1 :
神も仏も名無しさん:
2 :
神も仏も名無しさん:2009/12/10(木) 00:17:48 ID:32mkE8hN
退会して良かった事は、高橋佳子さんを崇拝する気持ち(偶像崇拝)が消えたことかな。
3 :
神も仏も名無しさん:2009/12/10(木) 15:41:47 ID:bcf4vkAq
聖書のように読んでいた『祈りのみち』も今となっては心響かず…
4 :
神も仏も名無しさん:2009/12/11(金) 07:28:43 ID:IJ+E0tXf
GLAはネット上で批判サイトが存在すると徹底的に削除に持ち込むようにしてますね
5 :
神も仏も名無しさん:2009/12/11(金) 13:29:53 ID:xnVzL9xF
「GLA創立40周年記念プロジェクト」喜捨行概要
@募金の名称>「GLA創立40周年記念プロジェクト」喜捨行
A募金の目的>ご喜捨いただいた募金は、創立40周年を期して行われる「GLA創立40周年記念プロジェクト」の
「7つのプログラム」に使用されるほか、一部は「千年構想基金」に組み入れて使用されます。
B喜捨目標額>35億円
C喜捨行期間>2007年12月から2011年3月まで
D喜捨行の種類>喜捨行…1万円単位でお受けします
>積立行…毎日積み立てることで、布施行と同時に持続の行にお取り組みいただけます。
1日当たり100円、200円、300円のコースの中から一つを選び、積立額が9000円に達するたびにお受けいたします。
…どんだけ金かかるのよ!!
6 :
神も仏も名無しさん:2009/12/11(金) 14:44:24 ID:YzCUgYR9
GLAは明らかにおかしいですよ。私が会員のとき、
「高橋信次先生が通信を送る相手は佳子氏だけ」と聞かされました。
今も同じことをホームページで主張していますね。
百歩譲ってその通りだとしましょう。
では、佳子氏が高橋信次先生の霊言集を発刊していないとおかしいですね。
それとも、30年以上もの間、先生は何も通信されなかったとでも
主張したいのでしょうか。大川隆法氏、アマーリエ氏が受けた
霊言を本物であるとは認めたくないのでしょうね。
でも、自分が霊言集を出せないのに、そんな事言っても仕方ありません。
大川隆法氏、アマーリエ氏が受けた高橋信次先生の霊言を本物であると認めなさい!>GLA
7 :
神も仏も名無しさん:2009/12/11(金) 16:38:57 ID:Dn9zyWGV
>>6 アマーリエ氏って
やはり幸福実現党関係の?
8 :
名無しさん:2009/12/11(金) 18:16:13 ID:/6VznM4M
偽釈迦、実在しないエルランティーの信次。
偽ミカエル。信次の生まれが、パラノイア思考をしたんだろう。
9 :
名無しさん:2009/12/11(金) 18:32:33 ID:/6VznM4M
親子で、エルランティー、ミカエルの芝居してたなw
10 :
名無しさん:2009/12/11(金) 19:29:40 ID:/6VznM4M
>>5 信次が宗教で飯など食いませんて言ったんだから、金集めるなよ!!
11 :
神も仏も名無しさん:2009/12/11(金) 20:15:57 ID:YzCUgYR9
>>7 いいえ、違います。幸福実現党とは関係ありません。
まず天上界には、第1〜第3の計画がある、ということを認識して下さい。
第1の計画は高橋信次先生、第2の計画は大川隆法氏という
二人の救世主によって、人類のシフトアップが果たされる予定だったのです。
しかし、第2の計画が失敗に終わったため、3人目の救世主を急遽下生させることに
したのです。3人目の救世主は孔子の生まれ変わりということですが、
まだ子供ですので、当面の間、アマーリエさん率いるレムリア・ルネッサンスが
神理の法灯を守ることになっているのです。
12 :
神も仏も名無しさん:2009/12/12(土) 06:54:41 ID:DlP1jvGm
GLAは「真理→神理」「懇願→魂願」など漢字を変換する言葉遊びを好みますよね
13 :
名無しさん:2009/12/12(土) 16:49:32 ID:2zws2wKu
>>11 大川隆法が救世主だと?笑わせんな。
アーマリエ?どこのパラノイアだ、そいつは。
./⌒ ヽ
( ヽ アーヒャヒャ
ヽ ノ ヽ
ゞ、 丶 アーヒャヒャ
ヽ ノ \ _ _, ─' ─ ─ ,、 _
|\_ ノ\ , '´ ( ) ( ) `‐、
/⌒\ 丶 / / ヽ-、___ ,-r' ヽ.
│ \ 人 |/⌒ヽ | ! ヽ | ..|
/ \ / | | ! ! . ! |
( \ ヽ / / | ! ! . ! ..|
( | / ) | ! ! ...|
ヽ \ ヾ 丿(( ̄)/ 'i `'ー--‐‐'´ ノ
\ ヾ丿 ヽソ `''ヽ ヽ. ─''
ヽ ノ _ __/ ヽ __ノ:: 人__
|:::: 丶ー ̄ :: ::::::::::::::::: ̄ノ ̄ー-- ,,.__
\:::::::: ::::::::: ヾ ソ 丶 ヽ
ヽ:::: ヽ/ :|
\_| ::::::::: : |
| :: ミ: :: ::...........:::::|
. .|:::::: . ミ:::: ::::::::i :::::::::::::::|
.|:::::: ヾ:::: ::::::::::::| :::::::::::|
| ::::::: ミ: :::::::::::| :::::::::::|
|:::::: ノ ヾ :::::::::| :::::::::::|
15 :
神も仏も名無しさん:2009/12/12(土) 23:06:52 ID:l0uc8WO/
しかし、日本は豪華だねぇ〜
「ミカエル」も「仏陀」も再誕しているしwww
16 :
神も仏も名無しさん:2009/12/13(日) 12:36:19 ID:/XfFIB2k
>>5 Aの「7つのプログラム」の内容
1【歴史の整備】
・高橋信次先生、高橋佳子先生に導かれたGLA40年を振り返り、
その恩寵と喜びを後世に伝え、未来千年の礎とする。
>挑戦@『GLA40年史』の続纂
>挑戦A映像で綴るGLA40年の歩みの編集
>挑戦B膨大な先生のご指導映像等を、後世に保存伝承するシステムの確立
2【研鑽の充実】
・会員お一人お一人の条件とライフスタイルに応じ、「魂の学」を体得できる研鑽システムを整える。
>挑戦@『GLAテキストブックシリーズ』に基づいた短期間で集中的に学べる研修の地域拠点
(ターミナル及び映像反芻会場)での実施(基本ライフスタイル研修等)
>挑戦A様々な生活条件・ライフスタイルに合わせた研鑽の開発
3【人生同伴態勢の充実】
・誰もが困ったときに、「魂の学」に基づき、身近で相談に乗ってもらえるような
お世話の態勢をそれぞれの場に整える。
・円環的人生観に基づく魂の一貫したお世話を充実する。
>挑戦@神理を学ぶ専門家とも響働し、会員の皆様の解決困難な問題にも道をつけてゆく
(トータルライフ・パートナーズシステム)。まずはモデル地域で開発し、それを全国に広げてゆく
>挑戦A聖地八ヶ岳いのちの里に、師と弟子の永遠の絆を伝承する「人生祈念館」の
第1次着工
4【通信ネットワーク環境の整備】
・情報通信の環境を整備して、常に、先生と会員の皆様の絆が守られ、深まるようにする。
>挑戦@先生のご映像を、地域拠点まで豊かに配信できる映像通信システムの整備
>挑戦A地震などの天災が起こった時の会員のサポートのためのシステム整備
>挑戦Beメール等の活用による、共同体と会員の皆様のコミュニケーションシステムの拡充
17 :
神も仏も名無しさん:2009/12/13(日) 12:38:39 ID:/XfFIB2k
>>16の続き
5【社会発信力の強化】
・より多くの方々に、先生、神理を理解し、生きていただくために、地域、社会、
世界に広報していくためのシステムを整える。
>挑戦@ホームページの充実
>挑戦AGLAを紹介するパンフレットの充実
>挑戦B小講演会、映像放映の集い(仮称)の展開
6【拠点の充実】
・研鑽・奉仕、お世話、伝道のフロントを担う地域拠点(特にターミナル機能)、
そして、それらのはたらきを全体で支え、調整するはたらきを担う総合本部機能を充実する。
>挑戦@会員分布に応じてターミナル等、地域拠点の整備を行う
>挑戦A総合本部会館群の整備。その第1着手点は、総合本部本館(現八起ビル)とする
7【「GLA千年構想基金」の充実】
・千年の時を経ようとも、先生、神理を正しく伝承し、菩薩を生み出し続ける共同体を
めざして、「千年の礎づくり」を支える基金の一層の充実を図り、今後具体化する計画の
実現等に備える。
>挑戦@青年育成基金の創設
>挑戦A各地の学び舎の整備支援と維持管理の推進
18 :
神も仏も名無しさん:2009/12/13(日) 12:40:46 ID:/XfFIB2k
↑ 完璧な洗脳システムですね
19 :
神も仏も名無しさん:2009/12/14(月) 07:40:35 ID:wDYs5N74
>>17 揶揄するだけなら、サルでもできるでしょう。
>>6 をよくお読み下さい。
大川隆法氏、アマーリエ氏の霊言が偽物だというなら、
本物の霊言はどこにあるのか示してもらえませんか。
それとも、30年以上もの間、高橋信次先生は何も通信されなかった
というなら、その理由を示してもらえませんか。
20 :
神も仏も名無しさん:2009/12/14(月) 07:41:37 ID:wDYs5N74
高橋先生の最近の顔写真ありますか?
22 :
神も仏も名無しさん:2009/12/14(月) 14:41:35 ID:zd1/6a2T
>>21 あるよ
でもうっぷしたらタイーホされるからヤメとく
>>12-13 しかも 常に 仏教用語など漢字を逆にして表記する
例→ 転生輪廻などなど
見る目があれば 矛盾だらけに気が付くよ
24 :
神も仏も名無しさん:2009/12/14(月) 14:46:38 ID:zd1/6a2T
>>16-17 ここもただの与太カルトだよ
カルトは 社会と文化、人命、財産、自由、権威など、ありとあらゆるものを、否定し破壊するだけでしかない、害悪、人災、疫病神である!無能で怠け者、それ故に、社会に要らない連中、存在するだけで人命に取り返しが付かない危害を加え続ける悪の代名詞とは、
マスゴミ 政治屋 日本経団連 公務員 カルト
そして 警察チョン
殺人鬼を利用して来ただけでなく、殺人鬼に利用される馬鹿っぷりをサラしては、
日夜、犯罪者に敗北し続けるブザマな警察チョンも客観的に社会の敵、
多田、危険をもたらしては、多田、危険を拡充させるだけでしかない、
智恵遅れで醜悪な悪そのものでしかないのだから、
必定として社会から排除しなければならないだろうな。
>>2 ここは 教祖が偶像 偶像崇拝だけが目的地だったよね
今 世界が飲み込まれた真実は 自殺願望の人類の道だ
ということは、
犯罪を『目に』したら、
真っ先に、破壊カルト、警察、マスゴミ政治屋だけをまず疑え!、
というのが今日の社会の実相、正体だからね
したがって、人類の根絶こそが 地球を守る唯一の選択肢である現実は 揺るがず、すでに検証の余地はないものだ
>>24 めちゃ美人じゃないっすか!もっとないですか?
あげ
29 :
神も仏も名無しさん:2009/12/14(月) 19:49:55 ID:AoYTJGH7
31 :
神も仏も名無しさん:2009/12/15(火) 09:46:17 ID:rO3a6bO2
>>19 本物の霊言がどれか
どこかにあるはずだ
というのはアンタの願望意識がそうさせている
実際にはどれもこれも怪しい物ばかり
確たる証拠が一つも無いばかりか矛盾だらけです
大体ね、どれもこれも自分たちに都合の良いような道筋の話ばかりじゃないですか
しかも決まって指導者を救世主扱いだ
稚拙極まりない法螺話満載の誇大妄想と言えよう
だから霊言なんて全て創作と考えるのが妥当ですよ
どの道 霊言なんてバレない嘘だから
信ずるに値しない
という選択肢もありますよ
32 :
神も仏も名無しさん:2009/12/15(火) 10:07:16 ID:rO3a6bO2
>ここは 教祖が偶像 偶像崇拝だけが目的地だったよね
偶像崇拝が逝けない
とする教えに納得し魅了され
いつの間にやら
教義を異常なまでに賛美賛同する教えに引き込まれる
そしていつの間にやら
教祖を崇拝していることに気付けない或いはそれを良しとするシステムを構築しているんですよ
影響を受けた団体にもいえますが
本の中身は人類史上始まって以来唯一無二の真理で空前絶後の内容といったふれ込みですから
感動した読者は
自分が家族や他人全てより偉くなった価値観を持つ
しかし著者には当然頭が上がらない感覚が根を下ろす
そうなれば
社会生活に支障をきたす程の勘違い人間が生まれても不思議は無いですね
33 :
神も仏も名無しさん:2009/12/15(火) 10:24:11 ID:aIIGt6LK
>>11 短期間にそれだけ杜撰な計画をしたアンタの信じる天上界てなんなの?
第二計画で失敗したから
我々こそ本物だと吹きたいのだろうけど
早い話が、あわよくば両方の信者(失望したオコボレ信者含む)を要領よく横から頂戴したいという下心丸見えのシナリオしか見えてきませんね
■□■□■□■□■□■□■□■□
高橋信次の霊言集
□■□■□■□■□■□■□■□■
-----------------------------------------------
人生の目的と使命
-----------------------------------------------
■人生の目的を知るには、まずあの世を知れ
『高橋信次です。こうしてまた、地上の皆様方にメッセージを送ることができたことを
非常に幸運に思います。本日は「人生の目的と使命」こういう演題を頂きましたので
これについて語りたいと思います。まあ、難しくなり過ぎてもいけませんから、
皆さん頭の体操のつもりで聞いて頂ければいいと思います。
まず、人生の目的ということについてお話したいと思います。この人生というものを、
まずどのように捉えるかということが肝心であります。
人生というのを、よく哲学者の文章などを見て、人間はいろんなことを知っているけども、
自分が何処から来るのかも、また何処へ行くのかも知らない。何処から来て
何処へ行くかを知らない。そんなことで哲学者なんかは哲学的思索にふけっているわけです。
まあ、三木清という哲学者が居ましたが、三木清なんかも「人生っていうのは解らない。
人間は何処から来たのだろうか、そして何処へ行くのだろうか、
やはり魂なんてあるのだろうか。」こういうことを言って哲学者は一生を終われるんです。
そういう意味で幸福ですね。ところが私たち、宗教家というのは、それでは済まないんです。
魂の存在、転生輪廻、こういうものを当然として、更にその中でどのようなものを掴み取っていくか。
或いは、どのような説明をしていくか、そういう意味で、私たち宗教家というのは、
本当の意味で心の世界を科学しているわけです。サイエンスなのです。
ですから、あなたたちの地上界の科学というものは、この物質世界を
わずか研究しているにすぎないんです。ところが私たちは、多次元をも、
包摂した世界を探究しようとしている宗教家ですから、
宗教家というのは心の世界の科学者、まして、多次元世界の秘密を
解明しているのですから、これは、現代の物理学者たちの最先端をも、
超えているわけです。現在、物理学では、三次元以降の世界、四次元、
五次元、六次元、七次元、八次元、九次元、こういう世界があるらしいということは、
数式でも分っているのです。現にあるということは。そして、そういう所で、
どういう特色があるということも何げなく分っているわけなんです。
分っているけれども、その世界について、行って見たことのある人が居ないから、
うまく説明ができないんです。アインシュタイン以降、皆、分っているんです。
ただ、その四次元以降のあるらしいという世界と、この三次元との関わり、
或いは宗教家たちが言う、あの世、それとこの世界の違い、これがはっきり分らないんです。
ですから、まあ私も科学者であったし、そういうことで、そのことをできるだけ科学的に
解明するということで、私の著書の中にも、できるだけ疑問追究、探究をしたつもりです。
けれども、あれだけでもまだ分らない。それでは高橋信次が、生身の体を捨てて、
こちらへ他界して来たのですから、この立場でもう一回、この人生というもの、
本当の人間の道筋、こういうものを解明したいと思います。』
■魂は、握一点、開無限の存在である
『まあ、霊魂を信じている人、魂というものを信じている人でも、
二通りあるんです。一つは何となく、人間は魂が母体の中に宿って、
お母さんのお腹の中から出て来る。だから結婚、妊娠、出産、こういうことに
よって魂が作られる、と思っている人が居るんです。
作られた魂が、肉体に宿って六十年、七十年の人生修行をして、
そしてあの世に帰って、あの世の一員となる。こういうふうに考えて
いる人が居るんですが、これは不十分です。本当のことを知りません。
魂というのは、結婚して子供がお腹にできて、そしてできるわけではないんです。
そこでできるのは、精子と卵子の結合、結合によって色々な分裂が起きて、
細胞分裂が起きて、だんだん大きくなってきて、最初はオタマジャクシのような
形をしていたのがだんだんヒヨコみたいな形になって、亀みたいになったりして、
だんだん人間みたいになって、まあ系統発生というか、進化の過程みたいなのを、
そういう形で表わしていますけれども、そういう形でだんだん人間のように
成ってくるわけですけれど、それによって魂ができるわけはないのです。
肉体が最初、低級な形をとっているからと言って、魂がそれでできるわけでは
ないのです。魂というのは、もう生れて来る前にちゃんとした成人となった姿で
居るのです。ただ魂というのは、あなた方人間としての目で見ているから、
この肉体を百六十何センチ、何十何キロというような、こういう肉体と同じ形のサイズで、
魂がきっと入っていると思っているわけです。
こういう物質的というか、物体的な物として見ているわけですけれど、本来、
魂というのは、そんな物じゃないんです。自由自在なんです。魂というのは、
もう広がろうと思えば一キロでもニキロでも、或いは宇宙大にまでその広さを
広げることができます。或いは握一点となります。
ですから握ってしまえば、米粒程にもなってしまうのです。こういう自由自在
なものなのです、魂というものは。ですから高橋信次としての私の魂も、今、
宇宙大に自分を拡げようと思えば、まるで神様と一体、神と一体になるような
気特ちになることもできます。また、そこにある米粒一つ、そういうふうな
小さな物になることもできます。極大から極微へ自由自在なのです。
ですから生きている皆様は、魂というものが特定の形をとっていて、
物体として入ってくるのではないということ、これを念頭において頂きたいと思います。
ですから、魂というのは一つの想念体であり、エネルギー体なのです。いいですか、
神のエネルギー体の分派なんです。分れたもの、その一つが魂なのです。
だから魂があくまでも、例えば幽霊なんてあなた方よく聞くけれども、
人間の形をとってるように見えるのは、生きていた時に人間としての記憶があるから
自分はこういう姿だと思っているから、その姿をとっているんです。
しかし実際はそんなもんじゃないんです。魂というのは自由自在、
ガス体でも何でもいい。だから私が、高橋信次としての姿を良しと思えば、
そういう格好して出ることも勿論、できるけれども、あんな不細工な男は嫌だ、
と、もっと二枚目の映画俳優のような姿になりたいと思いさえすれば、
そうなるわけなんです。これが魂なんです。
そういうふうに魂というのは、千変万化、自由自在のものだということをまず、
これを頭において頂きたいのです。魂というのは、体積があるものでもないのです。
もう握れば一点なんです。一つの点です。開けば無限です。こういうものです。
いいですか、まずこの認識が大事です。
ですからあの世で、或いは、私たちから言えばこの世で、天上界において
成人した魂であっても、肉体、五体に宿ればほんの小さな、こんな子供、
赤ん坊の小さな、一センチ、ニセソチの赤ん坊の中にも宿ることができるのです。
やがてこの意識が、その肉体と同通して、肉体の成長と共に魂も成長していきます。
そして母体から離れて出産します。
後はあなたたちが御存知の通り、生きている人間として、幼少年時代、
少年時代、青年時代、そして恋愛して結婚して、そして子供を育て大人になり、
老いてやがて死んでいくという、こういう過程です。この間、肉体を持って
魂は何十年かを連れ添うわけです。
ですから、まず人生の説明を私はしているんですけれども、
人生の始まりというのは、そういうものだということです。
決して結婚、妊娠、出産によって魂ができるものじゃないんです。
魂はもともとある、魂の認識としては、そういう自由自在なもの、
無碍(むげ)なもの、融通無碍(ゆうずうむげ)なものが魂なのです。』
■魂は肉体意識と共に成長していく
『それが、肉体意識と一緒に成長していく、そして人生経験を得る。
そして七十年、八十年ですか、例えばこの世を去る時が来るんです。
あなたも七十だとか、八十で死ぬかとか、長く生きても百で死ぬとか思ってますが、
これは、しかし必ずしもそういうものではないのですよ。例えば、
肉体生命だけみれば、昔は四百年、五百年生きた人も居るし、或いは
一千年以上生きたという人も確かに居るんです。私はこちらの世界から見て、
そういう記録、全部持っていますから分るんです。しかし現に今でも生きようと
思えば生きられるんです。ただ魂の修行がこの段階で終わるんです。
同一環境で、同一時代で、今のような時代といったら数十年すれば、
一通りの勉強が終わるんです。
ですから、これで五百年、千年生きると、却ってまた、落第して行くんです。
他の魂は、もう、五十年、六十年、七十年で卒業して、私たちの世界で新たな
勉強しているけれども、この地上に長く留まり過ぎると、魂の修行が遅れて行くのです。
そういう意味があって、みんなに遅れをとらないようにということで、皆さん
平均寿命になったら死んで行くんです。それは肉体の限界と言うよりは、
魂がそれを欲しているからなんです。
まあ、三界は唯心の所現、と言いまして、思いの通りの肉体になるし、
あなただってそうだけど、心が二十代を保てば、外見も二十代になるし、
五十代の心を持って居れば、皺くちゃ婆ちゃんになって行くんですよ。
そのように影響が出て来るんです。そういうもんです。』
45 :
神も仏も名無しさん:2009/12/15(火) 14:53:42 ID:D04gNAG7
●新字お宅が妄想して書いたんだな
何々モドキていう擬態化した昆虫か爬虫類みたいなもの
読者をなんとか信じ込ませて生け捕りたいのだろうけど
何せカビの生えたような話を更に劣化コピーしただけだから
胡散臭いのなんの
偽者仏陀の更に偽を晒して本物とのたまう姿は滑稽この上ない
■最後の審判の本当の意味
『そして死んであの世に帰って私たちの世界でまた、修行するわけです。
その時に生きていた人間として生きた時に、合格点を貰った人、或いは、
落第点を貰った人が出て来るんです。これが、イエス様が言っておられる最後の
審判とはこれなんです。皆さん、クリスチャンの方々、最後の審判と言うと、
何か世紀末になって、この世の終わりの時が来て、今まで修行した全ての魂が
集められて、最後の審判にかけられて、「お前は地獄へ行け、永遠の地獄で火に焼かれろ、
業火で焼かれて死んでしまえ」、そうでなくて、イエス様の言葉を信じて、神様の世界に
入りたい人は永遠の生命を得て、最後の審判の時に、もうあの世で楽ちん、
エデンの国で遊べると、こういうふうな考え方がクリスチャンにはあるんですよ。
そうじゃないです。それは間違っているのです。
最後の審判というのは、一人一人に対してあるのです。いわゆる、肉体を去る時です。
これが最後の審判なのであります。まあ、決して地獄に閻魔(えんま)大王が
居るわけじゃないんです。そういう人が居て測られるわけでないんです。
けれども、自分白身の良心、良き心に真心、神なる意識、神様の意識が、
これが自分の数十年の思いと行いを裁くのです。これは、なぜ裁けるか、それはそうです、
そういうものがちゃんと入っているのです。生きている人間の中に入っているのです。
教育され、色々な環境の中で生きて来たから分らないでしょうけど。本当は神様の
物差しというのが、一人一人の人間の中に植え込まれているのです。
ですから死ぬ時になると、これが自由自在になるから、この一メートルかニメートルの
物差しを出して自分の心の成長度を測れば、一メートル以上いったら合格点、数センチなら不合格
とはっきり出るんです。ですからあの世へ行く時、ちゃんと測られるわけです。
これはあなた、相撲取りの弟子入り検査と同じです。身長がいくらでしたか、
一七三センチ、体重が七五キロか何か知らないけど、それ以上なかったらお弟子さん
になれないとありますね。それで相撲取りになれる人となれない人とが居るんです。
同じようなものですよ。あの世に行く時にそういった秤があるわけです。身長一七三センチ、
体重七五キロ、なんていうと私からいうと、羨しいサイズだけれど、まあ例えばそういう
基準があるわけです。そして、あの世で、天国行く人と地獄行く人と分かれるのです。』
■地獄は特訓所である ― 餓鬼地獄の実態
『地獄へ行く人というのはあなた方、悪く考えるけれども、本当は訓練生なんです。
訓練。要するに特訓です。自動車の免許なんか取っても、仮免許取るまでに何回も
落第する人、居るでしょう。そういう人のために特訓コースが設けられているのです。
これが地獄なんです。地獄というのを間違っている人が居るんです。
正反対の世界、闇の世界、そう思っている人がいるけれど、そうじゃないんです。
地獄というのは特訓なんです。今でも「地獄の特訓十三日」なんてあるでしょう。
まあ、これは冗談です。地獄というのは、そういうふうに善悪ニ元で神様に
対する悪魔の世界と考えるよりは、やはり特訓所なんですよ。
だからこの世で悪戯(わるさ)をしている人が、一杯いるんです。
そして自分は一番偉いと思っている。或いは自分が一番賢い、一番強いと思っています。
じゃ、そういう奴ばかり居る所にぶち込んだら、どうなるかと、これも大変ですよ。
俺より腕力の強い奴がいるなとか、俺より体の大きいのが居るわとか、なんと俺も
意地悪いと思ったけど、俺よりもっと意地悪いのが居ると、こんな意地の悪い奴に比べたら、
俺なんか善人だなあとか思います。色々と反省の材料があるわけですよ。似た者同士が
集まっても、その大小色々あるから、そういう反省の材料があって特訓されるわけです。
地獄の世界というのは御存知のように「類は友を呼ぶ」ですから、まあ餓鬼地獄は、
餓鬼地獄の霊ばかり集まっているんです。餓鬼地獄というのは、例えば満足できない人ですね。
足ることを知らない人が居る所です。そうすると、人が自分に何もしてくれない。
神様が自分を幸福にしてくれない。あの人が僕を苛(いじ)めた。
全て、人のせい。一杯居るでしょう、あなたの回りにも。全て、人のせい。
自分は悪くない、けれども自分はこういうふうでありたいと思うのに、
その通りにならない。だから世の中が悪い、だから世間が悪い。こう思う、
これが餓鬼地獄です。間違いありません。そうすると、そういう所へ行くと、
そんな人ばっかり集まってるわけです。例えば、高橋信次が餓鬼地獄に堕ちたとしようか。
高橋信次としては、餅が十個食べたいと思っている。餅が十個食べたいが、
餅を十個くれる人は居ない。自分は餅を三個しか持っていない。
ところが高橋信次よりもっと悪い奴が来てですね、私の三個しかない餅を
取り上げて行くわけですよ。
この野郎!俺が三個で不自由で、不自由でカッカカッカきていて十個何が何でも
欲しいと思ってるのに、俺はお腹が大きいから、甘い物大好きだから十個位食べたいと
思っているのに、実際は三個しかないので、不満を持っていたら、
その三個さえ取り上げて行く奴が居るわけだ。鬼みたいのが出て来て、
ひどいことするわけですよ。ああ、俺は三個、三個しかないと思ったのにこの
三個まで取られてしまった。これは、とんでもない世界ですね、そしてカッーと頭に来る。
この野郎! 俺の三個を取りやがって。向こうは向こうで、また思っているわけです。
俺は五個欲しいと思っていた、それが二個しかなかった、高稿信次の大福餅三個取り
上げて、これで五個になった。ああこれで僕は幸せ。
なんて、相手のお兄さんは言ってるわけです。
だから、高稿信次、地獄へ堕ちた高稿信次はもう、たまらんわけです。
もう許せん、この野郎、五個全部取り返してやる。取っ組み合いが始まるわけですよ。
そして取った取られたと言ってやり合うわけです。こういうことを永遠にやっているうちに、
だんだん馬鹿らしくなって来るんです。ああ馬鹿らしいな、と回り見渡したら鬼が
三匹か四匹居ると、お前ら何個持っているんだと、大福を持ち寄って出して見て、
俺三個、俺二個、俺一個と数えます。まあ、お前体大きいからちょっと多い方がいいよな。
お前小さいから我慢しろよ、とこういう話し合いが始まって分けたりするようになる。
そうすると、心がだんだん平安になって来るわけです。
54 :
神も仏も名無しさん:2009/12/15(火) 17:09:05 ID:Wf1N/fDD
↑アーマリエ氏の霊言?○川○法氏の霊言?
霊に頼るのもうやめろって。
人生、自己責任だろうが。
あれ!俺たち何していたんだろう、今迄餓鬼地獄って馬鹿なことしてたね、
みんなで話し合って、分けて満足すればいいじゃないかと、
要するに基準は公平だと。全員が思う程はないんだから、五個思う人は二個しかないし、
十個思う人は三個しかないと、全員が思う通りないんだから、まあ思う通りないのは
まあ仕様がないじゃないか、じゃ現にある物を集めて、これで公平に分配したらどうなるか
考えてみようじゃないか、こういう時期が来るわけです。
そして公平だという基準を知って、分け与えるようになるんです。
こうすると、こういう人たちはだんだん地獄に居なくなって、普通の人間になって
行くわけです。そして天国へ昇って来るのです。これが餓鬼地獄です。』
56 :
神も仏も名無しさん:2009/12/15(火) 17:23:27 ID:Wf1N/fDD
第3の救世主アーマリエはフランス人?
57 :
神も仏も名無しさん:2009/12/15(火) 17:41:10 ID:Wf1N/fDD
Q : インターネット上の匿名掲示板に、
GLAに対する批判的な投稿記事が見られますが、
書かれている内容は本当のことでしょうか?
A : GLAは、皆様からお寄せいただくご意見やご批判は真摯に受けとめ、
より一層社会に貢献できる良き団体になれるよう日々努めております。
しかしながら、現在インターネット上の匿名掲示板等に見られる批判的な
投稿記事の多くは、無責任な攻撃的批判であったり、虚偽の情報による誤解
に基づく批判であったりするのが現実です。
GLAではこれまで、これら根拠のない批判的な投稿記事について、
法律の専門家とも適宜協議の上、名誉毀損に該当する投稿記事に対して
法的措置を講じた結果、記事投稿者ご本人がGLAに対する名誉毀損を認め、
文書にて謝罪するという結末に至っております。ただ、仮に投稿者本人が
GLAに対する名誉毀損を理由に削除を求めても、インターネットのシステム上
の制約により、当該投稿記事を消去できないという状況があり得、
現にこのような事態の発生を確認しております。
従いまして、皆様におかれましては、これらの記事に惑わされることなく、
現在GLAにて展開されている「魂の学」の実践をご覧いただき、
ぜひ事実に基づいたご理解をしていただけますようにお願い申し上げます。
58 :
神も仏も名無しさん:2009/12/15(火) 18:37:19 ID:neYBMWXP
GLAの人ってさ〜なんで「快暴流」やら「苦衰退」やらの四つのパターンで人を決め付けるの?
血液型占いじゃあるまいしさ〜強引にパターン化させんなよっつ〜の!!
人間なんてその時々で感情の変化があって当然だよ〜
「生まれっぱなし・育ちっぱなし」が悪い??
んなもの社会に出て「人生経験」積めば何が良くて何が悪いなんて自己責任でわかるっつ〜の!!
