1 :
ダルマキールティ:
中観派
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中観派(ちゅうがんは、(sanskrit) maadhyamika माध्यमिक)は、インド大乗仏教哲学の2大
潮流の一つであり、龍樹(りゅうじゅ、(sanskrit) naagaarjuna、150年 - 250年頃)の『中論』
の著作によって創始された。
教理
この中観の教理の根幹は、般若経の教えが基盤となっている。
この世のすべての現象は、存在現象も含めて、原因(因)と条件(縁)によって生起(縁起)
しており、その現象はそのまま他の現象の原因もしくは条件となっている。このため、存在
現象にそれ独自の固有な本性があるわけではない「無自性」ので(無我)であり、存在現象
自体が「空(くうしょう)」であり、存在現象は「空(くう)」という「相」を持っている
とする。
その真実には存在しない現象を、人間が誤って認識するために様々な名称をつけている(仮)
が、存在現象自体が空なので、我々が現象を認識することそのものが誤りであり、すべての
とらわれから離れた、いずれにも偏らない「中(ちゅう)」の立場でなくてはならないという
修行方法を提示している。
この中の「空」の教えは、これ以後大乗仏教の中心的課題となり、禅宗やチベット仏教など
にも大きな影響を与えた。
ニヤーヤ学派
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ニヤーヤ学派(ニヤーヤがくは)はダルシャナ(インド哲学)の学派。シャド・
ダルシャナ(六派哲学)の1つに数えられる。インド論理学として代表的なもの
であり、論理の追求による解脱を目指す。ガウタマ(アクシャバーダ)が著した
とされる『ニヤーヤ・スートラ』を根本テキストとする。
インドにおいて、論理学の体系を整備したのはニヤーヤ学派である。この学派の
成立、あるいは、根本教典『ニヤーヤ・スートラ』の成立については、大乗仏教
中観派の開祖龍樹(ナーガールジュナ)らとの論争が大きく影響を及ぼしている
いうことが確かめられている。他には『ニヤーヤ・スートラ』以前に書かれたと
される仏教系論理学書『方便心論』の存在も知られていたが、この書がニヤーヤ
学派の成立にどのような影響を与えたのかはなかなか知られなかった。この点に
ついて一石を投じたのが梶山博士である。
http://homepage1.nifty.com/manikana/paper/ryuju.html
>ニヤーヤ学派
仏教ちゃいますやんw
なんか、上座部と大衆部が分裂したぞw 同じスレが2つも上がってるよw
6 :
神も仏も名無しさん:2009/09/30(水) 07:14:28 ID:gHx/BFEA
瑜伽行派スレとかないんだね
唯識スレはあったけど
前スレ冒頭の流れ
1 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2008/12/24(水) 04:18:23 ID:uNHqTHK6
輪廻転生だの霊魂の存在だの、そんなインチキはどうでもいい。
ナーガールジュナ(龍樹)が説いた【空】を突き詰めた中観仏教について語ろう。
2 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2008/12/24(水) 04:56:34 ID:OQrBRPZ5
スレ立て乙。落ちないようにこれからもボチボチ覗きます。
良スレになればいいですね。
3 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2008/12/24(水) 09:50:32 ID:uNHqTHK6
自分は昔から霊魂とか輪廻転生とか神の存在だのはあるわけないと思ってた。
だから概してそういう事を説く宗教とは無縁だと思ってた。
4 名前:承狂 ◆nR84EH8w52 [] 投稿日:2008/12/24(水) 22:49:24 ID:WF9A0qUG
俺が答えて良いのか判らんが、
まぁ、信仰ってのは、信じて無い者から見たら理解は出来んわな。
今の日本社会はなんちゃってキリスト教社会だから、
そのイメージで信仰を理解してたら、仏教、殊に中観派は仏教哲学の真骨頂だから素人には難しいわな。
因みに、
龍樹菩薩も、中論で冒頭に帰依を表記されています。
5 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2008/12/24(水) 23:08:35 ID:CKEE0lQH
自力も最近よいと思えるようになってきた
神社の神の力ですがすがしい状態に引き上げてもらっていたけど
6 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2008/12/24(水) 23:45:32 ID:uNHqTHK6
>>4なるほどね。中観派の教えは自分みたいな合理主義者に向いてると思った。
因みに初心者向けの本ないかな?中観派は般若経が基盤らしいけど難し過ぎてさっぱりだわ。
>>5自分には無理だけど、人間は思い込む事で救われる部分もあるんだろね。それはわかる。
9 :
神も仏も名無しさん:2009/10/04(日) 11:17:22 ID:oDp/n05N
前スレで無常の哲学のダルマキルティについて答えてくれた方、どうもありがとうございました。参考になりました。
10 :
◆4yy3YEx6Zc :2009/10/12(月) 23:14:59 ID:Gde6bWWv
正スレ【根本仏教】中観仏教について語ろう【龍樹】U
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1254219116/41 『市居の在家による無責任な現状批判』 についての書き込み
内容:倶舎論サイコー!!
その補足前提として
正スレ
ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1254219116/49の 『仏教系瞑想実習者のよくある状況』 についての私の思い
内容:言えないことを言っちゃうやり方について
を書き込みました。
更に遡って
『変化すること自体はそんな難しくない。』
と主張してみますw
やっぱり宗教やってる人間が
『自己変革できない、難しい』とか寝言いってちゃ駄目でしょw
宗教から自己変革とったら何が残るんですかw
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
無常である事。
物事が無常である事。
手を加えなくとも育つこと。
手を加えても終わりが来ること。
(次があるなら)今の在り様が次を決めること。
全ての人に無集中も含めて集中が常に起こっており
いかに望まぬ形の集中要素を抑制するか
何を手放すかが鍵であること。
何に親しみ、模倣するか。
11 :
◆4yy3YEx6Zc :2009/10/15(木) 04:30:31 ID:D7lHm5uU
根本乗:上座、部派、釈尊仏教(中村先生の解釈) と仮に根本乗の定義をします。
その時、根本乗は方法論としての唯識や中観の考え方を必要としません。
唯識や中観には唯、理解するためでさえ根本乗が必要です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
根本乗と大乗の比較をするとき、いつも浮かんでくる個人的な感触があります。
なにもないテーブルの上に指先から、一滴、水をたらす。
テーブルと、その上の一滴の水。
これが根本乗と大乗の関係です。
本当に根本乗が無ければ大乗はありません。
根本乗と大乗はテーブルとその上の滴の様に異質に見えますけど、
硬貨の裏と表のように相補不離の関係にあると思います。
一滴の水。根本乗があれば、そこには幽かにですが大乗の蔭があります。
あくまで比喩ですので、(テ−ブルは無常とは不離ではありましょうが)
現実のテーブルには必ず滴が不離であるわけではありませんw
華厳で海印三昧といいますが、海の最深部でも20キロないでしょう。
地球という大きな大きな球と、薄い薄いベールのような海。
根本乗と大乗の関係。
そうゆうわけで私も唯識や中観について慣例上「大乗」という言葉を使いますが、
釈尊の仏教や上座部については(「大乗」との比較において)、「大乗」より更にカラの空間をいつも感じます。
12 :
tes:2009/10/20(火) 14:33:33 ID:HM4bE48c
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13 :
神も仏も名無しさん:2009/11/01(日) 22:12:37 ID:+meeeTOy
age
何がしたいんだか
15 :
神も仏も名無しさん:2009/11/01(日) 22:34:22 ID:+meeeTOy
>>14 重複スレが建った場合、どちらかを次スレとして使用するのは2chの基礎だと思ってたが・・・?
16 :
つきピエ:2009/11/02(月) 00:07:43 ID:AawojW0w
おんころころ せんだり まとうぎ そわか
17 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2009/12/06(日) 11:33:41 ID:QJXh/9za
ホシュ♪
あけましておめでとうございます。
2010年になりました。2009年中はお世話になりました。
仲良きことは美しきかな
訂正。
最後の一行は別のスレに書く文でした。
仏教を学んで疲れてしまう人がいます。
日本の仏教は御仕事仏教の面が強いと思います。
職業者として御坊さんが社会に存在しており、修行は御坊さんの職業訓練に他ならない。
そういっても大きくは間違っていないと思います。
私は修養の真似事を始めて15年程は祈ることを知りませんでした。
一部の禅では回向は躾けますが、己が為に祈ることや見返りを求めて行為することを悪し、としています。
(基督教徒に個人的に学んで知りましたが集中的な祈りは大きな力になります。
出家者であれば個人として世俗の利を求めない態度は望ましいのでしょう。
しかし在家で(日本流の言わば社会内職制としての)修行をすると、2重の意味で社会貢献を求められつつも収入は
半人分ということになります。
今、私は紆余曲折の末、普通に座りもし、祈りもします。
職能者としての坊様の倫理基準で、在家の自分の生活を責めることも減りました。
そんな私から言わせていただきのですが、周囲に仏教を学んで疲れてしまう人がいませんか?
上に書いた構造的な問題以前に御坊さんでも俗人でも、それまでやってきた悪い習慣を止めるときには痛みはあります。
仏教ですべての問題が解決するとはとても申せません。しかし、若く善意もあり病気も無く職も有る人が、
シジフォスの刑罰を思わせる状態に長く長く留まり、ついには熱意を失って落ち込むのを見ますとやはり違和感を感じます。
筏を捨てる喩が有るとおり、もし重荷になるようなら、それまでに役に立った教えを置いて行くのもアリ、なのが仏教だと思います。
これは都合に合わせて白と言ったり黒と言ったりすることではありません。
これは37菩提分法などの自分が精力を注いで頼りにする方法、たとえば慈悲の瞑想や随息観など現実に威力のある手段をさしていると思います。
単に呼吸法や禅定の技術を教える教師と宗教者は別です。失うことのない財を与えるのが宗教だと思います。
基督教であれ仏教であれ隷属をほどき、自律を促し、喜びを増すのが宗教だと思います。
皆さんご自愛下さいますように。
法師が法統を守ってくれたから、
今我々は仏教を知ることができた。
プロの人には本当に頭が下がります。
南無仏、南無法、南無僧。
>>185 |┃.―――--.、
|┃リ,,リ,,ノノ,,;;;;;;;ヽ
|┃ "ミ;;;;:} なんで、不可侵条約破ったんだよう
|┃ , _,,,..、 |;;;:| 前線からの報告だって信用しないでギリギリまで石油輸送してたじゃないか・・
|┃ ヒ''tュ_ i;;;;| 君だけは本当の同志だと思ってたのに・・
|┃| ` - ト'{ 君の真似して僕まで日本との不可侵破っちゃったじゃないかあ・・プ
|┃i _ >、 }〉}
|┃|||;|||llii;;,>、 .!-'
|┃='" |
|┃ ゛,,, ,, ' {
|┃~~ _,,-"ヽ
|┃、_;;,..-" _ ,i`ー-
|┃ \ /o/ |
どこの誤爆だよw
他国の御坊さんと比べて日本のお坊さんはお行儀よく、
四無量心の特に 悲と捨 の部分に篤いと思います。
悲も捨も共に目立ちにくい要素でありますけど重要です。
他スレに書いた臨終時の心については断見になりかねない面もあります。
良師を求めれば私程度の体験は確実にできます。
黴臭く思えるかもしれませんが伝統のある宗教・宗派を頼られることをお勧めします。
27 :
神も仏も名無しさん:2010/03/05(金) 15:33:54 ID:qG6M/lB6
あげとこ
村上 春樹が若い人に強く支持されています。
慈悲の瞑想に親しむうちに気がついたのですが、
村上氏は宗教についてミスリードしている部分があると思います。
小説家は物事を象徴化することにより普遍性を高めます。
その象徴化に伴う切り捨てられた部分を使って現実の面で粗探しをする。
そのような粗探しをしたいのではありません。
村上氏の為した普遍化とそれを支持する雰囲気を観察した結果から言いたいのです。
村上氏自身が設定した小説の主題から当然、掬い取るべき事柄を
未だ蒸留できていないように感じます。
私も氏の作品は好きです。氏の作品を支持する空気は確実に存在します。
不定形の雰囲気としてしか認められないミスリードには抵抗しにくいので、あえて書いてみました。
大乗でも上座でも慈悲の瞑想に手応えが感じられるほど習熟すれば
明確に指摘できることですけど、すべての人が仏教の修養するわけではありませんからねw
慈悲の瞑想に親しめば、村上氏に対する理解を一つ確実にすすめることができると思います。
29 :
神も仏も名無しさん:2010/04/21(水) 07:22:52 ID:GTFWm/+Z
>>11 部派仏教やその末端のスリランカ上座部は根本ではないだろ
中村元先生もそんなこた言って無いよ
そこんとこをテラワダの信者は意図的にごっちゃにしてウソをいうから困るな
尋がある時があり、尋がない時がある。
手と胃どちらが重要か。消化器と呼吸器どちらが重要か?
上座部と大乗では五禅支に関するやり方と定義が少しちがうのね。
実習と論書それぞれ別の系統の先生(二人とも大乗)に習って差異がなかったから気がつかんかった。
なんかググルと上座部系の五禅支ばっかり引っ掛ってくるのが笑える。
禅や密教でも五禅支が基本になるのは変わらんのに・・・なんか寂しいわね。
>>30は某ポッドキャストへのレスポンスw
32 :
だいおう:2010/06/06(日) 22:50:20 ID:3AUIURMF
どれ、過疎っているから、サービスだ。
五禅支ねえ・・・
まあ、たしかに、ワシの最初の独学修行は偶然的に五禅支に近いものだったが・・・
禅(臨済宗)や密教をやるときにはそういうものではないが・・・
新譯般若波羅蜜多心經
觀自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。
彼菩薩如是思念仏語、後滅一切苦。即曰「舍利子!如是観察。色是無常。色即是空。受想行識亦復如是。
舍利子!如是観察者。即知。諸法空相。」
爾時聖觀自在開眼。而感興自語。「於第一義。戯論寂滅。諸法実相。不生不滅不垢不淨不摯s減。
故知空義不戯論聖者。無罣礙於。色受想行識。眼耳鼻舌身意。色聲香味觸法。眼界。乃至意識界。
若欲通空義赴。応讃嘆法義語衆。是到涅槃之初道也。即曰。
『是如来所説語!到梵行道!無明亦無明盡。乃至老死。亦老死盡。苦集滅道。智慧亦無所得。』如是。
此中無所得為最上。以何故?以無所得故。菩提薩埵。修般若波羅蜜多。修智度故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離顛倒夢想。究竟涅槃。
三世諸佛。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。
故知般若波羅蜜多。是大神咒。是大明咒是無上咒。是無等等咒。能除一切苦。真實不虛故。
說般若波羅蜜多咒即說咒曰
唵 揭帝揭帝 波羅揭帝 波羅僧揭帝菩提娑婆訶
新譯般若波羅蜜多心經
34 :
保守 ◆4yy3YEx6Zc :2010/07/17(土) 05:35:17 ID:4vgYSo9r
>>32 >まあ、たしかに、ワシの最初の独学修行は偶然的に五禅支に近いものだったが・・・
>禅(臨済宗)や密教をやるときにはそういうものではないが・・・
自分もそうなのですが、先生についている時は先生に任せるしかないです。
初めは教えられた通りにやるしかないですね。
凄く大雑把な話になりますが基督教や日本の修養者は深いところまで行っているけれども、
その意味を知らない人(教えない人)が多いような気がします。もちろん伝承のしっかりしている人の話ですよ。
果実の味に蕩れれば理屈なんてどうでもいいのかもしれません。
アクセス規制も本格的に厳しくなって書き込めない日の方が多いですし、
テラワダと曹洞宗のスレッドが複数あり、各々の住人様も増えてきたようですから、
このスレッドもそろそろ寿命かもしれません。
>>29 日本の禅は、禅を嗜む当事者の方々が思う以上に大乗大乗している印象があります。どんなに腐ってもマトモな寺なら自分欲得の願いをかなえようと座る馬鹿はいません。
成仏目的だと押さえなければならない要素が阿羅漢目的より多くなります。そうすると必要な労力も大きくなって勢い一個半個を言うようにもなります。
中村先生が全集で想定しているお釈迦様の実践形態も部派のそれも禅にくらべて構成要素が少ないことは共通しています。
この構成要素・評価軸は言葉じゃないんです。自分が初めについた先生は随息観のみ御指導されていましてアビダルマについては一切話されませんでした。
折に触れて一言二言の御指導がありますが、伝承の恐ろしさというのでしょうか。美意識に近いような感覚でなんとなく大乗の評価軸が仕込まれます。
現在で25年目になりますが、先生と対面して話した時間は2時間に満たないと思います。優劣は言えませんし言う意味もありませんが一日は24時間なんです。
そのような文脈でやはり部派仏教は大乗にくらべてお釈迦様の御指導された形態に近いと思います。
本人も言葉じゃないと言ってるけど、理屈じゃなく、単なるあなたの実感で、これのほうが自分は好きだ!正しいと思う!ってはなしなんですね。
考古学的見地とか無視の考え方はここで語る意味ないのではないでしょうか。
仏教は現実的な智慧を持って諸問題は説かれるという思想です。超能力的なものでは全く無い。
全てには原因があるのだから、それを除けば当然苦は滅するというあたりまえの法則を説いているのみで、
あとはではどうやって解くのか?それは智慧でひたすら磨くしかない、そういう話。
結構あたりまえのことを言ってるだけなのです。
その方法論として鋭さを磨く道を提案された。瞑想はそのための手段であり目的ではないんですよ。
37 :
神も仏も名無しさん:2010/08/05(木) 07:40:36 ID:KkSbntZu
山口益先生の空の世界読んでるんだけど難しいねー。
今日は給料日だが相変わらず財布は薄いですw
39 :
真言・念仏・禅は謗法邪宗:2010/10/17(日) 13:35:48 ID:bhE5zqpR
真言・念仏・禅の邪宗が広まった理由
まず、邪義「真言」が、なぜ広まったのか。
それは、像法の末に伝教(最澄)が「法華経最第一」を確立した「後」に、空海(弘法)によって伝来したからである。
つまり、天台・伝教の破折を「まぬかれている」のだ。
伝教(最澄)が南都六宗の邪義を破った後に、空海(弘法)によって伝来した真言が、
後に天台宗の人々が真言に「籠絡されていく落とし穴」となってしまった。
真言は、天台の一念三千の法を「盗み入れて」自宗の極理となし、
「真言宗は天台宗と法理の次元では同じだが、天台宗にない印と真言という事相があるから勝れている」
との邪義を立てた。
その策略にかかり、天台宗を真言へとおとしめてしまったのが比叡山第3代座主の「慈覚(円仁)」である。
伝教が一生の闘争で確立した「法華経最第一」の原則を崩し、「理同事勝」の邪義を唱え、
天台宗の真言密教化に踏み切ってしまった慈覚が、謗法の端緒を開く元凶となった。
さらに、慈覚の弟子「安然」は、禅宗を促し、「恵心」は、念仏を広める役割をした。
高徳・碩学と仰がれた慈覚が、後世の安然や恵心の邪義を引き出す呼び水になったのだ。
法をより深くむしばむ害虫は、他宗ではなく正法を護るべき天台宗の中にいた。
(よって現在の天台宗は、慈覚・安然・恵心の謗法を引継ぐ邪宗・謗法宗である)
そして、謗法に毒された人々を救うため、末法悪世の変革のために、次々と起こる
大難・迫害に命がけで戦い勝ち越えてきた、末法における妙法流布の法華経の行者が
日蓮である。
謗法の人々も今は法華経を誹謗しているが、亡国・亡身の危機に直面した
とき、一切の仏寺・一切の神寺を捨てて、「南無妙法蓮華経」と唱えるようになるだろう。
今日も給料日だが相変わらず財布は薄いですw
仕事で汗をかくのが楽しいのが救いです
『もしリアルパンクロッカーが仏門に入ったら』
この本もまぁまぁおもしろかったです。
ニコ生のニー仏先生
(現在ミャンマーで修行中、
(スダンマチャーラ比丘のポッドキャストに一寸だけ出演している
の事とか
手塚真監督の奥さんの漫画とか読んでいると、より楽しめる。
もし五蘊が自我ならば
〔自我は〕生成と消滅のあるものとなる
もし〔自我が〕五蘊以外のものならば
五蘊の特徴(相)を持たないことになる
18章 148ページ
心に現れてくる「私」はある程度はっきりとしている
しかし、その「私」は、からだのような指差せる存在物としては見出すことはできない
五蘊のいずれかが自分であるとすると最も微細な意識の比重が重い
しかし無条件に私=微細な心ではない。微細な心=私ではない。
微細な心以外=私ではない。五蘊と不異同一な自我は連続性がないので自我と呼べない
もし私が五蘊以外のものなら三時の別と自他がなくなり私ということもできなくなる
(五蘊に生成と消滅を見ることとは別に)
五蘊が自分であるという間違った見解を否定し 中略 ものの実体をつかむ心を滅することができる
そうすると(五蘊のありようは五蘊のありようであるけれども)
実体を持った自我などというものは存在していない、という理解が心の中に刻まれていく
もし「私」という自我がなければ
どうして「私のもの」がありえようか
「私」と「私のもの」〔という概念〕を鎮めると
