だから、「仏教という枠組み」の重要性、場面場面で(議論に於いて、或いは解説に於いて或いは法話に於いて)
それがどの程度の拘束力で効いているのか(→《話の中で、どの程度まで効かせていくのか》)
の見極めが重要なのだ。 そして、仏教の枠外との対話が生じた時、
話者は「自身のスタンス」と「言葉の選び方」を、望むと望まざるとに関わらず問われることになる。
自分が用いようと思っている枠組み・前提が、今臨んでいる現場に於いて通用するのかどうかの見極めを・・・。
(ここを間違えると、以降どれだけ言葉を重ねても、修復困難が予想される。)
話者は、仏教の枠内で通用することを援用する際に、その話術を問われることになる。
それが、相手の枠内でもまた通用するのかどうか。相反する場合どうするか。
10氏や他何人かが問うているのは、まさにこの部分なわけだ。
仏教と無関係な者も輪廻し転生するなら、仏教の枠を越えて語ることが可能でなければならない。
また、現に、《神智学の枠内での輪廻(及び転生)は、【仏教のそれと大きく異なっている!】》
《仏教の枠内の者は仏教的に転生し、神智学の枠内の者は神智学的に転生する》、ということか?
それは、どうにも不自然だ・・・w
自身の意識(の存在)とラッシュアワーの人の流れとの間に、さしたる違いはない。
そして、更に蛇足を加えるなら、
『三世に跨らない方が、業報思想(業報論)はその完成度を高める(完成形となる)』と私は考えている。