333 :
神も仏も名無しさん:2015/01/06(火) 01:58:01.50 ID:qQVyA59u
仏教だ経典だのを他人をぶったたく棒にして振り回す、
他人の言葉でもって虎の威を借る狐をやって2chでふんぞり返る
ここでバカやってる人、少しは恥を知ったら洞ですか?
335 :
神も仏も名無しさん:2015/01/06(火) 12:54:54.77 ID:6ymqrPvy
ここは教理問答の場だからネタを出す。
無門関1を借りて言うと、
無門の言う『内外打成一片』はじつは迷いでしかない。
まともに商量できる奴はいるのかな?
336 :
神も仏も名無しさん:2015/01/06(火) 13:34:22.63 ID:rX5rjB5j
>>335 テキストに添って知解すれば、迷いでなくそれが本来のありようで、
自然内外打成一片に導く方便として公案や提唱があるということでしょう
ただ、禅や公案としては上のような固定した知解、思想理解は全く意味なく、
実体験として這箇たれというか、そこを示すために色々非日常的な提唱をされる
でしょうが、そういうのをここでやっても意味、全くないし
そもそもここは中観なので、そろそろ禅や公案の話は終了すべきじゃないですか?
>>335 スレチだそうです。
話したい自分をなくしてひっこんでください。
力量あるひとだけができます。
338 :
神も仏も名無しさん:2015/01/06(火) 22:59:22.92 ID:6ymqrPvy
>>335>>336 なるほど、中観と禅(特に臨済禅)との関係は重大な問題だと思うが、スレ違い程度の問題意識か。
力量不足らしいので『ひっこんで』おこうw
そりゃ、
無位の真人・真実自己本来自己を、本質的我、真我、
或いは本来清浄な蔵された個の核(≒仏心・仏性・如来蔵)と読んだら、中観の対極になるからねw
重大問題かもしれんwww
延命十句(常楽我浄)も好まれてるしね。
340 :
神も仏も名無しさん:2015/01/06(火) 23:08:35.75 ID:6ymqrPvy
>>335 ところで、アナタは当然『内外打成一片』のなんたるかを直覚できているんだよね。
『内外打成』と『一片』は別問題だよ。
おそらく、趙州と無門は対極にある。
やっぱり、止めとこうw
341 :
神も仏も名無しさん:2015/01/07(水) 00:30:39.00 ID:k3ADVTQc
趙州と無門は対極と観るなら分別
全然ダメだな
342 :
神も仏も名無しさん:2015/01/07(水) 07:51:03.24 ID:iT91+C4w
>>341 >全然ダメだな
→『ここは教理問答の場だから』(
>>335)
『師云、問事即得(揀択)、礼拝退。』(趙州録103)
中論24-18が直覚できていないから、成りすましはトンチンカンに口をはさみたがる黄口児だ。
343 :
神も仏も名無しさん:2015/01/07(水) 16:19:13.51 ID:EyMqSw8t
>>342 >中論24-18が直覚できていないから、成りすましはトンチンカンに口をはさみたがる黄口児だ
単語に固定し、馬鹿の一つ覚えで「黄口児」がマイブームになる事に
仏は同意しないだろう
お前は好悪で分別して気に入った単語がマイブームになる癖がある
仏は言葉に意味を固定しない様に教えたであろう?
道元師の教論をもう一度精査してみろ
「○○とは」而して「こうだ」と断定しても「しかし」と必ず答えを翻してある
それが何故なのかお前は解っていない
344 :
神も仏も名無しさん:2015/01/07(水) 16:30:23.87 ID:+dPt+urH
>>342 お前は何かと他者を馬鹿にする、蔑まなきゃ居られない性分なのだろう
禅門の祖師達は確かに厳しく、愚か者には容赦なく叱咤したのも嘘では無いだろう
しかし、道理を弁えられないお前がそれを真似して他人を蔑む行為は、祖師たちの叱咤とは全く違う
祖師達は「同門」の「門弟」に厳しかったのであり、ここらに集う他人はお前の「門弟」ではない
だから散々お前は愚かだと言って来たわけだよ
三宝帰依する身を標榜するつもりなら、先ずその高飛車に他人を馬鹿にする性分を
仏道によって自制してから知識でも何でも誇示すればいい
道が正しく行けたら誇示もしない訳だがな
読書で悟りは啓けんぞ?
