憑依っていうと人間と何か同じサイズのものが来て、人間にペタッとへばりつくかというと、
そんなもんじゃないんです。そういうふうに想念の曇りのある部分を狙って憑依してくるんです。
彼らも、地獄霊たちも、やっぱり四次元的存在ですから、決して絶対的なもんじゃないんです。そんな
大きさがあってどうこうと言うもんじゃなくて、ですから、ある人は肩がなんか凝って、肩が痛くて
痛くて仕様がない、ちょっと鍼(はり)打って下さい、とこうなります。或る人はお腹がなんかおかしいと、
いつもお腹の調子が悪い。或る人はなんか下半身が痺(しび)れて、どうも変だ。或いはリウマチだとか、
或いは頭痛もち、耳鳴り、この頭痛だとか、耳鳴り、或いは下半身の痺れ、リウマチ、こういうのは
完全に憑依です。腰が痛い、こういうのもみんな憑依です。みんなあの世の地獄霊たちが来て、その
部分に憑依してるんです。こういうふうに、本来の人間の、体の組立てというのを良く知って欲しいんです。
まず、船頭さんである心が魂の中心にあって、それから中心の周りに人体と同じ形をした光子体というのが
あります。この光子体が、肉体をスッポリと被っています。そして、光子体こそ本当の主人公であって、
肉体を支配して活動しています。』
■憑依の原理
『ところがこの光子体が、いろいろ故障を起こすことによって、様々にその人の人生が変わって
行きます。そして光子体と肉体を結ぶものがありますが、これは何かというと、これは霊子線
というんです。霊の子の線と書きます。霊子線。これが大抵の人間は、頭の部分ですけど、
頭の部分で、この光子体と人間の肉体、人体とを結んでいるものがあります。銀色の線です。
これが大抵、脳の神経とその光子体の方の中枢部分とを、霊子線で結んでいるんです。銀色の線です。
これが結んでいて、大体光子体が考えていることを脳に伝える、そして体全体に行くと、こういうこと
になっています。ですから生きている人間は、この光子体と肉体とを結ぶ霊子線が、切れない限り、
決して肉体から本当に分離してしまうことはないんです。たとえ一時的に憑依されて、他の霊が
関係することがあっても、他の霊と肉体とは霊子線が繋(つな)がってませんから、完全に支配
できないんです。本人の局部的な所、攻めたり、一時的に攻めることはできても、完全にその人格を
支配して、何十年もの人生を生きるってことはできないんです。それはまた、一つの法則がありまして、
もしそれができるなら地獄の亡者たち皆出てきて、生きてる人間の魂を追い出しちゃって、自分が肉体の
中に入れたら、生まれ変わったのと同じで、生まれ変わることできるわけです、楽ちんです。
地獄にいたら苦しくて仕様がない、だから地獄は、苦しくて仕様がないから、皆這い出してくるわけ
ですよ。這い出してきて、何とか逃れたい、それで地獄から一生懸命、這い出してきます。そして行
く所がない。もう天国へは行けないんですから、地獄から這い出してきたら、もうこの地上界しか行
く所がないんです。この地上界で、何とか自分の住み場所を探そうとする。地獄霊たちは、躍起(やっき)
になって探すんです。そうすると、たまたま霊界の法則で、類は友を呼ぶ、似た者同士が、相通じる
という法則があります。これはこの世でも一緒です。 あの世の地獄霊が、地獄の苦しみから一時的に
逃れようとして、地獄から這い出してきます。そして何とか自分によく似た人がおらんかと、もう血
まなこになって探します。ところが居るんです。 人間の悩みなんていうのは、非常に限られたものです。
幾つかのパターンに分けてしまえば、大体もうみんな似てて決まっちゃうんです。地獄へ行くんだって、
原因も大体皆さん似てて決まってるんです。大抵、普段人と争う気持ちが強くて、人といつも、いつも
争いばっかりしてた、喧嘩ばかりしたり、悪口ばっかり言ったり、そういう闘争心ばっかり剥(む)き
抑き出しにして生きてきて地獄に落ちた人、こうした人は阿修羅地獄です。こういう地獄霊が、この
地上に出てきて、ほいほいと探してみると、一杯居るわけです。こんなのが今の会社に一杯居るわけですよ。
人の悪口ばっかり言ってて上司と喧嘩ばっかりしている人。或いは部下を苛(いじ)めてばっかりいる
上司。或いはお互いに足を引張ってるライバル同士。こういう人達はみんな阿修羅地獄へ行く侯補生
たちです。こんなとこ入るの一発です。 似たような人がいた。こりゃ楽ちん楽ちん、と言って入って
来るわけです。そして、そういう例えば、阿修羅地獄へ行く傾向のある人に憑依します。そうすると、
どうなるかというと、その人は増々心の揺れの幅がひどくなってくるんです。するとこの人は、さらに
人の悪口言いたくなる。そして理性で、普通は理性である程度抑えていたのが、だんだん理性の箍(たが)
が緩んできて、周りの人が見ても、信じられないようなことを言い始めるんです。例えば、まっ昼間
からもう回りのことをお構いなく人の悪口を、ぱっぱ、ぱっぱと言うわけです。
或いは、上司なら、上司がですよ、或る人が部長さんだとしましょうか。何だか知らないけれど、
些細なミスを取り上げて、部下を呼びつけて「こらっちょっとここへ来い。」って、直立不動のままで、
もうわんわんと真昼間から一時間、二時間と部下を叱りつけて、本人は教育してるつもりでいるんです。
ところが、私たちから見ると、あの世の阿修羅霊がきて、いい気持ちになって肉体支配して、要するに
自分のうっ憤晴らしてるんです。で二時間も説教されるもんだから、もうひっくり返ったり、倒れたり
してなんか厳しい人だなあ、なんて思います。そしてその毒素を喰らった人はまた、上役の悪口を言います。
で、夜酒を飲みながら悪口を言います。またその人もおかしくなっていく。こういうふうにして自分たちの
住家を増やして行くんです。
或いはまた、他の人、地獄霊なんかでも自分の身上(しんじょう)を持ち崩した人、あの経済的に
無茶苦茶やって、競馬競輪、マージャンとパチンコまでいっちゃあれだけど、私も、やったことあるから、
言いにくいですけど。まあ、競馬競輪としとこうか、やったことないから。競馬競輪で、どんどん散財
しちゃって、お母ちゃんに内緒で、へそ繰り使ってまでやったけど、金がなくなって、とうとうサラ金
に手を出したと。そして、サラ金から金を借りたんだけれども、これが雪達磨式になっちゃって、
とうとう返せなくなってきた。で、どうするかというと、サラ金は、朝に晩に取りに来るわけです。
真夜中に来て、ドン、ドンと叩く「出てこい」と、サラ金業者に憑いている地獄霊たちは言います。
そうするとだんだん、夜も眠れなくなります。そして会社での仕事も上手く行かなくなってくる。
そして生活が乱れ、夫婦仲が乱れ、だんだん、おかしくなって地獄へ行きます。そしてサラ金の取り立て
屋を恨んだりします。それはおかしいんです。自分が金を借りてるんだから、承知の上で金を借りてて
返せないんですから。サラ金だって悪いとは一概に言えないんです。そういうとこをみすみす、
乗り込んで行ってます。こういう人が居ます。
そうすると、こういう地獄霊、地獄へ行った霊たちは、また地上を見渡すと似たような人間が居るん
ですね。借金ばかりして、「あっこれは転落するな」というようなものが居るとそれにヒョイッと
憑いちゃって、また自分と同じような味わい、苦しみを味わわせます。
大体、あなた方にもあるでしょう。自分と同じような苦しみを味わわせたい、で自分が貧乏したら、
人も貧乏させ、苦しませたい。まあ大体、経営者の方もあるんですよ。一代限りの経営者、自分が
叩き上げて、苦労の上、苦労して会社造ってきたような、こういう人は大体、サラブレッドみたいな人、
嫌いなんです。大体自分が、苦労に苦労重ねて会社造ったような人っていうのは、大体人にも同じような
