○●Я親鸞仏教質問箱R(その6)●○

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36渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
五会法事讃略抄(専修寺蔵 親鸞聖人真筆)を読もう。

 正法能超出世間   正法楽 持戒坐禅を正法と名づく  念仏成仏これ真宗なり  仏言を取らざる
を外道と名づく 因果なしとの見を発すれば空となす

 正法はよく迷いの世間を超えて真理に至る。持戒坐禅を正法と言う。念仏で成仏するのが真実の
教えである。仏の言葉を無視することを外道と言う。ものごとに因果がないと主張すれば、これは空
見すなわち間違った考えである。

正法能超出世間   正法楽 禅律如何これ正法なり  念仏三昧これ真宗なり了心を見性せばすな
わち是仏なり いかんぞ道理相応せざらん 

 正法はよく迷いの世間を超えて真理に至る。禅の教え、律の教えはどうだろうか。これは、正法であ
る。念仏三昧は真宗である。このことが明らかに分かれば仏となる。道理はどこにも矛盾がない。

正法能超出世間 念仏は声声に仏種を下す 坐禅持戒は真功を用いてなり 汝若し修せずてすなわ
ち仏になるといはば 喩へば飢えたる人のひろく風を掩ふがごとし

 禅律では仏になれない。仏になる因は一声一声の念仏である。それでは、なぜ坐禅持戒を求めるの
か。それは真の効果を必要とするからだ。念仏だけすれば仏になると言って、坐禅持戒を疎かにすれ
ば、それは腹の空いた人が自分に向かって吹いてくる風を、腹の中に押し込めようとするものであり、
腹の足しにならないからである。腹をすかせた仏になって、どれだけの意味があるというのか。

 真の効果のない念仏でどうするの?。腹をすかせた仏になって、どれだけの意味があるというのか。
正しい法は、念仏成仏に実体的効果を付与するために必要なのである。
  
 親鸞も偏頗あるものと聞き候えば、力を尽くして、『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力』の文の心ども、
二河の譬喩なんどかきて、方々へ、人々に下して候も、みなそらごとになりて候と聞こえ候は、いかよ
うに勧められたるやらん、不可思議のことと聞き候こそ不便に候え。(消息)

 聖人がちからをつくして書いてくださった『五会法事讃略抄(親鸞見聞集)』を無駄にする
ようなことがあれば、浄土真宗本願寺派吉崎別院内 吉崎サポータはとても残念なことだ。