59 :
神も仏も名無しさん:2009/12/15(火) 20:32:56 ID:gyBcbmVk
苦暴流ですね。
■多くの現代人が堕ちやすい血の池地獄の実態
『まあ他にも一杯あります。色情地獄なんてあって、あなたも興味あるかどうか
知らないけれども、昔から聞いているでしょう。血の池地獄なんてあるんですよ。
どういう人が血の池地獄へ行くか、不純異性行為ですか、不純異性行為をしたら行く
と思っている人が一杯居る。まあそうかも分らない。不純真性行為がないのに
行くわけないですね。まあ、あるのが前提です。あっても行く人と行かない人が居ます。
この血の池地獄、情欲地獄には、どんな人が行くかと興味あるだろうし、
まあこの世の人たち、現代の人たち、良く聞きなさい。あなた方、皆さん、
随分興味持っている筈なんです。地獄なんてないと思うけど、もしあったとしたら
俺はここに堕ちるんじゃないかと、思っている人が一杯居る筈なんです。
情欲地獄、血の池地獄というのはあるんです。現にこれは、本当に生臭い世界ですよ。
ブクブクと息もできない位、血をドロドロと飲んじゃって、ああ苦しい、
もう窒息して死ぬかと思って、ハッとしてまた、気がついてまた血の池で
這いずり廻っていると、そこに裸の男も女も居るわけですよ。ところが
生きている時は、若い女性の裸ってこんなにも、いいもので、素晴しくて、
最高と思っていたのが、何んと血の池地獄で、自分は血まみれ、向こうも血まみれ、
で裸で這いずり眉っているわけです。何んでこんなに汚いのかと思って、
ぞっとするわけですよ。それでも煩悩が消えない男というのは、
裸体の女性が居ると追い掛けて行くわけです。
地獄でも追い掛けて行くと、そしてワッと飛び掴んだと思って、
ぐっと振り向かれると、口が耳まで裂け、
目は欄々(らんらん)牙が生えて、何とも言えない臭い息を吐く女性なのです。
鬼婆ですよ、綺麗な女性と思って抱き締めようと思ったら、何と鬼婆だ、
頭には角が生える、ロは裂ける。そしてまあ、血はもう一杯だし、
こんな気持ちの悪いものはないと思い、だんだんに悟るようになって行きます。
そういうものに興味を持った人たちが、空しさに気づいて来ます。
「俺は何をしてたんだろうか、俺はもう男女の交わりが人生最高の
歓びと思っていたが、こんな汚いものだったのか、
もっといい世界があるんじゃないか。」
そういうことをボツボツ考え始めるんです。
そうすると「ああ、そう言えば昔、高橋信次なんていうのがGLAにいて、
何んか偉そうに喋ってたな、確かあいつの話を聴いた時に、人間は肉体ではなくて、
肉体は舟ですよ、魂が船頭さんですよ。魂が船頭さんで舟を操って
川を下って行くんですと、ところが舟が自分と思って、舟が勝手に走って
岩に打(ぶ)つかったりして砕けちやうと、こんなのではいけないんですよ。
船頭さん、しっかりしなさい。と確か、あいつが言いおったな。
とそうすると俺は舟なのかな、船頭さんなのか、待てよ、船頭さんとしての
自分の意識を忘れていたのではないか」と気づきます。「ああいけない、
やっぱり人間は生きて行く以上、肉体の思うがままに生きてはいけないんだ。
やっぱり心で、心というもので確(しっか)りコソトロールしなければいけない。」
こういうことを悟って行くんです。そうしたら、この人は地獄から出て行きます。』
■地獄の特訓所は自分の欠点を悟る早道
『こういうふうに、それぞれの環境を用意されているのです。私は特訓の話を
しているんですよ、間違わないように。それぞれの人間の一番過ちを起こした
世界へ行って、似た者同士が居たら、いいですか、善意な第三者の立場で自分を
なかなか見れないんです。だから自分の鏡みたいな人間、そっくりな奴が一杯回りに居ると、
分るわけですよ。自分とそっくり、もう大福欲しい人ばっかり居ると、大福を求めているのが、
どんなに馬鹿らしいことかが分ってくる。或いは、血の池地獄で裸体ばかり追い掛けていると、
他の奴がやっている馬鹿らしいことを見て、こんな馬鹿なことをやっているのかと、
やっと気づいてくる。こういうもんなんです。
ですから、皆さん、地獄というのを特別の世界と思ってはいけないんです。
これは或る意味では、エリートコースなんです。まあ、普通の人間が本読んだり、
人に教わったりして、やっと分ることを彼らは、特訓所にぶち込まれて、
強制、特訓されて、あっという問に、あっとでもないけれど、
あっという間が二、三百年だったりするけれど、まあ、彼らにとっては、
一番最短コースなんです。地獄というところは。
それはそうですよ、あなたの欠点があれば、同じ欠点ばかり持っている
人間ばかり集めて、お互いに何んですか、と勉強させれば、一番早く気がつきますよ。
それを偉いお坊さんの話を悠長(ゆうちょう)に聴いていたら、
いつまで経っても分らないんです。
66 :
神も仏も名無しさん:2009/12/16(水) 13:58:18 ID:1bffduaQ
♪レ〜ボリュ〜ショ〜ン♪
…10年くらい経ったかな?
あの時の青年同志(笑)で肩を組みながら歌った気恥ずかしい歌…
佳子さんが泣き声風に「あなた達どうしたの?!」と言うと一斉にすすり泣く若者達…
マインドコントロールってマジ怖いお…
「やっ諸君、人間というのは魂であって肉体ではない、だから肉体ばかりに
走っちゃいけない。だからいけないんです。心ですよ」なんて言われても
「何んでですか、僕はあの女性がいいと思うし、綺麗だと思う、綺麗なものを
手に入れて何が悪いんですか、いいじゃないですか」
「いや、しかし、あなたは妻子ある身じゃないですか」
「妻子ある身っていったって、だってあんなのは色々昔からありますよ。
妻子があったって、妻子を路頭に迷わせなければいいじゃないですか。
母ちゃんが知ったらそれは可哀相だけれど、知らない所でやる分には何、
構わないじゃない、僕も嬉しいし、相手だって嬉しいって言ってるんだから。
相手の人だって、是非、俺みたいな人と結婚したいって言うけれど、たまたま
戸籍が入っちゃって、うちに母ちゃんが居るし、子供が居るし、できない。ただ母ちゃん
子供に迷惑させない程度に俺が楽しむ分には、向うもハッピーだし、俺もハッピーだし、
世界は全てバラ色です。お坊さん何が悪いんです」
「ま、これは何も悪くないですよ、しかし子供作って二人できてしまったらまずいでしょうが」
「子供さえ作らなければあなた心配ないじゃないの」と、こう来るわけです。
するとお坊さん困っちゃって「碓かに、それはそうだけど、まあ人に迷惑掛けなくて、
本人が楽しむ分には、まあ悪くないかな」なんてだんだん思い始めます。
じゃ、その先、行き着く先はどうなるかと見せられると、そこで初めて「はっ」と
悟るわけですよ。そういうものなのです。だから地上の皆様、よく聞きなさい。
地獄もいいところですよ。地獄で特訓を受けるというのは、超エリートですから、
一回行かれるといいですよ、話の種に。天国なんていうのは退屈なもんですよ。
羊が草を食み、ライオンが昼寝をし、そんなんじゃ面白くありません。
ライオンが羊を追い掛けてガブガブと血みどろで食べるような所見てた方が、
それは刺激があるんですから、そういう地獄も一度は経験しなさい。
ただ地獄が全てと思っちゃいけませんよ。天国も知っておきなさい。順に入っていれば、
あの世で地獄に行ってもそこから抜け出すのが早いから、そういう意味で、私の教えを良く聞いておきなさい。
今、冗談まじりに言ったけれども、これ人生というのを私は説明しているのです。』
■人生を永遠の転生輪廻の中で捉えなさい
『人生というのは、人間の六十年、七十年だけではないのです。そうじゃなくて、
生まれる前、死んで後、これも人生だということです。そして人間の
魂というのは永遠に転生輪廻(てんしょうりんね)を重ねて行っているんです。
地獄へ行った人は、さっきの大福の食べ方の勉強して、天国へ入ったら、また、
色々な人に教わって適当な、元居た位の階層まで上って行くわけです。そこでまた、
あの世で勉強することがなくなったら、じゃもう一回生まれてこようかなと、
その時地上の環境も変わってるからまた、面白い、勉強できるんじゃないかと考えて、
そしてもう一回生まれて来るんです。
こういうふうに人生というものは、永遠の転生輪廻を繰り返していて、
人間は天国とこの世、地獄もあるけれど、あの世とこの世の間を行ったり
来たりしているんです。まず、これは正しい人生観です。これがなければ全然分りません。』
■人間はすべて天国から生まれ変わってくる
『それと、もう一つだけ言っておこう。私の本にも書いてあるけども、
よく宗教家たちは、この世の人間を善人と悪人に分けちゃうわけで、
善人というのは上の方で天国から来て、悪人というのは地獄から来ていると、
こう思っている人が居るんです。特にクリスチャンに多いんです。イエス様の間違いか、
或いは弟子が間違えたのか知らないけれど、イエス様の言葉でそういう悪霊に憑かれた
人たちに随分厳しいことを言っているんです。お前らは下から来だ人だと、私は天から来た人、
だからお前らとは違うんだと言いました。或いは、イエス様を迫害した人が一杯居います。
モーゼの律法を信じている人たち、こういう人たちに対して、お前ら下から来たが、
私は上から来た、だから違うんだ、なんて言ったから、あの人十字架に掛けられて
最後死んでしまいました。そういうふうな差別心であってはいけないんであって、地獄からは、
人間は生まれ変わってこないです、これは前提ですから、しっかり抑えて欲しんです。
特にクリスチャソよく聞いておきなさい。生まれつきの悪人は居ないんです。
少なくとも地獄に堕ちていたとしても、最低限度の悟りを得て、人間が霊的な
存在であるということと、悪いことよりは、いいことをした方がいいということの最低、
この二つを悟った人、でないと生まれ変わって来ないんです。雲的存在であるということと、
悪いことよりは、いいことをした方がいいという、この二つです。これが最低分った人
でないと生まれ変わって来ないんです。
しかし、過去世の色々な業(ごう)というのがあって、色々な影響が出て来るんですけど、
人間として生まれる時、優れた人と、そうでない人があるけれども、少なくとも、
みんな悟った存在であることは確かなんです。それで生まれて来るのです。
だから他人の見方も、そういうことですけれど、人を見て悪人と思うな、という言葉は結局、
地獄から来たと思っちゃいけないと、そう思ったら。
ユートピアはできないですよ。地獄から生まれ変わって来ているなんて思ったら、
人類の半分とか九割は地獄の人になってしまいます。どうして。
ユートピアができますか。みんな悪人で、心清き人は私と彼女だけ、なんて言ってたら、
あなた、ユートピアなんかできませんよ、そうでしょう。
まず、人生というのを見た時、生まれ変わって来る時は、皆さん天国から来たんです、
これをまず、知りなさい。ところが、人間として何十年か生きてあの世へ行く時は、
天国へ行く人と地獄へ行く人が居るんです。
どうしてそうなるのか、良く考えてみなさい。そこで初めて、人生の目的と
使命というものが明らかになるんです。だから目的というのは、今までの話を聞いて
大部見えて来たと思いますけれど、人間の目的というのは結局修行なんです。
人生の目的は修行なんです。』
■三次元世界創造の二つの目的
『では、何故、神様はこんな三次元を創られたか、これが面白いですね。
これはあなた方にも永遠のテーマになるでしょう。こんな肉体なんかに宿って、
まあ、劇しているようなもんなんです。縫いぐるみを着て居るんだから、そうでしょ、
これは重いんですよ、あなた。私は今軽くって本当に助かりますよ。体重計に乗ったって
針が動かないんだから、これは軽いですよ。ところが一旦人間になって体重計に乗ると、
体重七十五キロだ、八十キロだと言われて、医者からあなた十キロ痩せなさい、
十キロ痩せないと死んじゃいますよ。なんて苛められるわけです。元々、僕たちは
体重なんてないんですから、それを、たまたま肉体を持ったら、何が悪いんですか。
体重くらいあったって、この際医者に言っておきたいけど、あなたどうでもいいことなんですよ。
そういう不自由な入れ物に入って修行するわけです。
何んでそんなことをするのか、何んで不自由な肉体に宿って魂が修行するのか、
これは、こういうことなんです。あなたは先程、私たちがガス体だなんて言ってましたが、
まあガス体と言えばガス体だし、意識体と言えば、意識体なんです。意識体で生活している
分には、自分たちが意識体だということが、なかなか分らなくなって来るんです。
最初は分るけれど、だんだん自分たちの世界の素晴しさが分らなくなるんです。
だから私たちは、飲まず、食わず、ひらずでやっているわけですけれども、飲まなくても、
水を飲まなくても死なない、肉を食べなくても死なない、ご飯食べなくても死なない、
不思議ですけれど、それが普通なんです。
ところが、そうした生活ばかり続けていると、それが不思議だということが
分らなくなってくるんです。だんだん忘れちゃって、当然だと思っちゃうわけです。
そうじゃないんですよ、そういうことも当然じゃないんです。これは、素晴しい神様が
創られた世界なんです。人間が、そんなに幸福に暮らせるような世界を創って下さったんです。
それが分るためには、一旦不自由な世界へ行ってご覧なさい。三次元へ行ってご覧なさい。
三次元へ行くと大変ですよね。あなた方の毎日のご飯を考えたって偉い女性が、ご飯の準備を
したりしなければいけないわけです。こういう人生の、何というか無駄と言っちゃ失礼だけれど、
必要な時間があるわけです。
或いは睡眠時間なんて言って、一日八時間普通の人は寝ています。ここに居る誰かさんなんか、
一日十二時間位眠たりして、要するに人生の半分位、寝たままで終わっちゃうなんていう人も
居るわけですから、こういう人たちにとっては本当に無駄な、辛い人生なのです。
八十年生きてたって、四十年寝てたりしてるかも知れません。そういう不必要な
時間というのは随分あるんです。
ところが、私たちは意識体だから、もう二十四時間、そんな時間はないけど、一日二十四時間、
フル活動です。ところが、あなた方は八時間寝なきやいけない。残りの八時間は飯を食べたり、
トイレに入ったり風呂に入ったり、そして正味働くのは八時間です。これは三分の一ですね、
三分割と言って、やっているわけです。こういう不自由な世界に生きているわけです、
これを知るわけです。そして恋愛だって、「僕は彼女が好きだな、でも彼女は僕を
好きかどうかわからない、どうかな、手紙を書いてみようかな」書いてみる、
返事が来ない。「本当は好きだけど恥ずかしくて返事を書けないのかな。
もう一度書いて見よう。あ、返事がまだ来ない。三通目、まだ来ない、じゃ電話掛けてみよう」
電話を掛けたら母親が出て来て、「家の娘は今日は予定がございます」
「ああ今日はあるんですか、じゃ明日は」「明日は友達とちょっとテニスに行きます」
「じゃあさっては如何でしょうか」「あさっては風邪をひく予定です」「しあさっては」
「しあさっては病気です、出れません」なんて言って、そこまで言われて初めて
「どうやら交際許してくれないらしいな」と馬鹿な人は分るわけです。
馬鹿な男はこういうことをやらなければいけない。
ところが私たちの世界では、私も行ったことがありますが、天人の世界へ行けば、
女性なんかみんな美人なんですよ。綺麗な人ばっかり、あなたみたいな綺麗な人ばっかり、
綺麗な人ばっかりだけれど、その人が、高橋信次に好意を持っているか、
持っていないか、これは一目瞭然なんです。ピーピーと赤いランプが点(つ)いたり、
ピッピッピッと黒いランプが点(つ)いたりするわけじゃないけど、見た瞬間にこの女は
俺を嫌っているな、ああこの女は、俺よりもっと足の長いのが好きなんだとか、
もっとハンサムボーイ求めているなということが、見たら一瞬で分るんです。
だから失恋なんてあり得ないんです。向こうが好感持っていたら、直ぐ分っちゃいます。
嫌いだったら、あっちへ行けって言うようなもんで、お互いに全然近寄らないんです。
別の世界に住んじゃいます。そして好きな者同士が集まって来る、こういう世界なんですよ。
これも非常な恵みたんです。嫌いな人と会う必要がない、好きな人とだけ
会っていればいい。いい世界でしょう。
ところが、この地上を見てみなさい。お釈迦様も言っているけど、嫌いな人と
会う苦しみ、好きな人とは別れる苦しみ、こんな苦しみに満ちた、どろどろの
臭い世界なんですよ。こういう世界へ行って初めて、私たちの世界で、いいですか、
高橋信次とばっかりお付合いできるような、素晴しい女性とか、こういう幸せがあるわけです。
ところが、この世に居れば、そういう女性でも、仕様もないのと、程度の知れた
男性とも付き合わなければいかんのです。そういう苦しみがあるわけです。
あなたにしてもそうでしょう。別にもてたいとも思わないような男性に好かれて、
好かれたくない男性に好かれて、好いた男性は振り向いてくれない。こんな苦しみがあるわけです。
ところが、あの世は意識の段階だから、段階が違うと全然波長が合わない。
自分と良く合う人ばっかり、これはいいんだけれど、素晴しいことだけれど、
ある意味では、本人にとっては刺激が足りないんです。やっぱり芋を
洗うような感じで、よくあるでしょう、桶の中に芋をぶち込んで、
すり粉本入れてゴシゴシと、すり粉本掻き回すと芋が、芋同士当って皮がむけると、
こういうのがあるけれど、この芋の皮をむく時でも、同じ大きさの芋であるよりは、
大きさが違う方がいいわけです。大きいのがあり、小さいのがあり、長い芋あり、
丸いのあり、とんがったのがあり、色々な芋があれば、コリコリとやっていると
皮が剥けるんです。ところが、同じ大きさの芋ばっかりだと、なかなか皮が
剥けないんです。そういうところがあるわけです。だからこの世というのを、
そういうふうに不自由の世界であるということを、まず実感するという意味、
これが目的の一つです。
もう一つの目的は、そういう芋で言えば、大小様々な芋、さつま芋でも何でも、
じゃが芋の方がいいかな、じゃが芋が一杯詰っているからお互いに磨き易いんだな、
同じ大きさの人間、つまり同レベルの人間とばかり話していたら、そんなに進歩しないんです。
あなたが自分の守護霊と話してても進歩しないように、何故なら同じレベルだからです。
あなたが考えるようなことは向こうも考えるし、向こうが考えることはあなたも考えると、
全然進歩しないわけです。そして高級霊に怒られたりして、より高次元の人から見たら、
自分は反省すべき点がある。下の人から見たら、あなたを神様のように考えている。
こうなっちゃうから、次元が違うといいわけなんです。
そういうふうに、この三次元のもう一つの使命というのは、或いは目的というのは、
様々な次元意識を持った人間が、共同生活ができるということ、ここにあるんです。
一つ目は言いましたように、物質界の不自由さを経験して、人間が霊であること、
或いは、意識であるということの素晴しさを悟るため、これが第一の目的。第二の目的は、
今言ったように様々な悟りの段階の人たちが、一緒の世界で生活することによって
お互いに刺激を与え合う。上の方の人は、上ばかりで居るから、そこの深さが
どの程度か分らないんです。賢い人ばかり話してると、自分たちは普通の人間と
思っているんです。ところが、世の中は、賢い人も居れば、とんでもないのも居るんです。
ところが、その賢い人たちは、そのとんでもない人と会わないから、分らなくて自分らが
普通だと思っているんです。賢くない人たちも同じようだのとばかり集まっているから、
これで普通だと思っています。それより賢いのがいたらびっくりするわけです。
一足す一は二が分るというのは最高レベルと思っている人が居ます。
ところが、そんなのでなくて、非常に難しい、微分積分なんかが分る人が居ます。
ところが、一足す一が二で最高レベルだと思っている人が、
二足す二が四だと分っている人が居たら「あーすごいな大秀才だ」
と言っているわけです。これじゃいけないんで、微分積分が分る人と、
足し算、割り算が分る人と一緒に住ましてみれば、ああ色々な
世界があるんだなということが分るんです。ですから、この三次元世界への
目的は、そうしたいろんな人々を雑居させて、
お互いの意識をみがく、そういうことなんですよ。』
83 :
名無しさん:2009/12/20(日) 23:48:39 ID:7IP1DDjU
信次の出生地の幼少の体験がトラウマとなり、偉く思われたいという思いが、強くですぎて釈迦やエルランティー
を詐称してしまったんだろう。信次の著作や公演、矛盾が多すぎるし、話しが公演のたびに大きくなってる。
例えば、ミカエル、ガブリエルの7大天使は、ミカ、ガブリだったが、その功績により、神より、
エルという称号を与えられた。と、公演会で話していたが、晩年には、神から与えられた称号が、
エルランティー(信次)より与えられたことになっている。
もともと、ミカエル、ガブリエルのエルとは、輝くもの、炎を意味し、最初からミカエル、ガブリエルであったのにねw
84 :
名無しさん:2009/12/20(日) 23:53:20 ID:7IP1DDjU
あと、信次の公演会での言い回しが、天と地とを結ぶ電話にそっくり、旧来の陋習をやぶりとか、
何々で、あるところのとか。
■高級霊にとっての三次元の意味
『ただ、あなたも疑問があると思うけれど、じゃ下の次元の人が、上の次元の人に
教育されるということはあるでしょうが、逆に、上の次元の人、つまり、菩薩界、
如来界の方が地上に出たって何か勉強することがあるんですかと、
ないんじゃないですかと、こう思うでしょう。ところがそうじゃないんです。
あなた、例えばダイヤモンドというのは、ダイヤモンドを、指輪なりネックレスに
加工するためには、ダイヤモンドの面を綺麗にしなければいけないです。
じゃダイヤモンドは何で磨くのか。ダイヤモンドは、切り取る時はダイヤモンドより
硬い物で勿論、切り取るけれども、磨く時は、そうじゃないんですよ、
柔らかい物でやるんです。これは刃でも一緒ですよ。刃磨く時、砥石、
砥石で磨きますよね。砥石は鉄より硬いかというと硬くないですよ、鉄より
硬くないんですよ、硬くないもんで磨いて刃が光るんです。
ですから高次元の方も、自分より上の人だけが指導できるんじゃないんです。
自分より下を見て悟ることだってあるんです。当然です、そういうことなんです。
例えば、自分が悟っているということが、悟ってない人を見ることによって、
どれ程幸福か、これも勉強になるんです。それで、また、私は私で高橋信次として、
近年肉体を持ちましたが、肉体を持って生まれてみると、いろんな人と会いました。
悟ってない人と色々会うことによって、この世の中の不思議を知り、いろんな人が、
どんなことを経験するか、随分勉強させてもらいました。いろんな使命を持って人間が、
生きているのです。だから様々な人を見ることによって、世界を見る目ができるのです。
或いは、更に一歩進めて言えば、神様の御心が、どの辺にあるかということを
見極めることができるのです。つまり高級霊にとっても、この三次元に生まれるということは、
神様の創造した世界の全てを一瞥(いちべつ)できるのです。
そういうチャソスなのです。普通は、関心ないような人たちと会えるんですからね。
そういうことで、人生の目的で、特に三次元における肉体人間の目的としては、
今言った二つなのです。不自由さを感じて霊的な幸せを得るということ、
また、様々な人が交わるということです。これが人生の目的です。
そういうことを経験して、更に高度な自分、悟った自分、勉強した自分を創るということです。
これが目的です。』
■人間の使命はできるだけ多くの人を幸福にすることにある
『あと、使命というのがあります。使命について、もう少し話したいと思います。
今、私は個人、一人の人間ということを中心に話しましたが、使命というのは、
これは他人との関わりということなのです。これが使命なんです。人間は
自分だけのために生きているわけじゃないんです。自分だけのために生きていくなら、
南海の孤島か何かに生まれて来ればいいんです。ポツンと、生まれて来て、豚でもいい、
猫でもいい、ペンギンでもいいけど、それと暮らしていればいいんですよ。
ペンギン抱いて寝てたらあなた、地獄へも堕ちないし、争いも起きないですよ。
そうですよ、その通りなんです。
ところが、残念ながら可愛いい女性が一杯居て、心が散々(ちりぢり)に乱れるから、
執着のとりこになって地獄へ行ったりするんです。だから女性なんか居ない島へ
行って、男一人だけで住んでいれば、あんまり地獄に堕ちることなんかないです。
ところが、いろんな人が居る所へ住んでいろから、間違いもしでかして、
地獄へ堕ちてしまうんです。だから、使命ということに関して言えば、
やはり、他の人と一緒に生活する、共同生活する、ということが一番大事なんです。
では何故、共同生活するのか、結局人間は、他の人に対して自分は何ができるか、
ということを勉強させられているんです。それが分らないんです。
大抵の人がテストでいくと、いい点を取りたい、いい会社へ入りたい、
人より多い給料を貰いたい。人より綺麗な母ちゃんを貰いたい。
こういう自分が、自分がと言っている。ところが自分が、自分がとして生きていると、
だんだん人生が苦しくなってくる。
人と比べて悪い自分ばかり見て、欲望を募(つの)らせると病気になったりして、
だんだん悪くなる。ところが、もっと素晴しいことが、この世にはあるんだということに
気づくのです。ある時は、そういった自我我欲のままに生きていて、人の親切に触れて、
はっと悟ることがあるんです。会社の経営者として、社長として、ワンマン社長で
偉そうにやっていた。そしたら、「あいつ気に喰わない」と言っては首を切り、
「あいつはお世辞を言わなかった」と言えば左遷し、そういう勝手気気儘(かってきまま)
に生きていたような社長さんが、或る時ポッと病気をしてしまう。その時に、自分が
左遷した部下が、「社長大丈夫ですか」と見舞いに来たりする。「あっこの男、
本当に優しい男だな、自分からあれだけの目に合わせられながら、自分の体を
気づかってくれて、ああ、こういう尊い心があるんだな」経営者は、
その時悟るわけです。そして自分が、じゃ今、病気で倒れているけれど、
もし健康体にもう一度なれたら、できるだけ全社員のために尽してみたい。
多くの人たちを生かしてみたい。そういう菩薩心というのが目覚めて来るわけです。
これが大事なんです。 』
■人間の偉さは、どれだけ多くの人を幸せにしたかによる
『人間の偉さというのは、どれだけ多くの人々を救ったか、救ったという言葉が
傲慢(ごうまん)に聞こえるならば、どれだけ多くの人たちを
幸せにしたか、ということです。あなたにしてもそうです。
あなたが、どれだけ立派な人生を生きたかということは、勿論、その証拠は、
色々あるでしょうけれども、どれだけ多くの人々に尽くしたか、どれだけ多くの
人々のためになるような生き方をして来たか、どれだけ多くの人を幸せにしたか、
この基準なんです。よく、あの世の世界で、宗教家が一番偉いと言われています。
ところが、この世の世界では、宗教家が一番偉いわけではなくて、
もっと社会的に地位の高い人が一杯居る。総理大臣だ、裁判官だ、医者だ、弁護士だと、
会社の社長や偉い人が一杯居ます。宗教家は、必ずしもトップじゃない。
ところが、あの世へ帰れば、本当の意味での、真実の宗教家は、一番トップですね、
神様に近い所に居ます。何故そうか。それは、多くの人たちの心の糧になり、
多くの人たちを幸せにしてきたからです。企業の経営者として、企業の人々を
養うことができます。ところが、それは高々、数千人、数万であります。
大企業といえ数万人です。一方宗教家というのは、キリストにしてもそう、
釈迦にしてもそう、その時代の人たちだけでなくて、以後二千年、
三千年にわたる人類を救ってきたわけです。それらの人たちに光明を投げかけてきたわけです。
ですから、不幸せな人々を幸せにするという範囲が、途轍(とてつ)もなく大きいんです。
ところが会社の経営者、二千年後の人に影響を何か与えますか、与えません。
お医者さんどうですか、病人は治ります。しかし病人もやがて死んで行きます。
その後どうなるんですか。裁判官は、人を裁いています。結構ですよ。
でも裁かなくてもあの世に行けば裁かれちゃうんです。裁こうが、裁くまいが、関係ないんです。
総理大臣は、選挙で落ちたら、ただの人、選挙に通れば、もう一回再選されたりして、
そして、日本で一番偉いように考えられます。あの世へ帰ったらどうかわかりませんよ。
戦後の首相で、天国へ行っている人は少ないですよ。地獄ヘ一杯行っています。
何ででしょうね。本当に自分が日本国民のために尽くしたのか、或いは、自分としての
栄達を求めたのか、そこがチエックされているんです。
やはり偉くなりたい人が多いんです。人の上に立ってみたい、人に命令してみたい、
そういう人が多いんです。そういう人は地獄へ行ってしまうんです。
だから総理大臣という地位は、日本一偉いんじゃないんです。最も地獄へ堕ちやすい
地位でもあるんです。多くの人たちを、間違って指導することもありますから。
だからむしろ田舎で、一人で生きている方が、むしろ迷惑がなくていいかもわからない。
多くの人を使えば、使う程、心に歪みを作ればそれだけ悪い影響を与えちゃう。
自分だけでなく他人まで。だから責任ある立場にある人は、それだけ難しいということを、
悟らなければいけないんです。また、その人の力によって、いろんな人を苦しめた場合は、
その人たちの恨みが解けるまで、なかなか地獄から出てこれないんです。それだけ難しいんです。』
■人生の目的、使命についの要約
『ですから私は以上、色々語ってきましたけど、総括すると以下のようになります。
人生というものの捉え方を、永遠の転生輪廻の中で捉えなさい。いいですか、永遠の
転生輪廻の中で、自分の今世の役割、今世に命を得た意味、こうしたものを
探究しなさい。これが最初です。
そして人生の目的とは何か、肉を持った人間の人生の目的とは、何か、
それは霊的に目覚めるための下準備、これが一つです。不自由な物質世界で
経験することによって、霊的に目覚める準備が一つです。もう一つは、
いろんな次元の意識を持った人たちと会うことによって悟りを更に磨いて行く、
こういうことが一つです。そして使命とは何か、これは他人を幸福にする。
できるだけ多くの人を幸福にすることです。
ところが、これは、「情けは人のためならず」という言葉がありますが、
これはあなた誤解しているかどうか知らないけど「情けは人のためならず」というのは、
情けを掛けたらその人が良くなるわけじゃないから、情けを掛けるなという
意味じゃないんです。「情けは人のためならず」というのは、情けを掛けた、
その情けは、やがて自分に返ってくる。だから人のためでなく、
自分のためなんですよ、というのが「情けは人のためならず」という言葉の本当の意味です。
ところが今、多くの人々を幸せにするという話を私がしましたが、多くの人々を
幸せにするとどうなるか、それは人のためならず、なのです。自分自身なのです。
結局は、多くの人々のために生きられた人というのは、それだけ大きな人生を生きた、
ということなのです。それだけ自己が大きくなった、ということなんです。
器が大きくなった。それに目に見えない光の量、光子体というのを人間
持っていますけれど、その光子体の量が、それだけ増えるのです。多くの人のために
生きた人生というのは、多くの光子体を持ってあの世へ行けば、高い意識の人たちと
一緒になれるんです。だから救世主のような仕事をすれば、あの世で、
イエス様や仏陀と会えるようになるわけです。だから人のためではないんです。
結局、自分のためなんですよ。だから人のためを思う人が自分のためになり、
自分のためを思う人が、自分のためにならない。こんな矛盾があるんです。
パラドックスがあるんです。結局そういうことなんです。だから使命というのは、
他人に尽くすことによって、自己の向上を目指すということなんです。これが使命です。
まあ大体今日はそういう話です。』
97 :
名無しさん:2009/12/22(火) 17:35:28 ID:E3yC3vl8
信次って、日本語理解してんのか?
