【最終】輪廻転生説はどう扱うべきか!?【決着】5

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44不説 ◆AnATTa/dJc
# 頻発する短期規制がまた解けての復帰書き込みです。

規制避難スレ>>58 宝珠愚者氏
>仏教とは涅槃を目指すもの

規制避難スレでも述べたように、仏教サイドの見解としては、涅槃と外道では涅槃の中身
が違うともされていますので、愚者さんと私がそれぞれ涅槃という言葉でラベリングして
いるところのものの中身が問われるところでもあります。

私が言う涅槃とは「現法楽住」のことです。決して「来世」楽住ではなくてです。

本スレ>>36 宝珠愚者氏
>「中道」とは、(中略)
>本来の意味は、伝統的な狂信的苦行と世俗の快楽主義の両極端に陥らないことをいう。

仏教における修行とは、(本来)楽行のことであって、全く苦行とは相容れないものです。
苦行が過激か穏やかかどうかという「程度」や、肉体的な苦痛に耐える肉体行かどうかと
いった「表面的な形態」の問題ではなく、苦行全般が中道で否定されています。もし過激
という程度時代が問題なのであれば、程度が中道の一極として述べられていたでしょう。
すなわち、

本スレ>>16 宝珠愚者氏
>世俗がいうところの幸福を捨ててまで没頭した出世間の仏道修行

というのは、苦行であり、それは元々、仏道修行と呼べるものではありません。仏教の出
家は、楽行を求めてするものであって、苦行を求めてするものではないのです。ですから、
正しい仏道修行者であれば、例え修行途中で死んだとしても、(転生とは無関係に)少し
も損をすることはなく、「世俗人のままいるよりも私はずっと多くの楽を味わえて死ねて
よかった」ということになります。

こういった点も、仏教と教外では、修行というものに対する定義からして違っているとこ
ろだと思います。
45不説 ◆AnATTa/dJc :2010/01/21(木) 21:37:28 ID:v3p9VaC4
>>44の続き

中道で否定されている一番目の極である「世俗の快楽」というのは、低俗な五感に基づく
快楽(五欲の楽)のことであり、所詮は感覚が外部から得られる刺激に依存し制限される
程度の楽に過ぎません(いわば「現世半楽住」)。

そこで、その五感の限界を超える楽を味わいたいと考えると、次に人は苦行に走ります。
苦行に没頭することで、苦行の果てに、現世を超えた別の優れた世界(境地)があると考
えてそうするのですが、この姿勢(来世楽住)もまたゴータマ仏陀によって否定されまし
た。またその意味では、例えそれが「仏教の悟りのための修行システム」という名義のも
のであったとしても、「いつしか悟って涅槃に到達するため」という来世の楽を目的とし
て、現世の苦に甘んじる態度はやはり苦行だということになります。異教徒にせよ、仏教
徒にせよ、戒禁取と呼ばれる煩悩に囚われると、そのような行動をとることになります。

ゴータマ仏陀の悟りである中道とは、「五感を超えた」「楽を」「現世(今ここ)におい
て」「味わう」という、現法楽住の涅槃にあります。

「五感を超えた」というあたりの教説に囚われて、現世と違う別世界であるいわゆるオカ
ルト的な「来世」と結び付ける誤解が生じえますが、そうではありません。また、「現世
において」というあたりの教説に囚われて、唯物主義的に受け取る誤解が生じえますが、
そうではありません。

涅槃は現世にこそありますが、それは五感の限界を超えた(五感に依存しない)ものです。

以上のように、私は考えております。