†宗教に依存した所で死後は平等なんだよ†

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109宝珠愚者
>>71
>ですが、「因果律」と、「善因善果と悪因悪果」は、全く別物です。
>なんで、「良い行為には良い結果が、悪い行為には悪い 結果が自己にもたらされる」と
>
>言えるのでしょうか?「因果律」には善悪の基準は含まれていません。
>よい行為に悪い結果が起きないという保障はなんなのでしょうか?
>そもそも、「善い悪い」の判断基準は、なんなのでしょうか?

 私は、これは非常に良い指摘であると思いました。確かに厳密には別物なのです。では、もう少し正
確に説明したいと思います。

 仏教の説く「業報輪廻の思想」というのは、実は二つの法則から成っているのです。一つは先に話し
た“原因と結果の法則”です。これ自体が完全な証明確認ができないものなのですが、しかし、10さん
からは「反例がない」という事実から、これについては10さんは認められるとのこと。了解しました!

 そして、もう一つというのは“作用と反作用の法則”というものです。物体に一定の押しの力を与える
と、それと同等の力で逆に押し返す力が生じるのです。もし物体に車を付ければ力のベクトル方位は
変わって、その物体は押された一方の方向へと移動します。私は物理科学に詳しくありませんが、これ
は「(ニュートンの)運動の第3法則」ともいうらしい。物理学者は物理的な現象についてこれを証明しま
した。更に宗教世界(非物理的認識の世界)においては、物理現象に限らずこの法則が作用している
ものと主張するのです。つまり、「善因善果と悪因悪果」の“同等の力が自分に返ってくる”という理論は
実にここにあるのです。ただし、これは簡単に証明確認ができないのです。時間的なスパーンが永い
場合には特に無理がある。それでも、あなたはこれを認められるかどうか?という話しなのです。「私は
結果確認が得られてからでなければ、これらの話しは断固として受け入れない」という人は、それも自
由です。そのような人は当然、業報輪廻は認めないでしょうから、どうぞ仏教を信奉しないで宜しいとい
うこと。
110宝珠愚者:2009/11/05(木) 12:03:38 ID:0adZi4c3
 もしも、「なるほど〜善因善果と悪因悪果は当然だ。自己の行為はそれ同等のものとして自分に返っ
てくるであろうし、そのようにして万人に平等に作用しているに違いない。でなければ、あらゆる善意と
善行の意味する価値がない」と考えられる人は、業報輪廻を受け入れられる人です。この法則が作用
する以上、生前の行為に基いて受けるべき果報がある限りは、死を以っても決して終わりにはならない、
と。

 “良い行為に悪い結果が起きない”ことを保証する見解というのは、先に説明した通りです。“作用と反
作用の法則”から見て有り得ないからなのです。同等の力で返ってくるという意味は、あくまでも善行に
は善果として、悪行には悪果として返ってくるというものです。
 善悪の基準は、人々の(勝手な)基準においては相対的なので一様ではなく、人によっては善であり、
また別の人にとっては悪でも有得るものとなります。しかし、一つの根本的な基本としていえることは、
人間の意識の進化を阻害するような行為は「悪」であり、人の意識を進化向上させるものはすべて「善」
ということができるということ。これに照らして、当てハメテ考えてみる必要があります。

>例えば、強盗が家族を殺そうとした時に、家族を守るために強盗を傷つけるのは、
>どっちなんでしょうか? そして、その結果、どういう果が起こるのでしょうか?

 家族を殺そうとしている強盗は危害を加えようしているのですから、まさに悪行の典型でしょう。単に、
まだ思っているだけならば(実行はまだ)「意業」の範疇であり、実行動に移せば「身業」(言葉を発すれ
ば「口業」という)です。それぞれのレベルに応じた果報があるという。正当防衛は家族を護る行為であ
り(自分も含め)、それ自体は善行です。ただし、必要以上の過剰な攻撃を相手に与えるならば、立場
逆転で逆に危害を加えたことになり、それ相当の果報を受けるでしょう(理由付きにて情状酌量がある)。

 心配しなくても、自分がそれについて知る知らないに限らず、自己の行為の結果は正しく確実に返っ
てきます。