>>718 アートマンスレの8か。
初めから読み返してみたよ。俺がガラにもなく、形而上的な認識論を書き込んでた
のを見て、懐かしかった。ほんの数ヶ月前のことなのに、大分、昔のことの
ように思えたな。
「涅槃」については、セブンの書き込みを見て、俺なりに「頷く」ところは
あった。
うまく言えないが、涅槃とは「その境地に達するもの」「それを認識するもの」
は、誰なのか? この問い自体が成立しないのだろう。
この問い自体が、二項相対に基ずくものであり、であるならば無常となり
涅槃足りえない。 すなわち、「全能なる存在」という表現と同じように
それ自体に論理矛盾を内包して自己否定しまうことになるわけだ。
「涅槃」と「涅槃に入るもの」 これを「行為(或いは
現象)」と「その主体」という捉え方自体が、成立しない。
その認識は相依性によるものであり、よって縁起によるものとなってしまい、
すなわち「涅槃の否定」へと帰結することになる。
つまり、「涅槃に達する」「解脱する」ものはいても、
「涅槃に達した瞬間」「解脱した瞬間」に「その主体は存在しない」ことになる。
(何故ならば、そのような主体が存在するならば涅槃足りえない)
もちろん、これは解脱したら、「その者の肉体が消滅する」ことを意味しているのでは
ない。あくまでも「認識と認識主体」に関しての形而上的考察である。
うまく言えないが「非存在の存在」とでも言うものか?
もちろん俺自身が解脱したわけではないから、以上は当然、俺の推測、
または妄想と言っても良い。しかし、今は、なんとなく「そんなものなのか?」
という思いはある。