>>832は
>>830へ
>>833 そうだろうか?
仏教の、智慧としての究極は
《自身が「縁起するものである(五蘊仮和合の存在である・無常であり無我である)」と気付くこと、知ること、頷くこと》であろうと思うが、
自身がそうであれば、他者もまたそうであると見るし、(“奇跡的に”などと言うとむず痒いがw)、
誰しもが所縁によって顕現している唯一の命であることに向き合えば、そこに「慈悲」は必然として生じるものだ。
十分だろ?パーリ大般涅槃経を見れば、晩年の釈尊がいかに慈悲に溢れていたかよくわかる。
そして、その理由は「ヴェーサーリーは美しい(楽しい)」や「マッリカー王妃の逸話」(これは別箇所だが)等で十分だろ?
或いはまた、梵天勧請・初転法輪の動機のひとつとして見てもいい。 せっかくだから(w)伝えてみよう、と。
貴方が十牛図を引き合いに出したように、禅も、このベクトルを踏襲する。
(華厳的世界観があるにせよ)、「一無位の真人」も「無字(狗子の無仏性)」も
自身のことであると同時に、一切衆生もまた同じということだ。
縁起という世界観は、そのように一切の(分別可能な)価値観を無効化し、組直すものとなる。
そこに「平等」(区別あれども差別無し)が言い得るし、「普し慈悲」が現出する。
仏教の枠内でも十分だと思うがなぁ・・・。