苦労させたい、と大体こう思うんです。そして、お前ら苦労が足りないと、まあ苛めたりして、苦労、
苦労と言うことを言い始めるんです。自分が苦労に苦労を重ねて、やっと成功したから、たまたまなん
ですけれど、それを合理化するわけです。美化しちゃって、やはり人間っていうのは、苦労しないと
成功はできないんだと。そんなことないんですよ。
苦労しなくたって、あなた、スッスッと成功する人一杯居るんですよ。ところが、それが気に
喰わない。「それは真実ではない。そんなことは、あり得ない。
やっぱり人間は苦労して、ひと回り大きくなって成功する」と思うんです。こうなったら信念ですよ。
苦労しなくたって、成功する人は一杯居るんです。そのような社長は、会社なんかで、中学卒、或いは
小学校卒で、叩き上げて社長になったとしても、今の会社ならもう大学卒が一杯人って来ます。
人事部の人は、大卒のバリバリのエリートなんか採るわけです。そしたら社長さんが見ると気に喰わない。
なんだこいつ、親に面倒ばかり掛けて、親に面倒見てもらって、仕送りしてもらって、学生時代も、
のほほんと過ごしちゃって、苦労が足りん、と。もっと苦労さしたる、と言って、社長命令。直々に
集会始めたりして、わざわざ、そういう雑用やらしたりして、苛(いじ)めたりして、こういうことします。
ですから話を元に戻しますと、地獄霊は似たような人を探しており、その地獄霊に憑かれると肉体が
不調和になって来ます。』
288 :
神も仏も名無しさん:2010/01/09(土) 11:29:11 ID:1Eh1yko0
↑ このコピペ貼り続ける奴はGLA関係者か?それともKKか?www
いつも『sage』で静かに荒らしているけどwww
荒らすなら『age』ろよカスwww
m9゚(゚`∀´゚)゚9mプギャーッハッヒャッヒョ wwwwwwwwwwwww
289 :
神も仏も名無しさん:2010/01/09(土) 19:35:58 ID:TcUqrrhW
290 :
神も仏も名無しさん:2010/01/09(土) 19:42:21 ID:TcUqrrhW
ttp://mitsuno-y.com/file/200907/24_151820.html 一方、精神的な側面から見れば、善や悪は単独では成り立たないということだ。すなわち悪があるから善は成り立つのであって、善だけの世界に善という概念は成り立たず、悪だけの世界にも悪は成り立たない。
したがって自分は善人だと思う人は、悪人がいてくれるから善人でいられるということを知らなければならない。『水戸黄門』の番組に黄門様側の人たちしか登場せず悪人が登場しなければ、
善人の代表としての黄門様の立場は成立しなくなるだろう。
このことから分かるのは、善悪はあくまで相対的なものであり、互いに依存し合う関係にあるということだろう。これを政治や宗教に適用して言えば、自分たちの政党が政権を取れば良い社会ができる、
あるいは自分たちの宗教が世界宗教となれば平和と幸福が訪れるといった考えは、こうした相対性に考えが及ばない教条主義的判断であり、
根拠のない幻想ということになる。
宗派や政党に限らず組織というものは、外部からの批判が激しければ激しいほど内部での結束が強固になるという力学を持っている。例えば「エホバの証人」や「創価学会」の信者は自分たちこそ真理の代弁者であり善を代表するものであって、
外部の批判勢力は真理を知らない愚か者であり悪そのものであるかのごとく思っていて、
それが彼らを強固に結びつける力となっている。しかしもし彼らの宗教が世界を席巻したとすれば、外部的な圧力は消え、自分たちが善である根拠を失ってしまう。しかも外圧がない状況では内部的結束は失われ、信者たちはバラバラになってゆく。ではその後どうなってゆくのか。
彼らはそれでも善を成立させておかなければならないので、
信者同士の間で比較や差別化をしなければならなくなる。
すなわち彼らは徒党を組んで分派を作り、以前他の宗教を悪として批判したように、互いに他の分派を批判し合うことになるだろう。
そして以前と変わらない善悪を基準とした社会を築き上げるのだ。
291 :
神も仏も名無しさん:2010/01/09(土) 19:45:38 ID:TcUqrrhW
ttp://mitsuno-y.com/file/200907/24_151820.html 宗派や政党がこのような経過をたどると推論できれば、善を主張することがいかに空しいかが解る。これは宗派や政党に限らず、すべての組織について言える。知り合いに紹介されて入った会社、友人に誘われて入った社会的な活動団体、
たまたま入った学校、親兄弟に勧められて入った「○○クラブ」や「○○の会」、スポーツ・チームの応援団、等々。
例を挙げれば限がないが、多くの人はよく調べることなくそうした組織に入り、しかも一旦入ってしまうとその組織を評価し擁護する発言をするようになる。これは不思議なことだがよくみられる現象だ。
このように我々は客観的な視点を欠いたまま組織に入る場合が多い。そして次には自分の入った組織に味方し、他への非難を平気で行なうようになる。
この根拠のない言動はどこから来るのだろう。その心的構造を説明すれば、何かに依存することによって不安から逃れようとする心理が働いているためだと思われる。
さて善と悪が一組の対としてしか存在できないのであれば、善がある限り悪はあり、悪がある限り善はあるということになって、この世は決して善だけの世界にはならないことになる。それは我々が善悪にこだわっている限りその通りだろう。
しかし善悪という平面的な捉え方から一歩飛躍して、両者を高い次元から見つめることができれば話は違ってくる。
一段高いところから見つめれば、悪を憎むその心が悪であって、視点の取り方によってはどちらも悪なのだ。ここに大きな落とし穴がある。
自分は善人だと思っている人は『水戸黄門』を見て登場人物の悪人を憎々しく思う。
しかし一段高い視点で見れば、憎むその心がすでに悪と変わらなくなっているのだが、多くの視聴者はそのことに気付かないようだ。
292 :
神も仏も名無しさん:2010/01/09(土) 19:59:43 ID:TcUqrrhW
アヤシイ宗教の見分け方
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/1cde9d9f408f8d6e3425a42618c0b0d1 ・簡単に解決法、答えを与える宗教
オウムの元信者は、若者がカルトに魅かれるのは、「絶対」「存在」「意味」という三つのキーワードが絡むと言っているそうだ。
元信者はこう説明している。
「『絶対』は変わらない永遠不滅の真理です。『存在』は自分が生きているという実感。そして『意味』は自分が何のために生きているのか納得することです。
これらの解答を与えてくれるのがカルトだと思うんです」(米本和広『教祖逮捕』)
・白か黒かの二元論
・絶対を旨とし信者の全精神を支配する教祖と、教祖に対する病的なまでの依存(批判力の喪失)
他にもまだまだあるだろうが、これくらいにして、「白か黒かの二元論」をもう少し説明しましょう。
絶対者の教祖に依存する信者のことはその次に。
『教祖逮捕』に、心理療法家の服部雄一と米本和広の対談が載っている。
服部雄一は
「カルトは物事をすべて極端な善悪に分けます」
すなわち、善か悪かの二元論がカルトの特徴だと言う。
二元論は内外、上下、高低、中心と周辺、時間の前後など、そして善悪、正邪、優劣、浄穢、貴賎、尊卑というふうに世界を二つに分ける。
そして、どちらかを選ぶよう迫られる。
293 :
神も仏も名無しさん:2010/01/09(土) 20:01:35 ID:TcUqrrhW