「私」と「私のもの」に対するとらわれはなくなる
18章 152ページ
自我について追求していくと、五蘊の中にも、五蘊以外にも、それ自体の側から存在している独立した「私」を見出すことはできません。
そして、そのような実体を持った「私」が存在しないということを理解すれば、「私のもの」が実体を持って存在しているという思いも生じてきません。
「私」や「自我」が、それ自体の自性によって成立していると考えるのは間違った考えかたであり、それと同様に、「私のもの」がその自性によって成立していると考えることも間違っているのです。
一般的に「私のもの」を示す時は、「私のからだ」「私の目」などと表現することができますが、からだや目などに「私の」という言葉をつけて表現する時は、「私」という自我がその対象となっています。
したがって、もし「私」がその自性によって成立していないなら、「私のもの」がそれ自体の自性によって成立していることなどありえません。
もっと幅広く言うと、ものの善し悪しや、輪廻と涅槃などの区別はみな、「私」を土台として、「私」に依存して存在しています。
このように考えるならば、ものの善し悪しや輪廻と涅槃もなくなってしまうので、「もし『私』という自我がなければ、『私のもの』も存在しない」と言われているのです。
これと同様に、聖なる仏陀の自我もまた、汚れのない五蘊に依存して存在しているだけの自我であり、仏陀や聖者たちも、それ自体の側から独立して存在しているのではありません。
このように、輪廻と涅槃に現れる現象はみな、真如を見る者の心には、そのすべて関する戯論(心によって作り出された虚構の概念)が滅した感覚が生じているのです。
そこでこの偈の後半では、「『私』と『私のもの』〔という概念〕を鎮めると『私』と『私のもの』に対するとらわれはなくなる」と言われていますが、
「私」と「私のもの」という概念には実体がないことが見えてくる時、「私」と「私のもの」を対象としてそれにとらわれ、執着する気持ちが生じてくることはありません。
アーリヤデーヴァの『四百論』の中にも、 輪廻の種は意識であり 意識は対象物を享受する 〔故に、〕対象物の無我を見たならば、 輪廻の種は滅せられる (第十四章三五〇偈)と
述べられているように、無我を見る心が強く育ってくると、対象物の実体にとらわれている心は自然に消滅していき、輪廻の種を滅することができる、と言われているのです。
(18-1(自我は五蘊でも五蘊以外でもない)を受けて)
私・自我がそのような存在であるなら「私のもの」を実体としてつかむ対象とする思いは生じない
(すべての概念・名を意味しないが)
善し悪しや輪廻と涅槃の区別(概念・名)は「私」に依存している
(大乗ではそのプトガラのありようはさておき)
仏陀の自我も五蘊に依存して在り、独存しているのではない
(禅定の深浅とは別に)
あるように見る者の心には、虚構(概念)が減ぜられた感覚が起こっている
(見性体験やお題目ももちろん有効ではありますけれど)
対象物の実体にとらわれている心が自然に消滅していくことで、輪廻の種を滅することができる
実体視してつかもうとする心のない人には、
その人の内にも外にも何かが決定的に欠落する
(つかもうとする心があるうちは内外は一貫しない)
省 略
このように瞑想することによって、☆の体験が実際に得られたなら、そのような体験は、
言葉で表現したり、考えたりすることのできないものであり、言葉と思考の対象を超えたものである、
ということがここで言われているのです。 166
相対否定よりも絶対否定の方が痕跡が少なく
目の荒い笊で砂金を掬うように、体験は言葉や概念をすりぬけてなにも残りません
これはすり抜けて行くのを自覚させられたゆえです。あるいは私がすり抜けていくのを自覚します
これ(中観)は、長い時間をかけて考えるべきことであり、資糧を積み、仏陀と上師に(よくよく)祈願をして、
これらをみな結び合わせて修行し、 中略
そしてそれは、よく考えれば知ることのできるものであり、知ることができないものではありませんが、
簡単ではありません。 205
修養は強制ではありません。授記
行為と煩悩を滅すれば解脱〔に至る〕
行為と煩悩は誤った認識〔妄分別〕から生じ
それら〔の誤った認識〕は戯論から生じる
そして戯論は、空によって滅せられる
18章 156ページ
(前提を踏まえる必要があり、場合によっては)
空もまた真実の成立でない
他から知るのではなく
寂静で、戯論によって作り出される虚構もなく
概念思考(妄分別)もなく、意味が異なることもない
これが★の特徴(相)である
18章170ページ
私には18-4 155-156 の要約を書く力がないと少し前に気がつきました。
ですので今から生活を変えてみますw
~
>>47までの偈・底本文章の解釈も、
なんとかそう言えるだけの根拠がいくつかある程度ですので、
そちらも自分なりに確かにしていくつもりです
>>42-
>>48まで
子供じみた凡俗である◆4yy3YEx6Zcの科目付けの試みでした
ps
使わせていただいた種本はおすすめです。
良書ではあると思いましたが論書を読むのはなかなか苦しいですw
今回、写経のつもりでゴリゴリ科目をつけようと開始しました。が速攻で待った!がかかりました。
自分は在家として楽で正しい修養を、と考えてきました。
そして正しく伝える事は疎かにしていたので、どうもスピ系に似た語り口になりがちです。
自業自得ですね。地に足をつけてがんばりたいと思います
54 :
神も仏も名無しさん:2011/01/10(月) 09:17:00 ID:IbdeVt/D
空というのは、真理とは全く関係ない。
思考の便宜上の道具。
何をいれても成り立つ関数の方程式のごときもの。
あまりまじめに追求すると現実生活がお留守になる。
55 :
神も仏も名無しさん:2011/01/11(火) 18:42:03 ID:Nt6GErnG
>>54 そんなことはない。「空(相互依存性・関係性)」は、日々の生活にも科学に
も密接な関係がある、不可欠な原理。何を入れても成り立つのが、原理である。
日本の大乗仏教は悪
地獄に落ちるぞとか言って脅すのはマジキチの所業
ゲシュタルトの祈り
われはわが事をなさん 汝は汝のことをなせ
わが生くるは 汝の期待にそわんがために非ず
汝もまた われの期待にそわんとて生くるに非ず
汝は汝、われはわれなり
されど、我らの心 たまたまふれあうことあらば それにこしたことなし
もし心通わざれば それもせんかたなし
(フレデリック・パールズ : 國分康孝訳)
58 :
神も仏も名無しさん:2011/03/12(土) 00:57:38.65 ID:/+xgZEIq
テスト
60 :
神も仏も名無しさん:2011/03/21(月) 23:06:52.91 ID:V0iZwote
行為主体について、誰か教えて下さい。
A氏がプールで泳いで居たとします。
この時の行為主体は、A氏の事を言いますか?それとも、A氏が「泳ぎたい」と言う意志の事を言いますか?
>>60 このスレ的には、「主体なんかない」でしょ?w
諸法が縁起して、様々な事象がそこに顕現しているってだけで。
62 :
神も仏も名無しさん:2011/03/22(火) 00:24:57.76 ID:nq+kd6Y4
>>61 質問の答えになっていません。
答えれないなら、答えないで下さい。
>このスレ的には、「主体なんかない」でしょ?W
>諸法が縁起して、様々な事象がそこに顕現しているってだけで。
そうですね。
61の名無しさんみたいに、中観に書かれている内容を暗記して満足したくないから、「行為主体」を聞いているんです。
第10章 火と薪との考察 は、「行為主体」が絡んでくるのではないのですか?
このスレと「行為主体」が関係あるかないかは、私が決めることで、あなたが決めることではないと思っています。
私の質問
>>60に対して、丁寧に答えて頂ける方お待ちしています。
>>62 それならば、どちらも世俗諦に於ける「主体」でしょう?w
敢えて「行為」という点に、より注視するなら、
「肉体(色)を有す存在としてのA氏」を指すのみでしょう。
(基本的に「色」抜きに「識或いは行」のみで主体とすることはありません。
「識のみが」、「主体として」、他と関わるということがあり得ない以上、それのみを主体と称することが適切とは思えません。)
10章は、
世俗として主体があり(薪があり)行為があり(火があり)、勝義として
>>61である、
ということが述べられているんじゃないの?
64 :
神も仏も名無しさん:2011/03/22(火) 03:15:08.87 ID:Uc2dPnqd
満足したくない。上に立ちたい。そういうのは好き。神の化身よ何?が本当の言いたい事です。
とオチャが言う。
65 :
神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 21:58:43.64 ID:zYSyNEH1
>>60 >この時の行為主体は、A氏の事を言いますか?それとも、A氏が「泳ぎたい」と言う意志の事を言いますか?
現代日本の言語習慣では、一般にA氏と言うでしょう。
中観の勝義では、行為主体も、行為も言うことができません。
曰く、有るのでもなく、無いのでもなく、有って無いのでもなく、
有るのでもなく無いのでもないのでもない、と表現されます。
この意味は、要するに x という何らかの本質を仮設して、
その x について何らかの論理的判定、判断を与えられないという意味です。
66 :
神も仏も名無しさん:2011/04/10(日) 17:53:03.16 ID:5NXfMXYv
ぼったんの震災以降の通信妨害w
坐禅と見性73章社会的関係性と損在が人
598:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム ◆pottan7VXM :2011/03/11(金) 22:21:36.19 ID:kPlEbR34
599:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム 600:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム 603:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム
604:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム 610:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム611:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム
618:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム 619:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム 620:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム
621:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム 622:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム 624:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム
625:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム 626:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム 631:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム
632:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム 633:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム 635:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム
636:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム644:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム 645:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム
647:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム 648:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム 649:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム
651:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム 653:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム654:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム
655:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム 656:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム 657:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム
658:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム
659:チゥ(* ^)(◎o◎)オヨヨポッタム ◆pottan7VXM :2011/03/17(木) 01:16:29.79 ID:MJUwF4hl
http://2chnull.info/r/psy/1289689033/1-1001 沢尻エリカ様の夫はハイパーメディアクリエイターらしんで、
ぼったんの職業はハイパー有漏禅クリィエイターぼったん師匠w
有漏がとまりませんw
漏れる、ほめてくれえwかまってくれえw尊敬してくれえwと漏れる音がぼったんからいつも流れるw
SSB48、シコシコぼったん48倍増w
ヘビー有漏ローテンション(ヘビーな有漏の循環w)
有漏ウォンチュウ♪(ぼったん有漏ほめてほしーのw、)
有漏ウォンチュウ♪(ぼったん有漏かまってほしーのw)
有漏ニーヂュウ♪(有漏はぼったんに必要w)
有漏ニーヂュウ♪(有漏ぼったんは褒めて尊敬する人が必要なのw)
67 :
神も仏も名無しさん:2011/04/10(日) 17:55:23.41 ID:5NXfMXYv
なぜ、ぼったんはアク禁常習で垂れ流すのか?
ぼったん調教タイムw
道元、弁道話
経典を読むことは、仏が人々の機根に応じて、ただちに悟るしかたや、
道順を追うてしかたを教え、--中略--
(ぼったんのようにw)ただいたずらに思慮分別をたくまくしてーーー中略ーー
おろかにも(ぼったんのようにw)口を動かして仏道に到ろうとつとめるのはーー中略ーー
ぼったんのようにw)経文を読みながら修行する道が分からないのは(垂れ流しのアク禁常習、繰り返しw)、
医術を学ぶものが薬の調合を忘れるようなもので、何の得るところがあろう。
(ぼったんのようにw)休むひまもなく口に称えるのは(垂れ流しのアク禁常習、繰り返しw)、
春の田の蛙が昼も夜もなくようなものである(まさに、垂れ流しのアク禁常習、繰り返しwぼったんw)
つづまるところ、何の益もない。
まして(ぼったんのようにw)、名誉や利益に深く惑わされている輩は、
こうしたことが捨てがたいのである(まさに、垂れ流しのアク禁常習、繰り返しwぼったんw)。
それは(ぼったんのようにw)、
利欲や貧欲のこころがはなはだ深いためである(それ故に、ぼったんは垂れ流しでアク禁常習、繰り返しw)
昔もすでにこうした輩はいたのであり、(ぼったんのようにw)今日もいないはずはあるまい。
まことにあわれむべきである。
ぼったん返答の基本w
851 :チゥ(* ^)(*ё_ё*)ポッ♪たん ◆pottan7VXM :2010/11/01(月) 15:16:17 ID:QnKrBPk+
>>843 名無し と言う女のスカートの後ろからちょっかい出すヒッキー君
たろすけ返答の基本w
767 :たろすけ ◆JRCMycYHTZw5 :2010/10/24(日) 22:28:40 ID:Y66wc
だけど、まだまだ罵詈雑言を禅的批判と称して続けるのであれば、基本もう相手にしない。
発 者 同 . 。_ ____ 争
生 同 .じ . /´ | (ゝ___) い
.し 士 .レ .__/'r-┴<ゝi,,ノ ro、 は、
.な で .ベ ∠ゝ (ゝ.//` ./`| }⌒j
.い し .ル } ⌒ /`ヽ、_∠l,ノ ・ヽ´
.! ! か の / ´..:.} >、、___, .r、 ソ、`\
/ ..:.:.} / |∨ ` ̄
/ ..:.:./ | 丶
/ _、 ..:.:.:.{ .{.:.:. \
{ ..:Y .ゝ、 {.:.:.:.:. ヽ
|、 ..:/ 丿 .:〉 >.- ⌒ . ヽ
/ {. ..:./ ソ ..:./ .( ..:.:.:` ..:}
./..:.:}.:.:./ ヘ、 ..:./ .\ ..:.:r_,ノ、.:.:}
./..:.:/|.:/ {.:./ X.:.:}.} X X
/..:.:/ .}.:| }:/ .Y丶ヽ Y.:Y
. __/.:/ { } 《.〈、 _,,__>.:》丶 Y.:\
/.:.:.:.:.::/ !.:.:ゝ ゝ.:. ̄ヾ ´:.:.:.:.:.:.:.:.:ヾゝ \.: ̄>
中論読んでも分け解らん
70 :
神も仏も名無しさん:2011/05/03(火) 13:12:52.59 ID:xX+LMChi
短い詩でまとめようとしてるからね。
だから注釈が必要。
個人的には青目註が世俗の感覚に近いのでオススメしたいが
手軽な現代語訳がないんだよな
71 :
神も仏も名無しさん:2011/05/23(月) 23:49:33.06 ID:UbdYijTo
青目註は訓読しかないよね。
重要性を考えれば岩波文庫とか中公文庫に現代語訳があってもいいくらいなのに。
現代語で読めるのは2種類あるプラサンナパダーか。どっちも高いけど。
仏護注とか般若灯論とか読んでみたいけどチベット語からの全訳はいつ出るんだろう。
順中論や大乗中観釈論に至っては国訳すらないし…。
72 :
神も仏も名無しさん:2011/05/24(火) 05:51:00.96 ID:nU8jo9wY
プラサンナパダーは、恐らく山口益訳が一番いいよ未見だけど。部分訳では丹治訳、長尾訳がいい。
全訳は、奥住訳が参考になる、本多恵訳は見るだけ無駄だ。この人の訳はほんと適当。
仏護註は2/3ぐらいの梵本が出たから、そちらから訳されるでしょう。釈論の漢訳は難しくて手が着けにくい。
73 :
神も仏も名無しさん:2011/05/25(水) 02:13:23.79 ID:RBOyqxa8
山口益訳も1〜11章までの部分訳では無かったですか。
高いので同じく未見だけど、いいなら図書館で見てみようかな。
丹治訳、長尾訳は読みやすかったのでこれで全訳があれば良かったのに…。
本多訳は駄目ですか?奥住訳の日本語が分かりにくいので古本で探してたのに。
クマーリラやダルマキールティも本多訳が出てるけど、信頼できないんでしょうか?
仏護註の梵文は創価大の年報に出てますね。梵語読めないのでさっぱりだけど。
ついでに、無畏論は参考になります?戦前に2種類訳が出てますが。
74 :
神も仏も名無しさん:2011/05/25(水) 05:37:19.28 ID:VSgMoLqC
75 :
神も仏も名無しさん:2011/05/26(木) 03:07:18.21 ID:bserbMfe
本多訳他のも評判悪いんですね。何冊か買ってしまったのに…とほほ。
結局プラサンナパダーは奥住訳を頑張って読むのがいいのかな。
無畏論は簡潔であまり参考にならないと聞いたけど、探してみます。
灯論の立川訳のご教示どうもです。
一応「梵語仏典の研究 論書編」を片手に現代語訳の文献をいろいろ漁ってましたが、
上記訳は未見でした。図書館でコピってきます。
灯論も部分訳は結構あるみたいですけどね…。
★★★エホバ=ヤハウェ=アラー=高橋信次=エル・ランティ★★★
(釈迦、イエス・キリスト、モーセはエル・ランティの意識の一部)
★★★大天使ミカエル=アポロ=エリヤ=マルティン・ルター=如意輪観音=高橋佳子★★★
^^
78 :
黒住忠宗:2011/07/22(金) 10:16:56.48 ID:rNP1qzWQ
『信じ切る者は癒される』
見せかけの「苦難」にとらえられて「もう駄目だ」と絶望をせず、
ただひたすらに「神の子・人間」を信じ、感謝と祈りと愛との
生活に徹せられたならば、必ずよくなって行くのである。
常に私達を愛し、みまもり給うところの無限絶対の「神様」を
想(おも)い観(み)ることが何よりも大切なのである。
世界人類が平和でありますように
79 :
神も仏も名無しさん:2011/07/22(金) 11:29:30.88 ID:aL4Yhxxj
うぜ
すぐ誤るなら出てくるな
創価にも劣る薄っぺらい偽善者 裏切り者
仏罰で地獄に堕ちろ
hosyu
81 :
神も仏も名無しさん:2011/09/09(金) 15:04:16.53 ID:nR4rNkE4
無畏論の訳はなかなか入手困難ですね
82 :
神も仏も名無しさん:2011/10/10(月) 14:23:16.29 ID:7fTm9Mfa
無畏論の訳には寺本婉雅と明石澄達との二つがある
前者は無畏疏という訳題になってる
仏教哲学にお詳しいこちらの皆様
教えてください
最近 中観思想とやらをとあるきっかけで知った者です
どちらかというと元々は目に見えないものを信じるタイプで、習慣的に神社参拝をし、なんとなく輪廻を信じた思想で生きてた者です
ですが神は存在しない事が証明されたと知り、輪廻転生への疑問がわき、中観思想というものを知り、そのうち仏教の哲学をちゃんと知ってみたいと思うようになりました
この手の本はどれも難しいと聞くしなにから手にとればいいかさっぱりなんですが
超初心者の手始めに読むにおすすめな本はありますか?
