私は、《単純に「無我と“輪廻(或いは転生)”が抵触する」》と言っているのではない。
それ(「輪廻と無我が抵触する場合」)は、
《輪廻(或いは転生)に際し、「業力を(或いは業果)継承する主体が想定されている場合」抵触する》ということだ。
※ 少なくともこれまでは『そうした“主体ありきの輪廻・転生”意見』にしか出会っていなかったし、
今でも、肯定論者の9割がそのスタンスだろう。 (そうでないのは極々一部だwww)
※※ 私が提示したのは、《寧ろ、「三世に跨った輪廻及び転生」こそが、「縁起」に(或いは因果律に)抵触するのではないか?》
ということ。(詳細は過去スレ。)
※※※ 宝珠がスレを建てるまで、私は「輪廻及び転生」を蚊帳の外に置いてきたし、必要な時に
「仏教ではこれこれこのように言われます」と触れるに留めてきたし、それで事足りてきた。
今後もそうするつもりだし、誰かさんは「それは世俗的方便だ」と評していたが、
輪廻自体が世俗の方便なんだろ?w 咎められる謂れもなかろう?w
ただ、誰かさん(AB或いはC)のおかげで、「厭離の基盤」であり「解脱の語義とのリンク」等を鑑みれば、
やはり適度に触れたほうが良いとも思った。そして、その時の「主体なき輪廻」についての語り口は、
幾つか自分で試みた分も含め、大変勉強になった。いい喩えにもいっぱい触れることができた。
その意味では、宝珠にも(!www)感謝に堪えないw
“主体を立てない輪廻(或いは転生)”に関しては、
勿論、《【仏教の枠内では】無矛盾であり整合性が取れている》と思っている。
(おそらく相手は10氏だったろうが)、稚拙ながら何度か解説もさせて貰った。