アヤシイ宗教の見分け方
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/1cde9d9f408f8d6e3425a42618c0b0d1 ところが、二つの選択があるようでも、一つしか選べない仕組みになっている。
「改革に賛成か、反対か」と言われたら、「反対」とは言いにくい。
テストの点が悪いよりはいいほうが決まっている。
「二元論の罠にはめられると、自分の意思で相手が望む道を選んでしまう。しかも決定は自分がするから、誤った道であろうと、それは自分の選択になる。カルトに入った人たちは「組織に強制されていない。自分で選んだ道だ」とみんなが言いますが、本当にそうなんです」
と服部雄一の指摘に、なるほど、自分が選んだんだということがカルトを抜け出る難しさだと納得。
二元論の罠に落ちるのは、「理解したい」ということ、そして「正しくありたい」という気持が我々にあるからだと思う。
どちらも真っ当な願いである。
しかし、善か悪かで割り切れることはほとんどないのだが、単純なほうがわかりやすいし、正しさにすりよって自己正当化をしてしまう。
そして、理解できないことは無視し、自分の正しさとは違うことは排撃する。
294 :
神も仏も名無しさん:2010/01/09(土) 20:27:50 ID:TcUqrrhW
■肉体管理の重要性
『それで皆さん、肉体が第一、ということで考えるけれど、肉体というのは心に密接ですと。そして
心の方が迷い始めると、地獄の様々な霊たちに支配されていきます。そうするとだんだん、不調和に
なっていきます。そういうことです。 肉体も、体も身のうちです。霊的なことに興味を持ち過ぎる
人というのは、どうしても肉体を軽視します。けれども憑依という現象も、二つの入り口があるんです。
一つは、心がそういうふうに曲がってて、心が違う方を向いているために地獄霊たちが、トントンと
入って来て、そして憑依されてだんだん、肉体が不調和になって行くタイプ。もう一つあるんです。
これは本当に本人の不養生です。例えば、栄養のバランス、これを考えずに食べたいもんばっかり食べて、
豚肉ばっかり食べて腎臓悪くしたり。或いは脂もんばっかりとって、夜中に死んじゃったり。多いん
ですよ最近、夜、お年寄りが夜の十一時、十二時にコッテリした物食べちゃって、それこそ大福十個位
食ったりして、そして挙げ句の果て、ヒイヒイ言って死んじゃったりすることが。そういうのよく
あるんです。年とったら、そんな脂もん取ったらいけないんです。
それから寝る前に過食しちゃいけない。こんなの常識です。医学的に見ても。ところが寝る前に
腹一杯食べて、明け方頃死んじゃうと。こういうケース結構多いんです、最近。こういうのは本人の
不養生です。こういうふうに肉体というのも、心が病んで肉体が病んでくる場合と、肉体の管理自体が
間違っているためにだんだん、肉体がおかしくなって、その結果、心までおかしくなると、こういう
場合もあります。それで、まず、これからあなた方、正法実践をして行きたいと思っている方々に
対して、言いたいんですが、まず肉体の管理は、常識人として、ちゃんとやりなさい。適度の睡眠は
大事です。適度の運動、これも大事です。適度の栄養、食事、大事です。これは最低限、守って
頂きたいです。まず肉体が普通じゃなければ、抵抗力がつかないんです。だから地獄霊が、寄って来ると
いう時は大抵肉体が弱っている時です。これに対しては、心掛けだけでは立ち打ちできない場合があります。』
■地獄霊は心力、体力の二刀流で跳ね返せる
『生きてる人間は、やっぱり肉体の中にあって生活していますから、それで地獄霊は、どんな地獄霊が
来ても、生きる人間は強いんです。はっきり言って。何故強いか、彼らは精神的な力を持ってます。
ところが物理的な力はありません。これは生きてる人間は、光子体という精神的な力、プラス肉体という
肉体に宿る力という物理的な力の両方を持っているんです。これの間を霊子線というものが結んで、
緊密な関係になってますから、こっちは二匹なんです。二匹で一体なんです。向こうは一匹だから、
一匹相手に二匹で戦うんだから、原則では勝てるんです。あんまり五体も十体位も入ってしまえば
参ってしまいますが。普通は心の力と肉体の力の両方で跳ね返していけるんです。これは、いわば
宮本武蔵の二刀流です。長い剣と短い剣、大刀と小刀を持って、二刀流です。ところが相手は一刀流です。
宮本武蔵は、敵と戦う時に、いいですか、二乗寺下(さが)り松の決闘なんていって、吉岡一門を向こうに
まわして、何十人、何百人と戦ってますが、武蔵は相手が、何十人でも何百人でも負けなかったんです。
何故、負けないか、彼は常に一人を相手として戦おうとしたんです。だから二乗寺下り松で決闘する時も、
よりによって彼は、回りが田植えの時期で、田ん圃、そして細い畦道がある所を選びました。
そして畦道を逃げて来て、追い掛けて来る、相手は必ず前に居るのは一人です。前からというか、
後に居るのは。常に一人を相手にしました。或いは壁なんか、壁なんかを背にして戦いました。
そして坂道を登って行きながら戦う。そのように、一人を相手にするように彼は考えていました。
そして二刀流です。二刀流で一人を常に相手にすると、いつも勝ってるんですね、彼の理論から言えば。
そういうことだったわけです。ところが二刀流でも、ぐるっと回りを囲まれちゃうと、これは勝てなく
なってきちゃうんです。二本では防げなくて、どっから切られるかわからない。こういうことがあるんです。
普通の人間も、地獄霊の一体位なら何とか、心の力と肉体の力の二刀流で跳ね返していけるんです。
ところが、肉体が終わっちゃうと一刀流になるんです。そうすると一刀流対一刀流で勝つこともあれば、
負けることもある。或いは肉体が確(しっか)りしてても、心の方がおかしければこれも、一刀流対
一刀流、負けることもある。ところが光子体というのは、例えばね大刀で、肉体というのは小刀なんですよ。
ところが肉体の力だけでそういう、霊の力と戦おうとすると小太刀で、小太刀で大刀、大太刀と戦おうと
するのと同じなんです。だから負けてきます。そういうことで、心の力と肉体の力、これは宮本武蔵の
二天流、二刀流みたいなものなんです。両方が噛み合わさって、初めて敵と戦えるんです。だから
どちらも調和しておく必要があります。ですから、生きてる人間、肉体を軽視しますけど、私もそう
でしたけど、やっぱり結局のところ、肉体を軽視し過ぎたということです。ですから肉体を軽視し
過ぎて、酷使してやると、いくら神理を読んで、エネルギーを入れたところで駄目です。これは
治りません。やっぱりこの世の人間なんですから、この世には、この世の法則というものがあります。
これを大事にして下さい。』
■現代サラリーマンと主婦族への警告
『だから読者の皆さんにも、私が御注意申し上げたいのは、やはり健康管理です。これは大事です。
特に現代サラリーマンは、不摂生から、自分の不養生から睡眠不足という結果を招いて、その結果、
憑依されていることが非常に多いです。夜は夜で、毎晩、酒飲んで、また酒場なんていうのは、ロクな
霊が居ないんです。高級霊は居ないんですよ。酒場行って、あなた、高級霊は出てきません。そういう
所に居るのは、もう大抵地上をフラフラしてる欲望の絶てない地獄霊です。そして、いいですか、
睡眠不足のままそこへ行って、夜遊びして、酒を飲んで睡眠不足でだんだん、憑依されて行きます。
そうすると、仕事がどうも上手くいかなくなって、いろんな人と衝突が起きてきます。仕事が駄目、
仕事以外も駄目、だんだんノイローゼになっていって一家心中しちゃったり、おかしい判断をしちゃうわけです。