84 :
神も仏も名無しさん:2011/10/23(日) 03:50:13.51 ID:0CohYkHG
>>84 早いアドバイスくださり大変嬉しいです。早速書店へいってまいります ありがとうございましたゞ
角川文庫の仏教の思想の阿毘達磨、中観、唯識の巻
講談社学術文庫の龍樹、世親
を何度も繰り返し読みつつ
中公文庫の龍樹論集、世親論集(あと絶版だけど世界の名著の大乗仏典)
を読み解いていくのが仏教思想の入門にはいいんじゃないかな。
上でも話題になったけど中論の注釈書で入手しやすいものが無いのが痛い。
角川ソフィア文庫の梶山先生他の『中観』は良い。また、同先生の『空入門』が良い。
しかし、学術文庫の中村先生『龍樹』は注意を要する。
『中論頌』以外の龍樹自身の諸論、特に『縁起心論』と同論所依経を殆ど無視して、
『中論頌』を読んでる。結果、「八不の縁起」を可逆的相依だと誤解してる。
89 :
神も仏も名無しさん:2011/11/25(金) 08:18:27.95 ID:UrsYqHuK
空
90 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2011/12/16(金) 06:18:15.80 ID:uGx2Ug8M
たまには上げておこうか。
91 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2012/01/28(土) 15:31:05.81 ID:zgO2k29Q
定有則著常
定無則著断
是故有智者
不応著有無
若法有定性
非無則是常
先有而今無
是則為断滅
(^。^)でも転生なんか無いがな。(笑)
92 :
神も仏も名無しさん:2012/02/13(月) 10:28:38.03 ID:CxpKopur
守
93 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2012/05/13(日) 21:37:50.44 ID:PQ6MyAci
誰も来ないな
94 :
brown:2012/05/15(火) 00:06:48.82 ID:KURjcnoH
>>60 「A氏(行為主体)がプールで泳ぐ(行為)」の分析。
今目の前でA氏がプールで泳いでいるとする。
ところで,そのA氏はプールで泳ぐ前のA氏と同じ人物かどうかという問題
なんですね。
もし同じだとすると,A氏は泳ぐ前に泳いでいることになってしまう。
もし違うとすると,A氏は泳がないことになってしまう。言い方を変えると,
泳いだのはA氏というよりはB氏だというようなことになってしまう。
要するに,厳密に考えると,あるとき泳いでいなかったA氏という人物が
次の時刻に泳いでいるといったような変化,その変化を貫いて,そこに
A氏なる同一人物がいるという証拠は,厳密に考えるとどこにもない
ということになる。
それ故に,行為と行為主体なる関係は,厳密なレベルでは成立しない(空性)
を論証したものです。
96 :
神も仏も名無しさん:2012/06/17(日) 09:34:35.97 ID:Ho5A3dxz
石飛先生のサイトはいつの間にか猫ブログになってるな
龍樹のナーガルジュナー(Nāgārjuna)のどこからがどこが、苗字で
どこからどこが名前なんですか?
鳩摩羅什の場合は、どこからどこが苗字で、どこからが名前なんでしょうか?
設問自体がおかしいでしょうか?
>>97 姓と名ではないがナーガールジュナの場合「ナーガ」と「アルジュナ」で分けるみたいよ
前者は蛇という意味でそれが転じて龍に
後者はマハーバラタに出てくる武将で英雄という意味
「龍樹」という漢訳に当たっては「龍」は意味で「樹」は音写というのが興味深い
99 :
神も仏も名無しさん:2012/09/02(日) 22:08:43.88 ID:Gy+oxuFX
ナーガールジュナ
100 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2012/09/03(月) 17:29:35.50 ID:nGnAMqlS
>97
出家する際に、世俗の柵を捨てて名を捨てて、受戒得度して法名を得る。
空海さんとか最澄さんとかみたいに、名前であって姓名ではないんよ。
ちなみに、龍樹さんの場合、その多様すぎる伝説から、特定の個人名ではなくてある種の称号ではないかとの説もある。
あと、アルジュナというのは樹の名前だから龍樹ってのは意訳。
中観についての日本語訳でおすすめ教えてください。
102 :
神も仏も名無しさん:2012/09/15(土) 21:53:03.18 ID:gooSnVaC
>>101 梶山雄一『龍樹論集』『大智度論』『世界の名著2』
>>102 ありがとうございます。
今度探してきます
104 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2012/10/07(日) 18:18:36.56 ID:b8E2K6UG
ほしゅ
勿論仏教に参加するよ!?♪。
>>94 > 行為と行為主体なる関係は,厳密なレベルでは成立しない(空性)を論証したもの
そこでは、同一の対象には常に同じ述語が帰属できる、という
ライプニッツの同一者不可識別原理を使っているわけですね。
Aという同じはずの対象が「泳いでいる」と同時に「泳ぐ前である」ことになるが、
これは矛盾であり不可能なので、それらは同じ対象ではなかったのだ、と。
だが、中観派(特に帰謬論証派)の「空」の教理はそういうこっちゃないでしょう。
時間を渉って存続する同一性はない、というのは諸法無我の基本理解だけど、
述語が「時点tにおいて泳ぐ前である」とか「時点t+において泳いでいる」のように
時間個別的ならばこの問題は生じないので、その論証としても成功していない。
T0099_.02.0029c04: 雜阿含經卷第五
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&nonum=&kaeri=&mode2=2&useid=0099_,02,0032a21 T0099_.02.0032a22: 告仙尼。今當爲汝隨所樂説。佛告仙尼。色
T0099_.02.0032a23: 是常耶。爲無常耶。答言無常。世尊復問。仙
T0099_.02.0032a24: 尼。若無常者是苦耶。答言是苦。世尊復問
T0099_.02.0032a25: 仙尼。若無常苦是變易法。多聞聖弟子。寧於
T0099_.02.0032a26: 中見我異我相在不。答言。不也世尊。受想
T0099_.02.0032a27: 行識。亦復如是。復問。云何仙尼。色是如
T0099_.02.0032a28: 來耶。答言。不也世尊。受想行識。是如來
T0099_.02.0032a29: 耶。答言。不也世尊。復問。仙尼。異色有
T0099_.02.0032b01: 如來耶。異受想行識有如來耶。答言。不
T0099_.02.0032b02: 也世尊。復問。仙尼。色中有如來耶。受想
T0099_.02.0032b03: 行識中有如來耶。答言。不也世尊。復問。仙
T0099_.02.0032b04: 尼。如來中有色耶。如來中有受想行識耶。
T0099_.02.0032b05: 答言。不也世尊。復問。仙尼。非色非受想行
T0099_.02.0032b06: 識有如來耶。答言。不也世尊。佛告仙尼
_ _ _
T0099_.02.0032a26: 見我異我相在不 ← 我と見るか? 異我か? 相在か? 不か?
我でもない、異我でもない、相在でもない
これが中論の基礎なのか?
108 :
神も仏も名無しさん:2012/12/04(火) 10:18:09.25 ID:i8Rh9DH5
>>107 それは基礎といえば基礎だけど、四句分別と四句分別遮断の中道が中論の基礎で、
中論自体が名指しで引用するようにカーティヤーヤナへの教戒経が、基礎。
それに勝義空性経や、諸アーガマが基礎になっている。
それは諸註釈から裏付けられる
『四句分別遮断』と言うのは
『世俗の人は
顛倒の故に虚妄の法を生じ戯論を生じているので
諸法の実相は性空であるが故に
如来の滅後を
有るか? 無いか? 有であり、無であるのか? と
こう思惟してはならない』
と言う事で良いんですか?
111 :
神も仏も名無しさん:2012/12/04(火) 11:11:17.90 ID:i8Rh9DH5
>>110 全然違う。君は恐らく今生では、戒律レヴェルのこと、
十善戒だけ考えた方がいいと思う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%96%84%E6%88%92 十善(十の善き戒め)
不殺生(ふせっしょう) 故意に生き物を殺さない
不偸盗(ふちゅうとう) 与えられていないものを自分のものとしない
不邪淫(ふじゃいん) 不倫をしない
不妄語(ふもうご) 嘘をつかない
不綺語(ふきご) 中身の無い言葉を話さない
不悪口(ふあっく) 乱暴な言葉を使わない
不両舌(ふりょうぜつ) 他人を仲違いさせるようなことを言わない
不慳貪(ふけんどん) 異常な欲を持たない
不瞋恚(ふしんに) 異常な怒りを持たない
不邪見(ふじゃけん) (善悪業報、輪廻等を否定する)誤った見解を持たない
十善戒って ↑ これで良いんですか?
中阿含経などに説かれた、仏教で、悟りに至るための三十七菩提分法の
『八正道によって渇愛(タンハー)を滅して涅槃に至る』
と言う事で良いんですか?
115 :
神も仏も名無しさん:2012/12/04(火) 11:41:08.41 ID:i8Rh9DH5
>>112 そう。それだけやるのが君にはあってる。
他は禅定・三昧、縁起・空性とかは考えない方がいいよ。
私の場合は
『顛倒の故に虚妄の法を生じ戯論を生じているので』
禅定・三昧、縁起・空性を正しく捉える事が出来ないので
『禅定・三昧、縁起・空性とかは考えない方が良い!』
と言う事ですか?
117 :
神も仏も名無しさん:2012/12/04(火) 11:57:00.92 ID:i8Rh9DH5
妄想はだれでも生じるけど、道・教えを誤解して捉えられないのでという意味
あるいは浄土もいいと思う。
本読むより、ちゃんとした先生につきましょう。
八聖道分を修習して、我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て、智慧を決定する
そして、縁起したものを離れて
http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron01a.htm 中論觀因緣品第一 龍樹菩薩造梵志青目釋 姚秦三藏鳩摩羅什譯
『生』でなく、亦た『滅』でもない
『常』でなく、亦た『断』でもない
『同一』でなく、亦た『別異』でもない
『来る』ことはなく、亦た『出る』こともない
能く、是の『因縁』を説いて、諸の『戯論』を滅せられた
わたしは、仏に稽首して礼する
『是れは諸説中の第一である』と
_ _ _
礼拝帰依/ブッダン サラナン ガッチャーミ
普礼真言/オン サラバ タタギャタ ハン ナマンナノウ キャ ロミ
屮(_ ._)屮 屮(_ ._)屮 屮(_ ._)屮
http://www.daitouryu.com/iyashi/voice/voice03.html 釈迦は「生命の再生」を次のように説く
生命(命体の意)は「火」であり、肉体は「薪(たきぎ/燃料の意)」であるが故に燃えるのである、と説く
薪が尽きれば、炎は消えるが、しかし薪が尽きても、「火種(ひだね)」は残る
残った火種こそ、渇愛による
「異蘊(いおん/「蘊」とは、五蘊(ごうん)を指し、集合体の意で、現象界の存在の五種の原理をいう
色(しき)・受・想・行(ぎよう)・識の総称で、物質と精神との諸要素を収める
色は物質および肉体、受は感受作用、想は表象作用、行は意志・記憶など、識は認識作用・意識
一切存在は五蘊から成り立っており、それ故に、「無常」とか「無我」であると説かれる
一方、異蘊はこれを否定し、墮落に向かわせ
「慢断(我慢を断滅すること)ぜざるがゆえに、此の蘊を捨て己(おわ)りて異蘊相続して生ず」
と言う一行が、そもそもの仏道の眼目とするところである)」
である、と
_ _ _
我慢を断滅する事が出来ない場合は
此の蘊を捨て己(おわ)っても
異蘊相続して
又、次の、この世の生に戻り来る
瑜伽師地論(ゆがしじろん)の場合は
http://reigaku.jugem.jp/?eid=424 人が死ぬ時に
過去の長い間の経験により蓄積された
我愛が現起し
その力にうながされて
自己に愛著し
無始の時以来つづいてきた執着された
戯論(けろん)と
善悪(善でも悪でもないものも含める)業により
中有が形成される
そして、やがて
その中有が次に生まれるべき処を求めて母体に入り
ここで男性の精子と女性の卵子が結合するときに
中有は滅すると同時に生有が生じ
一切種子たる阿頼耶識(あらやしき)がこれに結合して
精子は成長して胎児を形成し出生に至る
般若経の解説
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html 世尊は輪廻を説かれたのではなく、輪廻からの解脱を説かれた
世尊の時代、人々は(バラモンなどの)輪廻を信じていた
だから世尊は、(バラモンなどの)輪廻を方便として、正しい知恵を説かれた
あなたたちは、大きな激しい変化にばかり心を奪われたことだろう
「いつも」もまた無限の変化でできていることを、あなたたちは見なければならない
これまであなたたちは、(バラモンなどの)善行に励み、永遠ばかりを探してきた
だから、凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れていない
無我を、縁起を、空を見ることがうまくない
あなたたちは、練習が必要だ
禅定に入ろうとする人は…
…この吐いて吸う大きな長い息を十数え、何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます
_ _ _
↑ 『(バラモンなどの)輪廻を方便として、その輪廻からの解脱を説かれた』と言う事であるらしい
チベット仏教ゲルク派 宗学研究室
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B 「空」の本当の意味を深く知るには、中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の僅かな差を吟味する必要があります
なぜなら、その僅かな差こそが、中観哲学の最も微妙な部分だからです
チベット仏教の伝統では、中観帰謬論証派の見解を、思想哲学の究極と位置づけています
これに次ぐのが、中観自立論証派の見解です
それゆえ、最高の見解と次位の見解の差異を吟味することにより、究極の真理である「空」の意味を深く知ることができるわけです
では、何が両学派の見解の差なのでしょうか? よく知られているのは、空の論証方法の相異でしょう
これは、両学派の呼称にもなっています。けれども、一番本質的な差異は、世俗の次元での自相(自性)の有無です
自相とは、「それをそれたらしめている本質的な要素がそれ自体の側にある」と私たちが自然と思い込んでいる
その心が向かっている先です
自立論証派は
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相を、世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が火の自相として認められる…ということです
これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう
帰謬派は、そのような自相を、世俗の次元でも否定します
http://blogs.yahoo.co.jp/dyhkr486/archive/2011/08/12 釈迦が説いた「中道」には
苦楽の二つの両極端を避ける「苦楽二辺の中道」の他に
釈迦が、カーティヤーヤナに語った
「すべては有る」という極端と「すべては無い」という極端のいずれにもよらない道
すなわち、「有無二辺の中道」というものがある
(以下、参考文献・石飛道子著・『構築された仏教思想・龍樹』佼成出版)
『ブッダは「有る」「無い」のいずれにもよらない中道を詳しく説明する代わりに
禅定について「空性の住処」と名づけるやり方を仏弟子たちに教えた
これは、瞑想している人の「想い」の中に何があるのか
あるいは、何がないのかを観る方法である
空無辺処、識無辺処というように、禅定が段階をおって進むごとに
前の禅定の中にある不安な想いは次の禅定ではなくなっていく
そのとき、なくなった不安について
想いの中には「空」(空っぽ)であると観るのである
ブッダは、瞑想にかんして「空」を教示したのであった』(P.38〜39)
129 :
神も仏も名無しさん:2012/12/14(金) 22:59:12.12 ID:5vAFIdRQ
入中論自注が出版されましたね
130 :
(-人-):2012/12/14(金) 23:18:10.53 ID:d17scmI4
心もまた空也
全訳 チャンドラキールティ 入中論/瓜生津隆真、中沢中/起心書房(2012/11)
空の立場から菩薩道の全容を描き出した、インド大乗仏教の不朽の名著
龍樹の諸論と、原始仏教から大乗仏教に及ぶ膨大な経論を駆使して
チャンドラキールティ(6〜7世紀)が十地の菩薩道と、それによって到達する仏の世界を論じた古典を全訳
龍樹研究に生涯をかけた碩学と、近代仏教学とチベット仏教の生きた伝統を踏まえた気鋭の解説を付す
カスタマーレビュー
//www.amazon.co.jp/product-reviews/4907022018/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending
瓜生津先生か・・・
牽強付会な事書いてなきゃいいが・・・
133 :
神も仏も名無しさん:2012/12/15(土) 11:44:17.15 ID:H6EyK25r
>>132 中観にかんしては学会通説の方が牽強付会じゃね
134 :
神も仏も名無しさん:2012/12/16(日) 20:15:27.34 ID:XPuSyMrF
最後の二章は後世の付加とかね。
135 :
神も仏も名無しさん:2012/12/16(日) 20:39:56.81 ID:WtRykvdV
136 :
神も仏も名無しさん:2012/12/20(木) 14:39:43.74 ID:SoRed3bG
>>135 おかしいよね。
石飛先生はその説を採ってないね。
137 :
神も仏も名無しさん:2013/03/10(日) 16:34:03.36 ID:EqNHB9rr
順中論の現代語訳が出版されましたね
138 :
神も仏も名無しさん:2013/03/10(日) 16:51:42.30 ID:gf9OcOOz
139 :
神も仏も名無しさん:2013/03/10(日) 23:30:16.23 ID:30coMnH5
137じゃないけど。
大蔵出版の大竹晋『元魏漢訳ヴァスバンドゥ釈経論群の研究』に入ってます。
新国訳大蔵経で世親の釈経論の国訳してる先生ですが、
新国訳に収録されない予定の世親の釈経論はこれに現代語訳を収めたらしい。
ただ本屋で見たところ漢訳校訂と現代語訳のみで訓読文は無かったです。
後は清弁の翻訳がほしいですね。
140 :
神も仏も名無しさん:2013/03/11(月) 06:02:51.16 ID:bJdsdXfr
>>139 ありがとうございます。
国訳は、新国訳でなされる予定ですね
141 :
神も仏も名無しさん:2013/03/11(月) 21:06:10.23 ID:Hw+yqra9
新国訳は川崎信定先生かな
清弁の翻訳はいろんな人が部分的にやってるので、自分はそれを集めて
コピーして製本しました
139の本は順中論を内容上世親の作と推測してます
142 :
神も仏も名無しさん:2013/03/11(月) 21:11:17.52 ID:Hw+yqra9
ごめんなさい
上で「新国訳は川崎信定先生かな」と書いたのは般若灯論の話です
順中論についてはわかりません
143 :
139:2013/03/12(火) 01:30:38.61 ID:qm0ObRtq
>>140 書き方が分かりにくくてすみません。
大竹先生の書き方だと、新国訳のタイトルに含まれない著作を選んで、
『元魏漢訳ヴァスバンドゥ釈経論群の研究』で現代語訳したらしいです。
>>141 川崎先生は『一切智思想の研究』がほしいですが高いですね。
般若灯論や中観心論は私も翻訳論文をかなり集めましたが、抜けている章も多いので、全訳を期待しています。
般若灯論は国訳一切経にもありますが…やはり西蔵語訳からの翻訳が。
起心書房、入中論の次はこの辺を出してくれないものでしょうか。
144 :
神も仏も名無しさん:2013/06/27(木) 23:21:41.27 ID:KHKQWYmx
山口瑞鳳先生の十二支縁起説や輪廻についての見解はどのようなものなのでしょうか。
145 :
神も仏も名無しさん:2013/08/10(土) NY:AN:NY.AN ID:wmaja5pW
真面目に輪廻とかいってんのかw
146 :
神も仏も名無しさん:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN ID:33pEfwXQ
いや、冗談だろう。
147 :
神も仏も名無しさん:2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN ID:CUSB3Ckm
中国観光?
