真如苑の言えないこと

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55神も仏も名無しさん
今昔物語集 巻二十 第十二より

伊吹山の三修禅師は、学行はそこそこにして、ひたすら後世を願う念仏も唱える禅浄兼修の僧であった。
ある日、空から神妙なる声が聞こえ、貴僧の念仏の功徳が積もり積もったので、明日に昼過ぎに極楽浄土に導いてあげましょうとの御告げがあった。
禅師はたいそう喜んで弟子たちをそばに侍らせ、念仏を一心に唱えながら待っていると、にわかに西の空に光明がさし、やがて金色に輝く釈尊の顔を出現し、えもいわれぬ音楽が鳴り響く中を、禅師は紫の雲に包まれて、観音菩薩に手を導かれながら、西の空に消えて行った。

それから7日ほどたって、弟子たちが裏山に薪を取りに行くと、大きな杉の木のてっぺんに禅師が藤蔓で縛りつけられているのを発見した。
禅師は、半死半生の様子だが、なんとか念仏を称え続けている様子。驚いた弟子たちが、下に降ろして助けようとすると、禅師は「どうして、私の往生の邪魔立てをするのか」とますます杉の木にしがみついて離れない。
なんとか弟子たちが力を合わせ、禅師を担いで寺に戻して、「禅師は天狗にたぶらかされ給うたのです」と嘆いたが、禅師はついに正気に戻ることはなく、西方浄土の往生のことばかり口走りながら、三日後に亡くなった。

「伊吹の山の三修禅師、天宮の迎えを得たる話」です。 平安時代の話なのですが、あたかも現代の真如信徒を彷彿とさせるエピソードですね。その人を助けようと組織のおかしさを指摘し説得するご家族の様子と同じ図式です。

自分が切実に求めている物を「きっと適えられますよ」と、優しくそして自信たっぷりに言われたりすると、人はついその人を信用してしまいます。
それも、人生をかけた願いや真実とは何かの答えを与えてくれそうな宗教なら、なおさらでしょう。
また、求める気持ちが強ければ強いほど、丸ごと信用してしまう確率は高まる物です。

しかし、そこまで身も心も捧げてしまうのは、あまりにも危険な行為と言わねばならない戒めになるお話しですね。