現代サラリーマンたちは、可哀相な面もあるんです。一つ目は通勤っていうことで、通勤地獄、
ラッシュ地獄で、朝早く起きなきゃいけない。これは仕様がないですね。或いは、夜帰りが遅くなるまで、
お付き合いがある。これは、言い訳もあるけれど、本当は切ろうと思えば切れるのに、自分が好きだから、
どうしても付き合いで、なんて言い訳をしています。
ですから私は、現代のサラリーマンに言いたいんですが、できるだけ酒は毎日は止めましょう。
やはり週三回か、節度を守りましょう。そして睡眠不足の折には、土、日でも結構だからしっかり
睡眠をとって寝溜めをしましょう。そうしないと、やっぱり体力つけないとあの世の霊たちに勝てません。
それから、よくドラキュラの映画なんかでありますね。ドラキュラが恐いのは十字架と大蒜(にんにく)
です。イエス様は恐いでしょ。もう一つは大蒜の本当の意味、これは大蒜を食べると、要するに精力が
ついちゃう。精力がつくと体力が余分についてくる。そうすると地獄霊たちがつけ込む隙がなくなると、
これを象徴してるんです。大蒜をぶら下げたら、ドラキこフが逃げて帰るわけじゃないけれど。でも、
地獄霊たちが一番つけ込むのは、何かというと体力が弱ってる時なんです。ですから、そういう時は
強精剤がいいです。そういう滋養強壮の物、食べられると地獄霊も困っちゃうんです。ですから地獄霊には、
赤蝮(あかまむし)が一番良く効くとか、これは冗談だけれど、ビタミンをちゃんと取って、やはり
健康な肉体作りは大事です。特にサラリーマンたちは、非常に危ないです。普通の姿でおっても、
地獄霊にやられがちであるのに、そういうふうに不健康な生活してるために、ある意味ではこれは、
社会の責任でもありますが。地獄霊に憑依され易い、時間帯、そういう仕事ですから。
また、一方はどうかというと、主婦族は主婦族で、これは暇を持て余したりして。これはまた、
なんか遊びたくて仕様がなくて、主人帰って来ないもんだから、いろんな悪さしちゃったりして。
土曜日じゃなくて、金曜日の妻かなんか知らないけど、主人は絶対、金曜日は帰って来ませんから、
夕方からお化粧しちゃって、もう社交に出ちゃって、帰って来なくても分らないと思って帰って
来なかったりしてます。或いは、夫が単身赴任の場合です。滅多に帰って来ません。或いは夫は、
単身で海外へ駐在中です。私は二年位一人です。こんな人は遊び放題しています。もう悪い事散々して
「まあ、いいわ、子供さえできなければ。何したっていいわ。まあ人の子供産んだら夫にちょっと
悪いかも知れないけど、それ以外何したって大丈夫だ。」なんてやってるわけです。こうして暇を
持て余してる人は、持て余してる人でまた、悪いことして不調和作っています。
ですから、今見てるとサラリーマン社会は、男性は肉体的な疲れから、或いは商売のストレスから。
女性は、不平不満から、窒息感から、また悪の道へと走ってるようです。
ですから私が、ご提案申し上げたいのは、まあこれは社会的問題でもありますけれど、男性には
できるだけ睡眠と健康の維持、これを計って頂きたいし、そういうことに配慮するのは、女性の
配慮も必要です。御家庭の主婦、そういう方々も配慮して下さい。』
■新時代の神理伝道の旗手は女性である
『それと女性の方々は、暇で困ってるもんだから、暇で困ってて悪いことばかりしないで、
もっといいことに、頭を向けなければいけない、心を向けなければいけない。
朝日カルチャーセンターに行ってるようでは能がないです。朝カル行って、あなた俳句かなんか
書いて、添削してもらってるだけが能じゃないんです。主婦族たち、今時間持て余して悪いこと
ばっかりやったり、相談してるんです。ですから、これからの、私は主婦族、暇な方々に言いたいです。
あなた方こそ、いいですか、新しい時代の神理伝道の旗手となるのは、正(まさ)しくあなた方
なんです。今までは、男がいつも主役でした。男たちが主役でした。その頃には、神理伝道というと、
それだけを専心にするような男たちがありました。仏陀の時代にはみんな沙門になって、ソロモン
になって、サロモンになって、仏教修行を何千人もの人がやっていました。
ところが今の時代では、そういうことはなかなかできません。出家すると母ちゃん、
子供が飢え死にしてしまいます。だからできません。男たちは一日のうち十時間、十二時間、
拘束されています。ですから神理伝道の担い手として非常に弱い力しか持っていません。
土・日に働こうとしても、土・日は睡眠不足で寝溜めをしないと体が持ちません。
ところが、お母ちゃんたちは、朝カルかなんか知らんけど、そんな所へ行って、
要するに時間を潰してます。金を払ってまでそんな暇があったら、私は朝日が
嫌いなわけじゃないんですよ、読売も嫌いなわけじゃないんです。そういうんじゃなくて、そんな
暇があったら、奥様方、あなた方こそ、今の時代、今後の神理の伝道の担い手だということ、
これを悟って頂きたいと思います。ですから暇なうちに、まあ原稿の清書してあげたり、それから
神理のパンフレッ卜配ってあげるなり、人伝に伝えてあげるなり、電話を掛けるなり、そうして
神理伝道の媒体となるのはこれからは主として女性です。いいですか、それを忘れないで欲しいと思います。』
305 :
神も仏も名無しさん:2010/01/09(土) 21:46:54 ID:Z60qPNo3
サロモンになってもこの日本は変わらないからね。
いざとなって頼りになるのは、科学者や経済学者ですから。
宗教家がでてくるのは、死に際ぐらいですから。
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自力と他力
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■他力信仰の問題は御利益信仰にある
『本日の演題は、自力と他力ということです。これは、私もかねがね自力と他力の問題、随分言って
きました。そして、人間は他力では救われません。やっぱり、自力です。自力じゃなきやいけないと
いうことを、私は、生前、随分強調致しました。ただ、私が批判する他力信仰と言いますのは、
他力依存は何かと言うと、要するに、御利益信仰のことですね。例えば、お寺を見てみなさい。
日本のお寺、あっちもこっちもお札を売ったり、交通安全のお守りとか、それから、おみくじ、
そういった類ばっかり、或いは、観光、全くの観光仏教になっちゃって、片や葬式仏教、片や観光仏教、
こういうことでやっていることは何かと言うと、何か御利益があると、要するに、この神社にお参り
したら、御利益があります。或いは、この仏閣、お寺にお参りしたら御利益があるこういうことばっかり
しているわけですね。そういうことで、じゃ、実際の神主さん、それからお坊さんが、そういう御利益
というのを本当に信じているんですか、信じてるかって言われると、急に不安になるんですね。昔から。
「ここのお寺は、昔から何とかに効くと言われています。」とか、或いは、「このお線香の煙がね、
前厄(まえやく)、後厄(あとやく)、本厄(ほんやく)に、それぞれ効くんです。」とこういうことを
言ってるんです。で実際に、それ本当に効くのかと、徹底的に追究したことあるんですかと聞いてみると、
「いや、それはどうか分りません。」それじゃ、神主さん、或いは、お坊さんでもいい、住職さんでも
いいけど、「神主さん、あなた本当に神様を信じてますか。」と。「いや、神様というのはあると
教わっています。」と。或いは、住職さんに聞きますと、「いや、仏さんというのはあると聞いてます。」と。
「じゃ、仏さんというのは何ですか。」とこう聞くと、「いやあれですよ。あれ見て下さい。」と御本尊