自己保存の語彙の意味とか、独自の解釈で使ってるし。
正法(しょうぼう)を、しょうほうとか言ってたし。
インチキ異言語る前に、日本語ちゃんとしゃべれと言いたい。
98 :
神も仏も名無しさん:2009/12/23(水) 11:20:56 ID:eOSqK/2z
大皮さんもそうだけど
お釈迦様が前世という設定だ
イエスでは教会からの反発が必至で跳ね返す能力も無い
だからかな
それに釈迦は王子
そのまた前世が御二方とも存在しない大陸の大王だったという御伽話がある
これは何を意味するか
自分が王様という地位に憧れていたという心理が伺えるんだよね
共通するユートピア あの世の仕組みも民主主義とは大きく異なる王政だ
大王による絶対指示が基本
しかし変なのは自らを世界の救世主としているのに
常に何かあると天上界からの指示で動くこと
-----------------------------------------------
反省・瞑想・祈りについて
-----------------------------------------------
■精神統一を抜きにした宗教はあり得ない
『今日の演題の中心は、修行の方法にかかっているのです。皆さん、キリスト教系であれ
仏教系であれ、或いは神道系であれ、なんらかの修行の方法・修法というのを
持っているんです。現代における宗教においても、禅では坐禅があり、生長の家では
神想観がありで、やっぱり何らかの修法がいるんです。
では何故、そういう修法・修める方法があるのか考えますと、結局精神統一
というものを抜きにした宗教というのはあり得ないということになるのです。
根本はここなんです。いいですか。宗教、いわゆる神、仏との交流これが宗教の
核心ですけれども、これには精神統一、これが必須だということなんです。
これがない宗教だと単なる道徳論になってしまうわけです。
宗教の中にも、もちろん善悪の二元を教える宗教もありますから、そういう意味では
宗教と道徳とは重なるところがあるわけです。ところが、宗教が宗教であって
道徳でないところ、或いは、宗教が宗教であって哲学でないところ、
そこはどこにあるかというと、結局のところ精神統一なのです。
これがあるかないかなのです。哲学でも、もちろん哲学の中には真理を
追究した哲学がありますし、或いは神の教えに近い哲学もあります。
ソクラテスやプラトソの考え方もそうですし、或いはキリスト教系で宗教者とも
言え哲学者とも言えるような人もいます。トマス・アキナスとかアウグスチヌスとか、
こういう方々は宗教家でもあるけれど哲学者でもあります。ただ、哲学と宗教とを、
もし線引きするとすれば、そこはどこにあるかと言うと、結局精神統一です。
これがあるかないかです。哲学の中には精神統一の方法がありません。
はっきりしています。道徳の中にもありません。
ですから、この精神統一というのは、宗教、少なくとも神との対話を
考える方法において是非とも必要だということなんです。その精神統一の内容として
様々なやり方があり開発されてきたということです。
ですから、私はその内容について、何が良くて何が悪いとは言いません。
様々な方法があって自由ですし、それで結構です。ただ、どのような精神統一の方法を
取ろうとしても、結局は目指すところは一つだということ、それは神仏、或いは神仏により
近き高級霊たちとの対話をするための精神統一であるということなんです。
ここに、反省・瞑想・祈りという代表的な精神統一の方法があるんです。
これについてこれから話していこうと思います。またこれ以外の他の方法論について、
今私が考えているところ、他宗の批判にならない程度にやってみたいと思うのです。
まず、反省・瞑想・祈りということで話をしてみたいと思います。』
■人間は何故反省する必要があるのか
『まず最初に、反省ということが出ましたが、これは、ある意味では先程
語った道徳にも関係があることです。何故人間は反省する必要があるのか、
まずここから入って頂きたいと思うのです。あなた方、宗教に目覚めた方というのは、
どうしてもお弟子さんとかを養成し始めると、まず反省しなさいと言ってしまいます。
反省ということは、先見的というか生まれる前、先見とは先に見るということですね。
生まれてくる前から反省というのはいいことだと、或いは、反省がいいことか、
悪いことかという議論の土俵に載せなくとも、反省自体がいいことだと、
こういうふうに思い込むことが多いです。
それから、善悪の問題、道徳論的に人間は良いこともするし、
悪いこともするから、良いことはいいけれど、悪いことをした
時に反省して、そして道を改めるんだと、こういう考えがあると思います。それは、
その程度のことは子供でも分っているんです。
ところが、私も著書の中で、随分述べましたけれど、反省の本当の意味というのは、
単なる善悪を計る、或いは悪いことを正すためだけの基準ではないのです。
人間にとって悪い行い、或いは悪い思い、こういうものが良くないから、
これを反省するだけではないんです。反省というのは、本来の自己に立ち返るための、
神が子に与えてくれた慈悲なのです。』
■三歳から五歳ぐらいの間に自我が芽生える
『よいですか。人間というのは、生まれて、オギァと言ってから物心つくまで、
大体十才、或いは十一、二才になってくると、まあ中学生になってくると、
世間のことがある程度分るようになります。それ迄にすでに心の歪みを造ってくるんです。
まず幼い時、子供が純心無垢かというとそうでもないんですね。まず欲しいという
気持ちが子供にも、赤ん坊にもあるんです。ミルクが飲みたい、そのためにオギァと泣く、
或いは母親に抱いて欲しい或いはおしっこがしたいとか、こういうものの欲求ですね。
幼い子供たちは欲求というものがあります。この欲求をまず外に表わします。
そして、その欲求に対する答えを求めます。そして、その答えが自分の思った通りの答えが
返ってこなかった時に、彼等は泣いたりします。或いはわめいたりします。
この時すでに自我の芽生えがあるのです。ただ、幼い子供たちはコミュニケーションの
手段を知らないために、どうしても皆同じようなことをします。自分の欲求に対する
答えを求める、答えがこなければ、まあ、暴れてみたり、我儘を言ったりします。
しかし、三才ぐらいまでは大抵の人はそうでしょうが、これは三才から五才、五才から
七才、このぐらいになる内に、だんだん自我がもっと大きくなってきて、その本人の
魂の傾向が露(あらわ)になってきます。もう五才ぐらいになってくると、
例えば、同じ物をねだるにしても、こういうふうにねだれば効果がすぐ出る、
というのが分ってくるんです。
だから、ミルクが欽みたいと思えば、例えばこういうふうにすれば一番効果が出る。
或いは哺乳ビンを投げ捨ててみる。或いはとにかく泣いてみる。
色々な方法をみんな考え始めるんです。その中に、
もうすでに自我の芽生えが出て来て、例えばどうしても自己中心的な人、
或いは控え目な人、というふうにこのあたりで色々出てくるのです。
だから、世の中の人々は、まず三才から五才ぐらいの間の自分について、
かすかな記憶はあるはずです。これをもう一度考えて頂きたい。その時にやはり、
我儘な自分というので出て来ているんじゃないかどうかを考えてみて下さい。』
■五歳から七歳ぐらいの間に、他人との比較を考え始める
『或いは五才から七才、こういう学齢に近づいて来ます。そうすると人間は、
他人との比較というのを考え始めます。まず、幼い赤ん坊の時には自分の
欲求が答えられるかどうかだけだったのが、五才から七才ぐらいになると
他人との比較を考えます。或る時は幼稚園へ行ったり保育所へ行ったりしています。
もうそろそろ小学校に上がってくる年代です。他人との比較です。あの子は成績がいい。
あの子は走るのが速い。あの子はいつも綺麗な服を着ている。あの子はいつもおやつを
貰っている。お小遣いが多いようだ。こういう他人との比較というのが出てくるのが
五才から七才です。ですから皆さんも、この五才から七才というのを振り返る時に、
他人との比較という面において自我が出て来たかどうか、これを点検する必要があります。』
■七歳から十歳ぐらいの間には、人を裁く眼が出てくる
『又、七才を過ぎて、これが八才、九才、十才になってくるとだんだん世の中のことが
分ってきます。小さいながら、小さい自分でありながら、世の中のこと、或いは先生のこと、
同級生のこと、或いは兄弟のこと、こうしたことが見えてきます。ですから、自分の兄や姉、
或いは弟と自分との関係、父親、母親が弟と自分をどのように扱っているか。それは
公平でないとか、兄ばかり可愛がって自分を可愛がってくれないとか、そういう家族の中での
自分の置かれた立場というのを考え始めます。また、この十才ぐらい迄の間には、
いわゆる限定的な意味で、社会の仲間入りをしてくるんです。世の中のことが
少し分ってきます。
学校という所があって先生が居るんだけれど、先生というのもただ
神様みたいなんだけでなく、先生にもいろんな人が居る。いい先生が居て、悪い先生が居る、
或いは先生もまた上役が居て怒られたりしているらしい。或いはこの先生はピシビシ
言ってくれるけど、この先生は言ってくれない。こういう、人を裁く眼が出て来ます。
これが大体十才ぐらい迄の間の人なんです。
最初言ったように、まず三才から五才ぐらい迄の間は、自分の欲求が叶えられるかどうか、
五才から七才ぐらい迄の間は、人と自分との比較、七才から十才ぐらいの間には、
人を裁く眼というのがだんだん出てくるんです。こういうふうに人間というのは、
その置かれた環境・教育・思想・習慣によってだんだんにその本来の心というのが
ねじ曲ってくるわけです。』
■十歳から十五歳ぐらいの間に自我我欲の気持ちが強くなる
『そして、十才から十二、三才、このくらいになると、非常に自己保存・自我我欲の
気持ちというのがはっきりしてきます。十才を過ぎると、他人と自分という区別が
はっきりついてくるんです。物心がつくと共に、他人と自分というのがはっきり
してきます。それで他人と較べた自分、これがはっきりしてきます。
例えば、或る家庭に生まれたあの子はこういう扱いを受けてる。あの子は裕福だから
塾にも通えるけど僕は通えない。あの子は算数ができるけれど、それはお母さんが
教えているからに違いない。或いは、お兄さんが優秀だから教えてくれるに違いない。
こういうことは社会の縮図みたいなんです。
年代的に言えば、中学生ぐらいになると社会の縮図みたいになってきて、社会の中、
環境と自分というのを考え始めます。それともう一つは、この中学生の時代、
十一、二才から十四、五才の間に性への目覚めというのがあります。この部分が今、
教育も非常に遅れていて大人たちもどういうふうに扱っていいか分らないために、
性に対する考え方、本当に正しい考え方ができない。そのために、子供たちは今、
混乱に陥っています。こういう環境の中での自分、社会の中での自分、それから男女の、
異性の問題ですね。これを考えるのが大体中学校の頃です。この頃にまた違った考え方を
身につけてしまう人がずい分出てきます。ですから、十五才ぐらい迄におかしくなってくる
人も現代では相当出てきています。』
112 :
神も仏も名無しさん:2009/12/23(水) 22:19:11 ID:eOSqK/2z
人の人生を一律にして解説したところで著者の回想や評論にしか見えないな
そんな抽象的な解析を表現して悦に浸ってるのでしょうか
雑駁な理論を振りかざし知らず知らず読者に飴鞭説法を刷り込んでいく・・・
長文コピぺ読んでると単なる御利益信仰なのは明白
宗教に惹かれるって
実は自分の事を真剣に考えてこなかったからではなかろうか
自分のこと本当に真剣に考えたら宗教の誘いに流されないはず
自分が大切なのか宗教組織が大切なのか
指導者に聞かず自分自身で考えよう
113 :
神も仏も名無しさん:2009/12/23(水) 22:27:21 ID:eOSqK/2z
どうして自分の生き方考え方を宗教や他人の手に委ねるのだろう
仕事ならともかく日常生活まで踏み込まれて監視されるのがそんなに幸せなのだろうか
それもすべてイイ世界へ行くための手段として欠かせないからなのか
では、どうしてそんな考え方に染まったのでしょう
114 :
神も仏も名無しさん:2009/12/23(水) 22:40:11 ID:eOSqK/2z
>>72 『ユートピア実現、、』と振りかざせば信者は何でもイエッサーでしょう
ところで、そのユートピアって誰の為のユートピアで
誰がこれはユートピアで、誰がこれはユートピアではないと決め付けるんですか。
少なくとも信者ではなくトップの方ですよね
そのトップの方が世界のトップに君臨し
意のままに世界を操れるようになったらユートピア完成なのかな
115 :
神も仏も名無しさん:2009/12/23(水) 22:41:17 ID:+iW/w6VX
>>83-84 >>97 おやおや。誰だか解りますよ(w)。阿修羅掲示板に色々書いた人でしょ。
終結宣言したはずなのに、まだくすぶってるのかな。
阿修羅掲示板に色々書いているけど、見ていて痛々しいですね。
あなたは、佳子先生が説かれた神理についてはどう考えていますか?
「人間のまなざし」は持ってるでしょ。そこに説かれている「八正道」はどうですか?
「基板論」、「自業論」、「響働論」の三論はどうですか?
「真我誕生」は?「因縁果報ウィズダム」は?「12の菩提心」は?「魂の因果律」は?
多分、あなたは価値を認めていないのでしょうね。価値を認めるか否かという以前に、
「関心が無くて検討する必要すら感じない」という方が当たっているかもしれません。
しかし、私も含めて大半のGLA会員は、あなたが全く関心を寄せていない
「神理」に大きな関心を寄せると同時に、高く評価しているのですよ。
仮に、佳子先生が「自分をミカエルだと言ったのは、どうも勘違いだったようです」
と仰ったら、どうなるでしょうか。多分、全員がびっくりするでしょうが、だからと
言ってGLAを退会しようという人は少ないと思いますよ。佳子先生が説かれた
神理の価値を認めている以上、佳子先生がミカエルかどうかというのは、
さほど大きな問題ではないのです。
116 :
神も仏も名無しさん:2009/12/23(水) 22:42:38 ID:+iW/w6VX
ただ、GLA会員と言っても色々な人がいるわけで、私とはずいぶん考えが異なる
人もいるようです。一部の人たちは、神理に対する関心が薄く、「偉大な人間に
くっついていれば、自分の人生をなんとかしてくれる」
という信念を持っているようです。そのような人たちにとっては、「くっついている
相手(=佳子先生)が偉大な人間(=ミカエル)であるのかどうか」という事は、
自分の人生を左右する重大問題になるようですね。そして、阿修羅掲示板などで、
偉大な人間である事を否定するような情報に触れてしまうと、「もしかすると、
くっつく相手を間違えてしまったのではないか」と疑心暗鬼に陥るわけです。
その中で、「やはり、くっつく相手を間違えていた。もうGLAをやめる」
と決心した人も現実にいるようです。その一方で、「くっつく相手は間違っていない。
GLAに留まろう」と思った人もいるでしょう。しかし、私はどちらの人も大差が無いと思います。
偉大な人間にくっついていたからといって、人生が変わるわけなどありません。
それは、信次先生が否定された「他力信仰」でしかなく、神理を理解して実践しないと、
人生は変わらないでしょう。
あなたの場合はどうですか。
「偉大な人間にくっついていれば、自分の人生をなんとかしてくれる」
という思い込みはありませんか?
あれば、それを棄てることでしょう。そうすれば、楽になるでしょう。
117 :
神も仏も名無しさん:2009/12/23(水) 23:46:55 ID:eOSqK/2z
教祖達は自分を大きく見せようとした
信者にも伝染した
118 :
神も仏も名無しさん:2009/12/23(水) 23:54:50 ID:eOSqK/2z
他力信仰批判は良かったが結局他力信仰ではなかったか?
トリックだった気がするな
だって特定の教祖 宗教 考え方だけをコピー妄信すること自体他力信仰でしょ
違うと言えますかね
GLAとクリシュナムルテイ(一)
http://www.ijn-jp.net/user24/dilb/patio.cgi?mode=view&no=727&p=10 ( No.1 )- ( No.7 ) ( No.19 )-( No.21 )
【高橋佳子】
D’あなたと共に生きる他の人々、あなたの親や妻、子供たち、会社の上司や隣人とあなたの関係、
寄り集まりが社会というものなではないのでしょうか。・・・私たちが現に生きている「社会」は、何
かの固まりのように、私たちの外にそれ自体として特別に独立し存在しているものではなかったのです。
・・社会は「あなた」と「あなたを取り巻く人々」との関係が生み出していたものなのです。つまり社
会は私たち自身の内部を外部に投影したものに他ならないということです。
【クリシュナムルテイ】
Dあなたと他の人たちーあなたの妻や子供、会社の上司や隣人とあなたの関係の総和が、社会なのです。
社会というものは、それ自体として独立して存在するものではありません。社会は「あなた」と「私」
との関係が生み出したものなのです。つまり、社会は私たち自身の内部の心的状態を外部に投影したも
のにほかならないのです。
【高橋佳子】
鳥は大空を高く飛ぶために、自らの身を軽くしなければならず、そのために自らの食をできる限りつつましくします。
花は美しく咲くために、自らをたくましくしなければならず、そのために、地深く根を下し、一途に光を求めます。
彼らは撒かず刈らず倉に収めず、明日の糧を思い煩うことなく、一切を天地に預けて、今日を生きています。
(祈りのみち 悲観・失望・落胆するとき)
【聖書】
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。
だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」。もう一つは、一羽の雀も、
神のゆるしなしに地に落ちないという言葉です(ルカ12:2-6)。
121 :
神も仏も名無しさん:2009/12/25(金) 19:52:20 ID:yOoG/YW3
その分野において浅学の者が 読んで聞いて感動し
これは真実に違いない! と
思わず 信 じ た く な る よ う な 感 情 移 入 を 誘 う 出 来 過 ぎ た 御 話 って
本当の話が多いか
信用させる為の嘘や作り話や引用話が多いか
どっちですかね
年々後者の比率が高く思えるようになってきた今日この頃です
122 :
神も仏も名無しさん:2009/12/25(金) 20:14:39 ID:yOoG/YW3
>>115さんは
先生の説かれた神理に価値を認めたのか
先生ご自身の価値を認めたのか
どちらですか
両方ですか
よーく思い出して下さい
それプラス大袈裟に煽られる指導が何度も有りませんでしたか
神格化を煽られるような噂を耳にしませんでしたか
123 :
神も仏も名無しさん:2009/12/29(火) 00:06:55 ID:ucsWgtE8
見帰る。 引っくり返る。 バカ蛙。
毛子はトチ狂ってミカエル宣言。
おいらも狂い咲きして瓜得る宣言でし。
124 :
神も仏も名無しさん:2009/12/29(火) 12:45:23 ID:0ApVR+GP
アーマリエや○川○法の「自称信次」の霊言反対。
信次が書いた本をちゃんと読んだら?
ちなみにおいらは信次の書いた本の愛読者。
125 :
神も仏も名無しさん:2009/12/30(水) 16:52:49 ID:2NXIWoaJ
>>122さん
115です。
> 先生の説かれた神理に価値を認めたのか
> 先生ご自身の価値を認めたのか
> どちらですか
> 両方ですか
両方です。但し、「完璧であることを認めた」という意味ではありません。
人間には、誰しも足りないところがありますし、失敗もあるでしょう。
特に、先生の若い頃のご発言には疑問を感じることがありますし、
>>119に
挙げられていることについても、引用元の書籍を明記すべきだったと思います。
> それプラス大袈裟に煽られる指導が何度も有りませんでしたか
> 神格化を煽られるような噂を耳にしませんでしたか
「先生の御指導」ということなら、ちょっとよく解りません。他の人の発言なら、色々ありますね。
一番多いパターンは、「神がされていることと、先生がされていることの区別がつかない」
という事かな、と思っています。つまり、神がされていることまで、先生がされているように
認識して、先生のことを「神の如き力を持たれたお方」と思いこんでいる人は相当に多いようです。
126 :
神も仏も名無しさん:2009/12/30(水) 20:53:18 ID:2N8265xN
127 :
神も仏も名無しさん:2009/12/30(水) 22:01:59 ID:rg/jZELx
信者にはエゴを無くす様に諭しますが
教祖にも教団にも其々自分の都合というものがありますね
果たしてそこから真理を得られるだろうか
そもそも唯一絶対の真理などというものが存在するのだろうか
我々は幻を信じ込まされていたのではなかろうか
128 :
神も仏も名無しさん:2009/12/30(水) 22:16:33 ID:rg/jZELx
これが最高の生き方なのです!
表には出さずとも
なんとなく そう思えてしまう幻影を投げかけられ
勇気をもらう
こんな気になってたな
しかし今思えば似非勇気
自力で得たものでもなんでもないからそれは偽でした
気分が高揚して浮かれていただけだった
集団催眠にかかったのかな
沢山の説教を聞いて精神本を読めば自分が変わると期待していた
現実離れした世界の話に胸をときめかした
益々現実世界が見えなくなっただけでした
もっと身近な世界に関心を持ち平凡なことを大切にするべきでした
129 :
神も仏も名無しさん:2009/12/30(水) 22:33:17 ID:rg/jZELx
>一番多いパターンは、「神がされていることと、先生がされていることの区別がつかない」
という事かな、と思っています。つまり、神がされていることまで、先生がされているように
認識して、先生のことを「神の如き力を持たれたお方」と思いこんでいる人は相当に多いようです。
そう思い込んでいる人が多いということは
知らず知らずそう思わされたからでは?
これから連想するもの
『神に逆らった考えをしたらどうなるのか』なんですけどね
つまり恐怖心による縛りで心が動揺しやすいという証
そうなってはいけないと思いつつ
駄目な私状態の完成
↓
そんな事ない!と色々励まされて感動
↓
出来るはずもない指導者の高すぎる期待や注文に応じられない!とまた落ち込む
↓
またしても励ましと心のチェック
延々とこれの繰り返し 益々崇拝の意を高めていく
130 :
神も仏も名無しさん:2009/12/30(水) 22:48:24 ID:rg/jZELx
あらゆる宗教の教祖発言は絶対的な権威を持つ
おかしいと思っても誰も逆らえない
側近たちは何の疑問も問いかけず
これでもかこれでもかと大絶賛の嵐!
見ている私達は益々嬉しくなります
自分の信じているものが肯定されまくるので
その空間はこの上ない幸せに満ち溢れる
私たちはこんなに素晴らしい教えを御教授できる
知らない人はかわいそう
私は皆さんより先にステージを一つ上を踏みしめました
なーんてね
でもこれは自分のこと
恥ずかしい過去の思いだね
131 :
神も仏も名無しさん:2009/12/30(水) 22:55:52 ID:rg/jZELx
疑問すら持ってはいけない神的存在の人物は御自身で反省をするのだろうか
でも神自身が己を反省したら自分に疑問を投げかけるわけだから
それって即○●◎の波動ですよね
132 :
神も仏も名無しさん:2009/12/31(木) 10:57:03 ID:/I36ZiZJ
退会して、聞く耳持たなくなったら、
心霊現象や 幽霊を見なくなりました。
これが真実です。
■十六歳から十八歳ぐらいの間で、魂の傾向がはっきり出てくる
『又、十六才から十八才、高校の時代です。これは、単なる男女の性の問題だけでなく、
社会的問題まで発展してきます。男女の倫理というものが分らなくて、社会を混乱
させていきます。或いは、職業意識です。どのような職業が本当に正しい職業なのか
ということをも分らなくなってきます。また先程言いました人を裁く眼というのが
十六才から十八才の時は非常にはっきりしてきます。そして、昔はまぁ、先生にしても
よく叱る先生とそうでない先生が居る。怖い先生とそうでない先生が居る。
というぐらいの意味だったのが、十六才から十八才ぐらいになると、今度は先生を
馬鹿にし始めます。
あの先生、給料安いんじゃない。今日機嫌が悪いけど、きっと
奥さんと喧嘩したに違いないとか、こういうことを言い始めるのが十六才から十八才です。
こういうふうに、社会人の予備軍として心がはっきりしてくるわけですが、この頃にもう、
その人の魂の傾向というのが、かなりはっきり出てきます。そして、家庭環境による
影響というのが最大限に出てくるのが高校生の頃です。この頃の心のあり方を見れば、
その子の家庭環境がはっきりします。どういうふうに影響を受けているか、これは結構
大事でありまして、この十八才迄にできた人間というのは、そう簡単に変わるものじゃ
ないんです。一朝一タには変わらないんです。これを戻すためには、あと大変な努力が
要るんです。』
■十八歳から二十二歳ぐらいの間に環境に対する苦しみを造る
『それから、十八才から十九才、大学人試というものがありますね。或いは、
就職というものがあります。まず、高校卒業して就職した方は、また新たな社会の
荒波の中で、様々なことを思われます。また、大学入試を受ける人は、志望校、
自分の思う通りのところへ行けたかとか、行けなかったとか。或いは、浪人をしたとか、
しないとか。或いは、医学部へ行きたかったけど、お金がなかったとか。そういうことで、
いろんな、この辺りで苦しみを造っています。現代青年たちは、十八、九才で苦しみを造っています。
そして、ここでドロップアウトした人達が、非行に走ったり、様々な社会の悪の構成要素と
なっています。また、順調に大学に入った人も、大学の四年間で様々なことを思います。
本業の学問をしようとして入った大学であるにも拘らず、自分の思うが儘の放縦な生き方をして、
欲しいままの生き方をして、自分というものを腐らせていきます。
いいですか。本来の目的を忘れ、郷里に居る両親は、何も知らずに、まあしっかり
勉強しているんだろうと思って、学資を送るわけです。今だと、十万も、十何万も
送るんでしょう。ところが、それを当て込んで、遊んでぱっかりいるわけです。
マージャンを毎日したり、マージャン大学に行っているようなもんです。そういう
ようなことをして過ごしていく。そして社会に出ると、また今度は、一流大学を出た人は、
一流大学ということを鼻に掛ける。また、二流、三流大学を出た人は、自分が公平に
扱われないのは、自分が駅弁大学を出たから、そうなんだとか、三流大学を出たから、
自分は能力はあるんだけど世間に遇されないとか、こういうことを考え始めます。
そういうふうに自分自身のせいでなくて、自分が、たまたま置かれた環境を理由として、
世の中への不満というのが出てきます。これが二十代前半です。』
■社会に出て男女ともに心の歪みを造っていく
『それから二十二、三才でまた、社会生活を始めて行きます。この中で上司との関係、
同僚との関係、また、オフィスでの男女の出会い、こういったものが絡んで、更に
人間性というのが複雑になってきます。まず、社会人になると初めて、上司という
存在に気がつきます。学生時代には、上級生というのが居たけれども、上級生は、
意見は言われることはあっても、ハイハイと言えばそれで済んでいた。ところが会社の
上司になってくると、意見を聴かないと、大変なことになるわけです。これは、
上位から、上からの命令であり、これがなかなか耐えられない。まあ、大学で四年生、
最上級生であったにも拘らず、社会人になると、最下層になる。コピーもしなさいと
言われたり、使い走りをさせられたりします。
或いは、優秀な女子社員になれば、大学の英文科か何かを出て、全優に近いような
成績で入って来た女子社員が、じゃあなた、コピー取りしなさい、お茶汲みしなさいと
言われて、それでフンと思っちゃうわけですね。「こんなはずじゃなかった。私みたいな
優秀な女性を、こんな扱いをするなんて失礼だ。」或いは、「男と女の差が激しすぎる。
男子と机を並べて勉強して、頑張って、男子学生より成績も良かったのに、私が
何でこんなことさせられるの。ところが、私より成績の悪かった優が三個しかない彼が、
まあ海外なんかへ出してもらったりして、エリートコースに乗っている。おかしいじゃないか。」
とこう思い始めます。だから女性は、女性で、そこでまた、歪みを造ります。
男性は、男性で出世競争とか、そういうものを既に味わい始めます。同期の中でも、
自分より一歩リードしている人達、或いは、自分がどういうふうに置かれているのかを考えます。』
■職業婦人の地獄へ行く率が増えている理由
『女性は、女性で男女の差別の問題、或いは、結婚の問題を考えます。二十五才位になると、
もう結婚しなければいけない、というような風潮になってきて、これで乗り遅れるとどうなるのか。
「いいわ、私は、キャリアウーマンで行くんです。」ここで頑張ったところで、
同僚たちが次々辞めていくのを見ると、心の中に寂しさが出てくる。不安が出てくる。
そして、キャリアウーマソで華やかにやろうと思った夢も、やがて潰(つい)えて、
つまらない事務仕事をどうやら私は、二十年も、三十年もやるらしいということが分ってくる。
そして心に歪みができてきます。心に歪みができてきて、三十、四十の女性になってくると、
今度は、新入男性社員を苛めたりし始めます。いびったりします。「あなたは、去年入った
何とかさんに比べて全然駄目だわ、あの人はスッと分ったけど、あなたは五回言っても分らない。
同じこと六回言っても分らない。駄目ね。」とこういうふうにして、本当にやる気満々で入った
若い男性を潰していきます。こういうことを次第にし始めるんです。こういうのは、自分の
気持ちのストレスの吐け口で、日本中至る所で見られます。
だから、女性が、職業婦人が増えてますけれども、職業婦人の地獄へ行く率が増えているんです。
なぜ増えるか、まあ、正常な家庭生活ができないということに対する、不満、或いは、その不満を
他の人にぶっつけ、そして、心真暗にして、昔なかったような地獄に堕ちて行くんです。昔は、
嫁と姑の争いくらいで済んだんです。お姑さんが意地悪をするんで、家にこのまま居ようか、
飛びだそうか、大体こんな悩みが主だったんです。ところが今はそうじゃないですね。会社に
入って、他の女性との関係、後輩の男性だちとの関係、上司との関係、こういうのが一杯になって、
真黒になっちゃうんです。だから心を暗くする理由がもっと増えているのです。
今は、男性にしてもそうです。二十代でやる気満々だったのが、途中で左遷されたり、仕事で
失敗したりして。或いは、上司に恵まれなかったりとかいうことで、様々な挫折を味わっていきます。
まあ、サラリーマソ男性なら99%挫折を味わっていくでしょう。運良く、社長まで辿り着いたとしても、
社長になった途端会社が傾いたりして、うまくいかない。こんなこともあるわけです。
ざっと人生行路を私は、今話してみましたけれど、こういうふうに、人間というものは、
生まれ落ちてより、様々な環境に応じて、いろんな心の曇りを造っているんです。そして
神の心から離れた自分というものをだんだんに形成していきます。』
■反省の意義について
『ですから反省というのは、道徳的に善悪だけの問題じゃないということなんです。善悪だけ
考えて生きるなら、人間は、世間に出て働きもせず、山の中に隠(こも)って、いいですか、
滝にでも打たれて、山小屋にでも居ればいいんですよ。そしたら何も悪いことしないですよ。
落ちている木の実かなんか食べて、草の根でも食べて生きていれば、仙人みたいに生きていれば、
何も悪いことしなくて済むんです。マルクス主義じゃないけれど、人から搾取する必要もないし、
人を苛める必要もないんです。人間一人で生きて、自然の木の実を採って食べて生きていれば、
何も悪いことしなくて済むんです。それなのに、共同生活をして、色々苦しみを造っています。
では、みんな人里離れて、一人で住めばいいかというと、そうじゃないんですね、悪をなさないで
済むのじゃないのです。悪というのは、必要悪といって、どうしても人間として生きていく
過程において、様々な悪をしでかしてしまうのです。ですからこそ、反省というのが大事なんです。
この反省の意義に入りますけれども、反省というのは結局、生まれ落ちてよりできたスモッグ、
心のスモッグを自分自身で取り払うということなんです。これは、工場なんかで排水なんかを
垂れ流しているけれども、いいですか、川に流し、海に流し、様々な動物たちが死んでいる
わけなんです。魚たちが死んでいます。それでは、死ぬのは神様が悪いのか、神様がちゃんと
彼らを守らないから、魚たちが死ぬんですか。そうじゃないですね。排水を流している人が
居るからでしょう。流している人が、ちゃんと処理をしなければいけないわけです。他の人は
処理してくれません。誰もする人はいません。神様のせいじゃないんです。人生が不幸になっていく、
原因は自分自身が造ったんです。自分自身が造った原因に基づいて、結果が起きているんです。
ですから、人生は、全て原因と結果の連続なんです。人生を生きる途中に於いて、
様々な原因を造る。そして、その結果が現われる、人間が造った、原因と結果の連鎖が
人生なんです。ですから、人間が幸、不幸を追うのは、大抵結果です。この結果を見て
思うのです。じゃ何故その結果が起きたのか、これを反省せよというんです。そして
自分で探究していくと、原因に突き当たるんです。ああ、私はこういう原因を造ったために、
こういう結果が現われたんだ。この結果に対する責任は、誰に対してあるのじゃなくて、
自分自身なんです。そういうことなんです。』
■生まれてくる環境は自分で選ぶのだ
『例えば、こういう家庭環境だったために、自分はひねちゃった、だから両親が悪いんだ、
社会が悪いんだ、こういうふうに考えるのは簡単です。
ところが、まったく同じ環境にあっても、違う人は、違うように生きているんです。
父無し子で育ったとしても、母無し子で育ったとしても、立派な人生を生きる人は居るんです。
じゃ何故、その人は、そう生きられて、あなたはそう生きられなかったんですか。この問いに
答えられないんです。ですから、人間というのは、結果に対する責任は、自分自身が造った
原因なんです。また、様々な家庭環境様々な社会環境を選んで生まれて来ますけど、それを
選んで生まれたのは、外ならぬ本人だということなんです。
哲学者たちは、安易な物の考え方をして、人間は偶然に生まれて来る。盲目的に生まれる。
或いは、本人の全然責任がないところに、突如として生まれて来る。そして、生まれ落ちて
始めて、色々なことを考える、と思っている人が居ます。完全な間違いであります。人間は、
自分が生まれてくる環境を選んで来るんです。自分の最も悟れるような環境を選んで、
人間というのは生まれて来るんです。ですから、そのような環境に生まれたということは、
あらかじめ、先刻御承知済みなんです。それにも拘らず、それで落第していくのが人間なんです。
だから周囲のせいに決してしてはいけないということなんです。自分自身なんです。
ですから、その原因と結果、これを正して行きなさい。こうすることによって、先程の
汚れじゃないけれども、自分自身の心の曇り、スモッグを取ることができるのです。』
146 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 13:18:13 ID:gfkpazW/
環境は選んできません。
生命として発生するだけです。
死んだら無になり、受胎し発生を
繰り返しているだけです。
■心のスモッグを取るとどうなるか
『そして、心のスモッグを取るとどうなるのか。心のスモッグを取ると神の光が射して
くるのです。いいですか、神の光というのは、太陽と一緒です。太陽というのは、
万人に対して、善人に対しても、悪人に対しても平等に光を投げ掛けているでしょう。
ところが太陽の光を遮(さえぎ)るのは何ですか、それは雲ですね、空に浮かんでいる雲、
空が曇ってしまうと太陽の光は射してこない。じゃ曇っているから、太陽は出てないかというと、