345 :
神も仏も名無しさん:2015/01/07(水) 20:13:07.05 ID:RGzporqk
まず、匿名掲示板では平等な立場で相手を敬って話さないといけない
次に明らかな誤りは認められないといけない
この二つができない人は、仏教以前に対話不能な人でしょう
仏教的には、悟った立場に立ってはいけない
聖典に根拠のあることしか、是非を争うことはできない
師でもないのに悟った立場に立って偉がるのは唯の我執でしょう
そしてそれに気づかないのは、ほとんど本人だけでしょう
全く裸の王様です
それからもう禅の話はやめませんか
禅は話しても無駄でしょう
347 :
神も仏も名無しさん:2015/01/07(水) 21:16:12.43 ID:RGzporqk
>>347 はい、そうですか
自分が絶対だと思ってる基準が誰もがそうは思わないことについて
思い至ることはできますか?
まあ皆さんが皆さんでそれぞれ正しいんですよ
自分の中、自分達の中ではね
でもみんなが「俺のようにしろ」では収集つかないでしょう
キリスト教みたいに世界の果てまで追いかけて違う人間をしたがわせますか?
仏教ってのはそういうもんでないと思いますね
一つの意見として
>>347 たまたま最後のレスだったので噛みついてしまいました
無礼をお許し下さい
他にとくに言うべき事はないのでこれで
351 :
神も仏も名無しさん:2015/01/07(水) 22:24:27.84 ID:RGzporqk
>>348 >自分が絶対だと思ってる基準が誰もがそうは思わないことについて
>思い至ることはできますか?
思えますし、自分の判断は対してあてにならないと思ってますよ。
ただ、異なる見方が単なるその人の思いだけでは、それを頷けません
説得力のある根拠が示されない限り無理ですね
>>349 >キリスト教みたいに世界の果てまで追いかけて違う人間をしたがわせますか?
>仏教ってのはそういうもんでないと思いますね
そうでしょう。
ですが、仏教では話すべき人と話すべきでない人というものが明確に説かれています。
それに添ったものと思いますよ。
>>350 いえいえ、珍しく真っ当な話すべき方だと思いました
352 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 02:58:17.13 ID:GQ0NhDSP
>>345 >聖典に根拠のあることしか、是非を争うことはできない
では釈尊は何れの聖典を根拠にしたのかな?
バラモンの聖典を根拠にしたかも知れんが
では釈尊はバラモンの奥義を悟って教えたのかな?
353 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 06:51:28.22 ID:FWXcoacO
>>352 >では釈尊は何れの聖典を根拠にしたのかな?
ブッダは色々仏教で例外なんですが、こういう時だけ釈尊になぞらえるのは仏教の伝統では異常ですよ。
ブッダはその教えが存続する世界に独りしか現われないとされます
仏教の諸聖者ですらブッダとは違う扱いです
アナタは聖者でしょうか?
聖者ですらなければ、仏教の伝統である聖典によるしかないでしょう。
諸仏教はそうしてきました。
不立文字の禅宗、特に公案などは例外的なものですよ。
そういう仏教的問題以前に聖典を基準にしたくないのは
単に自説と矛盾するからでしょう。
あるいは不立文字の禅宗と同じだというかもしれませんが、
不立文字の禅宗は修行した弟子に説くもので、ネットで自分語りするために説くものではありませんよ。
師弟間だけで成り立つ特別なものです。
それをエゴのために使うのは悪業積むだけです。
>では釈尊はバラモンの奥義を悟って教えたのかな?
