【最終】輪廻転生説はどう扱うべきか!?【決着】1

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8416/6 セブン

蛇足:

《仏教が認識論であり、「当人にとって、どのように認識されるか(=受け止められるか)」》 であるなら、
そして、
《「輪廻(及び転生)」が、「当人の自覚として」、「過去世の業果を受けている」と、
 「当人に於いて」「認識される」もの》 であるなら、
《そのように見做され、区分され、分別され、認識される事象
 (―それは、世俗的言辞で「輪廻(或いは転生)」と称される事象であるが―)は、
 「その人にとってのみ」「輪廻」であり「転生」であり「懺悔の由」であり「発奮・菩提心のきっかけ」》であろう。
《「その人以外にとっては」、その事象は「全く違う見え方」をし、「違う受け止められ方」をし、「違う意味」を持とう。》
そして、《「その事象の真の姿(≒在り様)」に於いて、これのみが正しい、ということはない》であろう。
それが、認識論と評した場合の限界であろう? この時、「勝義という括り」もまた力を失う。
所詮、当人にとってのみの勝義なのだから・・・。

そして、
《三世に跨った輪廻及び転生が抵触するのは、
 まさにここを逸脱し、『当人以外に適用されている』という点なわけだ。
 しかも『問答無用(≒当人の自覚無視!)に適用される』という点なわけだ。》
とてもじゃないが、「認識論だ!」なんて言えないと思いますがね・・・。

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十分に推敲・構成はできてないが、大筋は示せてるんじゃなかろうか・・・。