を指しちゃって、「あれが仏さんですよ。」と「ああ、仏さんというのは、金ピカの金箔を張ったあれが
仏さんですか。」「そうです。あれが御本尊なんです。」「ああ、そうですか。あの御本尊さんが、人間
に御利益下さるんですか。」「ええ、そうなんですよ。あれは、本当に立派な方が、昔造りましてねえ、
今から何百年前に。そして、今国宝なんです。それが御本尊ですから、これは御利益あります。」こういう
わけですね。「じゃ、住職さん、まあ、国宝かなんか知らないですけど、じゃ、その国宝は何で人間を
守ってくれるんですか。人間の病気を何で治してくれるんですか。何で交通安全の祈願が通るんですか。」
「いやそれがまた、そういう尊い仏様ですから、それを拝むだけでも御利益があるんです。まあ、
なにせ、偉いんです。」だんだん、そういう唯物的になって、要するに、そういう仏像というものが
あるからこれに何か超能力じゃないけれども、特殊な能力というものがあって、この仏像を拝んでりゃ、
何か御利益がある、何だか分んないんですね。とにかく、国宝だか何だか知らないけど、御本尊様って
のを拝めぱ、願いごとが叶うとこう考えているわけなんです。
またある神社でも、神社には御神体というのがあるんです。御神体を祭っています。御神体って何かと
言うとね、ふた開けて見たら、ただの石ころが入ってるわけなんですね。「石ころじゃないか」と
「こんな石ころに、何の御利益があるんですか。」と聞くと、「いやあこれに、この御神体に御魂(みたま)
を入れてあります。御魂を鎮めてありますから。これが効くんです。」とこうおっしゃるわけなんですね。
石ころなんかに、あなた、神様が入るわけがないんです。石ころなんかに宿るようなものは、もう本当に
低級霊です。低級霊はありますよ。物に執われた霊ですね。これは、古い建造物、古い仏壇、墓石なんか、
こんなものは一杯霊がかかってますよ。物にかかる霊、こんなのは、地上に執着のある霊たちです。
殆どそうです。執着のある霊たち、石ころなんかにあなた、河原なんかで拾ってきた石ころなんかに、
何で神様が宿るんですか。この辺が間違っているんですね、ものの考え方が。』
■対象がないと祈れない人間の弱さ
『別に私は神社が悪いとは言ってませんよ。まあ、人間、何か対象がないと祈れない、これが人間の
弱さなんです。本来、そういうもんじゃない。本来、そういうもんじゃない。神様っていうのは、
他次元世界にあって、心と心で同通するもんなんだけれど、それが技術的にできないもんだから、
「何でもいいから」と日蓮宗で言えば曼陀羅はとにかく尊いんだっちゅうわけで、曼陀羅に向って
お題目を上げたり、まあ、他にも色々ありますわね。中には日蓮宗系のある人は、生きてる会長さんの
写真を飾って、線香立て、蝋燭立て、会長さんを拝んでいる。あの世じゃなくて、この世の人の写真を
飾ってね、拝んだりしている。まあ、こんなことやっているわけですよ。要するに、人間というのは、
どうしてもそういうふうに、何か拝む対象が、欲しい。 まだ、これは決して現代人だけを批判できる
わけじゃないんですよ。モーゼの十戒と言って、有名なんですけれども、ああいう十戒を神から頂いて、
それは本当は人間の生きていく心の指針なんですけれど、それだけでなくて、モーゼは、小羊を
屠るっていいますかね、殺して血を流してヤーヴェの神に捧げる、こういうことをやっています。
これは、小羊を裂くっていうのは昔のそのユダヤの伝承的な、伝承的っていうか、土俗の信仰のやり方
でもあったわけですけれどもこういうことを、真の神が要求するわけがないんです。そうでしょう。
実際そうですよ。それは、何かおかしな信仰が入っているわけです。こういうふうに、神様、仏様が
供物を欲しがるとか、生贄(いけにえ)を欲しがるとかそういうことをすれば、今度は御利益がある
とか、こういう物の考え方、これは日本だけじゃなくて、世界中に残っている考え方です。しかし、
これを徹底的に疑問を追究しなくちゃいけないんです。じゃあ、何故、神様はお札買った人は守って
くれるんですか。神社でね、千円のお札、或いは、五百円のお守り、お金を出してぶら下げていたら、
何でその人を守ってくれるんですか。買わなかった人は守らないんですか。お札買わなかった人は、
善良に生きていても事故にあって、交通安全のお札ぶら下げときゃ、何やったって守ってくれるんですか。
神様って、そんなお金で、物事を判断するんですか。お金で支配される人ですか。そんなことないでしょう。
あなたが神様だったらどうですか。あなたのお名前書いたお札(ふだ)、五百円のお札を買ってる人は、
ずっと守ってあげて、あなたのお札を買わなかった人、貧しくて五百円も出せないような善良な心をした人、
こういう人を交通事故に遭(あ)わせて、「なんで、私のお札を買わんのだ。」こういうことを言います
でしょうか。言わないでしょうね。神様は、銭、金じゃありません。また、神様っていう人は、拝まれて、
それで御利益を与えるような人でもないんです。』
■本当の御利益の意味
『本当の御利益っていうのは、自分自身の心を創って、自分自身の心を神の心と同通させてはじめて、
神としての力、本来なる神の力、神聖なる力というのが働いてくるんです。これ以外にないんです。
何の修行もしないで、何の心構えもなく、ただ、お金払ってお賽銭(さいせん)を投げたり、或いは、
お守りを買ったり、お札を買ったりして、これで救われるんじゃないんです。もちろん、例外はあります。
私は公平な立場から例外の話をしております。もちろん、低級な霊たち、動物霊は、何とか神社のお札
とかね、こういうもので感応することがあるんです。それは原則、ありますから、私は言っておきます。
そういう動物霊たちは、たわいもない霊たちは、お札見せられたら、「こういうものには、力がある
もんだ。」と思って、自己催眠を掛けちゃって、ここの家には何かお札が張ってあるから、ここはあまり
行けないとか、霊たちが自己催眠掛けちゃって行けないことがあるんですよ。こういうこと、ないとは
言いません。何とかのお寺が守っているから駄目だとか、そういうことがないとは言いません。
それともう一つ、神社仏閣の中でも、そこを経営というか、管理している人たち、お坊さんが、本当の
高徳の人、徳の高いお坊さん、或いは、徳の高い神主さんでね、その神社や仏閣が、本当に一つの聖域
になっている場合、心と行いが調和されて非常に素晴しい聖域になっている場合があります。
そういうとこも、ないとは言えません。世の中には、そういうとこもあります。その住職なり、神主さんが、
非常に心が調和されて、お弟子さんたちも、神の心にかなった生活をしている。そうすれば、その
信徒たち或いは、檀家の人たち、こういう人たちだって何らかの力を受けるのは当然です。
そういう意味で、高い神域にある、神社仏閣、こういう所で力が無いとは言いません。こういう
人たちのやっていることであれば、もちろん、地獄霊たちを撥(はね)つけるような、そういう
力がないとは言いません。けれど、こういうのは例外です。末法の世の中には、お寺や神主さんで、
お寺や神社で、生きている人間を、悪霊から守れる力を持っている、それは殆どありません。
原則として、ないと思って結構です。ですからいいですか。私が言いたいのは、神社回りをしたり、
或いは、仏閣回りをしたことによって、人間は救われるわけじゃないということです。
まあ、奈良かどっか、知らないけれども、三重県だか、奈良か知らないけれども、ポックリ寺とかいうの
があって、六十歳過ぎたら、そこへ行って、ポックリ寺へ毎年行って、よく願いを込めれば、
