>>719 本当は、そうした「涅槃自体への考察」でなく、
その手前の「理(おしえ、四諦・縁起)」と「行(実践、八正道)」こそが重要なんだけどね・・。
だから、仏典には、涅槃自体のことよりも、その手前のことが多く書かれている。
或いは、「手前までのことを詳細に語ることで涅槃自体を語る」ような・・・。
語り(方)に関しても、涅槃自体に関しても、卑俗な喩えをすれば、
『ドーナツを作ることによってドーナツの穴を顕現させる(示す)』みたいなw
(※だから、無時間的であり、論理的相依関係(→同義)として、「苦の滅直ちに(≒即ち)涅槃」という関係性となる。)
だから、以前引用した「田上の(若き)論文」や、禅の語録・公案の「国師良久」「外道問仏」が出てきたりする。
《「こういうことだよ」と、実際に目の前に存在してあげることで辛うじて提示しうる》みたいな・・。
※ドーナツや、この2行は眉唾で聞いといてくれw
ただ、言語化困難であり、実際に提示するしかなく、また実際に体験(追体験)するしかないという点は、
(外してないw)、大きな特徴だろうと思う。
ふむ・・、雑すぎるな・・・w
あとは、縁起馬鹿にでも聞いてみてくれw