そんなことはありません。太陽は、雲の奥で燦然と輝いているのです。人間も一緒です。
人間は神の子です。そして神の光、これはあらゆる人間を、万遍なく照らしているんです。
それは、アフリカの土人であれ、人食い人種であれ、動物であれ、虎であれ、
ライオンであれ、象であれ、人間であれ、あらゆるものを神の光は照らしているのです。
ただ、それを遮るものがあったなら、どれだけその光が強くても、やっぱり遮ってしまうのです。
いくら百万燭光の光があったとしても、それを遮る壁があったなら、その光は届きません。
しかもその璧は、自分自身で造っているのであれば、その璧を取り除くのは、自分自身であるはずです。
148 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 13:29:01 ID:gfkpazW/
ここは、反省を売りにしている宗教のようです。
自分自身が璧を取り除かなくて、自分自身が曇りを取り除かなくて、誰が一体取り
除くでありましょうか。ですから、反省というものは、本来、いいですか、生まれ落ちた時の
自分の純粋な心を取り戻す、そのためにスモッグを取る、そして神の光を受けるという操作なのです。
では、神の光を受けると、どうなるのでしょうか。神の光を受ける、神の光が入ってくる。
これがある意味において、あなた方が霊道が開けるという現象なのです。霊道が開けるというのは、
神の光が直接射して来るということなんです。今まで間接的に入って来たものが、直接的に入って
来る。あなた方雲でも、薄曇りっていうのがありますが、大抵の善人というのは、薄曇りなんですよ。
薄らした雲でね、光は射しているんです。なんとなく囲りが明るいんです。これが大抵の善人です。
悪人というと、まあ雨雲みたいなもんですね。真黒けです。雲が厚くて、全然光が入って来ません。
ところが、大抵いい人というのは、薄曇りで間接的に光が入ってきているんです。これが、
この曇りを取り除くことによって、いいですか、燦々たる太陽の光が心の中に射して来るんです。
これがいわゆる霊道現象というものです。そしてこれが神の光です。神の光が入って来るわけです。
いわゆる高級霊との通信ができるような心の状態になってくるわけです。』
150 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 13:33:18 ID:gfkpazW/
神の光など存在しません。
太陽光なら知ってます。
■日々一刻一刻が悟りである
『ところが、その反省も、その反省によってその曇りを取り除くんですが、一旦反省によって曇りを
取り除いたとしても、また暫くすると人間というのは、想念の曇りを造っていくんです。これは丁度、
錆た鉄が、磨いても、錆びを取って落としても、暫くほっておくと、また錆びついてきます。
酸化鉄です。これができるのです。また、やすりで研かなければいけない、一緒なんです。
永遠に悟った人というのは、いないのです。悟りというのは、日々、日々、一刻、一刻なんです。
一刻、一刻の悟りがある。昨日のあなたが美しいあなたであったからといって、今日のあなたが、
心が美しいかどうか分らないのです。今日のあなたが、朝一番に妹さんと喧嘩したり、お父さんと
言い争ったりして、私と対峙(たいじ)しているなら、あなたの心の中には、私の言葉はストレート
に入らないんです。多分、ストレートに入らないはずです。そういうふうに人間というのは、
一日一日を積み重ねていくことが大事です。
152 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 13:46:33 ID:gfkpazW/
想念帯という物質は存在しません
実証不可能ですね
ですから、反省を毎日、毎日繰り返すことによって、常に心を澄んだ状態に保つということ、
これが大事なのです。ですから、従来の反省観、道徳でいう反省と、私が言う反省との違いは、
要するに神の光を、曇りを取り除くことによって、神の光が入ってくる。この理論です。
これは非常に簡単な理論のようであって、非常に難しいんです。実際に体得する迄は。
結局、古来、いろんな偉人たち、或いは聖者たちが説いて来た悟りの方法というのは、
これに過ぎないんです。心が造ったスモッグを取り除いて、神の光を直接受ける、これが
悟りなんです。そして今日は、反省だけじゃありませんから他のことも言っておきましょう。』
154 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 13:51:02 ID:gfkpazW/
悟りっていうのは錯覚でしょうね
■瞑想は充電である
『瞑想というのがあります。瞑想は、何のためにするんですか。これは、瞑想というのは、
充電なんですよ。あなた方、プラグを差し込んでひげ剃り用のカミソリに充電したりしますね。
瞑想というのは、充電なんです。反省というのは、まあ差し込みのような行為でしょうか。
瞑想というのは、充電期間なんです。ですから、人間余程優れた人なら、一秒神を
想えばそれで全て終わるかも知れないけれど、大抵の人間はそうでないんです。大抵の人間は、
二十四時間、この世的なことに執われているため、なかなか悟れないんです。ですから
反省によって、曇りを取り除いて、その澄んだ心でもって一定時間、あの世の霊流、神の光を
受け入れる時間を取る必要があるんです。この神の光を受け入れる時間、これが瞑想なんです。
ですから瞑想というのは、十秒や、三十秒では済まないんです。大抵の人が十分、二十分、
或いは三十分、一時間瞑想というのをされます。まあ、八時間もやるような奇特な人は別として、
普通の人は、せいぜい一時間もやれば充分です。まあ一時間が長ければヽ三十分で結構です。
三十分間、要するに神或いは仏、神仏の心と同通する。或いは、高級霊と同通する時間をもつ、
こういう時間が充電期間なんです。
156 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 14:00:04 ID:gfkpazW/
瞑想の際の脳内物質はセロトニンのようですが、それが何か。
この充電ばかり毎日やってたら、電気があふれて来て感電してしまいます。感電死です。
ビリビリときて、もうひげ剃りのカミソリなんか、電気カミソリなんか一日中充電していたら
感電してしまいます。触っただけで。これはやり過ぎっていうんです。物事やり過ぎちゃいけないのです。
ですから、まず反省というのは、そういう心の曇りを取るための作業であるし、瞑想というのは、
充電期間、天上界の神の光を入れるための充電期間なのです。人間は、この世的な波動で毎日、
毎日随分荒らされてしまうんです。自分がいくら澄んでいても、心の乱れた人と会うと、
そういう人と一時間、二時間会っていると、だんだん心が曇ってきて、嫌な波動を受けるんです。
この世というのは、波動の粗い世界ですから、そういう高級霊と通じたとしても、どうしてもその
波動に触れると、また心が荒れて来ます。そのために充電期間としての瞑想があるんです。
だから瞑想は、そういうふうに思って頂きたいんです。そのための瞑想なのです。充電期間
としての瞑想なんです。まあ、この反省、瞑想というのが主として、私が重点を置いて言った
ことですが、瞑想については、別途で話す機会があるでしょう。』
■祈りはパイプであり、電話である
『あと祈りというのがあります。祈りと言うと、どうしてもキリスト数的な物の考えが
入ってきます。じゃ祈りというのは、本当は何なんだろうか。祈りって何かな、あなた
祈りって何か分りますか。祈りというのは、これはパイプなんですよ。まあ反省というのは、
自分自身で曇りを取り除いたら自然と光が入ってくる。こういうことでしたが、祈りというのは、
パイプなんですよ。こういうパイプを天上界へ向けてドーソと通す。囲りは、もうスモッグで
一杯ですよ。スモッグで一杯だけれど、真空管みたいなもんで、真空のパイプをドーソと通して、
神様と自分との間に一本の線を引く、これが祈りです。或いは、電話と言ってもいい。
祈りというのは、電話なんです。いいですか、あなた方間違わずに電話番号を回せば、
相手の人は出てくるんです。
159 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 14:08:26 ID:gfkpazW/
幻覚作用にLSD(リゼルギン酸ジエチルアミド)が使われてますね。
宗教儀式で。
「もしもし、こちらOOですけど高橋さんのお宅ですか。」
「はい。」間違ってなければ「はい高橋です。はい高橋信次です。電話番号変えてません。
この番号で合ってます。何か御用でしょうか。」
「あ実は、私体操やってるんですけど、生徒が、今減っちゃって、是非来て下さいませんでしょうか。
できたら奥様、お嬢様と一緒に来て頂きたいし、近所の人も来て下さると助かるんです。
丁度、大広間、五十畳くらいの広間があるんですけど、生徒さんがハ人しか居なくて淋しいんです。
ですから、なんとか二十人くらい欲しいんで来て下さいませんでしょうか。」
こういう電話があなたから掛かってくる。そしたら私は「しょうがないですね。あなたにはいつも
お世話になっているから、やむを得ない行きましょう。」まあ、こういう話をするわけです。
これは正しく電話番号を回したからです。電話と一緒です。パイプで分りにくければ、
電話なんです。反省は電話ではありません。瞑想も電話ではありません。祈りは電話です。
ですから電話である以上、いいですか、正しくダイヤルを回す必要があるんです。
正しくダイヤルを回すと、間違いなく相手に通じるんです。そうですね。』
161 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 14:21:34 ID:gfkpazW/
高橋信次…最終学歴 日本大学理工学部ですね。
■祈りで大事なことは、電話番号を間違わないこと
『祈りに対して、特に大事なことは、電話番号を間違わないということなんです。例えば、
高橋信次主宰のGLAへ掛けたつもりが、新宿の歌舞伎町に掛かっちゃって
「はい、こちらいいとこですよ。あっただ今サービスタイムです。お客様、五時迄に入場の
方は、千円ぽっきり。」なんて掛かってくるわけです。こんなところに掛かると大変なこと
になりますね。GLAに行って高橋先生のお話を聴こうと思ったのに、なんか随分楽しい
ところに掛かってしまった。「ところで、若い娘は居ますか。」「もうピチピチギャルで
一杯です。もう全員二十才未満、十八、九ぱかりですよ。お客様、もう丸ぽちゃも居れば、
もう本当、東北美人も居ますよ。」「そうですか。千円ぽっきりですか。」うんそれなら、
ちょっとGLAに行っても遠いし、浅草まで行く暇があったら、新宿の方が近いから、
ちょっと一遊びして、それから行っても遅くないだろう。それから、また高橋さんのところへ
行って、心の洗濯をすればいいんだから、洗濯すれば一緒だ、と。
ちょと汚してもいいじゃないか、まあ新宿のナントカ喫茶に寄る、これは電話番号を間違った人ですね。
こういうことがあるわけです。ですから正しい電話番号を使うことが大事なんです。
正しい電話番号を選ぶって何か、これが正しい祈りということです。
ですから、祈りにとって大事なのは、その祈りが正しいものであるかどうかということなんです。
これが一番大事なんです。これが電話番号です。』
■間違った祈りは悪魔の世界に通じてしまう
『では正しい祈りって何だろうか。祈りの一番危険な点は、人間の自我我欲、
自己保存欲のままに祈る人が居ることです。反省は、いいですか、どんな人でも、
要するに反省する以上は、自我我欲のままに反省はできないのです。あなたできますか、
できないでしょう。「自分は、人を一人殺せばよかったのに、殺さなかった、
ああ悪い自分だった。」なんて「あいつ憎かったから、本当は殺したかったのに、
しかし殺さなかった自分は、非常にひ弱な自分である。情けない自分である。
一思いにぶすっと殺せばよかった。」こんな反省する人居ないんです。
ところが祈りでは、あり得るんです。祈りでは「あいつ本当に気に食わない、
あんな奴死んでしまえばいいのに。」こういう祈りがあり得るんです。
或いは、自分の母ちゃんが浮気をしている。相手の男がくやしくて祈り殺したい。
丑三つ時に、わら人形に五寸釘打って、カーン、カーンと徹夜して、こういうのが
今でもあるんです。実際にそれで死んじゃった、という人も出たりするわけです。
念の力がありますから。
164 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 14:32:55 ID:gfkpazW/
特殊な電磁波で幻覚作用が起きるでしょう。
高橋信次のあのパフォーマンス、何か仕掛けがあったのかもね。
ですから、祈りっていうのは、一歩間違うと、これなんか電話番号間違った
例ですが、悪魔の方にも直通電話があるんです。電話は、二階、三階だけに
通じてるんじゃなくて、地下室にも通じてるんです。だから、特に祈りは、
間違わないことが大事です。ですから、私が思うに、まず段階ですけれど、
まず反省をする。反省をして心の曇りを取る。そして瞑想をして、充電することです。
心の充電をして、高級霊界からのエネルギーを受け入れる準備をする、そうして祈るんです。
正しい祈り、こうすれば、ほぼ間違いがないんです。まず、曇りを取っておく、
曇ったままで祈りをすると、大変なことになってしまうんです。自分は、金が欲しい、
金が欲しい、あと一千万あったらもう一回競艇へ行って、ギャンブルができる。
もうあと二千万あったらラスベガスヘ行ってやろうとか、アトランティック・シティで
大儲けしてやろうとか、こんなことを考えるんです。ところが、心が神様の
方へ向いとけば、そういう祈りは、なんか自然に出なくなるんです。
まあ、祈りの特徴としては、他人との関わりということが非常に犬事なんです。
祈りは、他人のことを色々考えて祈らないと他人の人生をも変えてしまうことがあります。』
■正しい祈りかどうかのチエック・ポイント
『ですから、イエス様も前に仰ったようですけれども、祈りというのは、祈りが
実現されることによって、その人の人格が高まるか、或いは、その人の祈りが聞
かれることによって、他人が幸せになるか、こういうことがチエック・ポイント
になると思うんです。自分の人格が高まるという基準も一つだし、少なくとも他人
が幸せになるという基準もあると思うんです。
例えばあなたが、これから正法を伝道したい。高橋信次の霊言集、五十万部くらい
売れて欲しいと祈る。さあ、これはなかなか難しいですよ。電話番号がこれ、地獄
に通じているか、天国に通じているか。「五十万部売れると人気が出るだろう。
人気が出ると評判になる。評判になると私たちも偉くなる。偉くなると嬉しい」
嬉しいと、どうなるか。祭り上げられる。祭り上げられると、教組様になっちゃって、
偉くなっちゃったりして、お賽銭集めちゃったりして、こういうふうになると
狂ってきます。
167 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 14:44:13 ID:gfkpazW/
右脳側頭葉の血流を電磁波でどうにか出来るし。
脳内物質をコントロールしてたんだろうね。
頭に着けずにすむ特殊な装置で
電磁波を流していたんじゃないかな。
しかしこの教えは、真実の教えだから一人でも多くの人に読んで欲しい、
知って欲しい、こういう気持ちだったら間違いありません。五十万人に読まれても、
百万人に読まれても、神理を知って欲しい。ただそういう純粋な気持ちで行けば、
その結果、潮文社さんがちょっと儲かっても悪くない。これならいいわけです。
要するに、ただ売ればいいと言うなら、あなた、私ならもっと違うこと言いますよ。
こうすれば金儲け間違いなし、結婚確実、あなたは絶対偉くなります、出世できます、
こういう祈りを私が教えてもいいんです。ただ私は、そういう教えはしない。敢えて
売れないような、単純な教えをします。
少なくとも、祈りは、やはり、それによって自分自身の魂が向上するか、囲りの人が
幸せになるか、そういう積極的な光の方向に、向いているかどうか、このチエックが
大事だということです。これが祈りです。まあ本日は、いろんなことを話しました。』
169 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 14:49:40 ID:gfkpazW/
そう考えると、異言パフォーマンス後
普段の生活中に唇がムズムズして
頻繁に異言を言いだしていたという
体験談も分かる気がするのだけれども。
-----------------------------------------------
悟りについて
-----------------------------------------------
■個の悟りとは何か
『人間はこの三次元的な自分というもので生きてるわけですけれども個の悟りとは、
少なくともこの三次元的な自分から何らかの形において遊離し、神近き高級霊に
近づいて行くということですね。これが悟りなんです。悟りというのはその根本
において自らを高めていく、こういうところがあるわけです。そして皆、本当に
悟りたい、他人の悟りより自分の悟りを高くしたいという気持ちがあるわけですけれど、
何故かというと悟りというものはあくまでも、神に近づいて行く方法論だからです。
方法論であり、結果だからです。これが個の悟りであります。
では、何故そのようなことが必要なのでしょうか、それはもともと人間というものは
神仏のエネルギーが分れてきたものなんです。
あなた方は一人一人がバラバラに、たまたま偶然に生まれて来て
偶然に人間として修行しているような気持ちでいるけれども、
もともとはそうじゃありません。あなた方の生命体自体はそんな唯物的にできたもの
じゃないんです。永遠の神のエネルギー体、こっから分れてきたものがあなた方なんです。
ですから悟りというのは本来の自己に立ち返ろうとする姿であるわけです。
ところが、本来の自己はそのような神仏のエネルギー体から分れたものであるにも
拘(かか)わらず、長い間、転生輪廻を重ねていくうちに、個性として、個体としての
意識が非常に強くなり、或いは三次元的なものの考え方に執われて、だんだん魂
というものが孤立してきたんです。個性を持ってきたんです。これは本来は個性化
ということ自体、悪いことじゃないんです。経験を積むことによって個性化ということを、
だんだん発見してくるんですが、個性化することによってある意味で魂が三次元的に
なってきているんです。非常に三次元的になってきてる。この現象界に住みやすい魂
となってきている。そして本来の自分が何処(どこ)から来たものか、ということを
忘れている。人間が一人一人切り離されたものだとして生きて行く、なんて言ってるんです。
172 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 14:57:46 ID:gfkpazW/
↑
まあ、これくらいの想像力がないと
教祖にはなれないのでしょうね。
ところが悟りというのは結局そういうことじゃないんですね。人間は切り離された存在
じゃないということなんです。永遠のエネルギー体である神から分れて来たものであって、
全てのものが平等に神から分れて来たものだと、そういうことなんですね。
ところが、私たちは悟りに至るための方法論として、八正道を説いたり、或いはいろんな
道徳論を説いたりしますけれど、何故、人を愛さなければいけないのか、何故、怒って
はいけないのか、何故、愚痴ってはいけないのか、こうしたことを方法論として教わって
いるわけですけれども、結局のところその根底にあるのは自他は一体だということなんですね。
もともと同一の神から分れて来ていると、これを悟るために、いいですか、方法論として
八正道を編み出したり様々な善悪の二元論が出てきているんです。結局、我々は元なる
神から分れた個性なんだということを悟るということですね。これが大事なことなんですよ。
これが個としての悟りですね。』
■個の悟りの方法論
『個の悟りの方法論は様々にあります。
例えば禅というものがあります。あなた方、他に専門の方々から聴かれることもあると
思いますけれども、禅をして、悟った人が居るかどうかです、果たして。まあ道元という
ような人は、悟りというものを、何かフィーリングで捉(とら)えているんですね。
何かこういうふうにやってるとそのうち悟れるんじゃないか。まあ「只管打坐(しかんたざ)」
なんて言って、只(ただ)しきりに坐ってればね一生懸命、一心に坐っておれば悟りが
得られるんだ、で「只管打坐」なんて言いました。「ま、考えてもわからん、悟りなんて
何かわからない。とにかく何でもいいから考えより実行が先です。」と。「とにかく
坐りなさいあなた方」こういうことを言ってるわけです。
175 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 15:08:58 ID:gfkpazW/
心 魂 想念帯 神の光
想像力を駆使して、せめて
小説家になれば良かったのではありませんか?
これはある意味においては確かなんです。この世の人々というのは、どうしても
屁理屈(へりくつ)を言うんですね、そして「そんなことやって本当に悟れるんですか、
そんなことやって本当に神様と話ができるんですか」こう屁理屈を言う人が居ます。
「そんなこと言う暇があったら、取りあえず坐りなさい。」と「坐って一人ずつね
禅定してみなさい。」と「心を落ちつけて、神の方へ心を向けてみなさい。」
そういうことをまず道元は言ったんですね。
だから只管打坐ということを単に坐ればいいと取れば、これは誤りであります。
こんなもので悟れません。ただ、四(し)の五(ご)の言う前にまず実践行為せよ、
という意味においてはこれは正しいことであります。また、悟りということにおいてはね、
人間というのはね、どうしても心があくせくしていると神仏と交流することはできないんです。
177 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 15:21:21 ID:gfkpazW/
日本大学理工学部なのだから、電気屋の社長で良かったのに。
その後、とってつけたように宗教を勉強したのが見え見え。
あちこちから教えを引っ張ってきて本が完成したんでしょう。
そういう意味において、悟りというのはどうしても一人っきりになるという瞬間が
必要なんです。一人っきり、まあ静寂ですね。心の中の静寂、静かなる自分というものを
発見していく必要があります。
本当の自分を知るためには、やはり一人にならねばいけないんです、人間はね。ところが
同じ悟りについてもキリスト教系の方では、あまり悟りということは言わないかも知れません
けれども、父と子と聖霊と一体になる祈りがありますね。これもまあ、ある意味においては
悟りに近いものだとは思うんですが、神と自分とが同一エネルギー体であるということを
知るということですね。このために父と子と聖霊と、こうした三位一体の考え方があります。
これもある意味においては、自分自身の意識を高めて聖霊と一体となり、父なる神と一体となる
という教えであります。
これも悟りは悟りです。まあ悟りはこれも、祈るということで
イエス様も聖書の中で、「汝ら祈る場合に、人前にて祈るな」と「妄(みだ)りに神の名を
ロにするな」ということをイエス様言いました。これは、まあ何と言うかね、やっぱり人間、
自分を良く見せたいという気持ちが人間あるんですね。これについてイエス様は、戒(いまし)
めておられるんです。ともすれば、神の名を呼べばね、神に近き人だという誤解を
自分でして喜んでる人がいるとか、或いは大勢で神に祈りゃあね、それでいいような
気持ちになってる人がいる。そんなもんじゃないんです。
本当の悟りというのは、一人になって神と相対座しなければ得られるもんじゃないんだ。
そういうことをイエス様がね、ああいう形でお教えになっているんです。
「汝ら妄りに神の名をロにするなかれ」と「汝ら人前にて祈るな」と「静かに戸を閉めて祈れ」
ということを言いました。キリスト教的だから、祈れということになっていますけれど、
これは真実と対話せよという意味であります。』
180 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 15:31:33 ID:gfkpazW/
ワンツースリーだのふざけているよね
■悟りは相対の世界にではなく、絶対の世界にある
『坐禅にしてもそうですね。今お寺の雲水さんだか何だか知らないけれどね、大勢がね
袈裟衣着ちゃって、壁、面壁してですね、え、五十センチか一メートルおきに並んでですね、
壁に向かって、何か知らんけど目を瞑ってですね、座っておると。そのうち眠くなってくる
からね、眠くなってくるとパチッと叩かれて精神棒入れられて、「馬鹿者」なあんて言われて
やっているわけですが、あんなんで悟れるわけないんです。他人というものを意識していて
悟ることはできないんです。何故他人を意識していて悟ることができないか。それは悟りと
いうものが絶対の世界ですから、そういうことなんです。いいですか、他人というものが
入って来るというのは、これは相対の世界なんです。比較級の世界なんです。比較級の世界
においては悟りはないんです。悟りというのは絶対の世界です。もう全てそれ自身が価値が
あるという世界なんです。これと比べて価値があるという世界じゃないんです。
悟りというのは絶対の世界です。決して他の人と比較して自分の方がより知識があるとか、
自分の方がより心性が高いとか、こんなことによって悟るもんではないのです。悟りというのは
絶対の世界に参入するということです。
182 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 15:38:10 ID:gfkpazW/
資本主義に悟りはいらないよ
じゃ、絶対の世界って何だろうか。神と一体の世界、これはある意味において恍惚(こうこつ)
の世界なんですね。あなた方恍惚の世界って言うと、恍惚の人かなんかでね、まあ年とってね、
おもらしをしたりね、自分が何をしてるかわかんないような人のこと考えちゃうだろうけど、
そういうことを恍惚の世界と言ってるんじゃないんです。エクスタシーの世界です。
エクスタシーの世界と言うと、また女性はまた変なこと考えちゃってね。まあ性的歓喜の
世界なんて考えちゃうから、これも困るんだけど、ま、そういう意味でエクスタシーって
私は言ってるんじゃないんですよ。私は真面目な人だからそんなエクスタシーなんか私、
知らないんだから。そうじゃなくてエクスタシーの世界というのは神と自分とがね、もう一体になる。
神の懐の中に自分が抱かれる感じね。ある意味では自分自身が非常に高く大きくなって神と
自分とが宇宙即我、一体となる気持ち、これがエクスタシーなんですね。
だから悟りということは、ある意味においてこれは喜びでもあるわけです。だから今迄ね、
あの仏教家たちが、よく悟りというものは厳しいもんだと、非常に厳しいもんで大変な修行
がいるんだ、ということを言ってたと思いますけど、これは一面であります。悟りは厳しい局面、
努力して努力してやっと辿り着けるような高い頂だということは一面でありますが、悟りのもう
一面というのはエクスタシーの世界、恍惚の世界です。』
■悟りの世界は桃源郷
『これは別の言葉で言うと理想の世界、桃源郷ですね。そういう世界なんです。人間の
心の中には何処か、遥か遠くの所に夢のような世界、理想の世界、本当の恍惚の世界が
あるというのを思い描くんですね。その世界にね、何とかして人間は行きたいと思うんです。
ところがその恍惚の世界、理想の世界っていうのは本当は実在界にあるんですね。
実在界にある、如来界であり、菩薩界こういう天国というのが本当はその桃源郷であり、
理想郷なんです。ところが生きてる人間というのは、こういう塵芥(ちりあくた)の如き
地上の中で生きてるわけですから、なかなかその桃原郷に至ることができないんです。
ですから悟りの世界というのはある意味において、その実在界をこの現世に、
この地上に持ち来たらす方法なんです。
185 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 15:51:13 ID:gfkpazW/
ここの宗教は、貧乏人を集めて
ますます弱者にして使いモノにならなくしている
妄想 幻想の世界に生かし続けて
現実逃避したい人には都合がいいかもね
自分一人でいて、ここにいて個人にて悟りの世界を創りあげるということは、その中に
おいてエクスタシーの世界、恍惚の世界を創って行くということなんですね。ですから
悟りという意味は別の面で言うと、先程まあ私は厳しい努力ということを、まあ強調
しましたが、そういう精神の世界、要するに人間完成の道であると回時に、もう一つは
そうした永遠の幸福、永遠の幸福の世界を得ることであるという定義もできます。
何故なら私たちが居る如来界、あるいは菩薩界という世界は永遠の幸福の世界です。
未だエデンの世界が続いているんです。
あなた方はエデンの園ということを、昔習ったことがあると思います。クリスチャンたちが
よく言いますね、神様はこの地上を創られた時に、初め平和な、本当の幸福に溢れるエデン
の園がそこにありました。ところがその中でアダムとイブが、平和に暮しとったんだけど、
イブが知恵の木の実を食べちゃって、まあリンゴの実とか色々言われてるけれど、サタンに
対応する蛇にそそのかされて、その知恵の木の実を食べたもんだから知恵がついちゃって、
お互いに意識しちゃって、恥ずかしいとこ隠し合ったりしてそんなことして自我が、
自意識が生まれたもんだから神様怒っちゃって、「お前らみたいな自意識生まれた奴は、
出て行け」と。でエデンの園をまあ追放されたということを言ってますね。これはまさしく、
この私が今言っている理想郷といった悟りの世界との関連を言っているんですよ。』
187 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 15:57:27 ID:gfkpazW/
K子さんは前に、資格試験について
爪を研ぎ、キバを研ぐとネガティブな言い方をしていたね。
K子の言葉で、若くして資格とるのを止めた人もいるでしょうね。
188 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 16:00:36 ID:gfkpazW/
今、日本が弱体化しているのは
若者をこんな宗教で使いモノにならなくしてしまったせいでしょう。
■アダムとイブがエデンの園から追われた理由
『何故ね、じゃあ神様は知恵の木の実を食べたアダムとイブを、迫放したのか。
これを考えて頂きたいんです。まあ、その実がイチジクの実だかリンゴの実だか、私はよく
知らないけれど、まあ蛇がニョロニョロ出て来てですね、「イブさんイブさん」と「この
知恵の木の実を神様が食べちゃいけないと言ってるでしょう。」そしたらイブが「確かに
そうですわ、神様が決してその木の実を食べちゃいけないと言います。」と「じゃイブーさん、
どうして食べちゃいけないかあなた知ってますか。」そしたらイブがわかんない。
「何かわかんないけど神様これ食べちゃいげないと仰るもんですから、神様が仰る
ことですから私はそのまま信じます。」とまああなたみたいな人ですよ、素直に信じてたんです。
ところがね蛇がね、蛇に化けたサタンが言うわけです「じゃいいこと教えてあげましょうか。
この知恵の木の実をね、神様が食べちゃいけないという理由はこれを食べると神様と同じような
知恵がつくからなんですよ。そして全智全能になっちゃって、神様自分の対抗者が出て来るから、
これで困るって言ってるんですよ。だから、黙って食べちゃえばいいんですよ。そしたら
全能の神様みたいな、高橋信次みたいな知恵がつくんですよ。」とまあこう仰ったわけですね、
それでイブがそそのかされてしまったんです。
190 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 16:09:35 ID:gfkpazW/
K子はあんなこと言っていたけど
父親の高橋信次はハードウェアエンジニアだから。
誘惑に弱いんです女性っていうのはね。あなた、女性は何故悟れないかと悩んでるでしょうけど、
女性は誘惑に弱いから悟れないんです。結局はアダムとイブでもイブの方がまず参っちゃったんです、
サタンの方にね。物質的誘惑に弱いのは女性です。この知恵の木の実も物質的誘惑です。
それを象徴しているんです。その知恵の木の実をすすめられてそのリソゴの実を食べちゃったんです、
イブがね。「あら美味しいわ。こんなに美味しいものかしら。こんな美味しい物を食べてしかも
全智全能になれるなんてまあ素敵。」まあ女性らしいですね。単純な発想です。
「美味しいし、その上に賢くなるなんてこんなことは、こんないいことはありはしない。
ねぇアダム、私今、知恵の木の実食べたの。これ美味しいし、あなた全智全能になるのよ。
神様といっしょなのよ。あなたも食べてみなさいよ。」大抵男を堕落させるのは女なんです。
192 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 16:11:53 ID:gfkpazW/
妄信する信者には、資格とられるとマズいってことよね
これでアダムがころっと参っちゃうんですね。イブに言われて、「そんなにお前がいいって
言うもんなら、まあ亭主である俺もちょっと食べてみなきゃあね、夫婦の会話ってものができないから、
仕様がないからまあ俺もひとかじり食べようか。ああ食べたらなかなか美味しいな。確かに知恵の
木の実だ。賢くなってきたわ。今まで僕たち裸で歩いてて何とも思わなかったけど知恵がついてきたら、
確かにこんなんじゃ不自由だね。確かにおかしいわ。」なんてお互い恥ずかしいの見ちゃったりして、
モジモジして赤くなったりして。「じゃ、やっぱりこれ恥ずかしいからイチジクの葉っぱで隠そうか。」
なんてね、あの隠しどころが出てくるんですね。これが秘密の部分です。
本来人間というのは公明正大に生きていたんです。神様の目から見て恥ずかしくないような
生き方していたんです。これが本来の人間なんです。』
194 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 17:00:58 ID:gfkpazW/
昔のビデオを見たんです。子供たち向けのでしょうね。
小学校の理科で習う教材を使ってましたね。
球根の部分が因縁果報の果になっていました。
学校で習う理科の授業とは全く違う内容でしたね。
あんな小さなうちから洗脳されて可哀想ですね。
195 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 17:26:25 ID:gfkpazW/
何度も言いますけど、父親の高橋信次は、日本大学理工学部卒業のハードウェアエンジニアです。
子供たち相手に、娘のK子は何を考えてたんでしょうね。
196 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 17:55:32 ID:gfkpazW/
因縁果報の果と言っていた部分は
はいしゅ、子房と呼ばれる部分ですね。
197 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 17:57:30 ID:gfkpazW/
球根も使ってましたが。
198 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 18:20:05 ID:gfkpazW/
親が教養ないと、騙されるんでしょうね。
教養つけられると、綻びに気づかれるので、イヤがってる感じよね。
199 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 18:30:48 ID:gfkpazW/
K子はよく騙し絵を使ってましたけれども、
目の錯覚をですね、感じ方の違いに結びつけるのは無理があると思います。
200 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 18:34:31 ID:gfkpazW/
