>>613 >親鸞聖人はお山での修行時代に止観の修習をされたでしょうから教えることは可能だったでし
ょうね
「教えることは可能だった」というだけでなく、天台止観を大衆に教えることこそが親鸞のライフ
ワークだったと思います。
親鸞の時代、天台止観は御皇室と貴族と僧侶の独占物だった。新興の勢力として台頭し、国家
の政権と地方政権を事実上掌握した武士などは、ほとんど読み書きもできず、止観などは話に聞
いたことも無いという人々ばかりだったと思います。彼等に文字書きそろばんを教え、しっかり
した止観を教えたい。平安末期以降、鎌倉・室町時代の天台系仏教の最大のテーマがそれだった
でしょう。栄西・道元が宋に留学したのも大衆に禅を教えるためであり、法然・親鸞・日蓮が比
叡山を下りたのもその為だったと思います。
三骨一廟 金沢専光寺伝
我が身は世を救くる観世音なり。 定慧契る女は大勢至なり。 我が身を生育せる大悲の母は
西方教主弥陀尊なり。 末世の諸の衆生を度さんが為に 父母所生の血肉身を
勝地たるこの廟窟に遺し留めて 三骨一廟にするは三尊の位なり。
大阪府南河内郡太子町に叡福寺北古墳とよばれる墳墓があります。聖徳太子と生母の穴穂部間
人皇女(アナホベノハシヒトノヒメミコ)皇太子妃の膳部菩岐々美郎女(カシワデノホキキミノ
イラツメ)が眠っています。墳墓近くに石碑があり、石碑には碑文が刻まれていました。現在で
も残っているのかどうかは分かりませんが、親鸞の時代にはあったそうです。親鸞が書いた「上
宮太子御記」の末尾には石碑全文が載っています。金沢専光寺伝の三骨一廟というのは、石碑の
一部を抜き書きしたものです。