ブッダも古い教えを教えると言っています。
古い教えは、当時の世間説の一つであるバラモンやシャモンの教えでなく
釈尊以前のブッダの教えのことです。
例えば七仏通戒偈などがそうです。
354 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 16:17:10.58 ID:3U+ewrmO
>>353 >そういう仏教的問題以前に聖典を基準にしたくないのは
聖典ではなく経典な
んで、経典は基準になっても物事は基準だけでは回らない
仏教経典が教えているのは釈尊と同じ立場に立った「歩みの方法と向う先とその理由」だけで
目的地に到着したあとの事は書いて居ない
地図の読み方眺め方をいくら精細に究めようと、仏道はそれじゃ成り立たない
釈尊がそうであったように実践以外に道はないのだよ
お前が経典研究などに嵌りこみ抜け出せなくなってる理由は他でも無い
説一切有部などが嵌って出られなくなった邪行に専念してしまってるからだ
>こういう時だけ釈尊になぞらえるのは仏教の伝統では異常ですよ。
仏道修行者は三宝に帰依している、所謂「仏・法・僧」だ
仏と言えば釈尊と、その教えから成れた仏たち、法と言えば甚深微妙の法
僧と言えば仏教を渡してくれた全ての人々、となる
仏教開祖の釈尊の動向を基準にするのは基本中の基本である
みんな大なり小なりそうしてきていて、知らないものだけがケチをつける
355 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 16:22:25.20 ID:3U+ewrmO
>>353 >釈尊以前のブッダの教えのことです。
>例えば七仏通戒偈などがそうです。
であれば、その釈尊以前の教えとやらは釈尊が語らねば始まらない訳だ
それなら
>こういう時だけ釈尊になぞらえるのは仏教の伝統では異常ですよ。
に矛盾する
古仏の教えは釈尊が語らねば資料が残って居ない
また、釈尊以外で釈尊に帰依して居ないものの資料は外道となる
外道だから用いては成らないとは言わない、が優先順位は遥かに下がる
経典を基準に研究などに嵌ってるものが良く陥る落とし穴もここにある
三宝帰依をしてないから何が大事かが良く分かってない事で起こるミスだ
356 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 16:43:28.94 ID:3U+ewrmO
さて、俺は三宝帰依が結局は大事なんだと言っている
では、釈尊の立てた三宝帰依とは何であったか?と言う矛盾に気付ければ道は正しく進めてると思われる
釈尊の場合の仏宝とは如来以外に無い
また、法宝も甚深微妙の如来の法となり
僧宝は全ての人々となる
つまり、釈尊の場合、全ての人が間違いを犯している故に悟れたのであり、
全ての人が教えてくれた事と異ならないのである
我々が内道と外道とに気を付ける理由もここにある
外道なら四顛倒を免れえず、内道なら釈尊の行いに沿わないものは邪儀となる
人から学べる事は所詮この程度であり、それ以外の全ての答えは自身に内在している
その自身内への立ち回りを教えているのが経典なのであり、経典に答えは書いて居ないのである
ところでID:FWXcoacO、今日の参禅は済んだのかな?
357 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 16:47:32.69 ID:Vr5f3Tn+
>>354 >目的地に到着したあとの事は書いて居ない
書いてある。
成りすましのアキメクラには<観えない>だけ。
それにしても、成りすましは分別三昧だけだなw
だから<観えない>。
358 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 16:48:41.14 ID:FWXcoacO
>>354 >聖典ではなく経典な
いやいや、経律論および諸聖者の教えを含むので聖典とよんだわけですよ。
じゃないと公案も入らないでしょ? アナタの立場を尊重してるのですよ。
>釈尊がそうであったように実践以外に道はないのだよ
ほんとにそう思うなら、ここに何か書いてどうするの?
行に専念すればいいだけでしょう?
そしてたとえ悟ってると思っていても、問われないのに何か言うというのは仏教ではない。
それは唯のエゴの自己顕示欲でしょう。
>仏教開祖の釈尊の動向を基準にするのは基本中の基本である
>みんな大なり小なりそうしてきていて、知らないものだけがケチをつける
もちろん、釈尊は基準ですが、ブッダだから例外的な面があるのです。
それこそ「知らないものだけがケチをつける」のでしょう?