ポックリとあの世へ引っぱっていってくれると、そればっかりがもう人生の生甲斐になって、
ポックリ死にたいとそればっかりを願って行ってる人もいます。ポックリ死ぬぐらい簡単なもんです。
一億円ぐらい保険金かけといて、どっかへ飛び込みやぁポックリいきます。そうでなくて、
「いや、そんな血腥(ちなまぐさ)いこと、私は嫌です。綺麗に死にたいんです。」と言って、
死に方の欲が色々でるわけです。私は死に方が良くなかったけれどまあ、死に方は色々ですけれど、
死んでから後が問題であって、死に様がどうってことないんです。畳の上で死ねないかどうかっていう
のはありますけれど。それだけじゃありません。まあ、死んでから後のことです。』
■本当の意味での他力とは何か
『そういうふうに、自分以外の力っていうのを誰でももちろん頼ってしまいます。親鸞の思想
なんていうのもありましたが、あれは、本当の他力ですね。他力信仰、他力本願。今は他力信仰とか、
他力本願というと、本当に悪いことのような価値判断があって、自力がいいような、日本語として
そういうニュアンスがあるから、まあ、親鸞さん、気の毒ですけれど、他力本願という考えがあります。
本当の意味での他力って何かっていうと、それは、本当の神っていうのを信じる、本当に信じきった時、
人間は十倍百倍の力が湧いてきます。ここのところを間違えたらいけないんです。いいですか、
他力信仰、他力本願といっても、単に財布の紐を緩めてお札を買ったり、お賽銭(さいせん)投げたりして
救われると思う他力信仰と、本当に、赤子が母親の乳を求めるように、お乳が欲しくてお母さんの膝に
駆け上がって、そして、乳を貪って吸うように、そういうように神を求めに求めた他力の信仰とが
あります。これは、単なる御利益信仰と違うんです。
ですから、私は他力が駄目だからといって、親鸞さんの教えが駄目だとは言っていません。
或いは、そういう意味での他力批判であれば、クリスチャンたちもほとんど引っ掛かっちゃうでしょう。
「イエス様、イエス様」って祈ってます。決して悪いとは言いません。私は、それは悪いとは言いません。
ただ、イエス様に自分の心が通じるためには、自分の心を創っていかなければいけないんです。自分の心を
創らずして、ただ「イエス様」と名前を呼びゃあ、救ってくれる、そういう考えは甘いです。ただ、
本当に、真剣に、あなた方が道を求めるようなつもりで、本当に、真剣に神を求めるような人である
ならばいいですが、もう、その大いなる神の慈悲、大いなる神の愛、大いなる神の叡智、こうしたものを
感じる場合があります。宗教家の中で。そういう時に、神の前に本当に小さくなった自分というものを
感じる時があるんです。 まあ、奈良の大仏さんであります。大仏様の前に立ってみると、人間というのは、
いかにも小さいですね。ああいう偉大な仏様の前に立ってみると、人間っていうのは、どれ程自分が小さいか、
ということを感じるんです。そして、神仏の前に、自分がいかに小さいかということを感じる時にはじめて、
人間は、謙虚さっていうものが出てくるんです。
ですから、本当の意味での、真実の意味での、他力論者っていうのは、決して御利益信仰ではないんです。
神の前に、神仏の前に、その小さな自分というものを投げ出して、赤裸に投げ出して、「神よ、こういう
私ですけど、どうか、あなたの御胸に抱いて下さい。神よこんな小さな私ですが、この小さな私ですが
あなたのために投げ出しますから、どうか、あなたの御自由にして下さい。」こういう純粋な思いで自分を
投げ出すのが、本当の意味での他力です。私は、これは否定は致しません。
こういうことは、あり得るでしょう。ただ、これは、真実、自分の小ささ、神の大きさを感じとったような
聖者にしてはじめて可能な他力信仰であって、通常の人はそうはいきません。鰯の頭も信心からというような、
普通のおばさんたち、漁村や農村のおばさんたちね、鰯の頭、信心したら御利益あるなんて言って
ポクポク何か叩いちゃってね、鰯の頭、信心してるような人たちには通じないんです。こういう言葉は、
こういう考え方は通じないんです。そういう大いなる神との相対的対坐という言葉は、とても通じ
ないんです。ですから、親鸞のような、パウロのような、偉大な人であってはじめて通じるんであって、
一般の人はなかなか無理です。或いは、修道院で修行したり、或いは、僧院で修行したり、本当の他力の
偉大さを知った人は、それは他力信仰で結構です。』
■自力の落し穴
『小さな自分というものを、自分の計らい心「自分で努力すりゃ救われる。」とかね、「あいつより
俺の方の修行が勝っているから、神様、俺の方をひいき目に見てくれるだろう。」と、こういうことを
批判しているのが、親鸞たちなんです。いいですか、これは正しいんですよ。
人間の道を求める心っていうのは量じゃないんです。質なんです。イエス様も言っています。
「先のものが後になり、後のものが先になる。」これは、長く修行をしたからと言って悟れるわけ
じゃないっていうことです。それぞれに永遠の転生輪廻を重ねてきた人たちですから、ある機会に
接すればね、突然悟る人もいるんです。突然に御仏(みほとけ)の弟子になる人もいるんです。
だから、そうじゃないんです。それを、いいですか、愚かな自力論者たちは、要するに、「自分は
これだけ修行をやったから、神仏のお誉めが愛(め)でたいんです。」ね、或いは、「比叡山で
二十年龍(こも)ったから、自分はもうすぐ神様の近くへ行けるんだ。」こう思ってしまうんです。
親鸞なんかは、徹底的にそういう偽善というのを憎んだ人ですから、親鸞というのは、そういう偽善、
「自分は、何万巻お経を読んだから人より優れているから、神仏に救われる。」とか、「人より朝早く
起きて、雑巾掛けしているから、神様の点救が高い。」とか、こんなことを思う人を徹底的に嫌った
わけですね。そういう人間心で悟れるわけじゃない。そんな人間心で救われるわけじゃない。御仏
(みほとけ)の、阿弥陀仏(あみだぶつ)の心というのはもっと広いものだ。もっと大いなる、無限大です。
神対人間というのは、無限大対一ぐらいの開きがあるんです。そんな大きな阿弥陀の心で比べて、
人間は何故、そんな計らい心で救われる必要がありますか。そういう計らい心を捨てて帰依しましょう。
本当に阿弥陀様を信仰しましょう。これが、親鸞の気持ちです。 ですから、こういう他力は、また
違います。また、自力の悪いところをハッキリと突いています。あなた方、ともすればね、「自力、
自力、自力ですよ。」と言えば、反省を三年やったから、五年やったら、十年やったから、或いは、
内観を朝から晩までやったから、十五時間やりました、八時間やりました。私は一週間やりました。
二週間やりました。こんなふうなことで競うようになるんです。或いは、霊視が効くようになるために、
一日中寝そべって、布団の上に寝て、「何か見えるように、何か見えるように。」そして一日中お題目
唱えて目をつぶって、眉間を睨んで、「何か見えてきませんか。」とか、こんなバカなこと、言う人が
だんだんに出てくるんです。何も悟っていません。こんな自力論者、決して悟っていません。
こういうふうに、要するに、形に執われているんです。自力も形に執われ、その量に執われ、或いは、
他人との比較に執われた時、大変な落し穴に入ってしまいます。ですから、他力も自力も、どちらも
落し穴があるし、どちらも真実を突いているところがあります。』
319 :
神も仏も名無しさん:2010/01/10(日) 17:26:57 ID:9HebPMtR
おいおい『静かなる荒らしさん』よ〜
他スレ逝けよな〜
ここはGLAに対する不満の捌け口じゃねんだよ〜
退会者がマタ〜リと語るスレなんだよ〜
お・わ・か・り?
