だから、ここから先が分水嶺となる。(量子力学や相対性理論を言い出す者もいるがw)、
そこまで仔細な、専門的な領域に入らずとも、日常レベルでの名色の変異をどう受け止めるかという部分で。
(宝珠はつまみ食い的引用しかしないのでスルーとしてw)、沙門果経に述べられるように、
今、現象している(縁起している)この肉体(色)を離れての名或いは想・行・識はない。
このことの反例・反証は古代の文献(聖典)以外に存在しない。(宿命通も同じ。)
リアルに、如実に、自身の心身を観察して見えてくるのは「無常なる五蘊」「縁起する五蘊」だ。
勿論、インドの世界観、仏教の世界観として、「生成と破壊の繰り返し」「無始劫来の輪廻」があることは承知だ。
が、それは現代宇宙論や或いは科学、物理学等でも同じこと。
人が、始原を問うこと・辿りつく事の一歩手前で立ち止まる諦観はあろう。
しかし、【始原を問えない】からと言って、
「輪廻し、生まれ変わり、継続してゆく事象((更新されつつの)存在)」を想定する必要はあるまい?