359 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 16:49:58.15 ID:3U+ewrmO
誤解無きよう断っておくが、参禅とは坐禅を組む事のみを言うのではない
宗派によって行法は違う故に座禅だけが修行法と言う訳ではない
唱題行も参禅だし、称名念仏行も参禅なのである
方法は違えど、どれも禅定を目指して行い到る事に違いはない
この意味が未だに分からないものは道を踏み外していると言えよう
360 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 16:50:09.64 ID:FWXcoacO
>>355 >古仏の教えは釈尊が語らねば資料が残って居ない
>また、釈尊以外で釈尊に帰依して居ないものの資料は外道となる
いやはや公案のような言説を用いる時は、常識を超え、
こういった場合は正にマテリアルな文献学者並ですね。
これが自分は勝義だから何を説いても正しく、
他者には時には勝義から、時には常識から否定するという
無敵のヤクザ論法だと自覚されないのが、禅齧りの方々なのです。
>経典を基準に研究などに嵌ってるものが良く陥る落とし穴もここにある
>三宝帰依をしてないから何が大事かが良く分かってない事で起こるミスだ
いやいや、三宝帰依は少なくともアナタよりは深くしてると思いますよ。
アナタのような他人を否定したいために法を使う人が三宝帰依というのは、
これまた重い罪なので懺悔して僧である聖者に帰依し法を聞くことやり直した方がいいと思います。
で、いいかげんスレ違いですから辞めましょうね。
アナタの言葉が誰かの役にたつと思うのでしょうか?
私はまた同じ人だと分かったので終わりにしますよ。
私の行は禅じゃありません。それでも半年ほど山に篭ったこともありますよ。
361 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 18:17:31.48 ID:3U+ewrmO
>>358 公案は経典ではなく、論書に属す
論書は参考にして構わないものでも手本ではなく、あくまでも参考に過ぎない
仏道にとって大事な教書は経律論であり、順番もこの通り経律論なのである
そして禅師は聖者ではない、仏道に於いて言うならこの世界に聖者など居ない
>ほんとにそう思うなら、ここに何か書いてどうするの?
俺が書いて何か拙いのかね?
間違いを正して何か問題でも有ろうか
>それは唯のエゴの自己顕示欲でしょう。
自己紹介は不要だよ
お前は何が正しく何が間違っているかが分からない
だから俺の書くものが間違いに見えるのだよ
>ブッダだから例外的な面があるのです。
ブッダだろうが例外はない
神格化してしまったら涅槃を否定する事になる
涅槃は何人を以ってしても否定出来得ない事実だ
故に釈尊を神格化など出来はしない
>>357 >書いてある。
鵜呑みするのか?
>成りすましのアキメクラには<観えない>だけ。
三宝帰依の者はその様な侮蔑用語を用いない、お前は偽善三昧だからそれが分からないんだよ
362 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 18:19:50.63 ID:qGfarg9S
>>360 >アナタのような他人を否定したいために法を使う人が三宝帰依というのは、
俺は他人を否定して居ない
意見に不同意で間違いを指摘しているだけだ
お前は他人を否定したりするのか?
それこそ傲慢極まりないだろ
363 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 18:29:00.32 ID:qGfarg9S
>>360 >これが自分は勝義だから何を説いても正しく、
はて?「勝義だから」とは何ぞや?
おかしなことを言うなお前は
勝義や世俗義は立場か身分か何かだと思って居ないか?
勝義に立つ、とか戯言を言うものにどうして仏教が語れよう
仏教を語ろう・議論しようなどと嘯くものに、どうして仏の教えが理解できよう
仏の教えを理解できたなら勝義に立つとか訳の解らん世迷言は抜かさない
そして、仏への誤解、教えへの誤解を説き続けて何が悪かろう
仏は「勉強しつくせ」とは言っていない、「修行しろ」と教えたに過ぎないのである
364 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 18:45:04.66 ID:qGfarg9S
>>360 >私の行は禅じゃありません。それでも半年ほど山に篭ったこともありますよ。
誇示するのは結構だが、下山しても身勝手は直ってないな
禅とは禅宗のみを指すと思ってるなら勉強不足なんじゃないかな
禅宗は禅に特化しているだけに過ぎず、仏教全般は禅に漏れない
それは禅定を抜きに行ずる宗派が皆無だからだ
一体山で何をしてきたのか判ったもんじゃ無いなw
それと、お前の行為が如何に身勝手極まりないか書いておこう