321 :
神も仏も名無しさん:2010/01/10(日) 20:55:07 ID:uIABnIcB
318 以下
どうでもいいような事柄を大袈裟に騒いでいるだけ
誰にでも創作可能な程度の内容である
結局私はとてつもなく大きな存在
対する皆さんはとても小さな存在
であるという認識を深めさせるカルトマイコンだね
そう考えると同質かもな
■複雑に悩む現代人の悩みの解決法
『ですから、私はこれから一番間違いの少ない、少なくともハ割の人に通用するような考え方
というのをご披露したいと思うんです。やはり、さっきの鰯の頭も信心からじゃありませんけれども、
単に、要するに、何とか様の名前を唱えたら救われる、或いは、イエス様の名前、唱えたら救われる、
こういう考えでは人間は救われません。
原始時代ならいいですよ。原始時代で、何にも知らないで、石斧でトナカイの頭でも叩(たた)いて、
それを料理して食べてる時代は、何も知識もないから、誰か偉い人がいて、「イエス様」って言えば
救われる。それでいいんです。現代みたいな、あなた、こんな複雑な世界で、「イエス様」って
言っただけでね、救われるって、そんな単純じゃありませんよ、あなた。人間の心も複雑ですから、
複雑に人間も迷っているんです。単純に迷ってないんです。昔なら、雨が続いて、獲物がとれない
からとか、そんな悩みがあったわけです。獲物がとれないとか、雨が降らないために、作物が実らない
とか、こういうことが、叶わなくて神仏に祈ったりするようなことがありました。
ところが、現代人は複雑に悩むんです。ある時は、コンピューターが入って、「私はコンピューター、
習ってないから。」テクノ・ストレスと言って機械についてのアレルギーで悩んじゃったりして、
こういう悩みもあるんです。その時、「ああ、イエス様、私のテクノ・ストレスを救って下さい。」
「私のコンピューター嫌いを治して下さい。」と言ったって、治りゃしないです。イエス様に祈った
って治らないです。イエス様、コンピューター、知らないです。分らないです。全然分らないです。
イエス様、コンピューター、嫌いです。祈ったって無理です。そんなもんじゃないんです。この悩みを
解決するのは単純です。自分でコンピューターの勉強すればいいんです。コンピューター学校に行って
勉強するか、或いは、コンピューターの要らない仕事に入るか、どっちかなんです。そしたら悩みは
なくなるんです。こんなもんです。だから、他力っていうのも単純な世界では通じるけれども、
現代ではなかなか通じません。そういうふうに人間というのは、まず、自分自身でその悩みの元凶を
調べて、徹底的にそれを追究していくんですね。まず、悩みの原因そして、その結果、これを徹底的に
追究していくことであります。
例えばですよ、あなたがある若い美しい女性だとする、何かをあなたが悩んでいるとする、大体何を
悩むか、もう大体解ります。普通の人なら大体分るわけですよ。普通の人は、あのう、若い美しい
女性だという前提ですよ、とすると、例えば、「私はいい人を見つけて嫁に行くべきか、嫁に行か
ないとするならば、一生の職業をもつかもたないか、そういう職業でうまくいくか、いかないか。」とか、
或いは、「親がどうこう言う。」とかね、「妹に先を越される。」とか、大体こんなもんですよ。人間の
悩みなんて決まってるんですよ。それで、そういう悩みをどうしたらいいかと、あれこれと考えるわけです。
そうすると、まあ、自分で考えるというのも一つだし、自分の頼りになる人、友達、先輩、或いは、
親戚、或いは、恩師、こういう人に相談するのも一つです。こういう人で頼りになる人が多い人は本当に
救われます。けれども、普通の人間は、そう頼りになる人はいないわけです。そういう意味において、
そういう理想的な相談相手がいない場合に、自分自身で考えなきゃいけない。そして、何故、それが悩み
なのかを考えてみる。例えば、自分はどうしても結婚したいと思う。結婚したいけれども相子がいない、
これで悩む。ところが、結婚の相手がいても悩んでいる人がいるわけです。相手がいても、「この人と
結婚して本当に幸せになれるかどうか。」まだ結婚してもいないのに悩んでるわけです。
結婚したらしたで、「この人と一生、一緒にやっていけるだろうか。」悩んでるわけですね。で、
子供ができたら、「子供が本当に大学入れるまで、この人勤めてくれるのだろうか。」或いは子供が
一人できたら、「もしかして、子供が三人ぐらいできて、この人の給料じゃ、三人も大学出せないん
じゃないだろうか、その上、私は頭が悪いから、この子は国立に行けないかもしれない。」もう
生まれた時に、二十年後の心配をしている。いくらでも悩みはあるんです。だから今のあなたの悩みを
考えてもその悩みがなくなったとしても、また別の悩みが出てくる。ですから、人生はある意味において
悩みの連続であります。この悩みを「イエス様」と言って救われるか、阿弥陀様と言って救われるか、
救われないです。人間というのは、何十年という人生を生きていく過程において、必ず、いろんな疑問、
悩みに突き当たるようにできているんです。これがなければ、人間は進歩というのがないんです。悩みと
対決して進歩していく、そういうふうにできているんです。人生っていうのは、疑問の追究、そして、
悩みの解決、こういうことになっているんです。この悩みが幾つも出てくるんです。何十も何百も、
人生っていうのは出てくる…。これを自分でね、四つ相撲ですよ。がっぷり四つに組んで解決していく。
こういうことを神様から教えられているんです。』
■原則として人生は自力で問題を解決してゆきなさい
『日蓮聖人の霊言集がありまして、あの中でいいことを言ってますよ、日蓮さん。「人生は一冊の
問題集である。」いいこと言ってますね。私よりはいいこと知ってますよ。一冊の問題集なんだそうです。
だから、いいですか、「アーメン」なんて言って、答えを求めてはいけないんです。自分で解きなさいと
いうことなんです。還ってきたら、点数が分るから、あってるかどうか、一冊の問題集です。だから、
それが悩みだということですね。ですから、問題集を与えられているんですから、皆さん、これを
解いていかなきゃいけないんです。自分で解くんですよ。答えを見せられてあなた、こうだっていうのは、
これは横着ですよ。自分で解いていく、そういう意味で自力です。人生っていうのは、一冊の問題集
ですから、自分で解くんですよ。だから、あなた他力ってあり得ないじゃないですか。自力ですよ。
問題集で勉強するんですよ。自分で答え書かなければ、誰が書くんですか。家庭教師が居て、
「先生、第一問目が分りません。」「これは答えはAですよ。」「先生、何も意味が分りません。」
「答えはBですよ。」あなた、これで勉強になりますか。ならないでしょう。だから、それは、人生に
対する取り組み方ですね。人生を何と考えるかです。人生を一冊の問題集、神から与えられた問題集と
考えるならば、答えを解くのは、問題を解くのは、自分自身です。これは、自力以外あり得ないんです。