148 :
神も仏も名無しさん:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN ID:WzdGwLoF
阿含宗桐山教祖の逮捕歴
昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕
警視庁西新井署
十二月手形詐欺容疑で逮捕
千葉県松戸署
二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕
警視庁防犯課
二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決
五月入所
十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪
149 :
神も仏も名無しさん:2013/09/06(金) 16:44:09.76 ID:/7RQ7zJg
中間派の間違いでは?
150 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/09/30(月) 06:44:00.22 ID:N9uvjSxe
ほしゅ
イェーイ、金倉先生の「悟りへの道」をゲットしたぜ!
152 :
神も仏も名無しさん:2013/10/29(火) 15:20:55.70 ID:4LiuwLwB
為末大「努力すれば成功する、は間違っている」 「正論」なのに「炎上」してしまうのはなぜ
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4562303.html 努力をしようがしまいが、なになにで成功することがその人の運命なら、それは起きるし、
努力がそのために必要なら、その人は努力をせざるを得ない=ぐうたらな性格を持てないように、
遺伝的・両親からの刷り込みなどによってプログラムされて生まれ、成長する。
全ては龍樹菩薩がいう相依性縁起によって起きている。努力をしていると信じている主体は
幻想である。だからぐうたらものは自己を改善しなければなどと自らあくせくしないがよい。
努力が運命なら、その時が来たらいくらぐうたらをつづけたいと思っていても、外部の条件と
内部からの衝動がそれを許さなくなる。
必要条件と十分条件の違いを明瞭に意識することは、
仏教論理学を学ぶ上でも大切だよな。
はじめまして。
いま読み始めたところですが、講談社学術文庫版「龍樹」(中村元)87p8行めの無常の説明
「何ら生滅変化しない、常住な実体は存在しない、ということを意味している。」
これ、この真ん中の読点↑必要ないですよね? 意味が取りにくい気が・・・。
155 :
神も仏も名無しさん:2014/03/07(金) 04:27:45.87 ID:kgpLLqvL
ね。
156 :
揚げネタ:2014/04/04(金) 22:39:53.39 ID:HoOsLRjo
157 :
揚げネタ:2014/04/04(金) 22:40:43.90 ID:HoOsLRjo
http://ai.2ch.net/test/read.cgi/psy/1395807242/880 880 神も仏も名無しさん sage 2014/04/04(金) 18:52:02.60 ID:gxCilNxJ
>> 878
その通りw
それを言えば仏陀は、仏陀は苦行の後に苦行を捨て中道に入って悟りを得た〜
で、仏陀と同様の悟りを得ようと思えば、仏陀同様に、苦行6年なり7年を得た後に瞑想をせねば悟りは得られない〜
と主張するに等しいw
私から見れば阿呆か?という一言。
仏陀から学ぶべきものは人間のやさしさ=慈悲の精神ですよ。中村元氏も晩年、宗教は慈悲と言っておられた。
http://ai.2ch.net/test/read.cgi/psy/1395807242/886 886 神も仏も名無しさん sage New! 2014/04/04(金) 19:59:40.69 ID:gxCilNxJ
仏陀の智慧に頼るから自灯明とは言えない〜と言うに等しいw
そもそも、真髄を見て吸収して自らのものとすればOKなのを、言葉に捉われ
自灯明法灯明〜では何が自灯明法灯明なのか!と言いたいw
自灯明法灯明と言う言葉自体が仏陀の言葉だろうがww
で、何に頼るっなって?w
馬鹿だと自覚していなければ、自らの思考能力の低いのを嘆く事です。
158 :
も一つあった:2014/04/04(金) 23:13:54.30 ID:HoOsLRjo
http://ai.2ch.net/test/read.cgi/psy/1395807242/869 869 神も仏も名無しさん sage 2014/04/04(金) 14:59:02.00 ID:gxCilNxJ
十二支因縁、縁起〜は原初はもっと単純なものであり、十二支の形態は後世の人間による完成形〜
という見方は正しいでしょう。
何も十二支の一つ一つに焦点を当てて、また順観だの逆観だのとアレコレ言う事に何の重要性があろうか?
死を覚悟して死ぬまで淡々と生きる事に意味がある。真理など知る事に意味があるのではない。
真理などは人間が知りえないものと見極めよ。
仏陀ですら真理は知らなかった。知らないで構わないと気がついたのが仏陀。
159 :
神も仏も名無しさん:2014/04/05(土) 00:58:00.03 ID:9jEVbHcY
>>158 仏陀は最後には
真理などどうでもよいと思ったのです。
160 :
神も仏も名無しさん:2014/04/29(火) 20:48:28.07 ID:+uSGAx/0
>>158 > 死を覚悟して死ぬまで淡々と生きる事に意味がある。
これは間違い。生きることそれ自体に意味などない。
> 真理などは人間が知りえないものと見極めよ。
これは正しいが
> 仏陀ですら真理は知らなかった。知らないで構わないと気がついたのが仏陀。
知らないとか仏陀ですら、ではなくて知ることができない論理的な理由があるから知ることができない。
仏陀ですら知らないで構わなかったんだからそんなこと気にするな、ということではない。
>>159 真理がどうでもいいのではなくて、知ることができないと知ったんだよ。
いい加減なこと書くなあ・・・
龍樹の教えの根幹である
「去りつつあるものが去ることはない」
という主張には矛盾がある。
「去りつつあるものが去る」
という言葉には、去る作用が二重に含まれているように見えるが、それは龍樹の言葉のトリック、見せ掛けに騙されているだけである。
「去りつつあるもの」とは、図で表せば
「(已去)―――――(←主体←)―主体が立っていた位置(未去)」
このように元々居た位置から僅少去った状態であり、
「去る」とは、その残りの大部分を埋める動きであるから、
決して去る作用が主体に対して二重にかかっているわけではない。
よって、「去りつつあるものは去る」という論理は成立し、龍樹の中論は論理に矛盾を孕んだ見せ掛けの屁理屈に過ぎないのである。
畢竟、龍樹は煩瑣な屁理屈を組み込んだ中論を作り、賞賛を得んが為に人々を騙したペテン師である。
>>161 己去は無いんだから去り様が無いだろ
未去も然りで来様が無い
現在有体過末無体だからな
己去未去言ってるのも所詮今だ
上座部も、大衆部も 「 実体我の存在は否定する 」
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/6299/repo1.htm 上座部である部派仏教徒の一部は、析色入空により、実体我の存在は否定する
五蘊(色・受・想・行・識)
十二処(眼・耳・鼻・舌・身・意の六根処と色・声・香・味・触・法の六境処)
などの法は存在するという「我空法有」を主張し
そしてその法は現在だけでなく
過去にも未来にも三世にわたって常恒であるという説一切有部の「三世実有法体恒有」の思想を展開させたのである
- これに対して -
大衆部は「現在実有過末無体」を唱え
五蘊、十二処などの法は
現在の一刹那のみが実有であって、過去と未来は実有はないとするのである
>>163 現在は有体だが仮有なのであって実有ではない
もし実有だったなら仮和合にならないし縁起できない
サイト等に現在実有と書いてるところも多く散見できるがそれは誤り
現在が実有と言っているのに、過末は「無体」と言い直しているところが悪意を感じる
正しくは、現在有体過未無体なのである
有体の有は単純な「有る・在る」を言っているだけで
実有の様にその有の永遠性まで言及せず保証しない
実有とは仮有の対語であり、実有と言ったなら縁起せずに永遠に保持されなくては実有に成らない
無に実が成立しない以上、有にも実は成立出来ない
それがこの世界の道理となっていて疑い様が無い事実である
> 実有とは仮有の対語であり
> 実有と言ったなら縁起せずに永遠に保持されなくては実有に成らない
> 無に実が成立しない以上、有にも実は成立出来ない
↑ 了解です
167 :
神も仏も名無しさん:2014/09/29(月) 03:44:39.97 ID:eLhRJemc
よいしょっ♪
あげ♪
168 :
神も仏も名無しさん:2014/09/30(火) 00:35:54.23 ID:qf0DqD5f
てか、華厳経の訳ってネットには落ちてないんだな、がっかりだぜ
169 :
神も仏も名無しさん:2014/09/30(火) 05:54:53.61 ID:7RnZO6uQ
170 :
神も仏も名無しさん:2014/09/30(火) 12:20:24.70 ID:qf0DqD5f
>>169 すげーな。でも読みにくい。wwww
しかし立派な装丁だな。
171 :
神も仏も名無しさん:2014/09/30(火) 15:41:30.68 ID:7RnZO6uQ
>>170 読みやすいのは、和訳だと全訳はないな
中公大乗仏典シリーズの十地経、如来蔵経典集
それから『さとりへの遍歴』それぞれ部分訳ですな
172 :
神も仏も名無しさん:2014/09/30(火) 20:42:16.67 ID:qf0DqD5f
>>169 これはすごい
ちょっと読みにくいが華厳経が読めるのは本当助かる
174 :
神も仏も名無しさん:2014/10/01(水) 06:24:40.97 ID:bBvkDuPK
175 :
神も仏も名無しさん:2014/10/06(月) 12:27:23.41 ID:QYpZSCmC
空観ってのは、勝手に大乗仏教のやつがこしらえただけで、はっきりいって上座部のやつは認めてない。
空観を解いた般若心経など、外道だというやつもいるくらいだ。
176 :
神も仏も名無しさん:2014/10/06(月) 13:49:43.35 ID:XPTwcpuN
>>175 ブッダゴーサも認めてるし、ニカーヤには同じことが説かれてるし、
『中論』や『入中論』は、ニカーヤとほぼ同じアーガマに依っている
たしかにブッダゴーサ著作に註を書いたダンマパーラは認めてないが、
あれは単に境地が低く理解が浅いだけだと思う
空観と諸法無我って、同じじゃないの?
無我(むが、パーリ:anatt&#257;、サンスクリット:an&#257;tman)は
「我」に対する否定を表し、文字通りには「我ならざるもの」という意味である
「我が無い」と「我ではない」(非我)との両方の解釈がなされる
あらゆるものを非我(我ではない)とすると、どこにも我を見出すことはなく
必然的に無我(我は無い)という結論が導かれるので
非我と無我は同じことを指しており
非と無の訳語の違いにこだわる必要はないということもできる
大乗仏教
「法有我」もしくは「自性」の思想は
経量部など他の部派や、般若経典を保持する初期大乗仏教のグループから批判された
特に大乗からは龍樹が現れ、論理学を用いて、これらの法有我説を徹底的に批判した
大乗は自性に反対の無自性を鮮明にし、空であることを徹底した
その論究の根拠は
従来の阿含経に説かれる縁起(えんぎ)説であり、ゴータマ・ブッダ本来の仏教を取り戻すものであった
このような「縁起―無自性―空」の理論は
存在や対象や機能などのいっさい、またことばそのものにも言及して
無我説からより発展した空の思想が完成した
龍樹以降の大乗仏教は
インド・チベット・中国・日本その他のいたるところですべてこの影響下にあり
空の思想によって完結した無我説をその中心に据えている
やっぱり同じじゃん
180 :
神も仏も名無しさん:2014/10/07(火) 19:58:32.23 ID:etK4FR3w
>>178 古い教科書説ども〜
少なくとも中観は思想じゃないし、批判なんかしてないよ
思想だったら、見解がないという中論やエジョウ論に反しちゃうし、
批判じゃなく、何らかの見解を寂滅に導いてるだけね
181 :
神も仏も名無しさん:2014/10/08(水) 12:00:43.15 ID:ELZqc2PI
空観を否定すると、非空なのか、非空の思想を持つやつって歴史上いないのでは?
Wikipediaを経典であるかのように扱う人がいることは、仏教にとって大きな障害となるでしょう。
184 :
神も仏も名無しさん:2014/12/15(月) 18:15:55.24 ID:irLdrYaC
187 :
神も仏も名無しさん:2014/12/15(月) 21:42:19.00 ID:m6yWHuSz
>>184 >石飛道子氏の仏陀論や龍樹論では、大胆な御指摘に目を丸くしますが、
>現代論理学への批判は的を得たものなのでしょうか?
プレゼンテーションに問題ありですが、本質的に当たってると思います。
>なぜ石飛氏や宮元淳一氏(仏陀は輪廻説を肯定していた、とする)
>の仏教学への批判に、仏教学界は応えようとしないのでしょうか?
「仏陀は輪廻説を肯定していた」という言い方に問題ありですが、輪廻、業因果を前提としていたことは当たり前のことです。
というか「仏陀は輪廻説を否定していた」とか「仏陀は輪廻思想を否定していた」とかいう説こそ現代日本仏教の和辻など一部の学者だけの妄説で、
まともな学者は一笑にふしますよ
> (仏陀は輪廻説を肯定していた、とする)石飛道子氏の龍樹論
>>185 >>186 の続き
中論觀涅槃品第二十五
諸の因縁を、受けるが故に、生死の中に輪転する
如実に、顛倒を知らないが故に、五受陰に因って、生死を往来する
- これを対処する為に -
中論觀法品第十八
八聖道分を修習して、我・我所を滅する因縁の故に、無我・無我所を得て、智慧を決定する
(色受想行識の想を滅させる為の)滅尽定を以って、第一と為し、終に、無余涅槃に帰する
中論觀涅槃品第二十五
諸の因縁を、受けなければ、是を、涅槃と名づける
如実に、顛倒を知るが故に、則ち、復た、五受陰に因っては、生死を往来しない
無性の、五陰は、復た、相続しないが故に、説いて、涅槃と名づける
中論觀四諦品第二十四
衆因縁より、生ずる法を、龍樹は、即ち、是れは空だ!と説いた
何故ならば、衆縁が、具足、和合して、而も、物が生ずる
是の、物は、衆因縁に属するが故に、自性が無い
自性が無いが故に、空である!但だ
衆生を引導するが故に、『仮名の空』を以って説いた
189 :
神も仏も名無しさん:2014/12/16(火) 01:58:53.41 ID:ajXSRsmE
>>185-8 ご指摘ありがとうございました。
アンベードカルに端を発する
インド新仏教が、不可触賤民への
差別の根拠となる輪廻説への抵抗の精神を
仏陀に求めているのはとどのつまり、
解釈の過ちという事になるとしたら、
悲しい錯覚かもしれませんね。
190 :
神も仏も名無しさん:2014/12/16(火) 06:53:37.46 ID:MWCbZfHV
>>189 アンベードカルは仏教をよく勉強してますし、
テーラワーダの僧から教えも受けたようですが、
仏教の聖者でも僧でもないので、仏教を伝承する資格がないと思います。
ですから、あれは仏教に仮託した政治運動だと思ってます。
伝統仏教ではありえないでしょう。
>>190 何を受け取ったら伝承と言えるんだ?
仏教は肩書きが大事だとお釈迦様は教えたかな?
当該人物の是非以前に、伝承だの資格だの僧だのと
お釈迦様がどうでも良いと観たものに拘るのは本末転倒
それを執着と言わずに何と言おう
伝承を言うなら我々は既に伝承している、思い出せてないだけだ
視覚を言うなら我々は既に資格を有している、人と言う縁を既に結んでいる
僧を言うなら出家前提なんだろうが、我々は仏道を目指した時点で出家している
どの家を出てるのか気付けないならその修行は間違ってると言わざるを得ない
192 :
神も仏も名無しさん:2014/12/16(火) 09:56:02.76 ID:MWCbZfHV
>>191 そりゃ伝統聖者から法を受け、悟ったら法の伝承者としての僧(サンガ)になるわけ
仏の法を伝承するのは僧であると釈尊も説かれているよ
だからこそ仏法僧の三宝に帰依するわけで、
そしてこの三宝帰依が仏教徒であるかないかを分ける基本なんですよ
アナタのような説は全く成り立たないとも思わないが、それは一部の生まれつき聖者であるような人のみのもので
それを如来蔵や仏性を根拠に凡夫一般にまで拡大解釈するなら邪見に他ならないだろう。
なんでもありの妄想、仏教に仮託した新興宗教が生まれると思う。
これもアナタに言ったのではなく他の人に言ったので、恐らくアナタには全く通じないと思う。
対話するつもりはありませんよ。
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/psy/1417423646/162 162 神も仏も名無しさん New! 2014/12/16(火) 13:15:03.39 ID:4kA4BRXb
>> 159
仏教は釈迦から直伝によって「聖なる沈黙」により伝授されたもの
「聖なる沈黙」から仏教を理解できなかったレベルの弟子たちが
釈迦の死後数百年もたってから、上座部だの大乗だのと名付けて
言語化した経典を残したにすぎません。
言語化された経典は歴史上いかようにも
弟子たちの自己都合により書き換えられてきました。
もはやそこに「真理」はありません。
経典に隠れる真理を読み取るには
ラマナ・マハルシのような現代の解脱者の教えと
照らし合わせることにより理解できます。
貴方はそれから目を背ける
私はそれを直視する
それだけの差です。
194 :
神も仏も名無しさん:2014/12/16(火) 14:19:14.91 ID:MWCbZfHV
まさに仏教に仮託した新興宗教、ニューエイジですね
ネオ・ヒンドゥーとかニューエイジとか言えばいいのになんで仏教というのか、
そこをよく考えてみるといいよ
>>192 >仏の法を伝承するのは僧であると釈尊も説かれているよ
奇な事を言うなw
その釈尊は誰から伝承されたのかな?
文字に書かれた経典が仏教にまだ存在してなかった時代と
文字経典が広まった時代とを混同し、且つ
そもそもの遺言である自灯明法灯明を無視すると
三宝帰依の本来の意義すら誤解して外道と化す
先ず、御僧侶様に従わなきゃ始まらない的誤謬を払拭すべきかと思われる
釈尊は仏道の師を持たず、端からの聖者に非ず、故に外道の修行をも行った訳で
僧に師事するのが正道と決め付けられるものでもない
在世当時とその後しばらくの出家比丘衆は、確かに伝承を担って居た事は否定しない
釈尊は伝承無く仏に成った訳だが、その他の弟子は釈尊の教えを継ぐ「歩く経典」だった訳である
その時代なら、御僧侶に着いて教えを乞い、様々な伝承を受ける事も吝かではないだろう
しかし、現代は文字経典が広まっていて、僧侶の口からも経典とその解釈しか聞く事が出来ない
教団組織を否定するつもりは毛頭無いが、鵜呑みで組織を信じる事を仏は同意しないだろう
釈尊は在世時、有志が教えを文字化しても良いかと尋ねられ、平易な言葉で一般的な文字を使うなら良し
と許可されたと伝わっている筈である
今まで良く目にしてきた経典はどうだろう? 漢文体そのままの呪文だった筈で
最近こそやっと平易な現代文に訳されて来たところである
今僧侶がその本来の役目として行うべきは、その経典の正確な現代語翻訳かと思われ
それこそ、釈尊の教えに寸分違わない善行だと言える
教科書が大事なのか、教師が大事なのか
それが現代と言う事である
本当に教師が大事なら塾は発生しないし
本当に教科書が大事なら参考書など発生しない
つまり、両者は自灯明法灯明に立ち返れば、参考程度でしかないとなる
三宝
仏教における「仏・法・僧」と呼ばれる3つの宝物を指し
具体的には「仏」と、「法」と、「僧」(僧伽)のこと
この三宝に帰依し、その上で「授戒」することで正式に仏教徒とされる
上座部仏教においては
涅槃を独自に発見した「仏」(釈迦)
その仏の説いた教え「法」
その教えを受けることで四向四果に達した者の集団である「僧伽」、であるとされる
ただし、一般には出家僧の集団がサンガと同一視される
大乗仏教においては
悟りの体現者である「仏」(釈迦、如来など)
仏の説いた教えを集大成した「法」
法を学ぶ仏弟子の集団である「僧伽」、といった理解がもっとも一般的である
ほかに、「仏」を仏像、「法」を経巻、「僧」を出家者、と捉える理解もある
>>197 悟りの体現者である『釈迦、如来など』、仏法僧への帰依
帰依(きえ)
仏教用語において、拠り所にするという意味
「三宝」に「帰依」、つまり仏教徒になるという意味で最も多く使われる
南方仏教の仏法僧への帰依
1度目の帰依
ブッダン・サラナン・ガッチャーミ
ダンマン・サラナン・ガッチャーミ
サンガン・サラナン・ガッチャーミ
普礼真言(ふらいしんごん)
礼拝・勤行の開始時に唱える。真言宗で多用される。三回拝することが一般的である
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ
「オーム(聖音)。一切の如来の御足を礼拝し奉る」
http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/816/1/culture5_79-93.pdf 『中論』冒頭の帰敬偈において
不滅・不生・不断・不常・不一・不異・不来・不去という八不によって仏陀が形容されている
…戯論 (想定された論議) が寂滅しており, 吉祥である (めでたい), そのような縁起を説示された
正しく覚った者 (仏陀) に, もろもろの説法者のなかで最もすぐれた人として,龍樹は敬礼する。『中論』 帰敬偈
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6 身体について…感覚について…心について…諸法について…
(それらを)観察し、熱心に、明確に理解し、よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである
みずからを灯明とし、みずからを依処として、法を灯明とし、法を依処として
四念処(四念住)の修行を実践するように「自灯明・法灯明」の教えを説いた
>>197 >この三宝に帰依し、その上で「授戒」することで正式に仏教徒とされる
釈尊はどんな三宝を立て、誰に受戒したのかな?
