>>224 有名な『インド思想史』。もっとも、私は以下の和訳と英訳してみてませんけど、
http://ci.nii.ac.jp/naid/110004671558 http://ci.nii.ac.jp/naid/110004671570 http://ci.nii.ac.jp/naid/110004671579 例えば四諦について「根本的な説法の内容の空虚さには, 仰天するであろう」(2-p.218)とか<「大史詩の哲学」との討究において知ったヨーガの道と, 徹底的な一致を示している」(1-p.173)とか仰ってますが、
これではヒンドゥーと仏教の重要な違いである縁起・無我・空に対する理解が全くないと自白しているのと同じです。
なぜなら、ヨーガ・三昧・禅定による精神集中は、確かにヒンドゥーとほとんど共通するものと思われますが、
重要なのは仏教がそのヨーガ・三昧・禅定による精神集中、つまり、止、シャマタの後に、
縁起観、ヴィパシャナーを観じることで無我・空を悟ることにあります。
縁起観、ヴィパシャナーは、『大品』の冒頭『スッタニパータ』724以下『大本経』に詳細で、縁起法頌に簡潔です。
これは外道の二師のヨーガ・三昧・禅定の境地に満足できない仏伝に暗示され、
その後の長部・中部経典のほとんどに簡潔に説かれ、
後代の論書に明解に外道との違いとして、縁起観、ヴィパシャナーの有無が挙げられることに裏付けられます。
そして、これはテーラワーダ、大乗が時代地域を越えて一致して伝統的に主張するものです。
つまり、これが分からないなら仏教の本質が分かってないといっていいと思います。