だから試験問題解いていてね、あの記述式はわかんなければ書けないけれど、記号式もあるわけですよ、
人生の中には。記号式の開題も、そういう時には自分で考えて答えが出る場合と、いくら考えても
わかんない場合がある。いくら考えても分らん場合は、エンピツを転がして丸をつける、こういうこと
もあります。こういうことは、他力的瞬間でしょう、人生におけるこういうこともあります。そして、
たまたま、それが合って合格できる場合もあるし、それがはずれて不合格になることもあります。
そういうこともありますよ。入学試験なんか現に、その、まぐれスレスレで合格する人なんか皆、
そうですよ。合否スレスレの人は、たまたま合ったのと、たまたまハズレたのがあって、落ちたり
受かったりしてるんです。ただね、それはボーダーライン、スレスレの実力を持っている人のこと
であって、本来は、そういうまぐれが当らなくても、いいですか、自分の頭で考えて解いて、合格
できるようにならなきゃいかんのです。スレスレ合格狙っているからそうなるんです。どんな試験
受けたって、受かるぐらいの実力をつけなさいと。まず、これが先決なんです。
それを「いやあ、スレスレでも受かりゃいい。」とエンピツ転がして、それをどう当てるか、コックリさん
で当てるか、イエス様で当てるかなんてやってるわけなんです。そんなんじゃ駄目だっていうことです。
だから、テクニックとしての他力もあるけれども、原則は、問題は自分で解きなさい。こういうことです。
これは、自力の意味です。それで、その時に、いいですか、正しい心構えで生きて、常々、神仏を思って
いると、何故か正しい答えが浮かぶ場合もありますよ。そういう意味での他力的思考も考えてみなさいと、
こういうことです。だから、私が自力と他力と言っているのは、原則として、人生は自力で問題を解決して
いきなさいということです。』
■自力あってこその他力である
『ただ、その中で、行き詰まることもあります。そういう時に、偉大な他力の光明が人々を救ってくれる
ことがあります。それが何かっていうと、心の窓を開いた時です。あなた方、反省というもの、
反省瞑想というのを続けていきますと、次第に、心の曇りが晴れてきます。そして、神の偉大な光が
心に射してきます。こういう時に、いろんな啓示というのが与えられます。これは、自分から求めて
与えられるもんじゃありません。まず、自分の心の曇りを晴らして、スモッグを取り除いてはじめて
神の光が入ってきます。そうすると、そういうふうに心が澄んできた人は、あの世からのインスピ
レーションというのを受け易くなるんです。これは他力です。インスピレーションは、自力じゃありません。
ですから、不思議なことに、他力を求めた人には他力は与えられず、自力を一生懸命磨いた人に他力が
与えられるんです。皮肉ながらそうなんです。だから、自力によって生きた人が、インスピレーション
によって、本当に自分がとるべき道というものを与えられていきます。結局そういうことで、本当に
人間は、道を求めた時に、初めて他力の光明がその人を救ってくれるんです。何でもそうなんです。
それをあなた、最初から、いいですか、何も修行もしないでね、「高橋先生、御願いします。私はどう
したらいいんでしょうか。」「あ、先生は口がないんですか。じゃ、私が消しゴムを六角に切ってね、
サイコロに切って目をつけます。一から六番まで目をつけますから、これで出た数字で、これで占います
から、先生、頼みますよ。」「ナム、高橋先生、できたらこの番号で教えて下さい。」で、あなた、
選択枝六つ位書いといて、その番号出たらそれにするなんてやって、こんなんで絶対救われるわけないんです。
結局、そうなんですよ。 だから皮肉だけど、神の真理っていうのは一緒で、本当に一生懸命自力で
やっていると、他力が助けてくれる。他力だけを求めても、他力は助けてくれない。これは、先程の
問題集に返ると、まあ、受験ということで、皆さん、問題集解かれるでしょう。そして、幾つかの
問題集解かれて、正解と自分の解答合わせて、そして、間違ってたり、合ってたりする。ところが、
問題集で解いているのと同じ問題は、入試問題に普通は出ません。けれども、問題集、しっかり解いて
いる人は、違う問題であっても、何故か、いいですか、できるんです。できるようになってくるんです。
一生懸命問題やってると、違う問題でもできるようになってくる。そうすれば、違う問題でも解いていると、
だんだん、推理力が働いて、その答えが浮かんでくるようになる。自力と他力はこんなもんなんです。
問題集を数多く解いてると、だんだんに、他の問題でも類推が効いてくる。そして、分ってくるようになる。
これが、類推が効くってことが、いわゆる他力なんです。インスピレーションの部分なんです。
こういうふうに、あなた方の人生っていうのも、基本的組み立ては、やはり、ハ割自力、二割他力、
このつもりで行って下さい。これが一番間違いのない方向だと、私は思います。』
■偉大なる他力を知った時、謙虚さが生まれる
『それと、まあ、もう一つ話しておくと、まず、それで、自力で壁を突き破った人は、まだ自力に
執われているところがあるんです。本当言うと、自分が反省して、そういうふうな道を得られたら、
また、他の人にも反省、反省ということを言いますけれども、それだけじゃないんです。本当は、
自力反省だけでは悟れないんです。本当は。そして、あなたが、今度は、高級霊たちと話しはじめて、
自分の小ささっていうのをだんだん悟ってきます。そして、謙虚になってきます。謙虚になってくると、
他の人にあまり偉そうに言えなくなってきます。これが、自力から他力への移行の部分なんです。
皆、これを通るんです。これを通らないで、本当の信仰ってあり得ないんです。まず、自力で
優れた人間となっていく。優れた人間になったと思うと、もっと優れた人が出てきて、「おまえなんか、
全然駄目だ。」とペシャンコにされてしまう。こうして初めて、謙虚になってきます。そうすると、
回りの人に対して慈悲深く、優しく、なってくるんです。偉大なる者の前で、自分の小ささというのを
感じると、慈悲深くなってくるのです。相談に来た人に、「あなただって、悩むの当然ね。」と、
そしたら、回りの人は、「あら、ま、あれ程、自力天狗の先生が急に優しくなってきた、やっぱり、
先生悟られたに違いないわね。」こうなってくるんです。これが "実る程頭(こうべ)を垂れる稲穂かな″
っていうのは、このことを言うんです。分りますか。
まず、実り、要するに、稲の穂としては、しっかり実をつける必要があります。これは、自力です。
それで、自力でいっぱい実ってくると、頭がだんだん垂れてくるんです。謙虚になってくるんです。
その謙虚になった姿っていうのが、偉大なる他力を知った時です。これからのあなた方も、 "実る程頭を
垂れる稲穂かな″これでいきなさい。実りをつけるのは自力です。そして、自力で実りがついてくると、
だんだん自らを低くしていきます。謙虚になっていきます。この時に始めて、大いなる太陽の恵みに
対して、感謝してる稲穂としての、あなた方の姿があるはずです。』