K子が相手にしているのは、
ダヴィンチの絵が分からないような、
教養のない人たちですよね。
■神様の目を意識しなくなった人間
『ところがこの比喩の語ってるのは物質世界に人間が降りてから、いいですか、人間っていうのは
神様の目を意識しなくなって、神様が自分を見てるなんてこと分らなくなってくるんです。それ故にね、
自分自身、お互いの目しか分らなくなる、神様の目から見りゃあね、何を隠したって、あなたがいい
服着たって、洋服着たってみんな見えちゃうんですから無駄な抵抗なんですよ。ところが人間は
この世に生まれるともう神様のこと忘れもゃってお互いの目しか見えなくなる。有限の目ですからね。
お化粧して口紅してそして綺麗な服着てりゃ、美人だと思われるんじゃないかと思うわけですよ。
私たちの目から見りゃ、あなたの骸骨の方まで見えちゃうわけですね。それでも美人だと思って、
人を騙(だま)せると思うからそういうことするんです。
男の方も男の方でね、お腹が出張ってて中年腹してても、スーツぴしっと決めてイブサンローランの
ネクタイかなんかしてると、まあ格好いい男性みたいに見えるわけですよ。熟年かなんかなっちゃってね、
格好良く見えるわけですよ。これで騙しちゃう。お互い騙せると思う。だからイチジクの木の葉っぱで
前隠すなんてまあこれ古典的な話ですが現代で言やあね、アイシャドウしてね、頭にパーマをかけて、
綺麗な口紅を塗って、そしてシャネルの何番か知らないけど、そういう流行の香水をつけて今年は
何色が流行か、私は知らないけど、そういう服を着てすればね、お互いに騙せる。こうして、
偽我(ぎが)ができてくるんですね、お互いに壁ができてきます。お互いに心の中は覗(のぞ)けない。
人間はお互いの心の中が覗けなくてうわべばっかり見るようになり、うわべを飾るようになり、
このように、アダムとイブの話っていうのは現在まで続いてきてるんです。
私が何を今、言おうとしてるかって言うと、そういうことによって神の目を意識しなくなって神の目
から見れば、もう人間っていうのは見通しだということが分らなくなってきている。本能的に
ものの考え方がなくて、お互いに恥すかしいところ隠すというのは、要するに黒いところは
見せたくない、まっ黒なお腹を見せたくない、悪いこと考えてるの見せたくない、うわべだけ
繕いたいとね、表面的にいい人、いい人だと思われたら自分はそれでいいんだと、それだけでね、
外見だけ紳士づらしてたらそれで世間的には通ると、思っているんです。大宗教家の真似をして
裏で詐欺まがいなことしてても、それでも分らないと、こういうことがまかり通ることもできた。
こういう何ていうか、こういう神の目を意識しなくなった人間、そしてだんだん個性っていうか、
個我、個人の我ができてくる。偽我が出てくる。そして自分というものを塗り固めていく。こうして
人間というのは本来の自分の姿を何千年、何万年、何十万年にわたって忘れてきたんです。
204 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 19:04:10 ID:gfkpazW/
アダムとイブは生きていく上で
必要性はないですね
205 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 19:06:03 ID:gfkpazW/
アダムとイブより、小学校の理科くらいわかれば、この教団には騙されないでしょう。
だから悟りの方法、悟ろうということは、この逆の方向なんです。アダムとイブが何故イチジクの
葉っぱで前を隠したか、これを考えるということです。お互いの自我です。自分を良く見せたい
という気持ちです。自我我欲です。まっ黒な自分を見せたくない、イチジクの葉っぱなんかしたって
神様の目にはまる見えなんだから。それを神様の目というのが分らなくなってしまって、お互いの
目だけ意識して、人に良く見えたい、良く見せたい、こういうふうに思っています。
そして現代人を見てみなさい。現代のサラリーマンたち、表面だけはいい子ぶって、イエスマン
ばっかりがまかり通ってますね。何処の会社に入っても新入社員は新人社員らしく仕つけられて、
一年上だと神様みたいなもんで「はい、わかりました。」「ナントカ君これコピー取って来なさい。」
「はいっわかりました、はいっわかりました先輩。」「今日は飲みに行くからね。」
「はいっわかりました先輩。」「今日は俺のおごりだ、まあお前は飲め。」
「はいっわかりました。ああ先輩いつも助かっております。」
腹の中でね「この野郎仕事もろくにできないくせに、幅だけきかせちゃってね、まあ人前でいい
格好だけしちゃって、金おごってくれてるからお前の言うこと聴いてるけど、本当はお前
の言うことなんか聴きたくないんだぞ。お前は頭が悪いじゃないか、口は悪いし女に
もてやしねえ。女の子には、俺の方がよっぽどもてる。」と腹ん中思ってるんですよ。
思っていながらね、表面だけはとり繕う。これがイチジクの葉っぱですね。
また、女性は女性で一緒です。もうネコかぶるってんですが、学生時代はね、お互い我がまま
一杯言ってね、まあ親の臑(すね)はかじるわ、海外旅行はするわ、何かが欲しいと言やあ、
ねだるわね、ボーイフレンドが居たらボーイフレンドにデイトを強要してね、「私あのネック
レスが欲しいなあ。」とか「こういう指輪が買えるといいなあ。」とか言ったりしています。
まあ中には売春婦まがいのことやっちゃって、学生のくせに勉強もしないでもう、今週は彼、
今週はAさんね。次の週はBさん。その次はCさん。こんなこと言ったりしてね。それから
一番早く、女性の一番大事なものを捨てるのを競ったりしてね、「あら、あなたまだなの私
なんかもうとっくよ。」なんて言って、こんなことを競っている、こんな馬鹿な女性が一杯出て
来てるわけです。これもイチジクの葉っぱですね。そして表面だけ、お互いに人間は心が読めない
と思ってるからこういうことができるんですね。うわべだけで飾れる、こういうことが横行してるわけです。
現代人たちの歪みを見てみなさい、ほとんどがそうです。結局は神の目から見た自分というのが
分らなくなってる。或いは神の目からみた他人というのが分らなくなってる。お互い盲同士で見合って、
サングラスかけてお互い色メガネかけて見てるから分らなくなっているんです。だからこそ、いいですか
宗数的な悟りというのが今、必要なんです。』
■個としての悟りとはエデンに帰ること
『何故、道元は只管打坐(しかんたざ)などと言ったのか。私はこれを評価することも
言いました。先程、現代人たちはそういう、うわべばっかり作って、自分というものと
対面してないんです。対坐してないんです。だから、そういう意味では一週間位禅寺に篭って、
自分を見つめ直すってことだって、そういう意味じゃ悪いことではないんです。まあ、ある意味
じゃ暇人(ひまじん)だけどね。まあ、忙しいって言ってろくなことじゃない忙しさでかまけて
いるよりはまだましかという意味で大事なことなんです。そして禅寺へ行って自分自身を振り
返ってみる。この時、初めて自分の外側っていうか、人の目を意識した自分っていうものを
もう一回、内側から点検してみるんです。そして自分の表皮、外側の皮を一枚一枚取っていく。
そしてああ、自分っていうのが気がつかないうち衣が一杯ついてたことに気づくのです。
衣がついてていいのは天ぷら位のもんですよ。人間、衣がついても決していいことはないですね。
神様から頂いた清い心に幾重も海老の天ぷらじゃあるまいし、幾重も衣がついたところでよくないと。
もっとひどい人はトンカツみたいにゴツゴツした衣が一杯ついてるわけですよ。トンカツみたいに、
ギザギザの衣が一杯ついてるわけですよ。こんなのソースでもかけて食べれば美味しいけれど、
こんな衣がついたところで、人間決して綺麗にならないんです。
キツネ色に揚(あが)ったところで、本当、美味しいのはトンカツ位のものですよ。キツネ色に
なって、キツネみたいな性格になってるのが殆どの人間なんですよ。このように殼ぽっかり造ってる。
まあこの殼を、自分と対面して取っていく、これが大事なことです。結局ね、個我、個人としての
悟りとは何かというと、エデンに帰るということです。もとのエデンの気持ちに帰るということです。
人間は天真爛漫に、いいですかその心を露(あらわ)にして何ひとつ恥ずかしくない生活をしてたんです。
だからアダムとイブが裸だったというのは、裸でも何でもいいんですよ、そういうふうに神様の前で
裸だったということなんです。何も隠すことがない、隠すところかあるからこそ、そういう偽我が
出て来ます。神様の前では何もかも大っぴらです。丁度あなた方今、エデンの園ですよ。神様から
見られてね、あなた方もう何んにも隠すとこないんですよ。
あなたの朝から昼までしていたことを私は全部知ってるんですよ、もう、言わないけどね、これは
紳士として恥ずべきことだから敢えて言わないけど、私なんかあなたが朝、何時に起きて何を食べて、
誰と何を話して、何の手紙を書いて本を発送してたというようなことは、全部考えたら分るんですよ。
そしてお昼に何を考えて、ああもうすぐ四時だから行かなきやいけないとか思って焦ってるとか、
こんなこと全部分ってるんです、あなたが考えてるようなことは全部分ってる。
ただね、その神様の目を意識して、私は神様じゃないけど、まあ神近き高橋信次の目を意識してだね、
行動できる人っていうのは数少いわけだ。ところが、あなた方の一日っていうのは私の目には全部
見えてる。こういう意味ではいいですかエデンに今、帰ってるわけだ。ところが現代人の大部分は
誰も知らないと思っています。例えば道に財布が落ちていて、拾ったって、何も悪いことはない、
と。これは人が見ると思えゃ拾えないんですね。見てないと思えるから、拾えるんです。
ところが神様の目から見たらこの地上で葉っぱ一枚落ちるのでさえ全部、知ってるんですから。
その神様の前に謙虚に立つ人間から見りゃ、あなた何にも悪いことできないんですよ。悪いことは、
道徳的にいけないからしちゃあいけないんじゃないんです。悪いことっていうのは、もうみんなばれて
るからできないんです。誰も知らないと思うから悪いことができるんです。誰からも見られてないと
思うからできるんです。まる見えだと思ったら、こりゃできないですよ。あなたそうでしょう、ね、
他人の目、神様の目を意識してないからできるんです。だからあなた方これから神理の伝道していく
のですけど、この方法の一つは人間たちをあなた方、浅知恵で立ち回ろうと思わずに、あなた方がや
っていること、一日思ったこと、行ったこと全てもう神様から丸見えなんですよと、教えてあげることです。』
■エデンの昔に帰るとは心を裸にすることである
『あなた死んで来てですよ、死ぬ前の六十代、七十代なってね、ポックリ寺かなんか行っちゃって
極楽往生なんて言ってやったところで、そんなんで許されないんです。あなたね死んで、こちらへ
来たらですね、自分の一生っていうの鏡の前で全部見せられるんです。まあ霊界じゃもう時間っていう
のがないから、あなた方六十年かかって一生送ったとしても霊界のスクリーンじゃほんの一時間ありゃあ、
あなた方の一生全部写っちゃうんです。そして光り輝く天使の前でね、自分の一生、見せられたら
恥ずかしい、と九分九厘の人が思うんです。「ああこんなことみんな分っちゃうんじゃするんじゃなかった、
ああ自動販売機でコーヒー飲んで、あの時おつりが二十円残ってたから前の人のだと思ったけれど、
まあもらっておこうと思って、ネコババしたのも全部分っちゃう。しまった、こんなことならもっと
正直に生きりゃよかった。」大抵の人はこう思うんですよ、神様の目っていうの知らないからね。
まあ私の話がちょっと脱線してるけれど。要するに悟りというのは、ある意味においてはエデンの昔に
帰るということ、エデンの時代、つまり神様の目から見て全て露(あらわ)な自分に戻るということなんです。
だから個人というものをケースにとってみると、要するに自分の作った衣を、これを取るということです。
裸になるということです。神様の前で心を裸にするということです。全てお見通しのままであなたが恥ずか
しくないかどうかです。ですから悟りというのは個人という面をとれば、一人孤独に神様と、相対座する
時間を持って自分の心にいろんな着た衣を取っていく。そして裸になってもとのエデンに帰るということです。
これが一つの悟りです。』
214 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 21:03:05 ID:gfkpazW/
地球の外には放射線帯があります。
バンアレン帯内帯、バンアレン帯外帯と言います。
地球の外に想念帯があると主張してる人もいますが、
ネーミングはバンアレン帯から適当にとったんでしょうね。
215 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 21:17:32 ID:gfkpazW/
地球の内部や大気など、何層にも分かれています。
大気で言えば、電離層とかね。それを、次元に置き換えただけでしょう。
216 :
神も仏も名無しさん:2010/01/02(土) 21:23:11 ID:gfkpazW/
魂 表面意識など心の内部に関しては、まるで地球内部のようですね。
内核 外核 マントルを
魂に都合よく置き換えただけでしょう。
-----------------------------------------------
真の幸せ、真の安らぎ
-----------------------------------------------
■何をもって幸せとするか
『結局、何のための宗教なのか、何のための心の教えなのか、そういうことを考えてみれば、
結局「真の幸せ」ですよ。「真の幸せ」どうしたら「幸せ」になるのか、どうしたら心が安らぐのか、
まあこういうことですよ。人間はやっぱり幸せになりたいんですね。幸せになりたくない人なんて
一人もいません。幸せになりたいから、あっちの宗教、こっちの宗教と次々と遍歴しては、教えを
請おうとしているんです。また、心がいつもいらだって怒りっぽくなったり、まあ腹が立ったり、
愚痴ったり、こういう、ことするから「真の安らぎ」、こういうものを得たいと思うんです。
ですから、今日の課題「真の幸せ・真の安らぎ]というのは、本当の意味で、私たちが目指すものは
何か、私たちというのは、あの世の人間も含めて、地上の皆さんがた、一体何を追究しているのか、
これに対する答えということになりますね。
幸せっていうのも、非常に多元的な意味があるし、また、その時の環境で、考え方も違うんですね。
例えば病気の人にとってみれば、病気が治ることが幸せなんですよ。お腹の空いている人にとっては、
お腹が一杯になることが幸せ。結婚したくてしょうがない人は、嫁さんが見つかれば幸せ。
ダンナさんが見つかれば幸せ。課長になりたい人は、人より早く課長になれば幸せ。早く停年退職
したいと思う人は、停年がくれば幸せ。ポックリあの世へ行きたいと思う人は、ポックリ行けば幸せ。
あの世へ行って天国へ来れば幸せ、地獄へ行けば不幸せ。このように、幸せ、不幸せっていうのも、
その人の置かれた、大体、環境によって随分ちがうんですよ。
だから、今、神の心から見て幸せ、なんて言う人いますが、神の心から見てなんて、なかなか
人間できないんです。自分の心から見ているんですよ。やっぱり、病気の人に「いやあー、あなたね、
この前インド行ってね、宝の山当てちゃって、ダイヤモンドが出てくる出てくるもうザックザック、
掘ればダイヤモンドがもう山ですよ。」なんて言ったってね、病気の人は、そんなこと、ありがたく
ないんですよ。何かよく効く風邪薬はないかな、なんか風邪薬でいいのないんだったら、東洋医学
かなんかでよく効くのないもんかってね。まあ、病気の人の考えるのはこんなもんです。ダイヤモンドを
枕元にいくら並べたって、幸せになりやしない。こういうふうに、人間っていうのは勝手なもんでしてね。』
■幸せの基準
『幸せの基準っていうのは、その時々に変わるんです。ただ、私たちの目から見るならば
何をもって自分の幸せとするか、それを見たら、その人っていうのがどんな人なのか、分るんです。
よく言いますね。その人がどういう人かっていうのは、例えば、友達をみなさい、友達を見れば、
あなたが分ります。或いは、あなたがどういう人かを言い当てるには、あなたの蔵書を見せなさい。
本を見れば、どういう本を友達にしているかによって、あなたがどういう人間か分ります。こういう
ことがよく言われますけれども、じゃあ私たちの目から見て、その人がどういう人かっていうのは、
結局のところ、何をもって、その人が幸せとしてるか、ということの答えを聞けば、その人の人格なり、
人生観が分るんです。霊格まで分ります。まあ、神の心を心として、というのは、これだけで並の
人間じゃないということは分るわけですよ。ただ神の心が分っているかどうかで、どれ程並の人では
ないかが分るわけです。これが難しいところなんですね。普通はこうなんです。ただ、神の心を心と
なかなかできなくて、人間の心を心として幸せを考える。これを神の心を心として幸せを感じるよう
になれば、並の人ではありません。これは天界の人ですけれど、ただ、これが神の心をどこまで
理解したか、これが大事なことなんです。
まあ如来界の人であれば、もう神と自分っていうのは一体ですね。もう神の代わりになって、この世
に生きている。神の使命を自分自身が遂行する、まあこれは使命でしょうね。
菩薩界の人であれば、要するに、神様が良いと思うことを実現するために、ありとあらゆる援助を
借しまない。常々、自分というものを捨てて、人々のために尽くす、こういう無私の気持ち、奉仕の
気持ち、これを実践しているかどうか。まあ、神界の人であれば、並以上の悟りですね。専門家が
多いわけですけれども、普通の人に、いろいろなことを教えてあげて、あの世のことも教えてあげて、
そこそこ精神的な人ですね。こういう人だったら神界の人です。
こういうふうに段階の差があるんです。自分がどの辺にあるかは、よーく自分自身の心と話して
みれば分るんです。まあ、心じゃ分っても、本当のことはなかなか分んないんですよ。
じゃあ、人に奉仕すればみんな菩薩界かっていうと、そんなことないんです。霊界・幽界・地獄界の
人だって、人に協力を一杯していますよ。あなた優しい人が一杯いるんですよ。一緒にパチンコ行か
ないかとか、一緒に競艇やろうよ、大儲けしたらあなた肋かりますよとか、そんなのが一杯いるんです。
一緒にマージャンやらないかと誘います。だから必ずしも、人助けだけが菩薩ではない。
その目的ですね。どういう目的でもって、人助けをしているかどうか、こういうことが大事ですね。』
■あなたの幸せは、「砂の城」ではないのか
『基本的には、この幸せっていうのは、この世の人間的な判断、偽我といいますか、生まれ
落ちてから数十年間でつくった、価値基準こうしたものに基づく幸せじゃないことは、うすうす
気がついておられることだと思います。なにせ、この世の基準なんていうのは、砂浜で子供がお
城かなんか作ったりしてますね。砂のお城とか、言うんでしょ。浜辺でお城作ると、ザーッと波
が押し寄せてきて、あっという間に砂が崩れちゃう、砂のお城が崩れてしまいます。
こういうふうに、砂のお城のような幸せというのを、人間はどうしても考えちゃうんです。
例えば、ある会社に入りました。そこに入りまして、エリート社員になりました。人より
ボーナス一万円多かった。二年すれば二万円多くなるでしょう。五年すりゃあ、五万円多く
なるでしょう。これで幸せを感じている人もいます。課長になりました。部長になりました。
或いは役員になりました。経営者になりました。嬉しい。経営者になって嬉しい。なんてなった
とたんに、会社がちょっと傾いちゃって、役員以上は全員賞与なし、なんて決められたりして、
ガクッとくることがあるんです。こういうのを砂の城っていうんです。砂の城による幸せと
いうのは、まあすぐ消えちゃうんですね。こうじゃなくて、こういう幸せは、やっぱり追い
求めても、なかなか満足がいくもんじゃありません。ですから、人間はこんな刹那的なもの
じゃなくてこの世的なものではなくて、永遠の目から見て幸せとは何か、ということを追求
することが大事なんです。それでは、そういう永遠の目から見た幸せとは一体何でしょう。
まず、神様の目から見て、恥ずかしくないような幸せとは何か、神様が、一体、何を望んで
おられるのか、これを考えなきゃいけないんです。結局、神様から見てね、「よくやったね」
と言ってくれるような人間になることです。神様から一番よくやったねと言われることが、
これ一番の幸せなんですよ。じゃあ、神様ってどういう人間を一番よくやったねと思ってくれる
かということですね。これを考えなければいけないんです。』
■神の本意は完成にではなく教育にある
『今度はそうすると、神様は何のために、人間を創ったんだろうか、そして、人間をこんな
一人二人じゃなくて、何十億人、まあ、霊界の人口いれれば、何百億人ですよ、こういう人を
創ったかです。これを考えてみましょう。神っていうのは、俗に言われているように、完全無欠、
もう完全な神と言われています。そうすると、神様はもう完全で、もう完成したものであるならば、
神様っていうのは退屈しちゃうわけですね。完成っていう言葉は、ある意味では、もうでき上って
るということなんです。はたして完全の真理、完全の美、或いは、完全の善、そういったものが、
そういうふうにでき上がってしまったものなんでしょうか。もう動きも、どうもしないようなもの
なのでしょうか。それが本当の意味の完全でしょうか。
でき上がってしまったものを、例えば、神様が完全ということの意味が分らなきゃ、あなた方、
ホカホカ弁当に行けばいいんですよ。完成品ですよ、ホカホカ弁当は。これ完成品でしてね、これ、
手の加えようがないんです。ホカホカ弁当は、最近のササニシキ、あの産地直売のササニシキを
使ってですね、これでホカホカご飯炊いてるんです。プロが炊いているんです。ちょっと冷める
かもしれないけれど、電子レンジがあれば完璧ですね。完全な姿、神の完全な姿と言うのは、
ホカホカ弁当なんです。まあ言ってみれば。これで果たしてあなた方、いいですか。ホカホカ弁当
だって完全だけれど、いや、こりゃちょっと淋しいんじゃないかと。じゃあね、ホカホカ弁当と、
手料理と比べて、どっちが完全かと言うと、そりゃあ、完成品という意味では、ホカホカ弁当の方
が完成しているんですよ。ただ、完成してるが、何か物足りない、その物足りなさっていうのは
何だろうか。それは、融通無碍(ゆうずうむげ)な部分です。融通無碍、千変万化、自由自在に
変わっていくもの、これがないんです。完成品っていうのには。
全智全能の神様であるなら、自由自在に自分を変えられる神様じゃなきゃ、おかしいですね。
ですから、どこにでも売ってるホカホカ弁当じゃなくて、幕の内弁当、色々あるけど六百円、
八百円あるけど、それだけで、神様つーんとすましてたんじゃ、ことすまないんですよ。神様
っていうのは、自分の思いのまま、形に現れないと気がすまないんですよ。
神様っていうのは、ひとつのことを考えたんです。よし、じゃあ、融通無碍のね、自分の思った
ような世界っていうのを展開してみようと。その方がおもしろいじゃないかと。そういう何ていうか、
固まりきった完成品よりは、自分は永遠の発展をしてゆくような存在でありたい。神様は、
そう考えられたんですよ。皆さんの手料理は、まあ、そんなにうまくなくても、死ぬまで手料理を
続けていたら、そのうちうまくなるだろうと。こっちの方がいいんじゃないかと、神様は考えたんです、
分りやすく言えば。それでね、あのホカホカ弁当を捨てて、自炊することになったわけです。
神様が、自炊すると決め、そして、自炊の手段を色々考えたんです。自分が、こんな完全な神様と
言われながら、自分で修行して、自分を変えていくんじゃ、こりゃたまらん。どう考えても。
だから、神様って、早い話が、まあ、一流の帝国ホテルのコックですよ。先生が、作れば、天下一品
のものができるんです。ところが、先生が、自分が融通無碍であるところを見せたいからといって、
失敗品なんか作ったら面白くないでしょう。先生が目玉焼きを失敗したり、コショーかけて失敗したり
したら、カッコ悪いから、そういうわけにいかんと思ったんです。
それじゃ、お弟子さんを入れましょうかと思います。帝国ホテルにお弟子さんを一杯入れるわけです。
そうすると、三十位の人には、「そろそろ君も独立する頃だから、フランス料理の華は何か、
フランス料理の本当の命はどこにあるのかを知ってもらわなければいけない。」まあ、三十位の人には、
こう言える。十六、七の位の人にはね「君は卵も焼けないのか、もら一回皿洗いからやるか。」と、
こういうことが言えます。神様も楽しいんですね。相手に合わしていろんなことが言えますから。』
『ところが、自分が作ってね、色々失敗してたんじゃかっこつかない、完全ですから。完全であり
融通無碍でありたいと、神様は自らが完全であり融通無碍ってんだから、先生になっちゃえば一番
いいわけですよ。先生は完全だけれど、自分で失敗はないけれど、人を教えると、まあ、教えられた
人の段階によっては、えー、百%成功したり、えー、五十%だったりすると、こういうふうなことに
したわけです。神様はフランス料理もできるし、日本料理もできるし、中華料理もできます。だから、
全智全能なんですね。万能なんです、神様は。それで、いろんな中華料理のコックさん、日本料理の
コックさん、こういう人を育ててるんです。そうすると、神様のお弟子さんが作っているものをみて
みると、必ずしも完璧じゃないんですね。完璧じゃない。ただ、年季の入った人はうまいもの作る。
こういうものなんですよ。で、年季の入ってない人は、失敗品を作るんです。大体、こういうふうな
世界観なんです。そうすると、今の例を霊界、魂の世界に置き変えると、三十歳位で、そろそろ独立
しなきゃいかんという人が高級霊ですね。まあ、如来界の人、まあ、菩薩界の人です。
そして、見習いの人は、魂として若い方ですね。幽界雲界あたりの人なんです。ですから、彼らは
失敗品を作ります、時々。失敗品を作るっていうことは、これは、地獄へ行くということなんです。
真っ当なコックになるためです。ですから神様が創られた世界というのは、そういうものなのです。
よくクリスチャンなんかで、無神論者の人で、神様が全智全能で、神様が全くの善、全くの真理で
あるなら、どうして地獄があるのか、どうして地獄霊なんかあるのか、というんです。あるはずですよ
神様は先生だから、自分で造れば失敗ないけど、先生はね、それだけじゃ面白くないから、お弟子さんを
入れて、そして、教育して造らそうとしているんです。自分の代わりに。だから、失敗もあります。
ただ、お弟子さんは着実にうまくなってゆきます。失敗作も、いつまでも続きません。こういう
世界になっているんです。
で、こういうふうに、いろんな人達を創って、お弟子さんを入れて
教育することによって、先生はまた、それで相対的に自分を磨いているんです。分りますか。
先生は先生であって完璧である以上、進歩がないんです。
ところが、先生は、お弟子さんを入れて教えることによって、また教えるということを学ぶんです。
教わることはないんです。自分が、教わることは、何もないんです。先生というのは完全だからね。
ところが、教えるということを通してね、教え方というのを学ぶんです。ここにまた、進歩があるんです。
ですから、教わることにおいては、もう完成してても、教えることにおいては無限なんです。
無限の進歩が約束されているんです。神様は、こういう世界を良しとされたんです。つまり、
自ら教えられることは何もありません。しかし、教えることを無限に続けていける、そういう
永遠の発展というのを、神様は考えられたわけです。これが、神の世界観なんです。こういう世界なんです。』
230 :
神も仏も名無しさん:2010/01/03(日) 20:54:10 ID:OUrVIrPt
231 :
神も仏も名無しさん:2010/01/04(月) 09:41:38 ID:HRTF7DVO
釈迦は王子として生まれ
イエスは大工の子でしたよね
どうして、偉大なメシアが今世は
B民だったのでしょうか?
■神の心にかなった幸せとは何か
『まあ、真の幸せから、随分話がはずれてきたようですが、こういう世界観として、神が
創られたということは、人間の立場に立って、本当の幸せって何か、神様の心から見た幸
せって何かっていうと、まあ、大体分るでしょう。
結局、人間というものは、自分がどのような使命をもって生まれて来ているか、ということを、
まず悟りなさい。使命がない人なんて、一人もいないんです。全員に使命があるんです。
生まれて来た以上、まず、自分の使命を悟りなさい。もちろん、神様の道を説くのが、神様に
とって一番いいけど、そういう人ばっかりが、この三次元に溢れても困るんです。勿論、ほら、
ニワトリ造っている人もいるし、ニワトリの卵をかき集めている人もいるし、ニワトリの卵を
農協へ全部持って行く人もいるんです。農協から、また、工場へ運ぶ人もいるんです。そして、
卵を冷やす冷蔵庫を作る人だっているんですから。いろんな人がいるから、神様の道ばかりを
説いてるわけにいかないんです。まあ、それぞれの人に自分に合った使命、天命っていうもの
があります。これを、自分自身の良心、内なる心と相談して、よく見極めなさい。そして、
自分の天性、使命というものを悟ったなら、それで日本一、世界一の人間になるよう、まず、
努力しなさい。それが、神様の心に叶っています。
私たちの目から見れば、神様は、日本料理が好きなのか、中華料理が好きなのか、イタリア
料理が好きなのか、そんなこと、わかんないんです。ただ、自分がとにかく日本料理が向いてる
と思えば、日本料理のコックさんでいいんです。これで、第一級の人に成るべきです。同じく
いいですか、会社の人間、ビジネスマンとしてね、自分の天分があるとすれば、その与えられた
環境の中で、その会社のために、一生懸命尽くしなさい。そして、自分でやれるだけの日本一の
ビジネスマンになりなさい。また、実業家、自分で会社を興したような実業家であるなら、
日本一の会社に育てていきなさい。また、自分が農家の開拓で一生を送る人間だということが
分ったら、日本一の農業家になりなさい。或いは、自分が遠洋漁業のマグロ漁船に乗り込むことに
生きがいを感じるなら、日本一のマグロ採りになりなさい。これでいいんです。
ですから、「真の幸せ」ということに対する私自身の解答として、まず、自らの天命を知りなさい。
そして、その天命を悟ったら、その中において、日本一、世界一を目指しなさい。そして、日本一、
世界一になったら、それが真の幸せです。神様が念うのはそこです。そういうことです。
ですから、まず、分を知りなさい。自分の分を知って、その分を極めなさい。ここに、真の幸せが
あります。言葉を換えれば、最高度に自分に向いた方向で、最高度に自分を発揮するということです。
これが神の心に叶うことであり、真の幸せです。』
■真の安らぎとは、真我なる自分自身の発見にある
『では、「真の安らぎ」って何でしょう。安らぎについて考えてみます。真の安らぎというのは、
結局、今、日本一の自分になれということを私は言いましたけれど、今度は、ある意味では逆の
ことなんです。今のは、どちらかというと、要するに、より向上してゆこうとする自分であったと
思うんです。この安らぎの方は、どちらかと言うと、その日、そのままが神の子であることを悟る
ということです。これが、真の安らぎにつながっていきます。
あなた方は、不完全な存在です。人間っていうのは、私も含めてそうです。不完全な存在であるから、
永遠に進歩発展していかねばなりません。その意味において努力が要ります。ただ、努力努力に
縛られる必要はないです。人間は先程言いましたように、もともと神が創られたものです。ですから、
神が未熟な人間も、年若い人間も考えられて創られたんですから、年若い人間は、目玉焼きを
失敗することもあります。ただ、目玉焼き失敗するからと言って、自分がそれでダメなんじゃないんです。
それで嘆き悲しむ必要はないんです。その本質において、神と同じなんです。その神と同じ、
神と相通じている自分自身を知るということです。ここに、真の安らぎというのがあるんです。
だから、あなた方は、いつも不完全な自分というのを日々反省しておられるようだけど、反省も
大事だけど、反省だけじゃいけない面もあります。それはもう一つは、信ずるということです。
自分の良い面を信ずるということですね。あなた自身も神の子なんです。自分を罪の子と思っちゃ
いけない。自分を罪の子、穢(けが)れの子、原罪を負った人間だと思うと、人間はいつまでたっても
心の安らぎがないんです。そうじゃないんです。人間は表面的にはね、もちろん罪の子であったり、
穢れの子であったりします。禊払(みそぎはら)いも必要です。けれど、本質においては神と同じ
なんです。神の子なんです。ですから、人間というのは、ある意味では、日々反省、日々謙虚で
なければいけませんけれども、別の面からいくと、絶対なる自信を持たなければいけまぜん。
なぜなら、自分の本質は、神と一緒だからです。神と一緒の人間として絶対なる自信、勇気、
こういうものを持つ必要があります。神とあなたとは一緒なんです。同じもんなんです。
ですから、真の安らぎというのは、自分の真我なるもの、自分の内なる真の我、自我が偽我じゃない
真なる我(われ)、真我が神と同じものである、一致したもの、共通したものであると、これを
知ること、これが真の安らぎなんです。この時に初めて人間は、本当の意味で心が安らいでくるんです。
これを知らないで、自分というものを不完全なものだと思っている時は、どうしても心が安らぎません。
ですから、真の幸せにめがけて、精一杯努力し、そして、その途中で休憩しなさい。真の幸せを
求めてね、努力している過程で、旅の途中で、腰をおろしなさい。そして、自分自身をみつめて
みなさい。その中に神の、神を目指して歩んでる自分自身が、実は、神の子そのものだというこ
とに気づくことがありますでしょう。その時に、本当に真の安らぎというものを得られるんです。
また、言葉を換えて言うならば、永遠のね、神に向って向上の旅を続けているからこそ、途中で
休憩して、本当の安らぎを得ることができるんです。神を求めている旅だからこそ、真の安らぎ
があるんです。旅でなければ、最初から休んでいるんであれば、真の安らぎはないんです。
努力しているからこそ、安らぎを感ずる面もあるということです。』
-----------------------------------------------
足ることを知る
-----------------------------------------------
■陽の当たる世界観
『今までずい分難しいことを言ってきましたけれども、この「足ることを知る」これが一番大事
なんです。家の中の混乱、この地上界の混乱を見渡してみると、結局、何が原因かというと、
足ることを知らない人達の争い、闘争と欲望の世の中の渦の中にスッポリと包まれているという
ことなんです。普通の人に「足ることを知る」なんて言うと、「何ですか」なんて言う人がほとんど
なんです。「『足ることを知る』なんてそんな古めかしいことは今の時代に言ったって、通用しませ
んよ」と、大抵の人なんかそう言います。ところが、人間生きているうちに、どうしてもこの足ること
を知るっていうことの重要さを知る必要があるんです。
結局、何のために私たちがこうして高級霊界から神法を伝えようとしているか。神理を伝えようと
しているか。これを考えて頂きたいんです。この世の人々に、本当の自分たちの使命、自分たちの
目的というものを悟って頂いて、そしてより良い生き方、本来の神の心に沿った、叶った生き方という
のをやって頂きたい。これが私たちの願いなんです。
で、そのためにはまず、本来の生き方は何かという前に、どういう生き方が違っているのか、
間違ってる生き方って何なのか、これをはっきりしてしまう必要があるんです。そして、こういう
生き方は間違いだからこういうふうに生きなさい、こういうふうに考えるべきであろうと私は思います。
じゃあ、今の世の中の人々は一体どこが間違っているんでしょう。まず間違ってることの根本は、
人間は死んだらもう何もかも終わりだと、こういう考え方が一つにあります。これが一番の間違いの
元凶であります。この世の中は本当は三次元だけじゃなくて、四次元、五次元、六次元と七次元、