>私はまた同じ人だと分かったので終わりにしますよ。
お前は自分の事と自分の気分の事しか重んじておらず、これをして身勝手だと言っておく
相手がどんな説を唱えようと、例え自分が気分を害す事であったとしても
仏の教えを捻じ曲げる事を書いてある限りは指摘して正すべきは僧宝の為にあろう
山に篭るはお前の勝手に過ぎない、それで人様の役に立つ訳ではない
365 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 18:55:19.10 ID:qGfarg9S
例えばである
題目や称名念仏などを俺は行わないが、禅宗の坐禅とそれらが「違うもの」に観えてるなら
そのものの修行は形だけのハリボテと言わざるを得ない
この意味を判るものが仏道初学を透過出来ていると言えよう
日本人の教育水準は鎌倉時代とは違い飛躍的に向上したのであり
鎌倉時代的専修制の時代はとっくに終わったのである
現に、一般人はお目にかかれなかった筈の中論をこのスレでは論じようとしている
中観は結局、今残っている全ての宗派に掛かるものなのである
故に、行法がわからぬものに中論の何がわかろう
366 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 19:18:18.69 ID:Vr5f3Tn+
>>363 >仏の教えを理解できたなら
>鵜呑みするのか? (
>>361)
やっぱり成りすましのアキメクラだな。
ホント、書けば書くほど、ボロが出まくりだよw
おなじ言葉でも、未達者には、観得ないコト・領域がある。
『ブッダは、いかなる教えも、どこにおいても、誰のためにも、説かなかったのである。』(中論25-24)
『マーガンディヤよ。「わたくしはこのことを説く」、ということがわたくしにはない。』(Sn.837)
>仏への誤解、教えへの誤解を説き続けて何が悪かろう
曲解を撒き散らすな。
仏を対象化したうえでの執着だ((Sn.333・342・531・779・800・837など参照)。
367 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 19:21:21.27 ID:Vr5f3Tn+
訂正
× Sn.531
〇 Sn.532
会話の相関図が面白い構図になってるなwww
369 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 19:58:08.86 ID:FWXcoacO
誤解なきように、浄土宗は禅定に主眼が有るのではなく、信に主眼があります。
アミダの誓願を心から信じられるかにかかっています。
次に禅宗でいう禅は、デャーナの禅定という意味に限定されません。
デャーナの禅定は、精神集中です。精神集中は止やサマタなど言われることと同じです。
この意味の禅定は、戒定慧の定にあたり、慧を行ずる前提条件みたいなものです。
禅宗でいう禅は、そうでなく慧得た後の本来の境地を指すことが多く、這箇や真面目、無名など色々な記号で呼ばれますが、
その境地を禅定と呼ぶ例は見たことがありません。
これはデャーナの禅定という精神集中に執着することを戒めてと思われます。
370 :
神も仏も名無しさん:2015/01/09(金) 00:24:07.45 ID:L7h6pq+N
>>366 >『ブッダは、いかなる教えも、どこにおいても、誰のためにも、説かなかったのである。』(中論25-24)
馬鹿者、あらゆる仏教経典は仏が悟り得た故に菩薩道として語った教えを
口伝で伝えやがて書式化されたものだ
口が利けないのは如来=ブッタだと龍樹が言っているに過ぎないし
それは間違いではない
故に
>『マーガンディヤよ。「わたくしはこのことを説く」、ということがわたくしにはない。』(Sn.837)
も間違いには成らないし嘘ではない
ではお前らは経典と称して一体何を議論し何をたたき台に載せているんだ?
仏の教えが書いてある「本」を読書して議論してるのとは違うのか?
であればそれが間違いだと俺は言っている
言わねばそれこそ「小乗仏教」なのだよ
閻魔、お前は小乗の人なのか?
>『マーガンディヤよ。「わたくしはこのことを説く」、ということがわたくしにはない。』(Sn.837)
をごり押ししたのは有部ららしいぞ?
371 :
神も仏も名無しさん:2015/01/09(金) 00:28:32.32 ID:L7h6pq+N
>>369 >この意味の禅定は、戒定慧の定にあたり、慧を行ずる前提条件みたいなものです。
良く分かってない事は口出さない方が身の為だな
>禅宗でいう禅は、そうでなく慧得た後の本来の境地を指すことが多く
単に示すが境地を表すとは臍で茶が沸く
仏道の目的は何だっかのう?
372 :
神も仏も名無しさん:2015/01/09(金) 00:40:52.77 ID:L7h6pq+N
経典などを研鑽するのは別に悪くない
しかし、それは仏道だろうか?
