>>471耄碌隠居(6)
>そこには論理はない。
当然だろう。言語論理以前に実体なるものはない(無分別)。3.の返答参照。
>クリスチャンのパスカルなどを持ち出す?
→智慧(無分別智)による直覚であって、そこには主客相対はない。
左脳言語論理(パスカル的幾何学的精神)という世間のモノサシでしか見ない(我執による)耄碌隠居に
わかりやすく対比するため「あえて」かいた。
これでおぼろげながらでも触れえないなら、直覚力が欠如しており、「頭が非常に悪」いといわざるをえない。
>種属としての生命の維持のために共通の肉体的本能
ゴータマはシャーキャ族の王位後継者の地位を捨て、次の世継ラーフラをもうけ、責任を果たしたのだ。
ラーフラは将来のシャーキャ族の王として育成されるのだ。あの当時、家族には困ったことが多いにしても、
出家自体は賞賛されこそすれ、非難されるべきものではなかったのだ。
現代世間のモノサシでしか見ないものの謬論。現代の貧乏人のモノサシで計るな。
>最大の悪業をなしている。
仏教において、世間的善悪、道徳、倫理などに意味・価値はない。実体はないからだ。
本来、分けなくともいいもの(無分別)を分け、意味のない(空)ものに意味付け、価値のない(空)ものを価値判断するのが世間のモノサシであって、
世間の凡人はその我執で苦しんでいる。
そういった世間(此岸)的モノサシをいったん捨てよ、というのが仏教だ(→到彼岸)。
しかも、そういった「出世間」のまなざしで、もういちど世間の只中で、慶安に生き直せというのがブッダの教えだよ。
不生不滅、安心せよ、何があっても大丈夫!