仏法僧も突き詰めれば全体が如来そのものとなり道理そのものとなる
それは既に自分も含まれているだろうに
教団が勝手に立てて強制している三宝義に毒されすぎかと思われる
もし、その三宝が正しいなら自灯明法灯明は成り立たない事になる
釈尊の御遺言虚しからずや
>>200 乃至三教十二分教も、皆な是れ不浄を拭うの故紙なり
203 :
神も仏も名無しさん:2014/12/16(火) 20:16:59.37 ID:MWCbZfHV
>>195 >そもそもの遺言である自灯明法灯明を無視すると
話す気はないが、二重三重に誤解してるというか、
自分の認識に依れみたいな「自灯明法灯明」に依って勝手な解釈に根拠を与えるのが日本の和辻から始まる近代の適当解釈なんだよね
で、この手の人は自分の勝手な解釈こそ仏教と思うから始末におえない
ます、「自灯明法灯明」でなく「自洲法洲」で、
「自洲法洲」というのは輪廻の激流のなかで中洲に譬えられる
法を行ずることのできる自身というチャンスによって
法という船・筏に乗って彼岸・向こう岸である涅槃へ渡れという意味
「自洲法洲」を「自灯明法灯明」と誤訳して、しかも自分の認識に依れみたいな
近代的自我を満たすような解釈してるのは、専ら日本の出来の悪い和辻のような文献学者だけ
しかも遺言ではない。遺言は「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい」などで、ここに仏教の戒定慧が簡潔に説かれている。
他の人のために書くのもこれで充分だと思うのでもう書くのは辞めます。
>>203 >この手の人は自分の勝手な解釈こそ仏教と思うから始末におえない
熨斗紙をつけてお返ししますよw
>「自灯明法灯明」でなく「自洲法洲」
意味は同じ
そして、船・筏と例えられるのは自分の認識などではなく
あくまでも「肉体」と言う現象のことだ、意識や認識など
現象=縁起の前に於いては妄想以外の何ものでもない
そうでなくては
>法という船・筏に乗って彼岸・向こう岸である涅槃へ渡れという意味
は成立しない
自分の肉体はそもそも法=現象によって成立できているのであり
そこを無視して「意識や認識や心」などの妄想に固執する事を
仏は「妄執・我執」と断じたに過ぎない
>>203 涅槃寂静の理由を考えたこと無いのか?
我らの住むこの世界が常に騒がしく煩わしいのは
「心と呼ばれる一切妄想」が付き纏っているからなのだよ
その一切妄想を見破った先に涅槃はあり、そこは常に寂静なのだよ
今もこれからも、そして永遠にだ
お前はその二つの眼に於いて既に涅槃は見ているし
我々は常に涅槃以外に踏み出せたことなど一度もないのである
心と呼ばれる一切妄想が見破れない限りそれは気付けない
だから仏は抜苦与楽したいなら涅槃を目指せと教えた訳だよ
まあ理解出来ないだろうけどな
理解出来ない限り、お前はずっと増上慢のままだ
涅槃には妄想が存在しない
一切の宗教も仏教ですらもそれは人の思いが定めた妄想に過ぎず
涅槃には仏教と呼ばれる概念も仏と言う観念すらも存在し得ない
これが分からない限り涅槃には到底至れず、増上慢を払拭する事など出来る訳が無いのである
207 :
神も仏も名無しさん:2014/12/17(水) 09:19:00.99 ID:rcFqawID
こういうタイプは必ず勝義に立ちますね。
勝義に立てば、一切の現象が妄想なのは確か
しかし、以下のように仏教を述べるなら仏教の中での妥当性はあります。
その中で「自灯明法灯明」あるいは「自洲法洲」が遺言でないのも明らか
こういった基本的な自分の誤認も認めることができないのは慢心以外の何なのか?
こういうタイプは自分の誤りを一つも認めることができません。
「一切の宗教も仏教ですらもそれは人の思いが定めた妄想に過ぎ」ない。
確かにそういうことはできます。
しかし、仏教は妄想としての法によって妄想の無い寂滅の境地に導くものです。
その法について妥当性としての正誤があります。
それすら認めないなら仏教を述べる必要もないでしょう。
またどうして自分の説だけが正しくて、伝統仏教が正しくないなぜ汚い言葉で罵ることができるのでしょうか?
そこに自分に対する慢心以外の何があるのでしょうか?
今直ぐ私の前に現れられるような神通があるなら、まあそう思っても仕方ないかもしれないとも思います。
しかし、どうせその程度の神通もなく、単に思い込みで適当な説を立ててるだけだと思うんですけどね
現れたなら、謹んでなるほど仏教ではないと思うが、力はある人だと謝罪しましょう
現れることもできないなら、全く涅槃の境地になく、ただの慢心だと自覚してほしいものです。
自覚することも無理だと思うけど
ダルマについてのブッダの教えは
世俗諦(せぞくたい)と勝義諦(しょうぎたい)に基づいている(中論:24-8)
世俗諦(せぞくたい)としての理解することなしに、勝義諦(しょうぎたい)は説き得ない
勝義諦(しょうぎたい)としての理解することなしに、解脱(涅槃)は達成され得ない(中論:24-10)
_ _ _
我(アートマン)。身体の中にあって、他人と区別しうる不変の実体(不変の魂のようなもの)
サーンキヤのプルシャは永遠に変化することのない実体である、としている
− これに対して −
(変化することのない実体があるのなら)
もし依存的に生じることが否認されるなら
空性それ自体が否定されるのである
そうなればこの世のすべての現象/慣わしを否定することになるだろう(中論:24-36)
依存的に生じること(縁起)を理解する者は誰であれ
苦しみ(苦諦)をも理解し
そして、それが生じるということ(集諦)を理解し
そしてその方法(道諦)とともに
それが消滅するということ(滅諦)を理解するのである(中論:24-40)
>>207 >仏教は妄想としての法によって妄想の無い寂滅の境地に導くものです。
では仏法の大意とは何だったかな?
妄想をやめる事であろう?
それ以上の自己主張たるお前の妄想に何の意味があろう
>今直ぐ私の前に現れられるような神通があるなら
オカルト妄想も甚だしい
証得の暁に於ける三大成果は三明であろうが
所謂、宿命通・天眼通・漏尽通だ
その他は妄想に過ぎない
因みにだ、六神通などの内訳は勝義の立場に於いて言うなら事実だ
世俗諦の立場に於いては妄想に過ぎない
とかく「勝義に立ちたがる」等言って逃げたがるが
六神通などは勝義の所作に他ならないので
>今直ぐ私の前に現れられるような神通があるなら
とこれを言う時点で論理が矛盾し破綻している事になる
不常不断不生不滅不一不異不出不来が何の事だか分からないうちは
六神通も夢物語に過ぎず、皮肉のための引き合いにしか使い道もなかろう
仏はそれに同意しないと思われる
211 :
神も仏も名無しさん:2014/12/17(水) 10:43:16.33 ID:rcFqawID
やっぱり、何の体験もないご都合主義解釈ですね
それ仏教じゃないから、適当に読んで妄想しただけ
こんなんで分かってるつもりだからなあ
臨終の時に後悔するだろうけど、遅いと思うよ
ご自愛あれ
>>211 いや、参禅は欠かしてないぞ?w
>それ仏教じゃないから
ではどれが仏教なのかな?
仏教を出してみなさい
山川草木一切衆生悉有仏性なれば
あれもこれもどれも漏れなく仏法であり
この世界に仏法ではないものなど一つも無かろうに
仏法とは道理の事だぞ?この世界に道理ではない事物など
一つも存在して無かろうに
何をか言わんかやである
213 :
神も仏も名無しさん:2014/12/17(水) 10:48:39.22 ID:rcFqawID
勝手にやってくださいよ
付き合う気は毛頭ないんで
知ったかぶりは直ぐ逃げるな
216 :
神も仏も名無しさん:2014/12/17(水) 11:00:00.02 ID:rcFqawID
釈尊も無駄な対話は辞めるけどね
参禅してるような初心者が教えも妄想とか笑うしかない
現成公案だというなら、その道元禅師も含め、禅宗で伝承・法灯を尊重しないものはいない
特に道元禅師は面授にこだわっている
それ以前に「自灯明法灯明」が遺言でないという誤りも認められない人に何を話せというのか
>>215 中有身とやらが仏典の大事に有るかどうか
釈尊は死後に我はどうなると言ったかな?
無言、だったんじゃなかったか
まぁそれは良かろう
中有身とはこれと見せることは出来ないが
確認する術は無くもない
おじゃるよ、お前が死んだらどうなる?死体が残ろう?
その死体は生前身に対しては中有ではないのかな?
死体は火葬されるだろうな、火葬されて残ってるはずの
骨と灰と、焼いてる最中に飛んでいった気体と
生前身に対してこれらは中有ではないのかな?
埋められ撒かれ飛沫し、色々な物質に還元されていく様は
中有身と言えるのではないのかな?
良く考えようか
阿頼耶識とは縁起と直結した概念
それは如来そのもの以外に何が有ろうか
>>216 >それ以前に「自灯明法灯明」が遺言でないという誤りも認められない人に何を話せというのか
その固執と憤りを仏法者なら自制できるんだがな
219 :
おじゃる:2014/12/17(水) 11:32:52.35 ID:qG7U94Qg
>>219 そうか、なら好きなようにすればいい
といってもどうせやらんのだろう
それも好きなようにすれば良いさ
221 :
おじゃる:2014/12/17(水) 12:05:52.84 ID:qG7U94Qg
> どうせやらんのだろう
「瞑想・呼吸法・思いの手放し」などの実践は、したことはないけど
(教学のために、一法庵の podcast 法話は、拝聴させて頂いてます)
私の場合は
神社・仏閣・霊場なども肯定派なので
年末・年始の時など
伊勢山皇大神宮も、成田山横浜別院の護摩修法の参拝も、両方とも、お参り、させて頂いてます
普礼真言(ふらいしんごん)
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ
准胝観音(じゅんていかんのん)
準提功徳衆、寂静にして心常に誦すれば、一切諸々の大難、よくこの人を犯すこと無し
天上及び人間、福を受くること仏の如く等し、この如意珠に遇はば、定んで無等等を得ん
もし我(龍猛菩薩)、誓願大悲のうち、二世の願を成ぜずんば
我(龍猛菩薩)、虚妄罪過のうちに堕して、本覚に帰らず大悲を捨てん
大準提咒
ノウボ・サッタナン・サンミャクサンボダ・クチナン・タニヤタ・オン・シャレイ・シュレイ・ソンデイ・ソワカ
龍猛菩薩ってナーガールジュナの事で
それは龍樹尊者の真言宗の呼び方なんだがな
223 :
おじゃる:2014/12/17(水) 12:28:59.93 ID:qG7U94Qg
>>223 なるほど
密教顕教で迷ってると言う訳か
「教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏」
人心とは心の意味ではなく「人の内側にある心棒」の意味だ
見性とは己の内にある性分を見極める事、それによって即身成仏するという意味だ
不立文字は文字に表せないという意味だ
教外別伝は教えの外に別に伝わっているものがあるという意味だ
密教以外に何があるかね?
信心ならば顕教で十分なのだよ
しかし、悟りたいなら話は別だ
教外別伝の智慧を見定め辿り着かねば至れない
スシーマ経にもあろう?
「あなたが知ろうと知るまいとに因らず、私たちは智慧によって解脱したのです」
とね
中国に仏教が伝わった時の事を考えれば話は簡単だ
達磨師あたりで考えて、面壁9年で悟りましたと、内訳はこうですと
衆生がそれ聞いて理解出来る訳が無い、しかし有り難いのだろうから
取り合えず習って勉強し大事にしていこうと重用されたりする
その後に経典類が続々と伝わって来て、その研究がされる
達磨が言っていた事は本当だとするもの、いやいやもっと複雑なこっちだとするもの
色々争論されてるなか、満を持して伝わった後期大乗仏教
それが密教だ
そもそも釈尊の教えは師拳の如く全て明かされているのだが
釈尊の悟りに関しては何も明かされず、ひっそり伝わってきただけである
一切の経典に悟りは書いておらず、明かされて居ない
その事実に気付いていた研究者や修行者が後期大乗仏教である
密教に飛びついても何ら不思議はないのである
ただし、随分ヒンドゥ化された呪術的なものに様変わりしていた訳だが
智者は先入観に捉われずにその本質を見抜けた訳である
仏教に大乗も小乗もなく、釈尊の悟りに顕教も密教もそもそも無い
隠すことも無く明かされる事も無い、それが解脱の内容ってだけの話だ
これは智者にしか分からないしたどり着けない
だから愚者は必死に知ろうとし、知り得てないのに知ったかぶりたがる
知ったかぶれるものなど何も無いのが悟りなのに、愚者にはそれが分からない
226 :
おじゃる:2014/12/17(水) 20:57:26.40 ID:qG7U94Qg
六道輪廻とか、科学的根拠の無い妄説を
垂れ流している点で、仏教なんて
くだらないよな。
ブッダはなぜ輪廻のような妄想に反論しなかったんだ?
あほちゃうか?
>>227 輪廻は妄想ではなく事実だよ
反論のしようも無い
現実の、お前だってご母堂の卵子と父上の精子とが結合・輪廻して人と為り得ている
精子は人かな?卵子は人かな?