八次元、九次元と、こういう神様の創られた開かれた社会の中の一部分なんで、私たちはそういう
開かれた大きな社会の一員として生きているんです。本当は、これが「陽の当たる世界観」なんです。
ところがこれを人間は、この三次元だけに押し込めて、四次元以降の世界はわかりません。
あの世のことは、分りません。何か、分りませんけれど、とにかく僕らは三次元に生きてるんだから、
このなかで受験勉強していい点とっていい学校入って、いい企業入って、出世して、金もらって、
美人の嫁さんもらって、ちょっと賢い子供生んで、そして停年退職して病気にもならず、ポックリ
死ねたらそれで幸せと、こういうのが平均的な人生観なんです。それでこういった枠の中で、
本当にこういった枠の中で足ることを知っちゃって、三次元の中で足ることを知って生きてるんです。
ところがある意味では、逆説的になりますけれど、私たちはこういう三次元的生き方の中に足ることを
知ってもらっちゃ困るんです。』
■多次元世界を知った上で、足ることを知るの意味を考えなさい
『本当は三次元以降の世界がある。こういう無限の世界があるということを知って、神の世界の
仕組みを知った上で、初めて足ることを知ってもらわなければ困るんです。三次元で終わってし
まったら困るんです。四次元以降の世界は実際あるんですから。そういうことで、四次元以降の
世界がなければ、高橋信次が今出てきて話すこともないんです。皆さんこれを幽霊の言葉と感じ
ましょうか、感じないでしょうか。生きた人間がこんなことを喋りませんよ、あなた。生きている
人間じゃないから、手足もない人間だからこそ、こうやって力込めてあなた方にメッセージを送っ
てるんです。よく聞いて下さい。死んで私も足ることを知らないのか、知ってんのか、知らないけ
れど、ちょっと足ることを知らなかったんだろうか知らないけれど、足りないと思って今出てきて
喋ってるわけですから、私の言葉をよく聞いて頂きたいと思います。それで、足ることを知るって
いうのも、この三次元的な中で足ることを知っちゃいけないんですよということです。全ての世界
の仕組みを知って、多次元的空間の存在、その中を人間は永遠の旅人として旅行してる存在だという
ことをまず知った上で、足ることを知る意味を考えて頂きたいと思います。 』
■学歴信仰の落し穴
『十六歳までの学生時代ならば、まあ勉強が良くできるか、あるいは野球ができて甲子園に行って
甲子園で注目されるか、この二つぐらいしか大抵生き甲斐がないんですよ。こんなもんです。
それで甲子園に出るか、或いは勉強が良くできて親から誉められ先生に誉められると、それで
何とかやったと、いい人生生きてると、大学入ったら、いい大学入れば、いい女性にもてるとか、
東大入りゃ聖心女子大の女の子が追いかけるとか。全然もてなかった人もどっかいるようだけれども、
一般には東大に入りゃ、杉並にあるのは東京女子大でしょ、東京女子大の女の子がアパートに遊びに
来てくれるとか、こんなこと幻想抱いて試験勉強一生懸命やるわけですよ。ところが実際入って
みると全然もてない。おかしい、話が違うじゃないかと思う。東大に入りや、この辺じゃ東女(とんじょ)、
それから聖心女子大の御嬢さん方が是非結婚して下さいと、次から次へと現われて誘われると
思っていたら、全く誘われもしないで、四畳半の下宿で寂しくですね。パン焼いて食べたり、
こんなことしてるわけですよ。
そして、「おかしい、世の中の基準はおかしい。何か間違っている。僕は一生懸命受験勉強して
東大さえ入りゃあ、もう金も女も出世ももう手に入ったと思ってやってきたのに、東大に入った
ところが全然もてないじゃないか。」東大入っても、やっぱり東京女子大の女性から見ると、
「やっぱりスラッとして、二枚目で、もうニヒルな感じが漂ってる人って大好きだわ。」とか、
「甘いマスクが何ともいえない」こういうこと言って、やっぱり向こうも選んでるわけです。
できたら映画俳優のような方で頭のいい人がいいわとか、やっぱり親がお金持ちで、お父さんが
社長かなんかしてて、或いは国会議員かなんかやってて、そして自分も後継ぎしそうな人がいいわ
とか思って、やっぱりむこうもなかなか選んでるわけなんです。東大入っただけじゃなかなか満足
してくれない。いろんな基準を決める。結局四畳半で寂しく、万年床をひいて、焼イモ焼いて食べ
たり、そんな寂しい生活で四年間も学生生活が継くんです。
そうすると「世の中おかしい。学生時代はもてなかった。じゃあひとつ社会に出て、会社に入ったら
これじゃ済まんぞ、この恨み、晴らさんでおくものか。」ということで会社に入ります。会社入って、
一流会社に入ったとしましょうか。一流会社入って、「俺はエリートだ。まあ女の子にはもてなかった
けれども、一応東大出てるんだ、どうだ。」なんて胸をはってやるわけです。そうすると、
じゃそんなに他の人と違うかっていうとそうじゃないんですね。「オイ、何とか君、これコピーを
取りなさい。」なんて言われて、「君、伝票の切り方が下手だね。」「字がきたないなあ、東大って
こんなで卒業できるのかなあ。」なんて言われて、「君、印鑑押すの忘れてるよ。」なんて言われて
しまいます。だんだんそういうことで、色々上司から苛められるわけです。そうすると、「何か
おかしいな。自分はこんなはずではなかった。」会社入ったらもうすぐ社長候補で、色々と祭り
上げられて、給料は人より多いわ、ボーナスは多いわでいくと思ったらとんでもない。
「君はこんなことも知らんのかね。東大出てコンピューターも知らんのか君。」といろんなこと
言われて苛められる。そして職場に短大かなんか出ちゃって一年か二年先に入った年下の先輩が
いて、「まあ何とかさんって本当にひどいんだわ。何してたのかしら。大学で何も勉強してない
のかしら。こんな手の遅い人って初めてだわ。」なんて言われて、それから商業学校を出た簿記
かなんかやった女性から「まあひどい。これで本当に高等数学できたのかしら。この人足し算引
き算もできないのよ。一流大学出の人なんて信じられないわ。」こんなこと色々言われるわけです。
そうすると、大学時代に女の子から、東女(とんじょ)の女性や聖心女子大の女の子にもてなかった
だけでなくて、会社に入ってからも全然何もできないというレッテルも貼られ、ますます本人は不満
を感じます。「こんなはずではない。僕は九州の山奥から出てきた時には天下国家を取るつもりで
出てきたんだ。
中曽根首相なんかに負けていられない。あの程度の人材で首相になれるなら僕はもう
首相じゃすまない。もう国連の事務総長だ。」なんて思って九州の山奥から出てきたりして、入った
ところが実際は寂しく、東大の駒場寮かなんかで寂しい生活を送って、会社入ったら全然人気が出ず、
勤務評定されても全然平均以上にいかない。「おかしいんじゃないか」また不満が出てきます。
そしたらどうするか、だんだん生活が荒れてくるんです。すさんできます。そして、「仕事なんて
もうどうでもいいや。こんなくだらん仕事、せめて夜の世界ででも活躍しよう。」なんて思ってし
まいます。そして、もう今度は赤坂だ、六本木だと言ってだんだん遊び始めます。だんだん酒の
世界に入っていきます。そして、後輩を集めては愚痴ったり先輩の悪口を言ったり上司の悪口を
言ったりして、毎晩酒ばっかり飲んでいます。そして会社の女の子は決してサービスしてくれないから、
六本木なんかに行って、お金さえ落とせば「あら社長さん候補ね。」とか「専務さんじゃないですか。
もしかして。」なんて言われていい気になって。二十三、四で誰が専務だと思いますか。
本当はそうなんだけれど、「まあ専務さんじゃないですか。」なんて言われていい気になっちゃって、
「もしかして課長さんじゃないですか。」なんて言われもうのぼせちゃって、そういう気になって
夜の巷をだんだん歩くようになります。こうしてだんだん愚痴と不満ばっかり、「学生時代は
女の子にもてなかった。会社入っても決して仕事ができるとは言われない。上司から悪口言われる。
後輩はおごってくれるうちは先輩先輩と言ってくれて、おごらなくなりゃ全然相手にしてくれない。」
と思うようになり世の中がだんだん暗くなっていきます。そして、不平不満が溜ってきます。
そして自分を誤魔化す人生が始まっていきます。そして、お酒と女、あるいはマージャンを始め
たりしてマージャソ、ゴルフ、こういうことで五十年、六十年の人生、だんだん転落していくわけです。
そして、「はっ」と気がつくと、「あれ、俺は何してたのかな。」と思います。もう五十五歳、
あるいは六十歳、停年がきてる。あるいはもうひどい勢いにのると、最近は選択停年制なんていって、
もう四十代位から肩叩きやられてるんです。もう四十五歳とか、そんなんで選択制で「あなたは会社
に要らないから早く退職する方が退職金が多いですよ。」とこんなこと言われるんですね。「長く
居てもいいけど給料は減っていきます。早く辞めた方がいいんじゃないですか。」なんて四十代で
言われてしまいます。こうして人々は大変困っていくんです。これは、結局自分の意識、自意識と
客観的な自分の評価、世間的な評価とのギャップが出てくるんです。』
■スターを目指す人生の悲劇
『これは今、典型的な例を私は言ったんです。けれども、もちろんこれ以外の世界でもいろんな
事があるんです。例えば女の子でもいいですよ。まあ東京の下町でも何でもいい、浅草かなんかに
生まれちゃって、えっ小学校、中学校から「かわいいわ、かわいいわ、美人だわ。」って言われて
チヤホヤされちゃって、そして中学校三年かなんかの時に「スター誕生」かなんか知らないけれども、
そんなのに応募しちゃって通っちゃった。「これで私はいよいよスターだ。」とまあがんばっちゃう
わけですね。「山口百恵なんてなによ。あんなのブスじゃない。私の方がよっぽどかわいいわ。」
なんて思います。こういう感じでやる気満々で出てくるわけです。
ところが現実の世の中そんなに甘くない。一流歌手みてても「私の方がかわいい。」なんて思って
ても、人気の出る人と出ない人がいるんです。そして十七、八になります。デビューして一曲目、
出ないですね。歌がなんか全然流行(はや)らない。
「おかしいわ。曲もいいし、私の声もいいし、歌のセンスもいいし、美人だし、なぜ
売れないのかしら。ちょっと世の中の人っておかしいんじゃないかしら。」そしたら、あんな
とんでもない、自分が見たら「なによ、あんなブス」と思うような人の歌が流行っちゃったりして、
「なんであんなのが流行るのかしら。ちょっとおかしいわ。」なんて思って、じゃ仕様がない
から二枚目のレコーディングに入って、「今度こそ。」なんて思ってやると、またこれも
売れない。そのうちだんだんお付きの人連からも「あんたダメだね。売れないね。」
なんて言われてだんだん、もう格も落ちていって、ちょっと夜の店なんかで歌うぐらいになって
しまいます。そのうちドサ回りなんかしちゃって消えてしまいます。本人は日本一の歌手になる
つもりだったのが、いつの間にか夜の巷で歌い歩いて、そして寂しく生きています。
そのうち変な男に掴まってしまって、ヤクザかなんかに掴まっちゃって、「えー僕はある会社の
社長なんだ。君は本当に私の見る限り非常にいい天性、天性の素質だね。これは素晴らしいものがある。
顔もなかなか魅力的だし、きっと芽が出ると思う。僕が君のスポンサーをやってあげるから、
君ひとつやらかいかね。」なんて言われて「ああそうですか、社長さん。私ってそんなに魅力
ありますかしら…そんな才能ありますか。」なんて思います。「いや君は絶対いける。僕は二十年に
一人出るか出ないかの逸材だと思う。」なんて言われて、「ああそうかしら。」なんて言って、
そして「じゃ僕が君のために事務所を開いてあげる。え、ついては、君の住所は、今のところじゃ
まずいから、青山のいい所に、マンション借りてあげるからそこに入りなさい。」なんて言われて、
いつの間にか二号さんになっちゃったりしてしまいます。こういうふうにしてだんだん転落していくんです。』
■誤魔化しの人生は、自分の理想と現実のギャップから始まる
『そして、こういう世の中のいろんな人達をみていると、私はそこに一つの法則があると思うんです。
それは何か。結局、自分の、自己意識、世間からこのくらい認められて当然だと思う意識と、世間から
受ける評価、これにギャップがあるんです。ギャップがあるんだから、そのギャップにだんだん耐えら
れなくなってくる。耐えられなくなってどうなるか。自分の評価を落とすか、というと落としゃしない
んです。本当は自分はもっと評価されるべきだと思って、もっと上げていくんです。そして、世間が
間違っている。人々が間違っている。或いは、本来なら私はこうなっていたはずなのに、あの時あいつ
が邪魔したからこうなった。本来なら優秀な社員だったのに、たまたま意地悪な上司になってダメに
なったとか、本来なら素質があったのに、作曲家がヘタクソだったから私の歌は売れなかったとか、
本来なら、いいですか、二十代前半にアメリカに留学しているはずなのに、郷里の両親が反対して、
留学なんかとんでもないと言われたために、自分は芽が出なかったとか、本来は、例えば大学院に残って
学者になってたのが、まあ家に金がなかったので就職したんだと、こんな僕は就職向きの人間じゃない
んだと、本当は学者になるべきだったのに、就職したんだ、だからうまくいかないんだとか。言い訳を
考えていきます。
彼らに共通しているところは、自分は正しいんだ、自分は何も間違ってない、世間が悪い、あの時の
事情が悪い、大抵こういうことです。こういうふうになっていくんです。そして、自分の理想ばかり
先走って、現実とのギャでフが大きくなって、この間の埋め合わせがきかなくなって、誤魔化しの人生
が始まっていきます。誤魔化しですね。不遇を呪うようになります。自分の不遇を呪い託(かこ)
つようになってきます。そしてだんだん苦しい人生です。そして、偽りで身を固めていきます。
例えば、今度は詐欺なんか働いちゃったりして、イヤー僕はもと検事で今は新聞記者をやってて、
えーどこそこの大学を出て超エリート中のエリートなんですよ。なんていうこと言い始めて、女性
を誑(たぶら)かしてお金を三百万円OLから巻き上げたり、こんなことし始める。本来は本人が
抱いていた理想がヽ自分はそういう超エリートなんだと、なんとなくこう思ってて、それが理想と
現実とがごっちゃになっちゃって、それでもう、たまたま騙しあげたりして、こんなことするよう
になってくるんです。こういうふうにして様々な苦しい人生がおきていきます。』
■不幸な人生は、有頂天になるか、自分を蔑(さげす)むかの両極端から始まる
『じゃあ何故そういうふうになっていくんだろうか。何故そんなようになるのか。あるいは、人間
は何故自分をそういう高い人間、価値ある人間だと思うんだろうか。そういうところをもう一度考
えてみたいと思うんです。人間は卑下しておけばいいのかと、じゃ自分は罪の子で、何の価値もない、
取るに足らない人間かというと、そんなことはありません。人間、神の子です。神様と同じです。
価値があるんです。それはその通りなんです。それで、それを徒(いたず)らに卑下したり、自分は
駄目なんだと愚痴る必要はないです。ところが、人間っていうのは極端にブレちゃうんです。そういう
ふうに有頂天になるか、あるいは自分というのを本当にくだらない人間だと思って蔑(さげす)んで
いくか、どっちかの極端にブレちゃうんです。そして、極端にブレてどちらも不幸な人生になります。
それで先程の詐欺するような人はまだ自意識が高くて頼もしいけれど、逆になっちゃって「僕はもう
駄目な人間だ、何しても駄目なんだ。」と思い、そして駅の構内かなんかで浮浪者みたいに寝そべり
始めます。時々いるでしょう。駅の構内なんかに。東京駅にもずい分いるけど、おもしろいのはインテリ
乞食がいるんですよ。朝日新聞なんか読んじゃったりしています。なかには、どこで拾ってきたのか
英字新聞なんか取ってきちゃって、英字新聞読みながら寝そべってる浮浪者なんかもいるんです。
こんなインテリ乞食がいるんです。彼らはもともと能力はあるんです。能力はあるけれど、自分を
どう見下げたのか、そういう生活に入っちゃって、こんな人がいるんです。そのように、極端に人間は
ブレていくんです。』
■自分を客観的に観れないところから不幸が生まれる
『こういうふうに世の中の人達っていうのは、例えば今のエリート青年ですが、とらえてみても自分を
客観的に観れない。先程の歌手を目指した方もそうですね。他にもそういう方は一杯いるんです。
例をあげればいくらでもあります。結局のところ、何故不幸が出るかっていうと、自分を客観的な
目で観れない、これが一つです。ですから客観的な目で見ることができない、そうすると、例えば
先程のエリート青年を例にとると、不平不満ばっかり考えてるわけです。ところが逆に考えてごらん
なさい。人の羨むような学校を出て、人が羨むような会社に就職できたと、それだけでも、例えば
日本人の平均の人の目から見れば素晴らしいことなんです。一流会社に就職できない人だって一杯
いるんです。大学にいきたくてもいけない人は一杯いるんです。いろんな人がいるんだから、必ずしも
自分の置かれた環境、或いは、与えられた経験を当然だと思って、当然の上にプラス、アルファばかり
求めちゃいけないんです。自分の置かれた環境というのも「何かやっばりありうべからざることだ」
と思うべきです。これは「有難いことだ」と「滅多にないことだ、有難い」これが有難いの語源です。
ありがとうというのは、有難い滅多にないことだということで感謝をするのが有難いってことです。
世の中には、「自分は三流大学を出ました。だから世間に出てから全然駄目です。三流大学を出た
から自分は一流会社にも入れませんでした。」と言って会社入ってからも、「全くもう一流大学出た
人ばっかりが偉くなっちゃって、それで自分は全然駄目でした。」と思うこういう人もいますけど、
とんでもないことです。そんなことはありません。大学に行かしてくれただけでも両親に感謝しな
ければなりません。それだけでも一般の会社に入れたんだから、大したことなんです。じゃあ何故、
三流大学に行ったか。じゃあ、あなた、そんなに言うほど高校時代に勉強しましたかと、大抵しちゃあ
いないですよ。遊んでたんだから、遊んでてそう言い訳して自分は三流大学にたまたま入ったから偉く
ならなかったなんて言ってるんです。高校時代、あなた十六時間も十八時間も勉強したかと言うと言え
ないんです。絶対してないんだから。それで本来は自分は能力があったけれど、たまたまああいう
入学試験に向かなかったからいい大学に入れなかったけれど、本来は優秀なんだと頭の中で思ってるん
です。しかし、その能力を世間の人はわかんないと、そういうふうに言ってんです。
ただし、私はそういう人にも言いたいのです。能力があってもそれを発揮しなきゃ、誰も認めてくれ
ません。皆隠れたものがあります。それはあるんです。あなたが隠れた能力がありながら、それを
発揮しなかったように他の人々にも隠れた能力があるけれど発揮してないんです。隠れた能力を発揮
しなくても優秀な人はいるし、隠れた能力を発揮しても優秀でない人もいるし、色々なんです。だから
優秀な人だって全部発揮したから優秀じゃないんです。まだまだ隠れた能力を一杯持ってるんです。
だからそれは不公平な物の考え方だと言うんです。だから、他の人はたまたまうまくやったとか、
たまたま力仕事で色々やったからいいんだろうなんて、そんなことないんです。皆さんが百%自分を
発揮してる人なんていないんです。皆さん、隠れた才能を持ってるんです。他の人も同じくそういう
同じような条件のもとに置かれてるんです。だから、自分だけが隠れたところの才能があると思ったら
大間違いなんです。
世の中で、例えば一流企業に勤めてる人がいます。その人は会社の中でそこそこの出世してるかも
しれません。ところがこの人は、どんな大きな才能持ってるか、分らないですよ。どんな美術的な
才能を持ってるかわかんない。詩を書かしたらうまかったり、小説書かしたらうまかったり、あるいは
絵を画かしたら天下一品かもわからない。けれどたまたま今、会社で事務仕事をしている。それで
そこそこの評価されてる。そういうことかもしれない。それでその人に対して、三流大学へいった某氏は、
「なんだあの野郎、別に才能もないのにたまたまいい学校出たために、俺より出世が早い。」なんて
恨んでるんです。じゃあその人は学歴以外で、自分は何を持ってたのかというと、無趣味だったりします。
こんなこと話して廻るだけが精一杯だったりして。ところが、その一流大学氏はポッと蓋(ふた)
をあけてみると、いやあ音楽はよく知ってるわ美術は知ってるわ、文学は知ってるわ、何やらしたって
本当は一流の内容持ってたりする。そういうことがあるわけです。そういうことを知りもしないで、
例えば逆に学歴主義だということで、それだけで批判する人がいる。こういう人も自分を、分って
ないんです。結局、人間っていうのは、そういう得手勝手な存在なんです。ですから、一番の迷いは
客観的に観て、自分はどうかってことが、分ってないことです。』
■善意なる第三者の立場に立て
『これからどうして脱していくか、脱出していくか、これを考えなければ本当に幸福にはなれません。
では、そのことを考えてみたいと思います。どうやって第三者の立場に立って、自分の置かれた
立場っていうのをよく理解するかってことです。大体自分に対して甘い人が多いんです。自分に
対して甘いっていうのは、世の中のことを知りません。だから自分に対して甘くなるんです。それで
結局自分に対して甘い人程、世間の目に、批判の目に自分をさらけ出したくないんです。そして
自分は一人よがりになっているんです。 ですから、自分を、自分自身を観て、自分を客観視
できないと思う人は、もっと世間を知ることです。見聞を広めることです。経験を広げることです。
自分が能力あるなんて思ってる人は、一度外国でも行ってらっしゃい。そして世の中を、世界を
見てきなさい。世界にどんな人達がいて、どういう仕事をして、どんな経験をして、どんな生活
をしておられるか。一回見てきなさい。天狗になってるんじゃないかどうか。それで例えば自分
が英語ができるなんて思っている人は、本場へ行ってごらんなさい。乞食でも英語を喋ってる。
乞食の発音の方が自分よりうまい。こんなこと知って、なんだ英語できることで天狗になったけれど、
俺の英語なんか全然通用しないなと分ります。分って帰ってくりゃいいんです。そして、いろんな
経験を積むことによって人間は自分を客観的に観ることができるようになります。
それと、この客観視するためには、親離れすることです。両親の目ばっかりで自分を判断しないで、
いろんな世間の目を知ることです。世間の厳しさ、辛さ、こういうことを知ること。それと友達です。
友達が大事です。いろんな範囲の友達を作ることです。自分と似たような友達ばっかり作っていると、
自分が観えません。こういう宗教の世界ぱっかりに自分が手を染め、足を染めてると、「まあ、
素晴しいわ、霊言集。素晴しい霊言集だわ。高橋信次先生ったら、今一番偉いんじゃない。」
なんて言ってるわけです。ところが、知らない人からみりゃ、「そんな人魂が出てきて喋るなんて
とんでもない、恐い、よして下さい。」こう思っちゃうわけです。ですから類は友を呼ぶという
ことで、まあ同質の人々の間で生きていくということも大事だけれども、それで価値基準という
のが一通りに決まっちゃったらいけないということです。世の中の人々の一般的な物の考え方、
これを充分理解した上で自分の立場というのを観なきゃいけないんです。こういうふうに九次元
から霊魂が来て、手にマイクを握って喋るなんてことは、普通の人が考えりゃ信じられんことなん
ですよ、あなた。それが現に起きているということは、一つのまあ「あり得べからざること」三次元
的な奇蹟なんです。これが起きてるんです。これを当然と思うだけの理解力があなたにあるから、
これを聞けるんであって、普通あり得ないんです。だから、これも第三者の立場に立って客観的に
観ないと、「すごいのよ。もう高橋信次先生が出てきて毎日喋ってくれるなんて、もう嬉しいわ。」
なんて言ったら、背中がゾクゾクする人が一杯出てくるんです。
足ることを知るという話をしているんですが、結局足ることを知るためにはまず、善意なる第三者の
立場で自分を見なきゃいけない。そして、世の中のこと、世間のことを知らなきゃいけない。そして、
そういう人々を見て、広い目で自分自身を観ると、「何だ、俺は。優れた人間だと思ってたけどこの
世界の人々から観ると、まだまだ未熟だな。まだまだ未熟者だな。」或いは、「自分は本当にくだら
ないと思ったけれど、何だ、俺の方がよっぽど立派じゃないか。」と。例えばアメリカヘ行きます。
ニューョークヘ旅行しました。そうすると、自分っていうのは本当にできない、教養のない人間だと
思って自信なかったけれど、ニューヨーク行ってみると、マンハッタンには黒人の浮浪者みたいなのが
一杯いて、何だ、これが花のアメリカかと、花のニューヨークかと、黒人たちがゴロゴロしているじゃ
ないかと、汚ないところまでまあトイレ入りゃもう汚ない。こんなのが大都市か、これで文明だなんて
言ってるのか。よっぽど俺の方が文化人じゃないかと、こんなことを思って帰る人がいたりします。
そういう人もいるでしょう。』
259 :
神も仏も名無しさん:2010/01/06(水) 19:01:47 ID:tzdDM7bb
●カルトの見分け方
カルトを見分けるのに分かりやすい特徴を箇条書きにするなら、以下のような点を挙げることができるでしょう。
これらをチェックしていけば、その宗教がどれほどカルト性を持っているかを知ることができます。
必ずしもカルトが以下のすべての特徴を有しているわけではありませんが、その大部分が当てはまるなら、
カルトと考えて差し支えないと思います。
1.真理はその組織に占有されており、その組織を通してのみ知ることができると主張する。
2.組織を通して与えられた情報や考え方に対しては、疑ってはならない
3.自分の頭で考えることをしないように指導する
4.世界を組織と外部とに二分する世界観を持つ
5.白黒を常にはっきりさせる傾向が強い
6.外部情報に対して強い警戒感を与え、信者の情報経路に様々な制限を加える
7.信者に対して偏った情報、偽りの情報を提供することがしばしばある
8.組織から離脱した人間からの情報に接することを禁じる
9.家庭や社会との関わりで多くのトラブルを生じている
10.社会からの迫害意識を持ち、それをかえってバネにする
11.外部に対して正体を隠す傾向がある
12.生活が細部にわたって規定される
13.組織が信者の生活のすべてになっている
14.共同体内部でのみ通用する言葉を多く持っている
15.組織からの離脱について極度の恐怖心を与える
260 :
神も仏も名無しさん:2010/01/06(水) 19:12:39 ID:tzdDM7bb
261 :
神も仏も名無しさん:2010/01/08(金) 07:52:06 ID:rDfhGOUr
私はGLA三世ですが、親ほど熱心に佳子先生にハマってはいません。
年に一度講演に参加し、先生の著作を読む程度です。
自ら他人に伝道はしていません。
皆、それぞれの宗教観をもっています。それを否定する気持ちがないのです。
GLAで教わったことを日常に生かさなければ全く意味がないと思っています。
自己満足しているだけの会員もたくさんいます。私もその一人ですが・・・。
結論を言うとGLAというのは単なる団体に過ぎません。
退会したからといって魂が救われない、といったことはないです。
ご自分の判断で道を選択すべきだと思います。
262 :
神も仏も名無しさん:2010/01/08(金) 11:39:06 ID:w/xt/3xY
教わった事お世話になった情的な思いが特定の宗教団体に対するイメージを決定付けるかもしれない
だから団体に対するイメージだけでは評価を下せない
切り離して考えないとね
嵌めようとする組織と嵌る信者たち
ありのままを観れば見えなかった部分が見えてこないかな
教わったことを日常に生かすは、それ以外の考えを否定して生きているようにも感じます
反省という名の下己の意思や考えを消し去り
その空いた所に団体の概念を植えつけられる
改造人間育成ではありませんか
魂が救われるとか救われないという考え方ですけど
それを言っている人達って何様のつもりなんでしょね
263 :
神も仏も名無しさん:2010/01/08(金) 11:45:47 ID:rp0jIGxS
>>261 御自分が現在嵌っていなくとも
現に嵌っている人が存在するという事実は否定できませんね
それは自己責任だから仕方がないというわけですか
■自分を客観視できた時、本当の自分が見えてくる
『いろんな方がいるでしょうけれど、世の中を知って、客観的に自分を観る、そうすると良く見え
過ぎていた自分は、やっぱりそれ程でもないなと思われるし、悪く見過ぎていた自分も、いや、
そんなに捨てたもんでもない、こんなことが分るんです。人間っていうのはそんな大きな差はないん
ですよ。ただ、長年の転生輪廻の過程でその輝きが違うだけなんです。ですから、高橋信次もそこらの
乞食も全然変わりゃしないんです。魂の本質においては変わらない。ただ、長年の転生輪廻、或いは、
神様が与えて下さった役割、そういうものの違いで、たまたま輝き方が違うだけなんです。光が多少
違うだけで、本当は、よく磨けば皆ダイヤモンドなんです。
あなた方が気をつけなきゃいけないのは、世の中の人々はダイヤモンドみたいな人もいるけれど、
黒ダイヤ、石炭みたいな人もいると、こう思っちゃいけない。本当は皆ダイヤモンドなんです。
ですから、輝きは磨けば輝くんです。そういうふうに思ってあげなきやいけないんです。
つまり、「足ることを知る」という本質の中には、そういう平等観、人間は神の子として、皆磨けば
光るダイヤモンドだという意識が必要です。ただ磨き方が違うために、自分が思ってるより光って
いなかったり、光っていないと思いながら多少光っていたり、こういう色々な違いがあるんです。
こういう認識も大事です。ですから、私は今まで足ることを知るということを中心に色々話をして
きましたけれど、結局、そういうふうな自分自身の自我我欲で自分自身を拡大し過ぎたり、縮小し
過ぎたりするところに、人間の不幸があるんだということです。ですから、多くの人に私は言いたい
んです。自分の不平不満を言う前に、足らないことを言う前に、現在の自分の満たされている部分を
よく考えてみなさい。飢え死にしそうでもないでしよう。世の中をみたら、そんなに悪い世の中でも
ないです。世の中悪い悪いと言う人がいるけれど、その悪い世の中で、みんな昼寝してたって大丈夫
なんですから。窓開いていても強盗は滅多に入って来ないんですから。世の中はそんなに悪くないん
です。八割はいいんです。ニ割ぐらいの問題があるだけなんです。だから、悪いところばかり見ないで
いいところを見て、多少自分自身の立場をよく考えてみなさい。そして、いいですかあ、自分もそう
まんざらでもないなと、或いは、今世に人生を与えられているってことも、そう悪いことじゃない
なってことに気づいて欲しいと思うんです。』
■人間として生まれて来たことの幸せを悟りなさい
『この世に生まれて来た、人間として生まれて来たっていうこと自体が、ひとつの大きな幸せなんです。
これを忘れてるんです。あなた、色々の不平不満を言っている人がいたら、その人に言ってあげなさい。
「じゃあ、あなたトカゲに生まれてきたらよかったですか。あなた、ヘビかなんか生まれてよかった
ですか。あなたはどうも執念深いみたいだけれど、ヘビに生まれてどうですかこの地べたをはって
いたら幸せですか。どうですか。そんなことないでしょう。じゃ自分はこんな優秀な人間なのに給料が
少ないのだの多いのだの言うけれど、じゃ猫に生まれたらどうですか。猫は給料貰いませんよ。
猫がもらえるのはミルクか、魚の残りぐらいです。これの量が多いとか少ないとか猫は言ってますか。
猫は与えられたものをただ食べてるだけです。」そういうことです。犬だって一緒ですよ。犬が幸せ
感じるのは一日一回、飼い主さんが散歩に連れてってくれるかどうか、今日は風邪をひいてるから
散歩に連れてってくれないなんていうと、犬は不幸なんです。
「辛いな。今日は散歩に行きたかったのに鎖につながれたままで、僕は辛いな。」って犬は思ってるんです。
ところが飼い主さんの風邪が治って、一週間ぶりに鎖を解いて散歩に連れてってくれると、「ああ、
嬉しい。やっぱり人生、人生じゃない、犬生かなんか知らないけど、犬の犬生も捨てたもんじゃない。
こんな郊外まで散歩さしてくれて嬉しい。」彼らはこう思っているんです。じゃあ犬よりあなた
いいんですか。どうでしょう。ヘピだって、そりゃあ子供を産めるんですよ。子供ぐらいヘビだって
産むんだけど、結婚できないって言って悩んでる人一杯いるけれど、じゃあヘビに生まれて、男女の
ヘピがこう睦み合って、こうからみ合って、子供産む姿見てあなた、どっちがいいですか。やっぱり
子供産めなくても、人間に生まれた方がよかったでしょう。神様はいろんな生き物を創られたけれど、
それは人間が、人間だけが生き物だったら、自分の置かれた立場が分らないから、様々な生き物を
創られたんです。ですから、様々な生き物があるということは、人間として生まれたことがどれだけ
幸せかということを悟りなさいという意味なんです。
じゃあ、あなた、植物に生まれたらどうですか。この室内にセソトポーリアの鉢があるけれども、
セソトポーリアにあなたが花の精かなんかで生まれてですよ、一週間に一回水だけもらって、
水やるの忘れられて枯れてきて、「枯れた葉はちぎって捨てればまたはえてくるから。」なんて
言われて、あなた、これで幸せですか。こんな人生、人生っていうか、花生か知らないけれど、
可哀相でしょう。動くこともできません。花から見れば、散歩できる犬は幸せですよ。犬は毎日
散歩に連れてって欲しいかもしれないけれど、三日間散歩に連れてってくれなかったからって不幸だと
言ってるかもしれないけれど、花から見りゃあ、足のある犬はいい。自分の思うとこへ、行けるんだから、
その分私たち花の場合は鉢の中に植えられたらもうそれっきり、あとは水がくるかどうか、水をくれた
ら嬉しい。水があるかないかだけ、これで幸せなんですから、水があれば、一週間に一回、ちゃんと水
くれたらそれで嬉しい。二週間に一回は辛いな。だから、人間の皆さん、どうか動物や植物のことも
考えて下さい。この世に人間として生をうけることがどれだけ嬉しいことか。ですから、生まれること
自体が一つの幸せなんです。これを幸せと認めて、その中の不足ばかりを嘆かないで、人間として
転生輪廻の過程を与えられて、そして、今世において人間として生まれて魂修行ができるということが、
どれほど楽しいことか、どれほど幸せなことか、これを考えて頂きたいんです。これが本当の意味での
足ることを知るということなんです。 ですから、この感謝、人間として生まれたことへの感謝、これです。』
■無限の可能性の中に足ることを知れ
『人間は人間として生まれた以上、可能性という点においてみんな平等なんです。私だって
長野県の佐久、ずい分貧農の生まれです。子沢山で、貧乏人の子沢山で生まれました。で、
そういうところに生まれて、農家に生まれりゃあ、あなた、農業を嗣ぐのが普通ですよ。ある人は
農業を嗣ぐ、ある人は工場を造ったり、ある人は会社勤めしたりする。いろんなことをする。
たまたま、同じような環境に生まれても、私は天命もあったけど宗教家になりました。
こういうふうに、人間というのは生まれや門地じゃないんです。自分自身で可能性を開いて
いけるんです。ですから、人間として生まれたことの幸せ、五体満足であることの幸せ、こういう
ことを知った上で、いいですか自分は可能性が開けてるんだと、現時点で不足はあっても、
自分には無限の可能性があるんだ、こういうことを知って欲しいんです。ですから、無限の
可能性があるからこそ自分は幸せなんだと思うということ。これが足ることを知るという意味です。』
-----------------------------------------------
心と肉体の関係
-----------------------------------------------
■肉体は舟であり、心は船頭である
『人間は、ともすればどうでしょうか、今生きてる日本人の七割位の人でしょうか、六?七割の
人はもう「肉体が全てなんだ」と、この肉の形、一六七センチ、一七〇センチ、体重六〇キロか
七〇キロか知らないけど、そういう肉体が自分の全てだと思っている人が多いわけです。そして