それも含めて仏道だと言うならそれもよかろう
ではいつになったら完成するのか
完成を目指さない仏道がもしあるなら
それは現世利益御信心と何が違うのかのう
切り文つき合わせて正しいの間違ってるのやるのは
創価・法華講とのやりとりとさして変わらん
お釈迦様はそんな事をやれと教えたかのう
373 :
神も仏も名無しさん:2015/01/09(金) 01:04:28.77 ID:L7h6pq+N
因みに
837 師が答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。
の切り文の続きは、上記の理由として
>諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における過誤を見て、
>固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。
故だと
これなら確かにブッダは何も語らない、当たり前さね
では、経典は何故存在するのか
誰かが「教えてくれ」と頼んだからブッダは教えた、それが口伝された
本当に語ってないならお前らは議論も出来ないのだよ
良いかな?
我ら仏弟子は三宝に帰依している
その中に於ける「僧宝」とはまさしく「誰かが「教えてくれ」と頼んだからブッダは教えた、それが口伝された」
これが仏教僧宝の因縁であり我らの諸伝の根幹なのだよ
ちゃんとお寺さんなりに行って三宝からやり直せばいい
374 :
神も仏も名無しさん:2015/01/09(金) 10:21:25.33 ID:E1nVuoYN
やっぱり成りすましのアキメクラだな。
ホント、書けば書くほど、ボロが出まくりだよw
375 :
神も仏も名無しさん:2015/01/09(金) 11:24:27.11 ID:BwuYNwfm
376 :
神も仏も名無しさん:2015/01/09(金) 11:56:52.03 ID:E1nVuoYN
やはり、吉蔵の言うとおり、未達者は無方便者であって、方便は通用しない。
・『又“理“に依って明さば、道門は未だ曽て三一に非ず。三と説き一と説くは皆是れ方便なり。
★即ち是れ無名相中に強いて名相をもって説く。』
(法華義疏、巻6、大正蔵34巻、p538〜)
・『又如来は、常に二諦に依って法を説きたもう。
但し二諦は是れ因縁の空・有なり。
而るに外人は、有を聞いては有の解を作して自性の有を成ず、
無を聞いては無の解を作して自性の無を成ず。
即ち二諦を障うれば即ち二智生ぜず。
便ち三世の諸仏菩薩なきになんぬ。斯の病既に深し。
故に須らく重ねて破すべし。』
(中観論疏、巻7末、大正蔵42巻、p111)
377 :
神も仏も名無しさん:2015/01/09(金) 12:23:05.21 ID:E1nVuoYN
やはり、吉蔵の言うとおり、未達者は無方便者であって、方便は通用しない。
毒(言語)によって毒(言語)を制するは不可能なのだろう。それ自体が毒(相対思考)でしかないからだ。
菩提心あるものに、すべての事象が、ただただ<機>として機能(対機)すれば、なんでもいいのである。
坐禅もその一手段でしかない。
坐禅に固執していては、何年坐ろうと<機>は訪れない。
日常に於ける『二相の相即的実践』が<機>をもたらす。→無門関7 趙州洗鉢 参照。
無門和尚に怒られそうだから、ここで退散する。
さあ、飯だ!
378 :
神も仏も名無しさん:2015/01/09(金) 17:47:10.41 ID:soaEu5kp
ID:E1nVuoYN
何の話をしとるのかのう
三乗方便一乗真実などここでは誰も言っとらんのに
>毒(言語)によって毒(言語)を制するは不可能なのだろう。それ自体が毒(相対思考)でしかないからだ。
全て妄想だと言っとろうに
閻魔もいよいよヤキが廻って下らんこぴぺおじゃると化したか
気の毒にのう
379 :
神も仏も名無しさん:2015/01/09(金) 17:51:40.98 ID:soaEu5kp
>>377 >坐禅に固執していては、何年坐ろうと<機>は訪れない。
坐禅に固執などしとらんだろう
仏の如く「禅定」に励む、ただそれだけ
閻魔はなぜそんなに必至に牛車の車輪に鞭打ちたがるのか
>坐禅に固執していては、何年坐ろうと<機>は訪れない。
に固執するのがそもそもダメだと言われとるのに
380 :
神も仏も名無しさん:2015/01/09(金) 18:26:21.58 ID:L7h6pq+N
権威主義は仏道に不要
ま、
とりあえず食い終ったら茶碗片付けろ、って話だ。
382 :
神も仏も名無しさん: