【宇宙】 レムリア・ルネッサンス10 【全史】

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370神も仏も名無しさん
まずは二元性を超えてもなお地球霊界にとどまっておられる五井先生の事情からお話いたします。
仏陀もそうなのですが、二元性を越えたにもかかわらず地球衆生のためこの地球霊域に
とどまっておられる方たちがおられます。
彼らは何をするでもなく(人類に干渉はしません)、ただ見守っているという形をとっておられます。
ただ私が問いかけると答えられる範囲でお答えがいただけます。
それがなぜ可能なのかはまだわかっておりません。
とっくにこの世界をおさらばしてしまったような、二サルガダッタやドン・ファンでさえも、
問いかけに答えてくれます。
なぜでしょうか?
(中略)
〜つづく
371神も仏も名無しさん:2012/06/24(日) 21:15:46.48 ID:FsoqTrB6
祈りと申しますのは、大きく分けて「自我に戻ってくる」祈りと、「自我に戻ってこない」祈りがあります。
「自我に戻ってくる」祈りとは、欲望から発せられた祈りで「何かがほしい」「何かを実現してほしい」
というご自分に何かを与えてほしいという祈りです。
「自我に戻ってこない」祈りとは、いわば感謝の祈りです。
たとえば「今日も一日無事でした、ありがとうございました」とかです。
それでは「世界人類が平和でありますように」はどうなのでしょうか。
これも何かほしい・・・平和がほしいという欲望の祈りなのでしょうか。
そうなのです・・・しかし欲望にもレベルがあるのです。
欲望と申しますのはある意味「愛」なのです。
「愛」と申しますのは、様々な形、様々なレベルがありまして、物質レベルの「愛」が「欲望」なのです。
しかし「世界平和を願う」という欲望はとても物質レベルということはなく、
もっと高いレベルのいわば「希望」に近いような「愛」なのです。

考えてみますと人間にとって祈りは単純な作業ではありますが、使い方によってはものすごく効果のある
いわば「メソッド」なのです。

実は五井先生の祈りには肉体と魂魄(こんぱく)の間を調整する強い特別な力があるのですが、ここでは省略しておきます。

仏陀も五井先生も向こうから人類を見守っておられる姿は、非常に尊いものがあります。
何をするでもないのですが(干渉しない)、その見守るというお姿が究極の「祈り」なのです。

2007/12/30 No.24