今月号の「大白蓮華」の御書から、ご紹介します。
『大地はささばはづるるとも・虚空(おおぞら)をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はありとも
日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず 』
大地を指差して外れる、太陽が西から昇る、こんなことを奇跡と呼ぶなら、仏法は奇跡を軽蔑さえしています。
キリスト教やイスラム教が、奇跡ゆえに神の力を誇示しようとするなら、仏教は正反対の立場です。
奇跡よりも身近な、しかし強固な、「日常」。
その色あせた日常にこそ、生命の奇跡を見出す仏法。
風にそよぐ草木の一本々々に、私が聴いた生命の歌声。何気ない散歩と地続きの不思議。
日蓮は、ただそれを傍観したのではない。その奇跡を身をもって、行為によって示したのです。
その光のような結実は、まるで宇宙のような膨大な暗黒の中の灯火でした。
「最も苦しんだ者が、最も幸福になれる」・・・これこそ信ずべき法則だと、今や感じられるのです。
言葉や理論を道具にして真実の山を登ろうとする人には、決して登れない山。
その仏の境涯を、現実に征服した人。
これこそが、「二乗不作仏」の文字の「現証」ではなかったたですか?「基本さん」・・・・