○●Я親鸞仏教質問箱R(その7)●○

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615渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
 「我が身」つまり「私である聖徳太子は救世観音である。自分と結婚してくれて定慧を契った
カシワデノホキキミノイラツメは大勢至菩薩である。救世観音の自分を生育してくれたアナホベ
ノハシヒトノヒメミは西方教主弥陀尊である。将来の多くの人々を苦しみから救うため、血肉を
分けた一族を、大阪府南河内郡太子町という優れた地に墳墓を造営して留める。三柱を一つの墓
に合葬するのは、阿弥陀仏と観音菩薩と勢至菩薩とを一体とする考え方による」

 金沢専光寺伝は、「〜西方教主弥陀尊なり。」と「末世の諸の衆生を度さんが為に〜」との間
が落ちています。「真如真実本一体 一体現三同一身 片城化縁亦已尽 還帰西方我浄土」とい
う意味深長な言葉が欠落しています。金沢専光寺伝の三骨一廟文は何を言っているのかを考える
ことは、親鸞の時代の念仏道場の思想を考える上で重要でしょう。

 親鸞は、この三骨一廟文をいつ、どうして書いたか。どうして金沢専光寺に伝わっているのか。
大胆な仮説を建ててみます。金沢の専光寺は親鸞の時代には存在しなかったそうです。恐らくこ
の三骨一廟文は、親鸞の時代、専光寺の近在に念仏道場ができ、そのとき親鸞がそこに送った祝
電だろうと考えます。ここから推理をしてみます。

 当時、念仏道場はどのような構造になっていたか。親鸞の時代から少し下がりますが、存覚が
重要な文書を残しています。それと合わせながら、親鸞の時代の念仏道場を考えてみたいと思い
ます。