○●Я親鸞仏教質問箱R(その7)●○

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134渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
                                          (新年会 >>123

漢訳大無量寿経を読んでみる。
 十七願
たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、我が名を称せずんば、正覚を取
らじ。
十八願
たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし
生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。
十九願
たとい我、仏を得んに、十方衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、心を至し願を発して我が
国に生まれんと欲わん。寿終わる時に臨んで、たとい大衆と囲繞してその人の前に現ぜずんば、正覚を取
らじ。
二十願
たとい我、仏を得んに、十方の衆生、我が名号を聞きて、念を我が国に係けて、もろもろの徳本を植え
て、心を至し回向して我が国に生まれんと欲わんに、果遂せずんば、正覚を取らじ。

 漢訳大無量寿経の十七願と梵文大無量寿経の十七願とは、ほとんど同じ内容と考えていいだろう。梵文
十八願が漢訳では十八願と十九願とに分かれている。梵文十九願と漢訳二十願とはほとんど同じだが、梵
文十九願の一部が漢訳では十八願に入っている。そのように読むことができる。
 しかしどうもそうではないようだ。梵文十八願の核心は、死の時刻が近づいたとき、つまり入学を拒ん
でいた環境条件に終期が到来し、入学できる環境になったとき、教師の方から若者を誘いに行く努力をす
るという話だ。これは漢文十九願の思想と全く一致すると考えていい。それではなぜ漢訳十八願が存在す
るのか。善導大師、法然上人、親鸞聖人のフィルターを外して考える必要がある。漢訳十八願を裸のまま
読んでみよう。漢訳十八願の本当の意味は何なのか、それを考えてみよう。