事象の連鎖に断裂が見られた時、その時初めて「断滅」「断見」となるが、“世界”はそうではない。
“世界”は間断なく繋がっている(連鎖している)。
《「如実に見る時」「そこに“常”も“”断」もない》と言われる時、それはまさしくその通りであろう。
逆に、「輪廻を(転生を)認めなければ断滅となる」と言う時、それは、
《『断滅する何ものか』が、そこに想定されている》。
→ ≪いったい、【何が】断滅なのか(断滅するのか)?≫
→ ≪【断滅してはならない何ものか】が断滅する思想・考え方・見解だから批判されるのならば、
【それは何か】? そして、それは【恒常的に存在する】ことを意味しないのか?≫
「心」と称しようが「識」と称しようが「霊魂」と称しようが「アートマン」と称しようが、「意識」と称しようが、何も変わらない。
【それらは(教義上・伝統上)継続せねばならないもの】だから、
【断滅せず】【継承され】【過去のデータは蓄積され続け】、
【「心」として、或いは「意識」として、【その在り様・要素・性質のまま!】存在し続ける】。
どなたかさんが、無常であり、変転している、そうした移相を言うかもしれないが、
おっとどっこいだ。 この変転の仕方である限り、(世俗的名称としての)ラベルが貼り替えられているだけで、
その中身は常住だよw だろ?w
「因により縁により諸法は生じ、また滅す」と言う時、「それを見、知り、頷く」時、
スパンの長さ(三世に跨るかどうか)は関係ない。
(寧ろ、そのスパンを過・現・未と区分すること自体が、如実に見ることに反する。
誰かさんが言った「輪廻は世俗のことである」「勝義にはない」という台詞にも見える通りだ。)
そして、「人の意識が、死によって(=肉体の壊滅によって)そこに生じなくなる」という
現代の(世俗の!)常識(≒知見)がまさしくその通りである“可能性w”は依然として残っている。
これを覆した聖者はいない筈だ。