精子卵子も両方の摂取せられし養分から輪廻して成っている
各養分それぞれも外では何であったか、ほんの少し考えるだけである程度分かろう
229 :
神も仏も名無しさん:2014/12/25(木) 22:29:33.45 ID:i3B7lSZE
>>228 >輪廻は妄想ではなく事実だよ
『至道無難 唯嫌揀択』
>>229 中論観涅槃品25
19 輪廻はニルヴァーナに対していかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別もない。
ニルヴァーナ=涅槃は無始無終であり、故に輪廻も無始無終なのである
至道無難 唯嫌揀択故に迷い惑い苦悩する、有ると思って迷い、無いと思っても迷う
斯くなる常見断見の邪見は涅槃に導かない
http://www.jyofukuji.com/10zengo/2006/08.htm 至道とは真理に通じる道、いわゆる悟りに至る大道のことであり仏道のことである。また菩提(さとり)そのものを意味する
一般的に悟りを開くということは、大変な修行を伴い苦修錬行があって容易に得られるものではないと云う受け止め方をされるが
仏祖の大道と云うのは何の難きものではないのだ
唯、物事を対立的に見て、選り好みをし、取捨選択の思慮分別をして執着をするところに迷いが在るのだ。その揀択がいけないのだ
わずかでも、憎愛の念ならば揀択に堕ち迷い差別の世界に陥るだろう
だが、いささかも思量する言語(ごんご)無ければ、そこはもう、すっきりとした絶対明白の悟りの世界である
今まで妙法といい、如来の真実義は百千万劫に遭い難しなどと云われ、その仏道には深遠な哲理があり
至難な実践がなされなければならないという思い込みがあった。だが、そんな既成の観念を打ち砕き
何にも難しく考えることはいらないよ、悟りに至るのは実は簡単なことなんだよと一蹴してしまう言葉が「至道無難」である
悟りをあらわす明珠や宝玉は既に掌にありと云われてきた言葉と同様で、何も遠くに求めることは無い
もとより霊明なる仏性はすでにわが身に備わっているではないか
孟子も「道は近きに在り、而(しか)るに諸(これ)を遠くに求む」と云い、人は行うべき道は身近なところにあるのに
わざわざ高遠なところに求めようとすることを戒め、いたずらに小難しい理論をもてあそぶのを戒めている
私たちは何かことに当たってあれこれと考え、理屈をこねてなかなか実践に移せないでいることが多い
事に当たって二元対立の分別心を起こし、いたずらに考え過ぎて迷ってしまう
下手の考え休むに似たりである
そんな是非、得失、憎愛などの揀択をやめて、あるがまま、そのままの純なるこころでもって行えば、
まさに柳は緑、花は紅のそのままの自然法爾(じねんほうに)の世界なのである
232 :
神も仏も名無しさん:2014/12/26(金) 05:17:43.52 ID:nmee17vc
233 :
神も仏も名無しさん:2014/12/26(金) 06:53:06.43 ID:yjDgrM4J
>>231 信心銘のいう言葉なく分別が静まった勝義の境地では、言葉なく分別がないのだから有無もないし、何かもない
だから輪廻もない、あらゆる法が有無など四句分別を超えている
だけど世俗諦で仏教の道を信じるものは輪廻の因果があるとしなければ断見という邪見に他らない。
道を修行する時は、まだ勝義に留まっていないから
和辻のような世間に阿った学者は、このような勝義表現をたてに仏教は輪廻を否定するなどと言う輩がいますが、
それは唯の断見以外のなにものでもありません。
仏教を信じないなら、輪廻を迷信と捉えるのも自由。仏教は強制し教えを押し付けるものではないから
234 :
神も仏も名無しさん:2014/12/26(金) 09:32:37.99 ID:WSDjOIwE
>>233 >だけど世俗諦で仏教の道を信じるものは輪廻の因果があるとしなければ断見という邪見に他らない。
世俗諦仏教は信仰ではない(相応部6-1、Sn.1146)。
仏法=仏道は、世俗諦一切においての疑団→自己検証の道である(相応部35-23・70)。
断見・常見は、検証不能の世俗一切外における狭義の戯論であって、
実践仏道では無視すべきドグマでしかない<無記>(中部63)。
『・(現世で)行為をする者と、(来世で)カルマを受ける者とは、同じであるとするのが、 カッサパよ・・・これは常住であるという見解に到達する。
・(現世で)行為をする者と、(来世で)カルマを受ける者とは、違うものであるとするのが、 カッサパよ・・・断滅するという見解に到達する。
カッサパよ、これら二つの極端に近づくことなく、中道によって如来は法を説くのである。』(相応部12-17)
過去世・来世は、<疑団→自己検証>不能の一切外ドグマ論でしかない→無記。
過去世・来世が検証不能ならば、現世の何たるかも確定できない。
時間が存在しないのだから、モノ・コト(有為)は存在しないのである。
有為が存在しないから、無為も存在しない。
空間もモノ・コトだから存在しない。
一切は皆空である。
したがって『これら二つの極端に近づくことなく、中道によって如来は法を(還滅して)説く』のは当然である。
ゆえに『(ブッダによって)あたかも幻の如く、あたかも夢の如く、あたかも蜃気楼の如くであるとして、
生起(生)が説かれ、持続(住)が説かれ、消滅(滅)が説かれているのである。』(龍樹 中論7-34)
235 :
神も仏も名無しさん:2014/12/26(金) 11:11:22.70 ID:yjDgrM4J
これが典型的日本近代型断見ですね
>>234 >時間が存在しないのだから、モノ・コト(有為)は存在しないのである。
>有為が存在しないから、無為も存在しない。
>空間もモノ・コトだから存在しない。
>一切は皆空である。
それはある意味間違いでは無いが、見解としては只の空言に過ぎない
仏は初転法輪の時に衆生は悉く顛倒していると正された
それは無常・苦・無我・不浄のこの世界を常・楽・我・浄と夢見ている者達にだけ言ったのではない
涅槃を証せたと判じれる言質を述べる者どもが常楽我浄を無常苦無我不浄と見誤っている(亦は詐称している)事をも正したのである
誰かが言っている「四句分別」なども所詮は概念であり、それは思いに過ぎない
涅槃は何も無い訳ではない、衆生として何も感知・思考・分別等出来ないだけなのであり
概念では推し量れないのであり、思いを用いない清浄なのであり
真に正しく善良で、それは永遠なのである
閻魔などはこれを常見と見るが、断見のものにはそう見えて当然なのである
思いを用いない世界が実は身近に有った事すら未だに解らんのだから無理も無い
甚深微妙の法とは甚だ深く微妙にしか差が無い法と言う事で
それはこの世界の穢土と涅槃との差を指している
涅槃は浄土に過ぎない
中論は大変素晴らしく良く涅槃に導く論述と言える
しかしこの著者は唯一無二の誤謬が論述全体を覆っている事を警告して居ない
勿論、説一切有部の過ちを「正す為だけ」に著されたものだから
本人は注意書きをする必要は無いと考えたのかも知れない
仏道修行を行うに当たり、必ず読まねばならない意味で著者は著した訳じゃないと言う事だ
中論を手引書と看做して読むものに、敢えて龍樹尊者に替わって申す
不殺生戒に誓って、今持てる一切の武器を置きなさい
涅槃にその武器も不要なのです
論破される事を恐れてはいけない
論破を恐れて中論を武器にしてはならない
経典に於いても同じ
仏の智慧に負けは存在しないので武器も不要なのです
238 :
神も仏も名無しさん:2014/12/26(金) 13:00:27.97 ID:WSDjOIwE
>>234 >だけど世俗諦で仏教の道を信じるものは輪廻の因果があるとしなければ断見という邪見に他らない。
世俗諦で仏教の道を信じるものは輪廻の因果があるとするのも常見という邪見に他らない。
両者ともに、一切外の妄想ドグマ論でしかない(相応部12-17)。
そもそも縁起とは、無限定な無量−無量の関係性(作用・機能)の象徴的比喩示唆である。
あえていえば多因多果(無量因・無量果)である。
ところが十二支縁起論をはじめとする『輪廻の因果論』は、限定され且つベクトルを持った特因特果、解釈分別因果論である。
結論(業報輪廻転生論)先取り、後出しジャンケンのこじつけレトリックである。
“風が吹けば桶屋が儲かる”の落語的ご都合主義である。
ナンセンスなのは明らかだろう。
縁起の趣旨は、苦しみという結果にはその原因があるから、原因をなくせば苦しみを超克できる(四諦)機能にある。
だから、我執⇒苦というおそらく最初期(例えば、Sn4章5章)の簡明な教えでいいのだ。
しょせん、十二支縁起(輪廻の因果論)などは、大富豪セッティたちとの援助交際により事実上荘園貴族化し、
僧院の奥深く暖衣飽食でヒマをもてあましたスコラ連中による詭弁の極致だというしかない。
239 :
神も仏も名無しさん:2014/12/26(金) 13:00:55.25 ID:WSDjOIwE
そもそも仏法=仏道は、苦の渦中にある菩提心凡夫のためにある。
菩提心凡夫が「生」以前の様相を検証することは不可能→無記(中部63)といわねばならない。
検証できる『測る基準』(Sn.1076)がないからである。
十二支縁起は仏教を信仰宗教と化してしまう(相応部6-1参照)。
その狙いは経験主義的検証性抜きの業報輪廻転生論の密輸入とこじつけ妄想による信仰論証である。
これではカースト・バラモン階級連中と同じ利権動機ではないか!
ブッダの教えに対する(宗教的)堕落というしかない。
十二支縁起は仏説ではない。一切外妄想である。
無視すればいいのだ。
以上のことは、勝義空性経(『除俗数法』:十二支縁起を排除する)においても明確である。
240 :
神も仏も名無しさん:2014/12/26(金) 13:26:04.32 ID:WSDjOIwE
『有業報而無作者。此陰滅已。異陰相續。除俗數法。』(第一義空経)
# 業(おこない・行為)と報(むくい・異熟・結果)(という“作用”)はあるけれど、“作用”の主体はない(無我)。
ある諸要素の集積の“作用”が已めば、因縁にしたがい、次なる異なった諸要素の集積の“作用”が起り続ける。
十二支縁起(という“内容”)は存在しない(排除する)。
縁起は、十二支縁起(輪廻の因果論)のような概念的な分別特因特果(一因一果)論ではなく、
無量因無量果(多因多果)の<境際断関係>だからである。
限定不能な<境際断関係>の如くだから、一切は無常であり、無我→★「非分別」★→空、中道、時空際断の如しなのは当然だ。
限定不能な<境際断関係>に、輪廻の因果論のような生死(という相対概念)はありえないのである。
241 :
神も仏も名無しさん:2014/12/26(金) 14:37:22.76 ID:yjDgrM4J
>>236 >それは無常・苦・無我・不浄のこの世界を常・楽・我・浄と夢見ている者達にだけ言ったのではない
>涅槃を証せたと判じれる言質を述べる者どもが常楽我浄を無常苦無我不浄と見誤っている(亦は詐称している)事をも正したのである
>誰かが言っている「四句分別」なども所詮は概念であり、それは思いに過ぎない
>涅槃は何も無い訳ではない、衆生として何も感知・思考・分別等出来ないだけなのであり
>概念では推し量れないのであり、思いを用いない清浄なのであり
>真に正しく善良で、それは永遠なのである
なるほど、悪くはないし、そう言うこともできるかもしれないけど、
それも四句分別の中の表現ですね。そこを外してるようにも見える。
>涅槃は浄土に過ぎない
いやいや、涅槃と諸浄土は違うよ。
>>237 >勿論、説一切有部の過ちを「正す為だけ」に著されたものだから
違うと思う。中論は仏教の全体像ではなく般若、戒定慧の慧に特化してるはと思う。
けど、見解一切を戯論寂滅に導くもので、変な部派的な批判書ではないでしょう。
>不殺生戒に誓って、今持てる一切の武器を置きなさい
>涅槃にその武器も不要なのです
>論破される事を恐れてはいけない
>論破を恐れて中論を武器にしてはならない
>経典に於いても同じ
>仏の智慧に負けは存在しないので武器も不要なのです
これはいいですね。正にその通り。
一句付け加えるなら、法によっても悪業は積まれる。
注意すべきですよ。そこの閻魔くん
242 :
神も仏も名無しさん:2014/12/26(金) 14:46:08.38 ID:WSDjOIwE
上記のごとき無限定な<境際断関係>=『あるがまま』には、
当然「出生」がありえないから「老死」もない。
これがブッダが示唆された<不死>であり、<不生の生>だ。
*縁起を見るものは、法を観る、法を観るものは縁起を見る(中部28・象跡喩大経)
*縁起を知覚するものは、すなはち、<苦・集・滅(制)・道>を見る(中論 24-40)
*縁起を般若智直覚するものは、すなはち、無<苦・集・滅(制)・道>を観る(般若心経)
243 :
神も仏も名無しさん:2014/12/26(金) 17:22:07.13 ID:lG0sZrDc
>>228 >精子卵子も両方の摂取せられし養分から輪廻して成っている
養分に意識はあるのかな?
縁起説による理解は可能だが、輪廻の証たりえないよ。
>>239 >そもそも仏法=仏道は、苦の渦中にある菩提心凡夫のためにある。
これは正しい
>菩提心凡夫が「生」以前の様相を検証することは不可能→無記(中部63)といわねばならない。
検証とは思いによる行為であり、それでは結局涅槃を証せない故に菩提に至れない
自分の欲などの思い一切を捨てるが如くに仏道に預ける事こそが仏道の肝要となる
「今日は気が乗らない」時でも身を仏道に預けて坐るのである
どこに検証の余地などあろうか
>菩提心凡夫が「生」以前の様相を検証することは不可能→無記(中部63)
龍樹尊者は卵生胎生各生の事にも触れていたであろう?
古代インドでも既にどうして子供が生まれるのか位はそれなりに分かってた訳で
21世紀のこの時代に、我々がどうやって人間として出生してこれたのかを
「分からない」とか検証不能とか言うのはナンセンスであろう
常人の出生法として通常考えられる方法以外の事は除外する(例イエスとか)
自分に出生以前の記憶が無いからと、それを根拠に道理に反する考えを述べても
如来は同意しないだろう
>>241 >それも四句分別の中の表現ですね。そこを外してるようにも見える。
考えの中で思うならそうであろう
一切の考えなど妄想に過ぎないのだから
腑に落ちないならばそれまでの話
>いやいや、涅槃と諸浄土は違うよ。
浄土とは「一切穢れのない場所」の事
我らの住むこの世界を釈尊が何故「不浄」と言ったのか
その意味が分からないものに浄土の意味も分からないであろう
>>241 >違うと思う。中論は仏教の全体像ではなく般若、戒定慧の慧に特化してるはと思う。
中論は、著された当時の最大勢力であった説一切有部の主張であるところの
「三世実有法体恒有」を正す為に著された事はご存じないのかな?
対論形式の詩篇になってる理由も「破析相手」があり、「議論禁止」の戒故にそうなっているのだが
故に、万民救済の助言の書としての論述ではそもそもないのだよ
因みに、涅槃と世俗とは全然違う世界である、様な見解を示すのが三世実有法体恒有の極みとなる
釈尊の言う涅槃は、何処に行く訳でもなくいつも常にそばにあると教える
ただ、今はそれが見えてても見えず分からないだけなのだと言う
甚深微妙の法とは、甚だ深くて微妙な差しかない「世俗と涅槃」と言う法の事なのである
現成公案故にこの世界全体が公案そのものなのであり、公案とは仏法を
教わる問題集とも言える
最後にもう一度言う
釈尊は我々の住むこの世界を「不浄である」と正した
我々は普通、顛倒しているので「この世界が汚れてるとは思えない、綺麗とも言えないが」と思ってしまう
釈尊は何を指してこの世界を「不浄」と言ったのか
ちゃんと指差して指摘されているのである
これが分かるとこの世界の本当の姿が或いは判るかも知れない
胸に手を当ててゆっくり考えて頂きたい
249 :
神も仏も名無しさん:2014/12/26(金) 20:09:34.19 ID:yjDgrM4J
>>246 >中論は、著された当時の最大勢力であった説一切有部の主張であるところの
>「三世実有法体恒有」を正す為に著された事はご存じないのかな?
いや、それは一部の誤解だから。
インドに帰ればもちろん、シナでさえ違ってる。
その程度の知識で断定されても困るよ。
浄土もそう。話ても通じないと思うので辞めますね。
251 :
神も仏も名無しさん:2014/12/27(土) 08:43:56.42 ID:ZM2b3kYb
中観を知るには梵蔵漢が最低必要なんだけど、読める?
日本語の概説書読んで知ってるつもりじゃなあ
日本語に限らず、世界の中観研究はほとんど誤解だらけだし
その知識自慢は涅槃に導けない
そんな虚栄心も自制出来ない中観知識など意味が無い
それが解らない内は中道も解ってない
中道が解らずにどうして中観が解るだろうか
253 :
神も仏も名無しさん:2014/12/27(土) 11:28:36.13 ID:cyq2gL5b
>>252 >その知識自慢は涅槃に導けない
どうもペンキ屋同士の論争は混色マンガに成りがちだなw
中観の如理作意は重要だ。
254 :
神も仏も名無しさん:2014/12/27(土) 11:43:20.21 ID:cyq2gL5b
>>252 >それが解らない内は中道も解ってない
これは痛い。
中道は「解る」ものなんですか?
『縁起しているもの、
(1)それをわれわれは「空」と説く。*空観
(2)それは更に「相待(相対)の仮設(仮説)」でもある。*仮観
(3)それは即ち「中道」にあるのである。*中観 』
(中論24-18)
この月を指す示唆文言を相対「理解」できるわけがない。
理解できるのなら、仏教系大学卒業者は覚者サマのはずだw
255 :
神も仏も名無しさん:2014/12/27(土) 13:13:45.33 ID:ZM2b3kYb
自分の誤読を認められる方なら対話できるけど、
そうでない人と話しても無理ですね
>>254 >理解できるのなら、仏教系大学卒業者は覚者サマのはずだw
「解る」を一般的な「知り得る」と思ってるから解らないのだよ
知るだけなら三歳児にも根気良く教えれば聞いて分かる
それを行い知る、つまり体得せしめるとなればお前にだって難儀至極
それが証拠にお前は他人を小馬鹿にしている
そんな体たらくが仏道を修めてるなどとは到底言えまい
自制は仏道のイロハのイの字の肝要事だぞ?
>>255 仏菩薩がそんな等閑だったかのうw
好悪で判別するのは仮観までだろ
>>254 もう一つ言ってやろう
>この月を指す示唆文言を相対「理解」できるわけがない。
「理解」できるわけがない、と言う事実を体得して理解するんだよ
思いを用いない涅槃の境地は、人智では推し量れない
当たり前の話を仰々しく語る者ほど胡散臭いとはお前の論であったろう?
人は路傍の石の今の気持ちなど理解出来る訳が無いのだよ
その事実を如実に体得する事こそ、煩悩滅尽の正道
煩悩を処せないものにどうして仏道の畢竟が分かろう
況や中観をや
258 :
神も仏も名無しさん:2014/12/27(土) 16:21:02.39 ID:ZM2b3kYb
だって感情的な押し付け話では煩悩を増すだけでしょ
止めるのがよい、と仏菩薩は仰らないだろうか?
>>258 仏菩薩は矛盾を用いて無矛盾を説いている
この世界に於いて矛盾とは何か、何のことかな?
押し付けがましいものほど
>だって感情的な押し付け話
と言いたがるのは2ちゃんでは良くある事
人は言葉を発し何かを説明する時に押し付けを免れる事は出来ない
例外は無いので、仏の教えも一切が押し付けとなっている
理解出来る様に仕向けるのも押し付けである
仏は「悪い事はするな」と押し付けている
「善い事をし続けろ」とも押し付けている
しかもそうしてれば「心が浄らかになる」とも決め付けている
何を以って「善い事」か
先ずはそれが解らねば何にもならんかと思われる
それと
>>258 >だって
仏道にだっては無しな
261 :
神も仏も名無しさん:2014/12/27(土) 16:35:36.31 ID:cyq2gL5b
>>258 >この世界に於いて矛盾とは何か
お前のことだよw
262 :
神も仏も名無しさん:2014/12/27(土) 16:38:51.87 ID:ZM2b3kYb
>>259 即非の論理とか絶対矛盾の自己同一みたいなことを指してるなら
それらは全くの誤解なので
あるいは公案、般若、中観などを指しているとしても
「矛盾を用いて無矛盾を説いてる」のではないですよ
戯論寂滅へ導いているだけ
ここらへん一般の概説書でも研究書でもだいたい間違ってるんで
そういうものに依ってもダメなんですよ
263 :
神も仏も名無しさん:2014/12/27(土) 16:56:34.92 ID:cyq2gL5b
>>257 >思いを用いない涅槃の境地は、人智では推し量れない
『至道無難。唯嫌揀擇。・・問事即得(揀擇)。禮拜了退。』(『碧巌録』2)
こーゆーオカルト超越論を振り回している体たらくには達磨も苦笑するだろう。
『覓心了不可得。磨云、為汝安心竟。』(無門関41)
涅槃の境地は、還滅された『こころ(無我)とこころの作用(慶安寂静)』(相応部35-23)として、
人智で推し量れる。
それこそおまえは『解って』いないw
書けば書くほど、ボロが出るな
こういう図式は珍しいなw
一代vs閻魔vs覆面。
内容でいえば
伝統vs現代解釈1vs現代解釈2
といったトコかw
ウルトラマンvsマジンガーZvsデビルマンみたいな感じwww
>>263 先ずお前は自分の言葉で語れ、何でも語録や経典の切文に頼るな
切文で答えてもお前の言葉ではないので仏道では却下だ
釈尊は経典や語録を引かれたかな?
>>262 >ここらへん一般の概説書でも研究書でもだいたい間違ってるんで
仏道は自灯明法灯明故に書に頼らない
>>264補
個人的には、
「マハーカッサパ教」「バラモン風味の摩訶迦葉の派閥闘争勝利」とか
「僧院のスコラ部派」とか
(或いは「従前の思想への回帰現象を避け得なかった」とか)
共感する要素はあるんだけどw
この流れの場合、一代サイドを支援することになりそう・・w
267 :
神も仏も名無しさん:2014/12/27(土) 20:37:13.12 ID:ZM2b3kYb
>>266 話は終わってるし、閻魔とは彼が改心せず、彼だと分かる限り話しても無駄だと分かってるのでしてませんよ
ところで柴山全慶師の『無門関講話』ってちゃんと師の内容を伝えていて
読むべきものですか?
玉山竹二さんってどういう評価でしょう?
文献学・歴史学って印象だけど
>>267 >柴山講話
少なくとも、
校訂すんでるし、「寒松軒個人の」「古人の語録に対する評唱」とは見做せる、
(寧ろ「接心中の提唱」よりダイレクトかも?)彼個人の見解の一覧と言える。
その意味で、批判目的でも参考目的でも、どちらにしても一読の価値はある。
(2chの自称悟った君のレス読むよりは、語録の読み方のプラクティス足り得るよw)
>玉山竹二
玉村竹二ね。
括るとすれば文献学者・資料分析学者。
その代わり、資料の収集や扱いは信用していいでしょ。
ただ、(過去色々シリーズスレでのやりとりのようにw)
『その解釈、扱い、解析の方向性』については、近代的かもね。
けど、事象を追うという点では臨済宗史の権威と見ていいかも。
*(内部の人(或る僧侶)から、研究成果(=文献の読み方・解釈)に於いて、
まったく違うという批判を受けていたりもするw OB会の季刊誌の中で。
当該反駁寄稿を、コピーして持ってた記憶はあるが、今すぐはちょっと見つからないw)
269 :
神も仏も名無しさん:2014/12/27(土) 21:11:10.85 ID:ZM2b3kYb
>>268 おお、ありがとう
訓註、句集と合わせて読めば良さげですね
おお、そうそう失礼。玉村さんはやっぱり歴史の方ですか。了解!
