【最終】日本仏教はこのままでいいのか?!【決着】1

このエントリーをはてなブックマークに追加
843神も仏も名無しさん
>>836
なるほどね。
「悲(karuNA)」が受動的性格を持ち、「慈(mettA)」が能動的性格を持つ
という点にはほぼ同意する。
「悲」は、「相手の(対象の)状況を慮り、そこへ意識を向ける(念を起こす)」ことと言える。
「慈」は、「相手の(対象の)状況如何を問わず、TPOを問わず、向けられるもの」と言える。
その意味で、一方的に押し付けられるもののように見えるかもしれない。(貴方が文中に記したように・・。)
しかし、>>832で「視線」と評したように、まず、
《自らの「意」に於いて「心」に於いて、一切衆生への慈しみの視線を持つこと》が
「慈(悲)」を修するということじゃないのかい?
それは、決して“大きな御世話”“余計な御世話”ではない。
それが「行為として対象に施される時」、初めて適不適が問われることになる。
観音様は「大慈大悲父広大霊感観世音菩薩」と言われる。観音経では「慈眼をもって衆生を見る」と言われる。
勿論、万能救済の仏(菩薩)だから、具体的救済行為もセットだ。しかし、けっして行為だけではない。
その行為の源となる「慈しみの心、視線」を持っている菩薩ということだ。

「慈雨」という表現があるように、
《条件や状況を問わず、あらゆる存在へ注がれ続ける
 「柔らかな、より良き(善き)方向性(向上)を願い、祈る想い・視線・念」》が、慈というものであろう。
これが能動的要素でなく何だと言うのか?
《能動的「慈」》あってこその(働きとしての)利他行であろう?
無条件に注がれてこそ、大乗的慈悲であろう?
そしてそれは、原始仏教から(釈尊から)脈々と受け継がれている基本ラインだと私は思っている。