>>900 >あのですね、西洋論理と印度論理は全く別ものです。
果たしてそうでしょうか。私は「中論の頌」は、「もろもろの存在の『構成原理』」を
解明したものだと思います。万物は常に変動していますから、「時間」を考慮に入れる
とその「構成」は確定できません。「時間」とは、「事物の変化」のことです。
「今この刹那」における観察でなければなりません。
その結果、「もろもろの存在は、相対性によって構成されており、相対性とは関係性と
いう「抽象概念」ですから、そのもの固有の自性はない」ということを「発見」した
のです。中論に一貫して流れるのは、この「相対性」の観念です。「因果関係」とは、
似て非なる観念です。「相対性」とは、文字通り「お互いに影響しあう」ということ
です。「一方向の因果関係」では、「相対性」は成立しません。換言すれば、「個は、
他との関連においてのみ存在し得る」という原理です。
この「発見」は万物に通用しますから(すべての物質は、原子や素粒子の相対的結合
です)、「普遍の論理」であり、中論の頌をうまく翻訳すれば、西洋人にも充分理解
できるのではないでしょうか。古今東西、この原理を「発見」した宗教者や哲学者が
皆無だっただけです。
道元の「現成公案」も、竜樹に通じるのではないでしょうか。
ゼノンの「飛ぶ矢は飛ばない」の命題は、単に「刹那」を考えただけで、「相対性」の
概念はありませんから、竜樹のほうがはるかに優れています。
諸賢の、「従来の注釈書には頼らない」ご意見やご批判を請う次第です。