助かる。しかし、臨済は再評価されてしかるべきだと思う。
浄土宗や天台宗とともに、いい伝統なのになあ
270 :
神も仏も名無しさん:2014/12/27(土) 22:57:12.13 ID:cyq2gL5b
>>265 >先ずお前は自分の言葉で語れ、
自分の言葉で語れば、テキストに則れとか、
テキストに則れば、自分の言葉で語れとか、
仏法に則るフリーターは、アキメクラ連中には目障りなようですなw
>柴山講話
無門関は「講話」なしの岩波文庫「無門関」(西村恵信 訳注)一冊で十分。
余計な講話提唱は迷妄でしかない。
一切外妄想を断絶する如理作為に講話など無用!
>>270 >自分の言葉で語れば、テキストに則れとか、テキストに則れば、自分の言葉で語れとか、
他はともかく俺はそれを言わない
お前にも散々自分の言葉で語れと言ってるし
おじゃるにも散々言ってきてる
おじゃるは自ら無宗教を自認しているので仕方ないとしても
お前は仏道修行者なのだろう?
であれば仏祖・諸老師に倣って自分の言葉で語るべき
諸老師の言葉をそのまま使うのは徒弟の又貸しの如くとなり宜しくない
お前が博学なのは既に認めている、それを体得できているなら
自分の言葉で語れ、他人の傘を借りて責任逃れをするな
その行為と意識は涅槃に導かない
敢えて言う、龍樹になりたい故に議論で勝とうなど仏道には以ての外である
博学は便利だが、仏道の前に於いては自慢した時点で邪義に化ける
折角習得した綺麗な学識を下らない行いで汚してしまうのは忍びないであろう
釈尊は必ずその技量は認めてくれるし、その邪念はお見通しである
どうか善き事のみに使い、他者への武器として汚してくれるな、と苦言を呈しておく
>>271 印可は果たして必要だろうか?
釈尊は誰に印可されたであろう
発句経
三三〇 寧ろ獨り行くを善しとす、愚者と侶なる勿れ、獨り行きて惡を爲さざれ、少欲にして、林中の象の如く。
ダンマパダ
330 愚かな者を道伴れとするな。独りで行くほうがよい。孤独(ヒトリ)で歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ。──林の中にいる象のように。
これらは出家修行者に対して仏が指南されている
出家にさえ言うのだから在家には尚更である
例えば博学の閻魔は印可などされてないであろうし
チンケ極まりない俺など言うに及ばない
そればかりか釈尊には仏道の師匠は居ないし印可もない
どうして印可が必要と思えるだろうか
そんなのは空腹感や便意の極みを他者にご印可して貰えねば信用に足りない
と言う様なものであろう
275 :
神も仏も名無しさん:2014/12/31(水) 16:56:01.88 ID:Nz4BUP1+
>>268 柴山講話すばらしい。
いくつかご著書を拝読したけど、提唱は全然違う。
いや、ここに仏教があったは。
いろいろいいけど、思想と這箇を明瞭に分けているとこがいい
ここが何より文献学者に欠けている点、彼らが誤解している点だから
久しぶりに現代語の仏教書で魂を揺さぶられる本にであえた
深く感謝するとともに、その徳を随喜廻向して
よいお年を、セブン、その他
276 :
神も仏も名無しさん:2014/12/31(水) 23:30:15.08 ID:0owzv7j9
『看よ看よ臘月尽く』
過去は記憶としての現在である。
未来は永劫来たらず。
過去と未来があって、はじめて現在がある。
ならば、現在は不得である。
刹那滅はアホ坊主の妄想レトリックでしかない。
一切は、皆空である。
合掌
閻魔
>>276 >ならば、現在は不得である。
もし本当に現在も不得であるならば、お前は今現在でも2014年のままに居るのであり矛盾する
刹那滅に不同意なお前には同意するが、刹那瞬故に現在は有るが不可得なのである
得るは心が捉えるのであり、心は実在して無い
過去心不可得であり未来心不可得であり、心に実在が無い以上
現在心不可得なのである
なれば、刹那であろうと長大であろうと、心滅は有り得ないよな
278 :
神も仏も名無しさん:2015/01/01(木) 08:59:56.13 ID:X7pciFdl
279 :
神も仏も名無しさん:2015/01/01(木) 10:52:58.76 ID:Paea2+lE
>>244 >刹那瞬故に現在は有るが不可得なのである
『空見』(中論13-8)だ。
『會則事同一家
不會萬別千差
不會事同一家
會則萬別千差』(無門関16)
『逢人且説三分』(無門関33)という無門なのに、
懇切丁寧な説明のあとの上記の頌には、
中論13-8、24-11・12に照らして重大な問題があるのと同じだ。
280 :
神も仏も名無しさん:2015/01/01(木) 10:58:04.27 ID:Paea2+lE
やっぱり、倶胝の一指(無門関3)も叩き切る必要があるということだ。
>>280 お前は全然センス無いな
倶胝の一指は我らのわが身の事
お前が我が身を叩き切る事は止めないが
叩き切ったところで我が身は無くならないのだよ
無我故にもともと無くそうと思う我は存在して居ない
我が無いなら叩き切るべく「我が身」はそもそも何処ぞ?
お前のハッタリ禅もそろそろ飽きたわい
全然センスも進歩も無いからなw
>>280 ハッキリ言ってやる
お前は「下げ見せて大いに上げる」無門にまんまとしてやられてるだけなのさw
283 :
神も仏も名無しさん:2015/01/02(金) 05:34:17.63 ID:J0z6VlD2
語録を額面でしか読めてない閻魔はアスペなんだろう
284 :
神も仏も名無しさん:2015/01/02(金) 10:09:08.92 ID:Riqss/gp
>>282>>283 金剛般若経
一合理相分第三十
須菩提,若善男子善女人,以三千大千世界碎為微塵,於意云何,是微塵衆,寧為多不。
須菩提言,甚多,世尊。何以故。若是微塵衆實有者,佛則不説是微塵衆。
所以者何。★佛説微塵衆,即非微塵衆,是名微塵衆。★
世尊,如來所説三千大千世界,即非世界,是名世界。
何以故。若世界實有者,則是一合相。如來説一合相,即非一合相,是名一合相。
須菩提,★一合相者,則是不可説★,但凡夫之人貪著其事。
285 :
神も仏も名無しさん:2015/01/02(金) 19:10:31.51 ID:J0z6VlD2
>>284 で? それの行間を読んで解説してみろよ
お前はいつもいつまでも額面コピペしか出来て無いのは事実だろ
歴代の師家はそんな破廉恥をしてない
286 :
神も仏も名無しさん:2015/01/02(金) 19:18:17.11 ID:J0z6VlD2
>>284 なあお前、どんなに大きく捉えようと小さく捉えようと
この世界の何れにも実体が無い以上
>やっぱり、倶胝の一指(無門関3)も叩き切る必要があるということだ。
も成り立たないだろ、違うとでも言うのか?
一指たる指は何処ぞ?
287 :
神も仏も名無しさん:2015/01/02(金) 23:17:46.54 ID:Riqss/gp
盲目愚者には無理だ。
それでアキラメて、現状で満足しておくのが執着を増やさず、
お似合いというものだ(相応部6-1参照)。
以上
288 :
神も仏も名無しさん:2015/01/03(土) 00:28:33.21 ID:e1B3agVn
>>287 盲目はお前だよ
経典に執着して教学を離れられないうちは
執着から離れられない事にそろそろ・・・
無理かw
文字を追いかけるしか能がないんだからなw
それと、理はそもそも存在しないよ
無我故にな
そもそも我に実存性が問えないのに、理などどこに有ろうか
289 :
神も仏も名無しさん:2015/01/03(土) 12:48:51.86 ID:FfCNCtd+
『スパッダよ。私は29歳でなにかしら善を求めて出家した。・・・・・・
★正理★と法の領域のみを歩んで来た。
これ以外には<道の人>なるものも存在しない。』(大パリニッバーナ経5-27)
>理はそもそも存在しないよ
<道の人>ではないからだ。
290 :
神も仏も名無しさん:2015/01/03(土) 17:24:19.94 ID:lB03ZaKn
>>289 釈尊はそれを「経典」から拾って言ったのかな?
そして、ただ言っただけかな?
行為として「なにかしら善を求めて出家」したのだろう?
言う事が理ではなく、拾って意味を考える事が理ではなく
ましてや経典が理なのでもない
正理と法の領域とは理屈の事ではなく実際の事以外に正理と法の領域は有り得ない
しかし、正理と法の領域とがそのまま有っても正理と法の領域とには為り得ない
お前は大事なものが全く観えていない
釈尊が言ってるのは、
「正理と法の領域のみを歩む以外に《道の人》なるものも存在しない」
と言っているんだよ
御託を並べる人が道の人「足りえない」とお前は否定されてるのさ
お目出度いなw
291 :
神も仏も名無しさん:2015/01/03(土) 17:30:01.77 ID:lB03ZaKn
>>289 道は歩むから道なんだよ
言うだけで道を歩む事はできない
全ては行為以外に無いんだよ
今日の参禅は済んだかな?
禅を説くものが参禅も怠る様では道の人足り得ないがのう
>>289 確かに、お釈迦さんは、誰かに教わったわけじゃない。
だとしたら、
お釈迦さんを参考にする必要もないわなwww
君は、何を見、聞き、読み、倣い、釈尊云々言ってるんだい?
経典読まないんだよな?w
経典以外に、お釈迦さまが当時何を発言していたかを知る術は何だい?
まさか
以心伝心、テレパシー、超能力、あかしっくれこーどを読んだから、大川総裁が言ったから、
とか言わないだろうな?wwwww
馬鹿だろ、お前 ( ´,_ゝ`)プ
293 :
神も仏も名無しさん:2015/01/04(日) 01:11:49.77 ID:vPsHP9tq
>>292 経典を読む自体は否定していない
釈尊も自分の死後は「私の語った言葉が私の死後は皆の教師」と言われている
その残された経典に従って教えを守り行っていけば善いだけなのだよ
その教えに「教えの真偽を問われたなら経典の該当部処を明示せよ」
とは書いて居ないし教えていない
経典で教えているからと言って鵜呑みにせよ、疑っては成らない
とも書いて居ない
経典に書いて居ないからと言ってそれ以上の何も無い訳ではない
アスペルガーの性癖でも持ち合わせて居ない限り
経典を額面通りだと捉える事も教えていない
馬鹿だろ、お前(
>>292) ( ´,_ゝ`)プ
閻魔は勉強だけは凄いのにアスペだったから悟れなかったのか
295 :
神も仏も名無しさん:2015/01/04(日) 09:56:35.25 ID:7MEfcb46
妄想論→虚妄(虚無)論の相対海に無自覚に沈んだものに
「筏の喩えの法門」の救命筏を提示してやったのだが、
やはり無駄だったようだな。
金剛般若経30はウマの耳に念仏だったなw
わが師の趙州禅師は、こういう類者を『如今黄口小兒』と切り捨てられた。
もって、瞑すべし。
以上
296 :
神も仏も名無しさん:2015/01/04(日) 16:14:02.17 ID:rwKd2rRV
公案をこの場に持ち出すこと自体が、禅も公案も分かってない証拠だし
公案を根拠に自説に固執するなんて、完全な倒錯ですな
>「筏の喩えの法門」の救命筏を提示してやったのだが、
>やはり無駄だったようだな
目覚めた者はそれを言わないしそれを行わない
そもそも仏の言葉を直引きして終わらせない
歴代の師匠たちは皆「自分の言葉」を以って仏の代弁をしてきたのである
仏道の師匠は教えの直引きを認めない、それは単に復唱しているだけになるからである
復唱なら稚児にすら出来る、しかし仏道を行うは閻魔にすら難儀至極なのである
閻魔よ、今日は参禅サボったのかな
298 :
神も仏も名無しさん:2015/01/04(日) 19:26:55.99 ID:rwKd2rRV
>>297 >仏道の師匠は教えの直引きを認めない、それは単に復唱しているだけになるからである
これは禅宗だけの特性で、ほとんどの伝統仏教では、伝承としてのアーガマを重視するんだけどね
それと禅宗も師匠からの伝承のない法は認めない
ここらへんを無視して勝手に公案を妄想して分かったつもりのエゴ語りは、重罪だと思うよ
野狐禅が居ると聞いて駆除に参りました
>>298 公案を解く事と、それをそのまま人に語ってひけらかすのは全く違う
見性や悟りは自分の勝手都合の為に到るものなのであり、他人にひけらかすそれは
虚栄に過ぎず、虚栄は思い故の妄想に過ぎない
先師の如くならば、引用を引用のまま終わらす人など居なかった
必ず経を引いても論を説くのである
>重罪だと思うよ
誰が誰に罪を問うのかな?
最早莫妄想をお忘れなのか
301 :
神も仏も名無しさん:2015/01/05(月) 08:53:06.77 ID:u1/HwFnN
>>300 まず、公案をこんなところで用いるのが間違ってる
公案は、師と弟子が面と向かって用いるものだろう
そして公案を用いることができるのは、印可を得た師だけだ
アナタは得ているのだろうか?
得てないなら、明らかに重罪だと自覚し、今までの行為を懺悔した方がいいよ。
>誰が誰に罪を問うのかな?
私がアナタに問うている。
こういう場合に公案的な用法を使うのは単に自分を安全なところに置きたいだけだろう。
それがエゴ語りであり、重罪だと思う。
>最早莫妄想をお忘れなのか
誰かと勘違いしてるんだろう。
もう、言うことは無いので、後はご自由に
302 :
神も仏も名無しさん:2015/01/05(月) 09:02:43.94 ID:4v1agXvh
>>301 現成公案に印可が必要とは初耳
そもそも釈尊は誰に印可されたんだっけ?
>それがエゴ語りであり、重罪だと思う。
では現成公案に生きとし生けるもの全ては重罪な訳だね
誰が誰にエゴを言い、誰が罪に問うのかね?
>得てないなら、明らかに重罪だと自覚し、今までの行為を懺悔した方がいいよ。
そう言う独善こそエゴに過ぎない
仏道の目的を言ってみたまえ
303 :
神も仏も名無しさん:2015/01/05(月) 09:17:56.55 ID:u1/HwFnN
>>302 >現成公案に印可が必要とは初耳
>そもそも釈尊は誰に印可されたんだっけ?
なら、釈尊は公案も現成公案も説かれてないよ
自分を守るために相手次第で釈尊、公案など適当に使って、最終的にいい負けても知識は仏教じゃないとか
どうみてもエゴ、自分語りでしょ。
懺悔して一から師に就いてやり直した方がいいって
アナタと話すことは、もう何もないよ
304 :
神も仏も名無しさん:2015/01/05(月) 09:25:35.22 ID:4v1agXvh
>>303 >なら、釈尊は公案も現成公案も説かれてないよ
現成公案の意味が解らんのか?
この世界そのものが公案なのであり、その答えな訳で
我々はこの世界を生きるうえで故あって仏道に身を置く身上にある
その故やらこそが仏道の目的なのであり、お前はそれすら解らんというのか
大丈夫か?
>自分を守るために相手次第で釈尊、公案など適当に使って、最終的にいい負けても知識は仏教じゃないとか
散々な目にあってそうな事だけはお察しする
>懺悔して一から師に就いてやり直した方がいいって
印可マニアに於かれては、何をするにもご印可第一な訳だね
便意も空腹もご印可なくては適わないとw
悟りも当然な訳だ
師も立てず師を差し置いて「分かった」とも言っちゃいけないとは
そんな仏道を俺は知らんねw
305 :
神も仏も名無しさん:2015/01/05(月) 09:35:00.93 ID:4v1agXvh
>もう、言うことは無いので、後はご自由に
>アナタと話すことは、もう何もないよ
こんな無慈悲で逃げ腰な事を言う輩から八万法蔵は生まれなかったのが事実
仏弟子を標榜するなら逃げ口上は絶対に吐くな、絶対にだ
釈尊や以降の弟子・師家の面々に逃げ口上を言ったものなど一人も居ない
306 :
神も仏も名無しさん:2015/01/05(月) 11:48:24.13 ID:Kcssw+R/
>釈尊や以降の弟子・師家の面々に逃げ口上を言ったものなど一人も居ない
と、仏教衣を着ていると妄想する裸の黄口小兒が、逃げ口上を言ってますな。
貪・瞋・癡 丸出し。
師即退身不語
307 :
神も仏も名無しさん:2015/01/05(月) 12:14:19.92 ID:Kcssw+R/
僧乃問、「既各有禅道。従上至今語話。為什麼」。
師云、「為汝遊魂」。
学云、「未審如何為人」。
師即退身不語。
(趙州録より部分引用)
この類の遊魂を黄口小兒という。
趙州の『即退身不語』は当然であって、逃げではない。
『逃げ口上』と貪・瞋・癡 丸出しなのが遊魂であるゆえんだw
全面却下。
308 :
神も仏も名無しさん:2015/01/05(月) 17:25:31.44 ID:WEh9Js7r
>>306,307
お前はそれでいいのか?
師即退身不語は逃げ口上じゃないし捨て台詞ではないだろ
それを逃げ口と同格に考えたお前自身に問題があると看做せる
さすがアスペは額面しか読めないな
309 :
神も仏も名無しさん:2015/01/05(月) 17:29:15.76 ID:WEh9Js7r
アスペ的所感だと釈尊の無記も維摩の一黙も逃げ口って事になるんだな
実に面白いw
310 :
神も仏も名無しさん:2015/01/05(月) 17:36:40.28 ID:WEh9Js7r
>>306,307
お前はアスペなんでちゃんと文字に起こして説明してやる
いいか?師即退身不語等を「逃げ口上」云々如何の俎上に載せた時点で
お前は
>もう、言うことは無いので、後はご自由に
>アナタと話すことは、もう何もないよ
と
>師即退身不語
とを同格と看做した事になるんだよ
金剛般若経で言ってるだろ?有と無とは畢竟において異ならないと
意味分かってないのか?
で、俺もお前に釣られて書いてしまった訳だ、不覚にもなw
>アスペ的所感だと釈尊の無記も維摩の一黙も逃げ口って事になるんだな
実に面白いw
311 :
神も仏も名無しさん:2015/01/05(月) 17:56:05.48 ID:WEh9Js7r
いいかお前ら、仏法者は論破されても構わないんだよ
論破される時は論破されるものがまだ自分の中にあるからで
三宝に帰依している以上、所謂論敵も僧宝の一部故に教えてくれてるんだからな
論破されても構わないが、本当なら論破出来ないんだよ
仏法者には守りたいプライドも無いし、守ってくれる後ろ盾もない
人間の感覚で言うなら「常に背水の陣」なのが仏法者なんだよ
で、仏法者の背水の陣は無敵だ、誰も論破出来ない
論破するべきものが無いんだからな、そりゃ無理な話さ
まあ、言葉を扱う限りそうも言ってられない訳で
言葉自体が矛盾を孕んで免れ得ない
揚げ足取りが成立する所以もここにあるんだが
だからこそ、プライドは解き放っておかなくては行けない
それには彼が言う様に貪瞋癡の三毒を制さねばならない
だから毎日の参禅は欠かせない訳で
みんな今日の参禅はお済みなのかな?
312 :
神も仏も名無しさん:2015/01/05(月) 20:38:05.51 ID:u1/HwFnN
そもそも仏教では本来論争はない
論争に見えるかもしれないが、導いてるだけ
特に公案はそうだろう
そこを明解に説いてるから、公案云々言ってる素人は必ず柴山全慶師の『無門関講話』は読んだ方がいいよ
逃げたのなんの言って勝つことや言い負かすことが目的なら、明らかにエゴの仕業だと自覚した方がいいでしょう
それと禅とか勝義で語る人って、相手の論理も経典や聖者の言葉も関係なく、
自分の妄想に合致するかどうかになってる人が多すぎる
だから禅とか勝義ってのは、語るものじゃないっていうのは分からないだろうか?