肉体が全てだから生命保険なんか掛けちゃって、これが滅びた時に金に換えるとか、もう肉体が
お金と換算できるような、そういうような考えでおるようです。それは仕方ないんであって、
これは、喩えて言えば、こういうことです。 テレビでウルトラマンかなんかやっています。
ああいうウルトラマンの中に入っちゃって縫いぐるみの中に入っちゃって、ウルトラマンやってたら、
もうやってる本人がだんだんウルトラマンの気持ちになっちゃって、縫いぐるみに入ってんのが、
ウルトラマンの気になっちゃって、もう自分はウルトラマンだなんて思うんです。いつも怪獣と
戦ってると。また、怪獣の縫いぐるみの中に入っていると、四十度位にもなるそうで、暑いんです。
けれど、暑い中で尻尾(しっぽ)振り上げてウルトラマンと喧嘩してると、だんだん本人も怪獣
みたいな心境になっちゃって、いや自分は怪獣なんだと、生まれつきの怪獣なんて思って、暑い中、
四十度の中で、ウルトラマンと怪獣とが、喧嘩しているわけですよ。こういうふうに人間というのも
本来はそういう肉体という物の中に宿って魂修行しているにもかかわらず、誤解をしちゃうんです。
それが本来の自分の姿だと思っちゃうわけです。 私は幾つかの著書の中で、肉体というのは舟ですと、
肉体舟ですと、そして心というのは、或いは魂というのは、船頭さんですよと、こういうことでよく
説明しました。ですから肉体は舟ですから、その舟を操る船頭さんが確(しっか)りしていないと、
舟は何処へ流れて行っちゃうか分りません。こういうことを説明しました。そして、じゃあ、と
質問する人が居るわけです。心が船頭、或いは魂が船頭で肉体が舟だ、と、どうして言えるんですかと。
例えば、死んじゃったら、何も分らないんじゃないですか、と。肉体イコールやっぱり人間なんです、と。
こういうことを言う人いますね。或いは、人間が考えるのは、この脳味噌で考えるんであって、
脳細胞の機能です、と。脳細胞の機能で、いろんなこと考えたり、人を好きになったり、嫌いになったり、
そんなことするのも、みんな脳細胞で考える、と。脳細胞はコンピューターみたいで、此処(ここ)
で考えるんだと。こういうふうな唯物的な物の考え方をする人、こういう人が居るわけです。
まあこういうことに関して、私は著書の中でも書いておきましたけれど、まあ、じゃあ、皆さん、
肉体が全てだと言うなら、では、寝てるときあなたが悪口を言われても分りますか。耳元で人に
悪口を言われます。確かに音というのは必ず振動しているんですから、その振動音というのは、
あなたの鼓膜を必ず振動させている筈です。鼓膜が振動して、物理的にそれが神経に伝わるなら、
神経に伝わって脳神経へ行く筈です。あなたの脳というのは、その悪口を言われたことを記憶している
筈なんです、物理的には。ところが、実際は寝ている間に悪口言われても全然記憶がありません。
何故でしょうか。それは睡眠中には、肉体舟の船頭さんである魂というのが、肉体を抜けているから
です。肉体を抜け出してるから、いくら悪口を言われても分りません。そういうことなんです。
例えば、植物人間というのがあります。植物人間をもう二〇年も三〇年も、事故かなんかで全身不随
になっちゃって、そして寝たきりで死にもしない、生きてもいないと、本人、何も意識もないと、
こういうのは、肉体舟の方が大部故障しちゃって、本人が、船頭さんが肉体舟を、自分を支配
できなくなっちゃっているんです。コントロールしたくてもできないと、しかし死んじゃいないと、
こういう、ややこしい関係になってます。
それから、唯物的な人は脳味噌がこの頭にある千何百グラムかの脳味噌が物ごとを考える、と、
こういうふうに考えるんですけれど、じゃ脳味噌なくなっても考えるんですよ。高橋信次此処出て
来て幽霊ですよ、言ってみれば。ガス体のような、幽霊のような、エネルギー体のような、電磁波
のような、何と言って下さっても結構だけれど、少なくとも脳味噌はもうありません。脳味噌はな
いし、脳味噌の皺もありません。オバケのQ太郎みたいなもんで中味は空っぽでございます。
それでもちゃんと自分なりの考えというのは出せるんです。すると脳味噌の皺の数で物を考えて
いるんじゃない、脳細胞で考えるんじゃないんです。どっか他に考えるものがあるんです。ですから
皆さん、脳細胞で考えると思っちゃいけないんです。 脳細胞というのは、コンピューターみたいな
物なんです。人間の頭というのは、コンピューターなんですが、このコンピューターに電源を入れる人、
また、電源を入れて何をアウトプットしようとするか、それを決める人が居るんです。
それが心であり、魂であります。』
■精神病者は船頭が入れ替わっている
『精神病者も一杯居ますけど、こういう人達は、頭は狂ってないんです。本当は。脳味噌しっかり
してるんですよ。ところが言ってることがコロコロ変わってきます。話してると、ある時はお天気の
話をするかと思ったら急に政治問題の話。政治問題の話をしてると急に賃貸マンションの話を始めて
何だかコロコロと人格が変わっちゃう。話してるうちに、一体何人と話してるか、自分が分らなくなる。
それは何でなるかというと肉体舟を支配している船頭さんが入れ替わってるんです。完全に憑依されて
います。そしたら、それぞれ憑依した船頭さんが、「船頭多くして、舟、山に入る」かなんか知らないけど、
船頭さんが多すぎると舟が動かないんです。或いは三人位の船頭さんが、一隻の舟に乗っちゃって、
皆、川の中に竿を差しているわけです。で、自分は此方(こっち)へ行きたい、あの人は彼方(あっち)
へ行きたい、みんなが適当な所で、一メートル位の川ですよ、竿を差して動こうとする。そしたら舟は
動かなくてグルグル、グルグル回り始めるんです。こういう状態が気違いさんの状態なんです。
そうすると脳細胞自体は正常であっても、そういうふうに船頭さんが入れ替わると全然脈絡のないこと
を言い始めます。これは気違いです。これは機械が故障しているんじゃないんです。機械は時々正常に
戻るんです。正常なときは正常なんです。
ところがアルコールが入ると急に変わっちゃったりして人が変わったりするようになるんです。例えば
夜になってアルコール入ると、途端に人格が変わっちゃって、いろんなことを、おとなしかった人が夜
になったら急に、狂暴になったり、或いは女性を見ると急に目の色が変わってきたり、或いは月夜の月
を見ると毛が生えてきちゃったりして、あっ、これは狼人間ですね、これは違ってた、こうじゃない
けれど、そういうふうに豹変する人が居るんです。これは、やっぱり魂の問題なんです。
ですから心理学的にも、多重人格っていうのがあります。これはどう考えても同一人が同一肉体に入って
るんじゃないと、違う性格がどうやら入ってるようだと。なかなか多重人格でも面白いのがいて、実は
自分は千八百何年頃に、アメリカの何処そこに生まれた人間であって、こういう者である。本人が実際は、
男性なのに拘らず、私は女性だって言うのが出てくるんです。多重人格の人は、私は女性だとか、私は
子供だとか、或いは私はイギリス生まれで千六百何年代に生まれて、何とかの事故で死んだ何とかです、
などと言い始めます。あり得ないことです。本人は男なのに「違う、女だ」って言ってるんです。
そういうのは、まさに魂が喋ってるってことです。一つの肉体を何人かが支配している、こういうふうに
なったら最後です。人間も駄目になっちゃいますけど。
そういうふうに、魂、心というのは船頭さんで、肉体というのは舟だという関係があるわけです。』
■心というのは魂の中心部分である
『皆さん心、心と言うけれど、心って一体何でしょう。心は、頭の、脳細胞の働きだと思ってる人も
居るんです。心が頭にあると思ってる人も居るわけです。とんでもない間違いです。心は頭にはあり
ません。私の本にもまた、これ書いてあります。じゃあ、あなた悲しい時に、涙は何処から込み
上げてきますか。頭からですか、嬉しいときに、嬉しいという気持ちどっから込み上げてきますか。
胸からでしょう。そうじゃないでしょうか。あなたは、頭が今は悲しい、悲しむべき時だからと頭が
判断して、そして初めて涙が出てくるんですか。そうじゃないでしょう。胸がジーンとしてきて、
涙が出てくるんでしょう。それは理由もなく出てくるんでしょう。これは頭で、いいですか、理屈で
考えて今、涙を3cc 出すべきだから、出す、なんていって出るんじゃないんです。そうじゃなくて
ジーンとくるものがあって、涙が出てくるんです。込み上げてくるんです。ここが、心という部分です。
心というのは、要するに、魂の中心部分なんです。心といっても、魂といってもいいけれど、
魂というのは、もうちょっと広い部分のことを一般的に言っています。
心というのは、魂の中核部分、中心部分です。そして魂というのがあります。魂というのは、大体、
肉身、肉の体と同じサイズになってます。オーラは普通の人が一センチ、ニセンチ位はみ出してます、
人体から。オーラでみても分るように、光の天使なんかもっとはみ出しちゃって、一メートル、
ニメートル、オーラが出ています。そういうふうに出てますけど、こういうふうに、心が中心になって
魂というのは、もっと大きい、この魂のことを別の言葉で、光子体といいます。魂というのは、
こういうふうに肉体とは別の、光子体というものによって構成されているものなんです。』
■光子体こそ人間の実相
『そして光子体というのは、何かと言うと、光の粒なんです。その粒で本来、人間の本当の姿、実相、
人間の実相、生命の実相というのが本当は光の体でできているんです。
光の珠(たま)、光の子供、光子というのは何かというと、要するに天上界に、霊太陽というのが
ありますけれど、霊太陽から放射されたエネルギーです。エネルギーが結集して、粒子を創っています。
ですから、昔からよく人間の本当の姿というのは、神の分身だと。人間は神の子だと言いますけど、
これを物理的にいうと、人間の、人間の本当の体、光子体っていうのは、要するに神から分れたエネルギー、
エネルギーが粒子となって創っているんです。ですから人間の体は、神の体と同質なんです。それは
光子体というものからできているからです。その光子体というのは、神の霊的エネルギー、これは霊太陽、
あの世の霊太陽に基づいて、そこから出てくる光です。これを凝集して、霊子線を創っているんです。
そして霊子というものが、様々に結びあって人体を構成しているんです。これが本当の人間の正体です。
そして、この光子体というのは、一つの法則がありまして、本人の悟りに応じて、この光子体の量が
変わるんです。そして悟りの段階によって、神界、菩薩界、如来界となってくると、だんだん、
光子体のエネルギー量が増えてくる。そして悟りが少ないと、この光子量がだんだん減ってきて、
場合によっては、地獄へ行ってる人なんかは薄暗くなっちゃって、光子体の表面がいろんな想念で、
心の中で思った想念の曇りで曇ってきます。そして薄ぼんやりとしてきて、光が出てきてないんです。
ですから、私たちの目から見れば、生きている人間の体をみて、ぱっと見れば光子体が見えます。
ところがその人の光子体を見れば、心の状態、一発でわかっちゃうんです。
よく悟ってる人、或いはよく反省している人っていうのは、綺麗な光子体出てます。綺麗なオーラですね。
ところが、病気の人なんか見ると、大抵、光子体の中に翳(かげり)があります。その光子体ずっと
見ていると、例えば肩の辺に翳がある。或いは頭の辺が薄ぼんやりしている。こういうふうに見えます。
光子体が薄汚れているんです。何かなと思うと、大体そこに想念の曇りを創っています。そして想念の
曇りを創ってそこに、あの世の地獄霊が憑依して来ています。大抵、その光子体の曇っている所に、
憑依というのが起きてくるんです。
279 :
神も仏も名無しさん:2010/01/08(金) 14:12:26 ID:QeG9Rh0K
ttp://blog.goo.ne.jp/a1214/e/d04aff8a0188fb8742731ed42f12e955 私たちは現世利益を追求する。しかしままならないのが現実である
↓
そこでスピリチュアルは思うようにならない理由を、自分で現在の境遇を選んで生まれてきた、生まれてきた目的は学びのためだ、と説く
↓
となると、生まれてきたこと、現在の境遇は自己責任である。親や社会に責任はない(権力には都合いい)
↓
となると、「悪いのは私なんです」ということになり、自己憐憫、自虐的になる
↓
「私さえ変われば問題は解決する」と思うものの、変わることは難しい
↓
本音は、面倒なことはしたくないし、変わりたくないから、「そのままでいいんですよ」と慰めてもらいたい
↓
誰でもいいわけではなく、カリスマ性のある人から受容してほしい
↓
こういう人たちが江原にはまる
280 :
神も仏も名無しさん:2010/01/08(金) 14:40:23 ID:QeG9Rh0K
実行不能な理想の高い精神生活を説いた本を読む
↓
こうすればこうなるんだと気持ちばかりが先走る
↓
しかし、やっぱり現実社会の壁は厚い
↓
本に書いてある通りにいかないのは、自分に責任があるからだ
↓
(やっぱり私は駄目だ 先生は凄い 側近達の言ってることは間違いない)
ここで自分を卑下し 崇拝が始まる
↓
新しい本が出版
↓
貪り読む 再び感動
↓
新セミナーの誘いに参加
↓
そうだったのか!と新しい概念を注入
↓
これでもう大丈夫だ
↓
しかしやっぱり現実の壁は厚い
↓
*以下繰り返し
憑依っていうと人間と何か同じサイズのものが来て、人間にペタッとへばりつくかというと、
そんなもんじゃないんです。そういうふうに想念の曇りのある部分を狙って憑依してくるんです。
彼らも、地獄霊たちも、やっぱり四次元的存在ですから、決して絶対的なもんじゃないんです。そんな
大きさがあってどうこうと言うもんじゃなくて、ですから、ある人は肩がなんか凝って、肩が痛くて
痛くて仕様がない、ちょっと鍼(はり)打って下さい、とこうなります。或る人はお腹がなんかおかしいと、
いつもお腹の調子が悪い。或る人はなんか下半身が痺(しび)れて、どうも変だ。或いはリウマチだとか、
或いは頭痛もち、耳鳴り、この頭痛だとか、耳鳴り、或いは下半身の痺れ、リウマチ、こういうのは
完全に憑依です。腰が痛い、こういうのもみんな憑依です。みんなあの世の地獄霊たちが来て、その
部分に憑依してるんです。こういうふうに、本来の人間の、体の組立てというのを良く知って欲しいんです。
まず、船頭さんである心が魂の中心にあって、それから中心の周りに人体と同じ形をした光子体というのが
あります。この光子体が、肉体をスッポリと被っています。そして、光子体こそ本当の主人公であって、
肉体を支配して活動しています。』
■憑依の原理
『ところがこの光子体が、いろいろ故障を起こすことによって、様々にその人の人生が変わって
行きます。そして光子体と肉体を結ぶものがありますが、これは何かというと、これは霊子線
というんです。霊の子の線と書きます。霊子線。これが大抵の人間は、頭の部分ですけど、
頭の部分で、この光子体と人間の肉体、人体とを結んでいるものがあります。銀色の線です。
これが大抵、脳の神経とその光子体の方の中枢部分とを、霊子線で結んでいるんです。銀色の線です。
これが結んでいて、大体光子体が考えていることを脳に伝える、そして体全体に行くと、こういうこと
になっています。ですから生きている人間は、この光子体と肉体とを結ぶ霊子線が、切れない限り、
決して肉体から本当に分離してしまうことはないんです。たとえ一時的に憑依されて、他の霊が
関係することがあっても、他の霊と肉体とは霊子線が繋(つな)がってませんから、完全に支配
できないんです。本人の局部的な所、攻めたり、一時的に攻めることはできても、完全にその人格を
支配して、何十年もの人生を生きるってことはできないんです。それはまた、一つの法則がありまして、
もしそれができるなら地獄の亡者たち皆出てきて、生きてる人間の魂を追い出しちゃって、自分が肉体の
中に入れたら、生まれ変わったのと同じで、生まれ変わることできるわけです、楽ちんです。
地獄にいたら苦しくて仕様がない、だから地獄は、苦しくて仕様がないから、皆這い出してくるわけ
ですよ。這い出してきて、何とか逃れたい、それで地獄から一生懸命、這い出してきます。そして行
く所がない。もう天国へは行けないんですから、地獄から這い出してきたら、もうこの地上界しか行
く所がないんです。この地上界で、何とか自分の住み場所を探そうとする。地獄霊たちは、躍起(やっき)
になって探すんです。そうすると、たまたま霊界の法則で、類は友を呼ぶ、似た者同士が、相通じる
という法則があります。これはこの世でも一緒です。 あの世の地獄霊が、地獄の苦しみから一時的に
逃れようとして、地獄から這い出してきます。そして何とか自分によく似た人がおらんかと、もう血
まなこになって探します。ところが居るんです。 人間の悩みなんていうのは、非常に限られたものです。
幾つかのパターンに分けてしまえば、大体もうみんな似てて決まっちゃうんです。地獄へ行くんだって、
原因も大体皆さん似てて決まってるんです。大抵、普段人と争う気持ちが強くて、人といつも、いつも
争いばっかりしてた、喧嘩ばかりしたり、悪口ばっかり言ったり、そういう闘争心ばっかり剥(む)き
抑き出しにして生きてきて地獄に落ちた人、こうした人は阿修羅地獄です。こういう地獄霊が、この
地上に出てきて、ほいほいと探してみると、一杯居るわけです。こんなのが今の会社に一杯居るわけですよ。
人の悪口ばっかり言ってて上司と喧嘩ばっかりしている人。或いは部下を苛(いじ)めてばっかりいる
上司。或いはお互いに足を引張ってるライバル同士。こういう人達はみんな阿修羅地獄へ行く侯補生
たちです。こんなとこ入るの一発です。 似たような人がいた。こりゃ楽ちん楽ちん、と言って入って
来るわけです。そして、そういう例えば、阿修羅地獄へ行く傾向のある人に憑依します。そうすると、
どうなるかというと、その人は増々心の揺れの幅がひどくなってくるんです。するとこの人は、さらに
人の悪口言いたくなる。そして理性で、普通は理性である程度抑えていたのが、だんだん理性の箍(たが)
が緩んできて、周りの人が見ても、信じられないようなことを言い始めるんです。例えば、まっ昼間
からもう回りのことをお構いなく人の悪口を、ぱっぱ、ぱっぱと言うわけです。
或いは、上司なら、上司がですよ、或る人が部長さんだとしましょうか。何だか知らないけれど、
些細なミスを取り上げて、部下を呼びつけて「こらっちょっとここへ来い。」って、直立不動のままで、
もうわんわんと真昼間から一時間、二時間と部下を叱りつけて、本人は教育してるつもりでいるんです。
ところが、私たちから見ると、あの世の阿修羅霊がきて、いい気持ちになって肉体支配して、要するに
自分のうっ憤晴らしてるんです。で二時間も説教されるもんだから、もうひっくり返ったり、倒れたり
してなんか厳しい人だなあ、なんて思います。そしてその毒素を喰らった人はまた、上役の悪口を言います。
で、夜酒を飲みながら悪口を言います。またその人もおかしくなっていく。こういうふうにして自分たちの
住家を増やして行くんです。
或いはまた、他の人、地獄霊なんかでも自分の身上(しんじょう)を持ち崩した人、あの経済的に
無茶苦茶やって、競馬競輪、マージャンとパチンコまでいっちゃあれだけど、私も、やったことあるから、
言いにくいですけど。まあ、競馬競輪としとこうか、やったことないから。競馬競輪で、どんどん散財
しちゃって、お母ちゃんに内緒で、へそ繰り使ってまでやったけど、金がなくなって、とうとうサラ金
に手を出したと。そして、サラ金から金を借りたんだけれども、これが雪達磨式になっちゃって、
とうとう返せなくなってきた。で、どうするかというと、サラ金は、朝に晩に取りに来るわけです。
真夜中に来て、ドン、ドンと叩く「出てこい」と、サラ金業者に憑いている地獄霊たちは言います。
そうするとだんだん、夜も眠れなくなります。そして会社での仕事も上手く行かなくなってくる。
そして生活が乱れ、夫婦仲が乱れ、だんだん、おかしくなって地獄へ行きます。そしてサラ金の取り立て
屋を恨んだりします。それはおかしいんです。自分が金を借りてるんだから、承知の上で金を借りてて
返せないんですから。サラ金だって悪いとは一概に言えないんです。そういうとこをみすみす、
乗り込んで行ってます。こういう人が居ます。
そうすると、こういう地獄霊、地獄へ行った霊たちは、また地上を見渡すと似たような人間が居るん
ですね。借金ばかりして、「あっこれは転落するな」というようなものが居るとそれにヒョイッと
憑いちゃって、また自分と同じような味わい、苦しみを味わわせます。
大体、あなた方にもあるでしょう。自分と同じような苦しみを味わわせたい、で自分が貧乏したら、
人も貧乏させ、苦しませたい。まあ大体、経営者の方もあるんですよ。一代限りの経営者、自分が
叩き上げて、苦労の上、苦労して会社造ってきたような、こういう人は大体、サラブレッドみたいな人、
嫌いなんです。大体自分が、苦労に苦労重ねて会社造ったような人っていうのは、大体人にも同じような
苦労させたい、と大体こう思うんです。そして、お前ら苦労が足りないと、まあ苛めたりして、苦労、
苦労と言うことを言い始めるんです。自分が苦労に苦労を重ねて、やっと成功したから、たまたまなん
ですけれど、それを合理化するわけです。美化しちゃって、やはり人間っていうのは、苦労しないと
成功はできないんだと。そんなことないんですよ。
苦労しなくたって、あなた、スッスッと成功する人一杯居るんですよ。ところが、それが気に
喰わない。「それは真実ではない。そんなことは、あり得ない。
やっぱり人間は苦労して、ひと回り大きくなって成功する」と思うんです。こうなったら信念ですよ。
苦労しなくたって、成功する人は一杯居るんです。そのような社長は、会社なんかで、中学卒、或いは
小学校卒で、叩き上げて社長になったとしても、今の会社ならもう大学卒が一杯人って来ます。
人事部の人は、大卒のバリバリのエリートなんか採るわけです。そしたら社長さんが見ると気に喰わない。
なんだこいつ、親に面倒ばかり掛けて、親に面倒見てもらって、仕送りしてもらって、学生時代も、
のほほんと過ごしちゃって、苦労が足りん、と。もっと苦労さしたる、と言って、社長命令。直々に
集会始めたりして、わざわざ、そういう雑用やらしたりして、苛(いじ)めたりして、こういうことします。
ですから話を元に戻しますと、地獄霊は似たような人を探しており、その地獄霊に憑かれると肉体が
不調和になって来ます。』
288 :
神も仏も名無しさん:2010/01/09(土) 11:29:11 ID:1Eh1yko0
↑ このコピペ貼り続ける奴はGLA関係者か?それともKKか?www
いつも『sage』で静かに荒らしているけどwww
荒らすなら『age』ろよカスwww
m9゚(゚`∀´゚)゚9mプギャーッハッヒャッヒョ wwwwwwwwwwwww
289 :
神も仏も名無しさん:2010/01/09(土) 19:35:58 ID:TcUqrrhW
290 :
神も仏も名無しさん:2010/01/09(土) 19:42:21 ID:TcUqrrhW
ttp://mitsuno-y.com/file/200907/24_151820.html 一方、精神的な側面から見れば、善や悪は単独では成り立たないということだ。すなわち悪があるから善は成り立つのであって、善だけの世界に善という概念は成り立たず、悪だけの世界にも悪は成り立たない。
したがって自分は善人だと思う人は、悪人がいてくれるから善人でいられるということを知らなければならない。『水戸黄門』の番組に黄門様側の人たちしか登場せず悪人が登場しなければ、
善人の代表としての黄門様の立場は成立しなくなるだろう。
このことから分かるのは、善悪はあくまで相対的なものであり、互いに依存し合う関係にあるということだろう。これを政治や宗教に適用して言えば、自分たちの政党が政権を取れば良い社会ができる、
あるいは自分たちの宗教が世界宗教となれば平和と幸福が訪れるといった考えは、こうした相対性に考えが及ばない教条主義的判断であり、
根拠のない幻想ということになる。
宗派や政党に限らず組織というものは、外部からの批判が激しければ激しいほど内部での結束が強固になるという力学を持っている。例えば「エホバの証人」や「創価学会」の信者は自分たちこそ真理の代弁者であり善を代表するものであって、
外部の批判勢力は真理を知らない愚か者であり悪そのものであるかのごとく思っていて、
それが彼らを強固に結びつける力となっている。しかしもし彼らの宗教が世界を席巻したとすれば、外部的な圧力は消え、自分たちが善である根拠を失ってしまう。しかも外圧がない状況では内部的結束は失われ、信者たちはバラバラになってゆく。ではその後どうなってゆくのか。
彼らはそれでも善を成立させておかなければならないので、
信者同士の間で比較や差別化をしなければならなくなる。
すなわち彼らは徒党を組んで分派を作り、以前他の宗教を悪として批判したように、互いに他の分派を批判し合うことになるだろう。
そして以前と変わらない善悪を基準とした社会を築き上げるのだ。
291 :
神も仏も名無しさん:2010/01/09(土) 19:45:38 ID:TcUqrrhW
ttp://mitsuno-y.com/file/200907/24_151820.html 宗派や政党がこのような経過をたどると推論できれば、善を主張することがいかに空しいかが解る。これは宗派や政党に限らず、すべての組織について言える。知り合いに紹介されて入った会社、友人に誘われて入った社会的な活動団体、
たまたま入った学校、親兄弟に勧められて入った「○○クラブ」や「○○の会」、スポーツ・チームの応援団、等々。
例を挙げれば限がないが、多くの人はよく調べることなくそうした組織に入り、しかも一旦入ってしまうとその組織を評価し擁護する発言をするようになる。これは不思議なことだがよくみられる現象だ。
このように我々は客観的な視点を欠いたまま組織に入る場合が多い。そして次には自分の入った組織に味方し、他への非難を平気で行なうようになる。
この根拠のない言動はどこから来るのだろう。その心的構造を説明すれば、何かに依存することによって不安から逃れようとする心理が働いているためだと思われる。
さて善と悪が一組の対としてしか存在できないのであれば、善がある限り悪はあり、悪がある限り善はあるということになって、この世は決して善だけの世界にはならないことになる。それは我々が善悪にこだわっている限りその通りだろう。
しかし善悪という平面的な捉え方から一歩飛躍して、両者を高い次元から見つめることができれば話は違ってくる。
一段高いところから見つめれば、悪を憎むその心が悪であって、視点の取り方によってはどちらも悪なのだ。ここに大きな落とし穴がある。
自分は善人だと思っている人は『水戸黄門』を見て登場人物の悪人を憎々しく思う。
しかし一段高い視点で見れば、憎むその心がすでに悪と変わらなくなっているのだが、多くの視聴者はそのことに気付かないようだ。
292 :
神も仏も名無しさん:2010/01/09(土) 19:59:43 ID:TcUqrrhW
アヤシイ宗教の見分け方
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/1cde9d9f408f8d6e3425a42618c0b0d1 ・簡単に解決法、答えを与える宗教
オウムの元信者は、若者がカルトに魅かれるのは、「絶対」「存在」「意味」という三つのキーワードが絡むと言っているそうだ。
元信者はこう説明している。
「『絶対』は変わらない永遠不滅の真理です。『存在』は自分が生きているという実感。そして『意味』は自分が何のために生きているのか納得することです。
これらの解答を与えてくれるのがカルトだと思うんです」(米本和広『教祖逮捕』)
・白か黒かの二元論
・絶対を旨とし信者の全精神を支配する教祖と、教祖に対する病的なまでの依存(批判力の喪失)
他にもまだまだあるだろうが、これくらいにして、「白か黒かの二元論」をもう少し説明しましょう。
絶対者の教祖に依存する信者のことはその次に。
『教祖逮捕』に、心理療法家の服部雄一と米本和広の対談が載っている。
服部雄一は
「カルトは物事をすべて極端な善悪に分けます」
すなわち、善か悪かの二元論がカルトの特徴だと言う。
二元論は内外、上下、高低、中心と周辺、時間の前後など、そして善悪、正邪、優劣、浄穢、貴賎、尊卑というふうに世界を二つに分ける。
そして、どちらかを選ぶよう迫られる。
293 :
神も仏も名無しさん:2010/01/09(土) 20:01:35 ID:TcUqrrhW
アヤシイ宗教の見分け方
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/1cde9d9f408f8d6e3425a42618c0b0d1 ところが、二つの選択があるようでも、一つしか選べない仕組みになっている。
「改革に賛成か、反対か」と言われたら、「反対」とは言いにくい。
テストの点が悪いよりはいいほうが決まっている。
「二元論の罠にはめられると、自分の意思で相手が望む道を選んでしまう。しかも決定は自分がするから、誤った道であろうと、それは自分の選択になる。カルトに入った人たちは「組織に強制されていない。自分で選んだ道だ」とみんなが言いますが、本当にそうなんです」
と服部雄一の指摘に、なるほど、自分が選んだんだということがカルトを抜け出る難しさだと納得。
二元論の罠に落ちるのは、「理解したい」ということ、そして「正しくありたい」という気持が我々にあるからだと思う。
どちらも真っ当な願いである。
しかし、善か悪かで割り切れることはほとんどないのだが、単純なほうがわかりやすいし、正しさにすりよって自己正当化をしてしまう。
そして、理解できないことは無視し、自分の正しさとは違うことは排撃する。
294 :
神も仏も名無しさん:2010/01/09(土) 20:27:50 ID:TcUqrrhW
■肉体管理の重要性
『それで皆さん、肉体が第一、ということで考えるけれど、肉体というのは心に密接ですと。そして
心の方が迷い始めると、地獄の様々な霊たちに支配されていきます。そうするとだんだん、不調和に
なっていきます。そういうことです。 肉体も、体も身のうちです。霊的なことに興味を持ち過ぎる
人というのは、どうしても肉体を軽視します。けれども憑依という現象も、二つの入り口があるんです。
一つは、心がそういうふうに曲がってて、心が違う方を向いているために地獄霊たちが、トントンと
入って来て、そして憑依されてだんだん、肉体が不調和になって行くタイプ。もう一つあるんです。
これは本当に本人の不養生です。例えば、栄養のバランス、これを考えずに食べたいもんばっかり食べて、
豚肉ばっかり食べて腎臓悪くしたり。或いは脂もんばっかりとって、夜中に死んじゃったり。多いん
ですよ最近、夜、お年寄りが夜の十一時、十二時にコッテリした物食べちゃって、それこそ大福十個位
食ったりして、そして挙げ句の果て、ヒイヒイ言って死んじゃったりすることが。そういうのよく
あるんです。年とったら、そんな脂もん取ったらいけないんです。
それから寝る前に過食しちゃいけない。こんなの常識です。医学的に見ても。ところが寝る前に
腹一杯食べて、明け方頃死んじゃうと。こういうケース結構多いんです、最近。こういうのは本人の
不養生です。こういうふうに肉体というのも、心が病んで肉体が病んでくる場合と、肉体の管理自体が
間違っているためにだんだん、肉体がおかしくなって、その結果、心までおかしくなると、こういう
場合もあります。それで、まず、これからあなた方、正法実践をして行きたいと思っている方々に
対して、言いたいんですが、まず肉体の管理は、常識人として、ちゃんとやりなさい。適度の睡眠は
大事です。適度の運動、これも大事です。適度の栄養、食事、大事です。これは最低限、守って
頂きたいです。まず肉体が普通じゃなければ、抵抗力がつかないんです。だから地獄霊が、寄って来ると
いう時は大抵肉体が弱っている時です。これに対しては、心掛けだけでは立ち打ちできない場合があります。』
■地獄霊は心力、体力の二刀流で跳ね返せる
『生きてる人間は、やっぱり肉体の中にあって生活していますから、それで地獄霊は、どんな地獄霊が
来ても、生きる人間は強いんです。はっきり言って。何故強いか、彼らは精神的な力を持ってます。
ところが物理的な力はありません。これは生きてる人間は、光子体という精神的な力、プラス肉体という
肉体に宿る力という物理的な力の両方を持っているんです。これの間を霊子線というものが結んで、
緊密な関係になってますから、こっちは二匹なんです。二匹で一体なんです。向こうは一匹だから、
一匹相手に二匹で戦うんだから、原則では勝てるんです。あんまり五体も十体位も入ってしまえば
参ってしまいますが。普通は心の力と肉体の力の両方で跳ね返していけるんです。これは、いわば
宮本武蔵の二刀流です。長い剣と短い剣、大刀と小刀を持って、二刀流です。ところが相手は一刀流です。
宮本武蔵は、敵と戦う時に、いいですか、二乗寺下(さが)り松の決闘なんていって、吉岡一門を向こうに
まわして、何十人、何百人と戦ってますが、武蔵は相手が、何十人でも何百人でも負けなかったんです。
何故、負けないか、彼は常に一人を相手として戦おうとしたんです。だから二乗寺下り松で決闘する時も、
よりによって彼は、回りが田植えの時期で、田ん圃、そして細い畦道がある所を選びました。
そして畦道を逃げて来て、追い掛けて来る、相手は必ず前に居るのは一人です。前からというか、
後に居るのは。常に一人を相手にしました。或いは壁なんか、壁なんかを背にして戦いました。
そして坂道を登って行きながら戦う。そのように、一人を相手にするように彼は考えていました。
そして二刀流です。二刀流で一人を常に相手にすると、いつも勝ってるんですね、彼の理論から言えば。
そういうことだったわけです。ところが二刀流でも、ぐるっと回りを囲まれちゃうと、これは勝てなく
なってきちゃうんです。二本では防げなくて、どっから切られるかわからない。こういうことがあるんです。
普通の人間も、地獄霊の一体位なら何とか、心の力と肉体の力の二刀流で跳ね返していけるんです。
ところが、肉体が終わっちゃうと一刀流になるんです。そうすると一刀流対一刀流で勝つこともあれば、
負けることもある。或いは肉体が確(しっか)りしてても、心の方がおかしければこれも、一刀流対
一刀流、負けることもある。ところが光子体というのは、例えばね大刀で、肉体というのは小刀なんですよ。
ところが肉体の力だけでそういう、霊の力と戦おうとすると小太刀で、小太刀で大刀、大太刀と戦おうと
するのと同じなんです。だから負けてきます。そういうことで、心の力と肉体の力、これは宮本武蔵の
二天流、二刀流みたいなものなんです。両方が噛み合わさって、初めて敵と戦えるんです。だから
どちらも調和しておく必要があります。ですから、生きてる人間、肉体を軽視しますけど、私もそう
でしたけど、やっぱり結局のところ、肉体を軽視し過ぎたということです。ですから肉体を軽視し
過ぎて、酷使してやると、いくら神理を読んで、エネルギーを入れたところで駄目です。これは
治りません。やっぱりこの世の人間なんですから、この世には、この世の法則というものがあります。
これを大事にして下さい。』
■現代サラリーマンと主婦族への警告
『だから読者の皆さんにも、私が御注意申し上げたいのは、やはり健康管理です。これは大事です。
特に現代サラリーマンは、不摂生から、自分の不養生から睡眠不足という結果を招いて、その結果、
憑依されていることが非常に多いです。夜は夜で、毎晩、酒飲んで、また酒場なんていうのは、ロクな
霊が居ないんです。高級霊は居ないんですよ。酒場行って、あなた、高級霊は出てきません。そういう
所に居るのは、もう大抵地上をフラフラしてる欲望の絶てない地獄霊です。そして、いいですか、
睡眠不足のままそこへ行って、夜遊びして、酒を飲んで睡眠不足でだんだん、憑依されて行きます。
そうすると、仕事がどうも上手くいかなくなって、いろんな人と衝突が起きてきます。仕事が駄目、
仕事以外も駄目、だんだんノイローゼになっていって一家心中しちゃったり、おかしい判断をしちゃうわけです。
現代サラリーマンたちは、可哀相な面もあるんです。一つ目は通勤っていうことで、通勤地獄、
ラッシュ地獄で、朝早く起きなきゃいけない。これは仕様がないですね。或いは、夜帰りが遅くなるまで、
お付き合いがある。これは、言い訳もあるけれど、本当は切ろうと思えば切れるのに、自分が好きだから、
