならば、
その【世俗的理由】を(違いを)示す必要があります≫。
仏典中、【世俗の言辞としても、「無い」とは言われていない】からです。
 ※彼は、人々の世界観においてだけでなく、
  この意味でも、「(世俗において)説かれている、前提とされている」、と言っているのです。
   ※当然それは、「“事象として”《ある》、とされている」ことも含意します。