どうしても付き合いで、なんて言い訳をしています。
ですから私は、現代のサラリーマンに言いたいんですが、できるだけ酒は毎日は止めましょう。
やはり週三回か、節度を守りましょう。そして睡眠不足の折には、土、日でも結構だからしっかり
睡眠をとって寝溜めをしましょう。そうしないと、やっぱり体力つけないとあの世の霊たちに勝てません。
それから、よくドラキュラの映画なんかでありますね。ドラキュラが恐いのは十字架と大蒜(にんにく)
です。イエス様は恐いでしょ。もう一つは大蒜の本当の意味、これは大蒜を食べると、要するに精力が
ついちゃう。精力がつくと体力が余分についてくる。そうすると地獄霊たちがつけ込む隙がなくなると、
これを象徴してるんです。大蒜をぶら下げたら、ドラキこフが逃げて帰るわけじゃないけれど。でも、
地獄霊たちが一番つけ込むのは、何かというと体力が弱ってる時なんです。ですから、そういう時は
強精剤がいいです。そういう滋養強壮の物、食べられると地獄霊も困っちゃうんです。ですから地獄霊には、
赤蝮(あかまむし)が一番良く効くとか、これは冗談だけれど、ビタミンをちゃんと取って、やはり
健康な肉体作りは大事です。特にサラリーマンたちは、非常に危ないです。普通の姿でおっても、
地獄霊にやられがちであるのに、そういうふうに不健康な生活してるために、ある意味ではこれは、
社会の責任でもありますが。地獄霊に憑依され易い、時間帯、そういう仕事ですから。
また、一方はどうかというと、主婦族は主婦族で、これは暇を持て余したりして。これはまた、
なんか遊びたくて仕様がなくて、主人帰って来ないもんだから、いろんな悪さしちゃったりして。
土曜日じゃなくて、金曜日の妻かなんか知らないけど、主人は絶対、金曜日は帰って来ませんから、
夕方からお化粧しちゃって、もう社交に出ちゃって、帰って来なくても分らないと思って帰って
来なかったりしてます。或いは、夫が単身赴任の場合です。滅多に帰って来ません。或いは夫は、
単身で海外へ駐在中です。私は二年位一人です。こんな人は遊び放題しています。もう悪い事散々して
「まあ、いいわ、子供さえできなければ。何したっていいわ。まあ人の子供産んだら夫にちょっと
悪いかも知れないけど、それ以外何したって大丈夫だ。」なんてやってるわけです。こうして暇を
持て余してる人は、持て余してる人でまた、悪いことして不調和作っています。
ですから、今見てるとサラリーマン社会は、男性は肉体的な疲れから、或いは商売のストレスから。
女性は、不平不満から、窒息感から、また悪の道へと走ってるようです。
ですから私が、ご提案申し上げたいのは、まあこれは社会的問題でもありますけれど、男性には
できるだけ睡眠と健康の維持、これを計って頂きたいし、そういうことに配慮するのは、女性の
配慮も必要です。御家庭の主婦、そういう方々も配慮して下さい。』
■新時代の神理伝道の旗手は女性である
『それと女性の方々は、暇で困ってるもんだから、暇で困ってて悪いことばかりしないで、
もっといいことに、頭を向けなければいけない、心を向けなければいけない。
朝日カルチャーセンターに行ってるようでは能がないです。朝カル行って、あなた俳句かなんか
書いて、添削してもらってるだけが能じゃないんです。主婦族たち、今時間持て余して悪いこと
ばっかりやったり、相談してるんです。ですから、これからの、私は主婦族、暇な方々に言いたいです。
あなた方こそ、いいですか、新しい時代の神理伝道の旗手となるのは、正(まさ)しくあなた方
なんです。今までは、男がいつも主役でした。男たちが主役でした。その頃には、神理伝道というと、
それだけを専心にするような男たちがありました。仏陀の時代にはみんな沙門になって、ソロモン
になって、サロモンになって、仏教修行を何千人もの人がやっていました。
ところが今の時代では、そういうことはなかなかできません。出家すると母ちゃん、
子供が飢え死にしてしまいます。だからできません。男たちは一日のうち十時間、十二時間、
拘束されています。ですから神理伝道の担い手として非常に弱い力しか持っていません。
土・日に働こうとしても、土・日は睡眠不足で寝溜めをしないと体が持ちません。
ところが、お母ちゃんたちは、朝カルかなんか知らんけど、そんな所へ行って、
要するに時間を潰してます。金を払ってまでそんな暇があったら、私は朝日が
嫌いなわけじゃないんですよ、読売も嫌いなわけじゃないんです。そういうんじゃなくて、そんな
暇があったら、奥様方、あなた方こそ、今の時代、今後の神理の伝道の担い手だということ、
これを悟って頂きたいと思います。ですから暇なうちに、まあ原稿の清書してあげたり、それから
神理のパンフレッ卜配ってあげるなり、人伝に伝えてあげるなり、電話を掛けるなり、そうして
神理伝道の媒体となるのはこれからは主として女性です。いいですか、それを忘れないで欲しいと思います。』
305 :
神も仏も名無しさん:2010/01/09(土) 21:46:54 ID:Z60qPNo3
サロモンになってもこの日本は変わらないからね。
いざとなって頼りになるのは、科学者や経済学者ですから。
宗教家がでてくるのは、死に際ぐらいですから。
-----------------------------------------------
自力と他力
-----------------------------------------------
■他力信仰の問題は御利益信仰にある
『本日の演題は、自力と他力ということです。これは、私もかねがね自力と他力の問題、随分言って
きました。そして、人間は他力では救われません。やっぱり、自力です。自力じゃなきやいけないと
いうことを、私は、生前、随分強調致しました。ただ、私が批判する他力信仰と言いますのは、
他力依存は何かと言うと、要するに、御利益信仰のことですね。例えば、お寺を見てみなさい。
日本のお寺、あっちもこっちもお札を売ったり、交通安全のお守りとか、それから、おみくじ、
そういった類ばっかり、或いは、観光、全くの観光仏教になっちゃって、片や葬式仏教、片や観光仏教、
こういうことでやっていることは何かと言うと、何か御利益があると、要するに、この神社にお参り
したら、御利益があります。或いは、この仏閣、お寺にお参りしたら御利益があるこういうことばっかり
しているわけですね。そういうことで、じゃ、実際の神主さん、それからお坊さんが、そういう御利益
というのを本当に信じているんですか、信じてるかって言われると、急に不安になるんですね。昔から。
「ここのお寺は、昔から何とかに効くと言われています。」とか、或いは、「このお線香の煙がね、
前厄(まえやく)、後厄(あとやく)、本厄(ほんやく)に、それぞれ効くんです。」とこういうことを
言ってるんです。で実際に、それ本当に効くのかと、徹底的に追究したことあるんですかと聞いてみると、
「いや、それはどうか分りません。」それじゃ、神主さん、或いは、お坊さんでもいい、住職さんでも
いいけど、「神主さん、あなた本当に神様を信じてますか。」と。「いや、神様というのはあると
教わっています。」と。或いは、住職さんに聞きますと、「いや、仏さんというのはあると聞いてます。」と。
「じゃ、仏さんというのは何ですか。」とこう聞くと、「いやあれですよ。あれ見て下さい。」と御本尊
を指しちゃって、「あれが仏さんですよ。」と「ああ、仏さんというのは、金ピカの金箔を張ったあれが
仏さんですか。」「そうです。あれが御本尊なんです。」「ああ、そうですか。あの御本尊さんが、人間
に御利益下さるんですか。」「ええ、そうなんですよ。あれは、本当に立派な方が、昔造りましてねえ、
今から何百年前に。そして、今国宝なんです。それが御本尊ですから、これは御利益あります。」こういう
わけですね。「じゃ、住職さん、まあ、国宝かなんか知らないですけど、じゃ、その国宝は何で人間を
守ってくれるんですか。人間の病気を何で治してくれるんですか。何で交通安全の祈願が通るんですか。」
「いやそれがまた、そういう尊い仏様ですから、それを拝むだけでも御利益があるんです。まあ、
なにせ、偉いんです。」だんだん、そういう唯物的になって、要するに、そういう仏像というものが
あるからこれに何か超能力じゃないけれども、特殊な能力というものがあって、この仏像を拝んでりゃ、
何か御利益がある、何だか分んないんですね。とにかく、国宝だか何だか知らないけど、御本尊様って
のを拝めぱ、願いごとが叶うとこう考えているわけなんです。
またある神社でも、神社には御神体というのがあるんです。御神体を祭っています。御神体って何かと
言うとね、ふた開けて見たら、ただの石ころが入ってるわけなんですね。「石ころじゃないか」と
「こんな石ころに、何の御利益があるんですか。」と聞くと、「いやあこれに、この御神体に御魂(みたま)
を入れてあります。御魂を鎮めてありますから。これが効くんです。」とこうおっしゃるわけなんですね。
石ころなんかに、あなた、神様が入るわけがないんです。石ころなんかに宿るようなものは、もう本当に
低級霊です。低級霊はありますよ。物に執われた霊ですね。これは、古い建造物、古い仏壇、墓石なんか、
こんなものは一杯霊がかかってますよ。物にかかる霊、こんなのは、地上に執着のある霊たちです。
殆どそうです。執着のある霊たち、石ころなんかにあなた、河原なんかで拾ってきた石ころなんかに、
何で神様が宿るんですか。この辺が間違っているんですね、ものの考え方が。』
■対象がないと祈れない人間の弱さ
『別に私は神社が悪いとは言ってませんよ。まあ、人間、何か対象がないと祈れない、これが人間の
弱さなんです。本来、そういうもんじゃない。本来、そういうもんじゃない。神様っていうのは、
他次元世界にあって、心と心で同通するもんなんだけれど、それが技術的にできないもんだから、
「何でもいいから」と日蓮宗で言えば曼陀羅はとにかく尊いんだっちゅうわけで、曼陀羅に向って
お題目を上げたり、まあ、他にも色々ありますわね。中には日蓮宗系のある人は、生きてる会長さんの
写真を飾って、線香立て、蝋燭立て、会長さんを拝んでいる。あの世じゃなくて、この世の人の写真を
飾ってね、拝んだりしている。まあ、こんなことやっているわけですよ。要するに、人間というのは、
どうしてもそういうふうに、何か拝む対象が、欲しい。 まだ、これは決して現代人だけを批判できる
わけじゃないんですよ。モーゼの十戒と言って、有名なんですけれども、ああいう十戒を神から頂いて、
それは本当は人間の生きていく心の指針なんですけれど、それだけでなくて、モーゼは、小羊を
屠るっていいますかね、殺して血を流してヤーヴェの神に捧げる、こういうことをやっています。
これは、小羊を裂くっていうのは昔のそのユダヤの伝承的な、伝承的っていうか、土俗の信仰のやり方
でもあったわけですけれどもこういうことを、真の神が要求するわけがないんです。そうでしょう。
実際そうですよ。それは、何かおかしな信仰が入っているわけです。こういうふうに、神様、仏様が
供物を欲しがるとか、生贄(いけにえ)を欲しがるとかそういうことをすれば、今度は御利益がある
とか、こういう物の考え方、これは日本だけじゃなくて、世界中に残っている考え方です。しかし、
これを徹底的に疑問を追究しなくちゃいけないんです。じゃあ、何故、神様はお札買った人は守って
くれるんですか。神社でね、千円のお札、或いは、五百円のお守り、お金を出してぶら下げていたら、
何でその人を守ってくれるんですか。買わなかった人は守らないんですか。お札買わなかった人は、
善良に生きていても事故にあって、交通安全のお札ぶら下げときゃ、何やったって守ってくれるんですか。
神様って、そんなお金で、物事を判断するんですか。お金で支配される人ですか。そんなことないでしょう。
あなたが神様だったらどうですか。あなたのお名前書いたお札(ふだ)、五百円のお札を買ってる人は、
ずっと守ってあげて、あなたのお札を買わなかった人、貧しくて五百円も出せないような善良な心をした人、
こういう人を交通事故に遭(あ)わせて、「なんで、私のお札を買わんのだ。」こういうことを言います
でしょうか。言わないでしょうね。神様は、銭、金じゃありません。また、神様っていう人は、拝まれて、
それで御利益を与えるような人でもないんです。』
■本当の御利益の意味
『本当の御利益っていうのは、自分自身の心を創って、自分自身の心を神の心と同通させてはじめて、
神としての力、本来なる神の力、神聖なる力というのが働いてくるんです。これ以外にないんです。
何の修行もしないで、何の心構えもなく、ただ、お金払ってお賽銭(さいせん)を投げたり、或いは、
お守りを買ったり、お札を買ったりして、これで救われるんじゃないんです。もちろん、例外はあります。
私は公平な立場から例外の話をしております。もちろん、低級な霊たち、動物霊は、何とか神社のお札
とかね、こういうもので感応することがあるんです。それは原則、ありますから、私は言っておきます。
そういう動物霊たちは、たわいもない霊たちは、お札見せられたら、「こういうものには、力がある
もんだ。」と思って、自己催眠を掛けちゃって、ここの家には何かお札が張ってあるから、ここはあまり
行けないとか、霊たちが自己催眠掛けちゃって行けないことがあるんですよ。こういうこと、ないとは
言いません。何とかのお寺が守っているから駄目だとか、そういうことがないとは言いません。
それともう一つ、神社仏閣の中でも、そこを経営というか、管理している人たち、お坊さんが、本当の
高徳の人、徳の高いお坊さん、或いは、徳の高い神主さんでね、その神社や仏閣が、本当に一つの聖域
になっている場合、心と行いが調和されて非常に素晴しい聖域になっている場合があります。
そういうとこも、ないとは言えません。世の中には、そういうとこもあります。その住職なり、神主さんが、
非常に心が調和されて、お弟子さんたちも、神の心にかなった生活をしている。そうすれば、その
信徒たち或いは、檀家の人たち、こういう人たちだって何らかの力を受けるのは当然です。
そういう意味で、高い神域にある、神社仏閣、こういう所で力が無いとは言いません。こういう
人たちのやっていることであれば、もちろん、地獄霊たちを撥(はね)つけるような、そういう
力がないとは言いません。けれど、こういうのは例外です。末法の世の中には、お寺や神主さんで、
お寺や神社で、生きている人間を、悪霊から守れる力を持っている、それは殆どありません。
原則として、ないと思って結構です。ですからいいですか。私が言いたいのは、神社回りをしたり、
或いは、仏閣回りをしたことによって、人間は救われるわけじゃないということです。
まあ、奈良かどっか、知らないけれども、三重県だか、奈良か知らないけれども、ポックリ寺とかいうの
があって、六十歳過ぎたら、そこへ行って、ポックリ寺へ毎年行って、よく願いを込めれば、
ポックリとあの世へ引っぱっていってくれると、そればっかりがもう人生の生甲斐になって、
ポックリ死にたいとそればっかりを願って行ってる人もいます。ポックリ死ぬぐらい簡単なもんです。
一億円ぐらい保険金かけといて、どっかへ飛び込みやぁポックリいきます。そうでなくて、
「いや、そんな血腥(ちなまぐさ)いこと、私は嫌です。綺麗に死にたいんです。」と言って、
死に方の欲が色々でるわけです。私は死に方が良くなかったけれどまあ、死に方は色々ですけれど、
死んでから後が問題であって、死に様がどうってことないんです。畳の上で死ねないかどうかっていう
のはありますけれど。それだけじゃありません。まあ、死んでから後のことです。』
■本当の意味での他力とは何か
『そういうふうに、自分以外の力っていうのを誰でももちろん頼ってしまいます。親鸞の思想
なんていうのもありましたが、あれは、本当の他力ですね。他力信仰、他力本願。今は他力信仰とか、
他力本願というと、本当に悪いことのような価値判断があって、自力がいいような、日本語として
そういうニュアンスがあるから、まあ、親鸞さん、気の毒ですけれど、他力本願という考えがあります。
本当の意味での他力って何かっていうと、それは、本当の神っていうのを信じる、本当に信じきった時、
人間は十倍百倍の力が湧いてきます。ここのところを間違えたらいけないんです。いいですか、
他力信仰、他力本願といっても、単に財布の紐を緩めてお札を買ったり、お賽銭(さいせん)投げたりして
救われると思う他力信仰と、本当に、赤子が母親の乳を求めるように、お乳が欲しくてお母さんの膝に
駆け上がって、そして、乳を貪って吸うように、そういうように神を求めに求めた他力の信仰とが
あります。これは、単なる御利益信仰と違うんです。
ですから、私は他力が駄目だからといって、親鸞さんの教えが駄目だとは言っていません。
或いは、そういう意味での他力批判であれば、クリスチャンたちもほとんど引っ掛かっちゃうでしょう。
「イエス様、イエス様」って祈ってます。決して悪いとは言いません。私は、それは悪いとは言いません。
ただ、イエス様に自分の心が通じるためには、自分の心を創っていかなければいけないんです。自分の心を
創らずして、ただ「イエス様」と名前を呼びゃあ、救ってくれる、そういう考えは甘いです。ただ、
本当に、真剣に、あなた方が道を求めるようなつもりで、本当に、真剣に神を求めるような人である
ならばいいですが、もう、その大いなる神の慈悲、大いなる神の愛、大いなる神の叡智、こうしたものを
感じる場合があります。宗教家の中で。そういう時に、神の前に本当に小さくなった自分というものを
感じる時があるんです。 まあ、奈良の大仏さんであります。大仏様の前に立ってみると、人間というのは、
いかにも小さいですね。ああいう偉大な仏様の前に立ってみると、人間っていうのは、どれ程自分が小さいか、
ということを感じるんです。そして、神仏の前に、自分がいかに小さいかということを感じる時にはじめて、
人間は、謙虚さっていうものが出てくるんです。
ですから、本当の意味での、真実の意味での、他力論者っていうのは、決して御利益信仰ではないんです。
神の前に、神仏の前に、その小さな自分というものを投げ出して、赤裸に投げ出して、「神よ、こういう
私ですけど、どうか、あなたの御胸に抱いて下さい。神よこんな小さな私ですが、この小さな私ですが
あなたのために投げ出しますから、どうか、あなたの御自由にして下さい。」こういう純粋な思いで自分を
投げ出すのが、本当の意味での他力です。私は、これは否定は致しません。
こういうことは、あり得るでしょう。ただ、これは、真実、自分の小ささ、神の大きさを感じとったような
聖者にしてはじめて可能な他力信仰であって、通常の人はそうはいきません。鰯の頭も信心からというような、
普通のおばさんたち、漁村や農村のおばさんたちね、鰯の頭、信心したら御利益あるなんて言って
ポクポク何か叩いちゃってね、鰯の頭、信心してるような人たちには通じないんです。こういう言葉は、
こういう考え方は通じないんです。そういう大いなる神との相対的対坐という言葉は、とても通じ
ないんです。ですから、親鸞のような、パウロのような、偉大な人であってはじめて通じるんであって、
一般の人はなかなか無理です。或いは、修道院で修行したり、或いは、僧院で修行したり、本当の他力の
偉大さを知った人は、それは他力信仰で結構です。』
■自力の落し穴
『小さな自分というものを、自分の計らい心「自分で努力すりゃ救われる。」とかね、「あいつより
俺の方の修行が勝っているから、神様、俺の方をひいき目に見てくれるだろう。」と、こういうことを
批判しているのが、親鸞たちなんです。いいですか、これは正しいんですよ。
人間の道を求める心っていうのは量じゃないんです。質なんです。イエス様も言っています。
「先のものが後になり、後のものが先になる。」これは、長く修行をしたからと言って悟れるわけ
じゃないっていうことです。それぞれに永遠の転生輪廻を重ねてきた人たちですから、ある機会に
接すればね、突然悟る人もいるんです。突然に御仏(みほとけ)の弟子になる人もいるんです。
だから、そうじゃないんです。それを、いいですか、愚かな自力論者たちは、要するに、「自分は
これだけ修行をやったから、神仏のお誉めが愛(め)でたいんです。」ね、或いは、「比叡山で
二十年龍(こも)ったから、自分はもうすぐ神様の近くへ行けるんだ。」こう思ってしまうんです。
親鸞なんかは、徹底的にそういう偽善というのを憎んだ人ですから、親鸞というのは、そういう偽善、
「自分は、何万巻お経を読んだから人より優れているから、神仏に救われる。」とか、「人より朝早く
起きて、雑巾掛けしているから、神様の点救が高い。」とか、こんなことを思う人を徹底的に嫌った
わけですね。そういう人間心で悟れるわけじゃない。そんな人間心で救われるわけじゃない。御仏
(みほとけ)の、阿弥陀仏(あみだぶつ)の心というのはもっと広いものだ。もっと大いなる、無限大です。
神対人間というのは、無限大対一ぐらいの開きがあるんです。そんな大きな阿弥陀の心で比べて、
人間は何故、そんな計らい心で救われる必要がありますか。そういう計らい心を捨てて帰依しましょう。
本当に阿弥陀様を信仰しましょう。これが、親鸞の気持ちです。 ですから、こういう他力は、また
違います。また、自力の悪いところをハッキリと突いています。あなた方、ともすればね、「自力、
自力、自力ですよ。」と言えば、反省を三年やったから、五年やったら、十年やったから、或いは、
内観を朝から晩までやったから、十五時間やりました、八時間やりました。私は一週間やりました。
二週間やりました。こんなふうなことで競うようになるんです。或いは、霊視が効くようになるために、
一日中寝そべって、布団の上に寝て、「何か見えるように、何か見えるように。」そして一日中お題目
唱えて目をつぶって、眉間を睨んで、「何か見えてきませんか。」とか、こんなバカなこと、言う人が
だんだんに出てくるんです。何も悟っていません。こんな自力論者、決して悟っていません。
こういうふうに、要するに、形に執われているんです。自力も形に執われ、その量に執われ、或いは、
他人との比較に執われた時、大変な落し穴に入ってしまいます。ですから、他力も自力も、どちらも
落し穴があるし、どちらも真実を突いているところがあります。』
319 :
神も仏も名無しさん:2010/01/10(日) 17:26:57 ID:9HebPMtR
おいおい『静かなる荒らしさん』よ〜
他スレ逝けよな〜
ここはGLAに対する不満の捌け口じゃねんだよ〜
退会者がマタ〜リと語るスレなんだよ〜
お・わ・か・り?
321 :
神も仏も名無しさん:2010/01/10(日) 20:55:07 ID:uIABnIcB
318 以下
どうでもいいような事柄を大袈裟に騒いでいるだけ
誰にでも創作可能な程度の内容である
結局私はとてつもなく大きな存在
対する皆さんはとても小さな存在
であるという認識を深めさせるカルトマイコンだね
そう考えると同質かもな
■複雑に悩む現代人の悩みの解決法
『ですから、私はこれから一番間違いの少ない、少なくともハ割の人に通用するような考え方
というのをご披露したいと思うんです。やはり、さっきの鰯の頭も信心からじゃありませんけれども、
単に、要するに、何とか様の名前を唱えたら救われる、或いは、イエス様の名前、唱えたら救われる、
こういう考えでは人間は救われません。
原始時代ならいいですよ。原始時代で、何にも知らないで、石斧でトナカイの頭でも叩(たた)いて、
それを料理して食べてる時代は、何も知識もないから、誰か偉い人がいて、「イエス様」って言えば
救われる。それでいいんです。現代みたいな、あなた、こんな複雑な世界で、「イエス様」って
言っただけでね、救われるって、そんな単純じゃありませんよ、あなた。人間の心も複雑ですから、
複雑に人間も迷っているんです。単純に迷ってないんです。昔なら、雨が続いて、獲物がとれない
からとか、そんな悩みがあったわけです。獲物がとれないとか、雨が降らないために、作物が実らない
とか、こういうことが、叶わなくて神仏に祈ったりするようなことがありました。
ところが、現代人は複雑に悩むんです。ある時は、コンピューターが入って、「私はコンピューター、
習ってないから。」テクノ・ストレスと言って機械についてのアレルギーで悩んじゃったりして、
こういう悩みもあるんです。その時、「ああ、イエス様、私のテクノ・ストレスを救って下さい。」
「私のコンピューター嫌いを治して下さい。」と言ったって、治りゃしないです。イエス様に祈った
って治らないです。イエス様、コンピューター、知らないです。分らないです。全然分らないです。
イエス様、コンピューター、嫌いです。祈ったって無理です。そんなもんじゃないんです。この悩みを
解決するのは単純です。自分でコンピューターの勉強すればいいんです。コンピューター学校に行って
勉強するか、或いは、コンピューターの要らない仕事に入るか、どっちかなんです。そしたら悩みは
なくなるんです。こんなもんです。だから、他力っていうのも単純な世界では通じるけれども、
現代ではなかなか通じません。そういうふうに人間というのは、まず、自分自身でその悩みの元凶を
調べて、徹底的にそれを追究していくんですね。まず、悩みの原因そして、その結果、これを徹底的に
追究していくことであります。
例えばですよ、あなたがある若い美しい女性だとする、何かをあなたが悩んでいるとする、大体何を
悩むか、もう大体解ります。普通の人なら大体分るわけですよ。普通の人は、あのう、若い美しい
女性だという前提ですよ、とすると、例えば、「私はいい人を見つけて嫁に行くべきか、嫁に行か
ないとするならば、一生の職業をもつかもたないか、そういう職業でうまくいくか、いかないか。」とか、
或いは、「親がどうこう言う。」とかね、「妹に先を越される。」とか、大体こんなもんですよ。人間の
悩みなんて決まってるんですよ。それで、そういう悩みをどうしたらいいかと、あれこれと考えるわけです。
そうすると、まあ、自分で考えるというのも一つだし、自分の頼りになる人、友達、先輩、或いは、
親戚、或いは、恩師、こういう人に相談するのも一つです。こういう人で頼りになる人が多い人は本当に
救われます。けれども、普通の人間は、そう頼りになる人はいないわけです。そういう意味において、
そういう理想的な相談相手がいない場合に、自分自身で考えなきゃいけない。そして、何故、それが悩み
なのかを考えてみる。例えば、自分はどうしても結婚したいと思う。結婚したいけれども相子がいない、
これで悩む。ところが、結婚の相手がいても悩んでいる人がいるわけです。相手がいても、「この人と
結婚して本当に幸せになれるかどうか。」まだ結婚してもいないのに悩んでるわけです。
結婚したらしたで、「この人と一生、一緒にやっていけるだろうか。」悩んでるわけですね。で、
子供ができたら、「子供が本当に大学入れるまで、この人勤めてくれるのだろうか。」或いは子供が
一人できたら、「もしかして、子供が三人ぐらいできて、この人の給料じゃ、三人も大学出せないん
じゃないだろうか、その上、私は頭が悪いから、この子は国立に行けないかもしれない。」もう
生まれた時に、二十年後の心配をしている。いくらでも悩みはあるんです。だから今のあなたの悩みを
考えてもその悩みがなくなったとしても、また別の悩みが出てくる。ですから、人生はある意味において
悩みの連続であります。この悩みを「イエス様」と言って救われるか、阿弥陀様と言って救われるか、
救われないです。人間というのは、何十年という人生を生きていく過程において、必ず、いろんな疑問、
悩みに突き当たるようにできているんです。これがなければ、人間は進歩というのがないんです。悩みと
対決して進歩していく、そういうふうにできているんです。人生っていうのは、疑問の追究、そして、
悩みの解決、こういうことになっているんです。この悩みが幾つも出てくるんです。何十も何百も、
人生っていうのは出てくる…。これを自分でね、四つ相撲ですよ。がっぷり四つに組んで解決していく。
こういうことを神様から教えられているんです。』
■原則として人生は自力で問題を解決してゆきなさい
『日蓮聖人の霊言集がありまして、あの中でいいことを言ってますよ、日蓮さん。「人生は一冊の
問題集である。」いいこと言ってますね。私よりはいいこと知ってますよ。一冊の問題集なんだそうです。
だから、いいですか、「アーメン」なんて言って、答えを求めてはいけないんです。自分で解きなさいと
いうことなんです。還ってきたら、点数が分るから、あってるかどうか、一冊の問題集です。だから、
それが悩みだということですね。ですから、問題集を与えられているんですから、皆さん、これを
解いていかなきゃいけないんです。自分で解くんですよ。答えを見せられてあなた、こうだっていうのは、
これは横着ですよ。自分で解いていく、そういう意味で自力です。人生っていうのは、一冊の問題集
ですから、自分で解くんですよ。だから、あなた他力ってあり得ないじゃないですか。自力ですよ。
問題集で勉強するんですよ。自分で答え書かなければ、誰が書くんですか。家庭教師が居て、
「先生、第一問目が分りません。」「これは答えはAですよ。」「先生、何も意味が分りません。」
「答えはBですよ。」あなた、これで勉強になりますか。ならないでしょう。だから、それは、人生に
対する取り組み方ですね。人生を何と考えるかです。人生を一冊の問題集、神から与えられた問題集と
考えるならば、答えを解くのは、問題を解くのは、自分自身です。これは、自力以外あり得ないんです。
だから試験問題解いていてね、あの記述式はわかんなければ書けないけれど、記号式もあるわけですよ、
人生の中には。記号式の開題も、そういう時には自分で考えて答えが出る場合と、いくら考えても
わかんない場合がある。いくら考えても分らん場合は、エンピツを転がして丸をつける、こういうこと
もあります。こういうことは、他力的瞬間でしょう、人生におけるこういうこともあります。そして、
たまたま、それが合って合格できる場合もあるし、それがはずれて不合格になることもあります。
そういうこともありますよ。入学試験なんか現に、その、まぐれスレスレで合格する人なんか皆、
そうですよ。合否スレスレの人は、たまたま合ったのと、たまたまハズレたのがあって、落ちたり
受かったりしてるんです。ただね、それはボーダーライン、スレスレの実力を持っている人のこと
であって、本来は、そういうまぐれが当らなくても、いいですか、自分の頭で考えて解いて、合格
できるようにならなきゃいかんのです。スレスレ合格狙っているからそうなるんです。どんな試験
受けたって、受かるぐらいの実力をつけなさいと。まず、これが先決なんです。
それを「いやあ、スレスレでも受かりゃいい。」とエンピツ転がして、それをどう当てるか、コックリさん
で当てるか、イエス様で当てるかなんてやってるわけなんです。そんなんじゃ駄目だっていうことです。
だから、テクニックとしての他力もあるけれども、原則は、問題は自分で解きなさい。こういうことです。
これは、自力の意味です。それで、その時に、いいですか、正しい心構えで生きて、常々、神仏を思って
いると、何故か正しい答えが浮かぶ場合もありますよ。そういう意味での他力的思考も考えてみなさいと、
こういうことです。だから、私が自力と他力と言っているのは、原則として、人生は自力で問題を解決して
いきなさいということです。』
■自力あってこその他力である
『ただ、その中で、行き詰まることもあります。そういう時に、偉大な他力の光明が人々を救ってくれる
ことがあります。それが何かっていうと、心の窓を開いた時です。あなた方、反省というもの、
反省瞑想というのを続けていきますと、次第に、心の曇りが晴れてきます。そして、神の偉大な光が
心に射してきます。こういう時に、いろんな啓示というのが与えられます。これは、自分から求めて
与えられるもんじゃありません。まず、自分の心の曇りを晴らして、スモッグを取り除いてはじめて
神の光が入ってきます。そうすると、そういうふうに心が澄んできた人は、あの世からのインスピ
レーションというのを受け易くなるんです。これは他力です。インスピレーションは、自力じゃありません。
ですから、不思議なことに、他力を求めた人には他力は与えられず、自力を一生懸命磨いた人に他力が
与えられるんです。皮肉ながらそうなんです。だから、自力によって生きた人が、インスピレーション
によって、本当に自分がとるべき道というものを与えられていきます。結局そういうことで、本当に
人間は、道を求めた時に、初めて他力の光明がその人を救ってくれるんです。何でもそうなんです。
それをあなた、最初から、いいですか、何も修行もしないでね、「高橋先生、御願いします。私はどう
したらいいんでしょうか。」「あ、先生は口がないんですか。じゃ、私が消しゴムを六角に切ってね、
サイコロに切って目をつけます。一から六番まで目をつけますから、これで出た数字で、これで占います
から、先生、頼みますよ。」「ナム、高橋先生、できたらこの番号で教えて下さい。」で、あなた、
選択枝六つ位書いといて、その番号出たらそれにするなんてやって、こんなんで絶対救われるわけないんです。
結局、そうなんですよ。 だから皮肉だけど、神の真理っていうのは一緒で、本当に一生懸命自力で
やっていると、他力が助けてくれる。他力だけを求めても、他力は助けてくれない。これは、先程の
問題集に返ると、まあ、受験ということで、皆さん、問題集解かれるでしょう。そして、幾つかの
問題集解かれて、正解と自分の解答合わせて、そして、間違ってたり、合ってたりする。ところが、
問題集で解いているのと同じ問題は、入試問題に普通は出ません。けれども、問題集、しっかり解いて
いる人は、違う問題であっても、何故か、いいですか、できるんです。できるようになってくるんです。
一生懸命問題やってると、違う問題でもできるようになってくる。そうすれば、違う問題でも解いていると、
だんだん、推理力が働いて、その答えが浮かんでくるようになる。自力と他力はこんなもんなんです。
問題集を数多く解いてると、だんだんに、他の問題でも類推が効いてくる。そして、分ってくるようになる。
これが、類推が効くってことが、いわゆる他力なんです。インスピレーションの部分なんです。
こういうふうに、あなた方の人生っていうのも、基本的組み立ては、やはり、ハ割自力、二割他力、
このつもりで行って下さい。これが一番間違いのない方向だと、私は思います。』
■偉大なる他力を知った時、謙虚さが生まれる
『それと、まあ、もう一つ話しておくと、まず、それで、自力で壁を突き破った人は、まだ自力に
執われているところがあるんです。本当言うと、自分が反省して、そういうふうな道を得られたら、
また、他の人にも反省、反省ということを言いますけれども、それだけじゃないんです。本当は、
自力反省だけでは悟れないんです。本当は。そして、あなたが、今度は、高級霊たちと話しはじめて、
自分の小ささっていうのをだんだん悟ってきます。そして、謙虚になってきます。謙虚になってくると、
他の人にあまり偉そうに言えなくなってきます。これが、自力から他力への移行の部分なんです。
皆、これを通るんです。これを通らないで、本当の信仰ってあり得ないんです。まず、自力で
優れた人間となっていく。優れた人間になったと思うと、もっと優れた人が出てきて、「おまえなんか、
全然駄目だ。」とペシャンコにされてしまう。こうして初めて、謙虚になってきます。そうすると、
回りの人に対して慈悲深く、優しく、なってくるんです。偉大なる者の前で、自分の小ささというのを
感じると、慈悲深くなってくるのです。相談に来た人に、「あなただって、悩むの当然ね。」と、
そしたら、回りの人は、「あら、ま、あれ程、自力天狗の先生が急に優しくなってきた、やっぱり、
先生悟られたに違いないわね。」こうなってくるんです。これが "実る程頭(こうべ)を垂れる稲穂かな″
っていうのは、このことを言うんです。分りますか。
まず、実り、要するに、稲の穂としては、しっかり実をつける必要があります。これは、自力です。
それで、自力でいっぱい実ってくると、頭がだんだん垂れてくるんです。謙虚になってくるんです。
その謙虚になった姿っていうのが、偉大なる他力を知った時です。これからのあなた方も、 "実る程頭を
垂れる稲穂かな″これでいきなさい。実りをつけるのは自力です。そして、自力で実りがついてくると、
だんだん自らを低くしていきます。謙虚になっていきます。この時に始めて、大いなる太陽の恵みに
対して、感謝してる稲穂としての、あなた方の姿があるはずです。』