基準がないから、妄想に陥りやすい
基準がないからこそ、使うんだろうけど、公案とか誤解の「自灯明」とか
無門だと言うとるのにどこに導くんだ?
ばかたれが。
314 :
神も仏も名無しさん:2015/01/05(月) 21:23:00.40 ID:u1/HwFnN
もちろん這箇に導いているに決まってるでしょ。
『無門関』自序にこうあるんだけどね
T2005_.48.0292b17: 遂將古人公案。作敲門
T2005_.48.0292b18: 瓦子。隨機引導學者。竟爾抄録。不覺成集。初
T2005_.48.0292b19: 不以前後敍列。共成四十八則。通曰無門關。
要するに古人の公案で学者を導いたものを集めたのが『無門関』四十八則だと
ここらへんの平凡な記述と公案による導きをゴッチャにしてはいけないし
公案が、言葉や記号に囚われないで導いているのを真似して
単に他人を否定する道具にしたら、唯悪業積むだけなんだけどなあ
だから公案をネットで使うのは、何も分かってない証拠だって分かんないんだろうなあ
何で無門関とか故人の言葉にみちびいてんだ?
いいかげんにしとけ。
316 :
神も仏も名無しさん:2015/01/05(月) 21:36:45.54 ID:u1/HwFnN
だから、そういう公案の真似こそいい加減にしといた方がいいと思うよ
ただ悪業積んでるだけでしょ。こんな処で。
これ以上は言わないよ
>>316 自分はやってないんですか?
あんた自分が全然見えてない
318 :
神も仏も名無しさん:2015/01/05(月) 21:51:33.74 ID:u1/HwFnN
オイラは、公案提唱みたいな言葉にならない境地に導く言説やってないよ
そんな不遜なことネットでやるわけないでしょ
そもそも凡夫のエロオヤヂだし、そのぐらいは自覚あるし、間違いも認めてきたつもりだよ
よく読めば、日常言語で意味が取れることしか書いてないと分かるはず
そういうのは聖者が、自分に帰依した弟子や、導ける可能性がある人にだけやるものでしょ
>>313 「無門=導かない」 なの? (´・ω・`)
初めて知ったわwwwww
>>318 こっちは素で話してるんですが公案とかそういうめんどくさい事言われても困ります
アホの始末はアホがやればいいわけで
変人との禅問答はあなたの徳を損ずるだけです
>>319 俺も初めて知った
誰かそんな事言いましたっけ?
>>321 >>313 > 無門だと言うとるのにどこに導くんだ?
> ばかたれが。
じゃあ、「どこに」という単語を拾い上げて再レスしようか?
>>313 「門=導いていく行き先」 なの? (´・ω・`)
初めて知ったわwwwww
323 :
神も仏も名無しさん:2015/01/05(月) 23:27:27.61 ID:Kcssw+R/
>>318 >お前はアスペなんで
>それを逃げ口と同格に考えたお前自身に問題があると“看做せる”
この姑息で身勝手な“きめつけ”と“看做せる”などという<ペンキ塗り>を「遊魂の黄口小兒」という(爆笑
相手を黒く描いて、自分の描いたその“黒さ”をケナシて、自分の貪・瞋・癡の慰めにしようとする。
仏法の対極だといわざるを得ない。
ホント、『狐狸庵閑話』
完全に見捨てた。
以って瞑すべし。
ただ、根性の腐った邪見を振りまくな!
>>322 門=自分です
無門です
無いんです
境地だろうが答えだろうが全部間違い
325 :
323 :2015/01/05(月) 23:31:20.99 ID:Kcssw+R/
>>326 珍しいでしょう。
バカほど答えを識ってるってね。
>>326補
千歩譲って324だとしても、それならば313は以下のような文字が並ぶ筈だわなw
> 無門だと言うとるのに誰が誰を導くんだ?
> ばかたれが。
とね。
何だそれ。
定型文に導いて満足なら、そうしとくれ。
無門関48則自分が透ったらおしまいなんだと勘違いしとったわ。
公案ってわかんねえな。
330 :
神も仏も名無しさん:2015/01/06(火) 01:18:35.09 ID:qQVyA59u
>>312 >それと禅とか勝義で語る人って、相手の論理も経典や聖者の言葉も関係なく、
仏道に於いて禅と言えばディヤーナ(Dhyana)を語源とし
禅定を抜きに仏道は成り立たない
禅宗と言うは仏教各派の一派に過ぎず、その禅宗が言わんとする禅も
仏教的には何ら間違って居ない
>勝義で語る人
勝義で語るとは是如何に
勝義を言葉で他人に説く事は不可能な筈であり
それを「勝義で語る」と判じる自体、己が勝義を分かってない
と吐露してる事になる
>相手の論理も経典や聖者の言葉も関係なく
経典には道の歩み方しか載っておらず、聖者の言葉など経典以外に信用出来ない
相手の論理など以ての外で、答え自体は己自身と目の前の世界に満ち満ちている
そもそもお前が「相手の論理」を無視していて俺の言っていることをちゃんと考えてない
経典に答えは無い、経典の教えを実行して初めて答えがある
故に「不立文字教外別伝」なのだよ
331 :
神も仏も名無しさん:2015/01/06(火) 01:22:30.79 ID:qQVyA59u
>>323 >ただ、根性の腐った邪見を振りまくな!
乾いた糞かきヘラが文句言っちゃダメだろ
やっぱ単なる語録オタクだったって事になる
332 :
神も仏も名無しさん:2015/01/06(火) 01:39:17.00 ID:qQVyA59u
無門の件は閻魔か?
成るほど自序にそう書いてあるな
しかしそれ以前にあれだろ
仏法は無我にて候
そもそも思うべくな我が単なる勘違いだと古来から伝承してる
333 :
神も仏も名無しさん:2015/01/06(火) 01:58:01.50 ID:qQVyA59u
仏教だ経典だのを他人をぶったたく棒にして振り回す、
他人の言葉でもって虎の威を借る狐をやって2chでふんぞり返る
ここでバカやってる人、少しは恥を知ったら洞ですか?
335 :
神も仏も名無しさん:2015/01/06(火) 12:54:54.77 ID:6ymqrPvy
ここは教理問答の場だからネタを出す。
無門関1を借りて言うと、
無門の言う『内外打成一片』はじつは迷いでしかない。
まともに商量できる奴はいるのかな?
336 :
神も仏も名無しさん:2015/01/06(火) 13:34:22.63 ID:rX5rjB5j
>>335 テキストに添って知解すれば、迷いでなくそれが本来のありようで、
自然内外打成一片に導く方便として公案や提唱があるということでしょう
ただ、禅や公案としては上のような固定した知解、思想理解は全く意味なく、
実体験として這箇たれというか、そこを示すために色々非日常的な提唱をされる
でしょうが、そういうのをここでやっても意味、全くないし
そもそもここは中観なので、そろそろ禅や公案の話は終了すべきじゃないですか?
>>335 スレチだそうです。
話したい自分をなくしてひっこんでください。
力量あるひとだけができます。
338 :
神も仏も名無しさん:2015/01/06(火) 22:59:22.92 ID:6ymqrPvy
>>335>>336 なるほど、中観と禅(特に臨済禅)との関係は重大な問題だと思うが、スレ違い程度の問題意識か。
力量不足らしいので『ひっこんで』おこうw
そりゃ、
無位の真人・真実自己本来自己を、本質的我、真我、
或いは本来清浄な蔵された個の核(≒仏心・仏性・如来蔵)と読んだら、中観の対極になるからねw
重大問題かもしれんwww
延命十句(常楽我浄)も好まれてるしね。
340 :
神も仏も名無しさん:2015/01/06(火) 23:08:35.75 ID:6ymqrPvy
>>335 ところで、アナタは当然『内外打成一片』のなんたるかを直覚できているんだよね。
『内外打成』と『一片』は別問題だよ。
おそらく、趙州と無門は対極にある。
やっぱり、止めとこうw
341 :
神も仏も名無しさん:2015/01/07(水) 00:30:39.00 ID:k3ADVTQc
趙州と無門は対極と観るなら分別
全然ダメだな
342 :
神も仏も名無しさん:2015/01/07(水) 07:51:03.24 ID:iT91+C4w
>>341 >全然ダメだな
→『ここは教理問答の場だから』(
>>335)
『師云、問事即得(揀択)、礼拝退。』(趙州録103)
中論24-18が直覚できていないから、成りすましはトンチンカンに口をはさみたがる黄口児だ。
343 :
神も仏も名無しさん:2015/01/07(水) 16:19:13.51 ID:EyMqSw8t
>>342 >中論24-18が直覚できていないから、成りすましはトンチンカンに口をはさみたがる黄口児だ
単語に固定し、馬鹿の一つ覚えで「黄口児」がマイブームになる事に
仏は同意しないだろう
お前は好悪で分別して気に入った単語がマイブームになる癖がある
仏は言葉に意味を固定しない様に教えたであろう?
道元師の教論をもう一度精査してみろ
「○○とは」而して「こうだ」と断定しても「しかし」と必ず答えを翻してある
それが何故なのかお前は解っていない
344 :
神も仏も名無しさん:2015/01/07(水) 16:30:23.87 ID:+dPt+urH
>>342 お前は何かと他者を馬鹿にする、蔑まなきゃ居られない性分なのだろう
禅門の祖師達は確かに厳しく、愚か者には容赦なく叱咤したのも嘘では無いだろう
しかし、道理を弁えられないお前がそれを真似して他人を蔑む行為は、祖師たちの叱咤とは全く違う
祖師達は「同門」の「門弟」に厳しかったのであり、ここらに集う他人はお前の「門弟」ではない
だから散々お前は愚かだと言って来たわけだよ
三宝帰依する身を標榜するつもりなら、先ずその高飛車に他人を馬鹿にする性分を
仏道によって自制してから知識でも何でも誇示すればいい
道が正しく行けたら誇示もしない訳だがな
読書で悟りは啓けんぞ?
345 :
神も仏も名無しさん:2015/01/07(水) 20:13:07.05 ID:RGzporqk
まず、匿名掲示板では平等な立場で相手を敬って話さないといけない
次に明らかな誤りは認められないといけない
この二つができない人は、仏教以前に対話不能な人でしょう
仏教的には、悟った立場に立ってはいけない
聖典に根拠のあることしか、是非を争うことはできない
師でもないのに悟った立場に立って偉がるのは唯の我執でしょう
そしてそれに気づかないのは、ほとんど本人だけでしょう
全く裸の王様です
それからもう禅の話はやめませんか
禅は話しても無駄でしょう
347 :
神も仏も名無しさん:2015/01/07(水) 21:16:12.43 ID:RGzporqk
>>347 はい、そうですか
自分が絶対だと思ってる基準が誰もがそうは思わないことについて
思い至ることはできますか?
まあ皆さんが皆さんでそれぞれ正しいんですよ
自分の中、自分達の中ではね
でもみんなが「俺のようにしろ」では収集つかないでしょう
キリスト教みたいに世界の果てまで追いかけて違う人間をしたがわせますか?
仏教ってのはそういうもんでないと思いますね
一つの意見として
>>347 たまたま最後のレスだったので噛みついてしまいました
無礼をお許し下さい
他にとくに言うべき事はないのでこれで
351 :
神も仏も名無しさん:2015/01/07(水) 22:24:27.84 ID:RGzporqk
>>348 >自分が絶対だと思ってる基準が誰もがそうは思わないことについて
>思い至ることはできますか?
思えますし、自分の判断は対してあてにならないと思ってますよ。
ただ、異なる見方が単なるその人の思いだけでは、それを頷けません
説得力のある根拠が示されない限り無理ですね
>>349 >キリスト教みたいに世界の果てまで追いかけて違う人間をしたがわせますか?
>仏教ってのはそういうもんでないと思いますね
そうでしょう。
ですが、仏教では話すべき人と話すべきでない人というものが明確に説かれています。
それに添ったものと思いますよ。
>>350 いえいえ、珍しく真っ当な話すべき方だと思いました
352 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 02:58:17.13 ID:GQ0NhDSP
>>345 >聖典に根拠のあることしか、是非を争うことはできない
では釈尊は何れの聖典を根拠にしたのかな?
バラモンの聖典を根拠にしたかも知れんが
では釈尊はバラモンの奥義を悟って教えたのかな?
353 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 06:51:28.22 ID:FWXcoacO
>>352 >では釈尊は何れの聖典を根拠にしたのかな?
ブッダは色々仏教で例外なんですが、こういう時だけ釈尊になぞらえるのは仏教の伝統では異常ですよ。
ブッダはその教えが存続する世界に独りしか現われないとされます
仏教の諸聖者ですらブッダとは違う扱いです
アナタは聖者でしょうか?
聖者ですらなければ、仏教の伝統である聖典によるしかないでしょう。
諸仏教はそうしてきました。
不立文字の禅宗、特に公案などは例外的なものですよ。
そういう仏教的問題以前に聖典を基準にしたくないのは
単に自説と矛盾するからでしょう。
あるいは不立文字の禅宗と同じだというかもしれませんが、
不立文字の禅宗は修行した弟子に説くもので、ネットで自分語りするために説くものではありませんよ。
師弟間だけで成り立つ特別なものです。
それをエゴのために使うのは悪業積むだけです。
>では釈尊はバラモンの奥義を悟って教えたのかな?
ブッダも古い教えを教えると言っています。
古い教えは、当時の世間説の一つであるバラモンやシャモンの教えでなく
釈尊以前のブッダの教えのことです。
例えば七仏通戒偈などがそうです。
354 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 16:17:10.58 ID:3U+ewrmO
>>353 >そういう仏教的問題以前に聖典を基準にしたくないのは
聖典ではなく経典な
んで、経典は基準になっても物事は基準だけでは回らない
仏教経典が教えているのは釈尊と同じ立場に立った「歩みの方法と向う先とその理由」だけで
目的地に到着したあとの事は書いて居ない
地図の読み方眺め方をいくら精細に究めようと、仏道はそれじゃ成り立たない
釈尊がそうであったように実践以外に道はないのだよ
お前が経典研究などに嵌りこみ抜け出せなくなってる理由は他でも無い
説一切有部などが嵌って出られなくなった邪行に専念してしまってるからだ
>こういう時だけ釈尊になぞらえるのは仏教の伝統では異常ですよ。
仏道修行者は三宝に帰依している、所謂「仏・法・僧」だ
仏と言えば釈尊と、その教えから成れた仏たち、法と言えば甚深微妙の法
僧と言えば仏教を渡してくれた全ての人々、となる
仏教開祖の釈尊の動向を基準にするのは基本中の基本である
みんな大なり小なりそうしてきていて、知らないものだけがケチをつける
355 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 16:22:25.20 ID:3U+ewrmO
>>353 >釈尊以前のブッダの教えのことです。
>例えば七仏通戒偈などがそうです。
であれば、その釈尊以前の教えとやらは釈尊が語らねば始まらない訳だ
それなら
>こういう時だけ釈尊になぞらえるのは仏教の伝統では異常ですよ。
に矛盾する
古仏の教えは釈尊が語らねば資料が残って居ない
また、釈尊以外で釈尊に帰依して居ないものの資料は外道となる
外道だから用いては成らないとは言わない、が優先順位は遥かに下がる
経典を基準に研究などに嵌ってるものが良く陥る落とし穴もここにある
三宝帰依をしてないから何が大事かが良く分かってない事で起こるミスだ
356 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 16:43:28.94 ID:3U+ewrmO
さて、俺は三宝帰依が結局は大事なんだと言っている
では、釈尊の立てた三宝帰依とは何であったか?と言う矛盾に気付ければ道は正しく進めてると思われる
釈尊の場合の仏宝とは如来以外に無い
また、法宝も甚深微妙の如来の法となり
僧宝は全ての人々となる
つまり、釈尊の場合、全ての人が間違いを犯している故に悟れたのであり、
全ての人が教えてくれた事と異ならないのである
我々が内道と外道とに気を付ける理由もここにある
外道なら四顛倒を免れえず、内道なら釈尊の行いに沿わないものは邪儀となる
人から学べる事は所詮この程度であり、それ以外の全ての答えは自身に内在している
その自身内への立ち回りを教えているのが経典なのであり、経典に答えは書いて居ないのである
ところでID:FWXcoacO、今日の参禅は済んだのかな?
357 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 16:47:32.69 ID:Vr5f3Tn+
>>354 >目的地に到着したあとの事は書いて居ない
書いてある。
成りすましのアキメクラには<観えない>だけ。
それにしても、成りすましは分別三昧だけだなw
だから<観えない>。
358 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 16:48:41.14 ID:FWXcoacO
>>354 >聖典ではなく経典な
いやいや、経律論および諸聖者の教えを含むので聖典とよんだわけですよ。
じゃないと公案も入らないでしょ? アナタの立場を尊重してるのですよ。
>釈尊がそうであったように実践以外に道はないのだよ
ほんとにそう思うなら、ここに何か書いてどうするの?
行に専念すればいいだけでしょう?
そしてたとえ悟ってると思っていても、問われないのに何か言うというのは仏教ではない。
それは唯のエゴの自己顕示欲でしょう。
>仏教開祖の釈尊の動向を基準にするのは基本中の基本である
>みんな大なり小なりそうしてきていて、知らないものだけがケチをつける
もちろん、釈尊は基準ですが、ブッダだから例外的な面があるのです。
それこそ「知らないものだけがケチをつける」のでしょう?
359 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 16:49:58.15 ID:3U+ewrmO
誤解無きよう断っておくが、参禅とは坐禅を組む事のみを言うのではない
宗派によって行法は違う故に座禅だけが修行法と言う訳ではない
唱題行も参禅だし、称名念仏行も参禅なのである
方法は違えど、どれも禅定を目指して行い到る事に違いはない
この意味が未だに分からないものは道を踏み外していると言えよう
360 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 16:50:09.64 ID:FWXcoacO
>>355 >古仏の教えは釈尊が語らねば資料が残って居ない
>また、釈尊以外で釈尊に帰依して居ないものの資料は外道となる
いやはや公案のような言説を用いる時は、常識を超え、
こういった場合は正にマテリアルな文献学者並ですね。
これが自分は勝義だから何を説いても正しく、
他者には時には勝義から、時には常識から否定するという
無敵のヤクザ論法だと自覚されないのが、禅齧りの方々なのです。
>経典を基準に研究などに嵌ってるものが良く陥る落とし穴もここにある
>三宝帰依をしてないから何が大事かが良く分かってない事で起こるミスだ
いやいや、三宝帰依は少なくともアナタよりは深くしてると思いますよ。
アナタのような他人を否定したいために法を使う人が三宝帰依というのは、
これまた重い罪なので懺悔して僧である聖者に帰依し法を聞くことやり直した方がいいと思います。
で、いいかげんスレ違いですから辞めましょうね。
アナタの言葉が誰かの役にたつと思うのでしょうか?
私はまた同じ人だと分かったので終わりにしますよ。
私の行は禅じゃありません。それでも半年ほど山に篭ったこともありますよ。
361 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 18:17:31.48 ID:3U+ewrmO
>>358 公案は経典ではなく、論書に属す
論書は参考にして構わないものでも手本ではなく、あくまでも参考に過ぎない
仏道にとって大事な教書は経律論であり、順番もこの通り経律論なのである
そして禅師は聖者ではない、仏道に於いて言うならこの世界に聖者など居ない
>ほんとにそう思うなら、ここに何か書いてどうするの?
俺が書いて何か拙いのかね?
間違いを正して何か問題でも有ろうか
>それは唯のエゴの自己顕示欲でしょう。
自己紹介は不要だよ
お前は何が正しく何が間違っているかが分からない
だから俺の書くものが間違いに見えるのだよ
>ブッダだから例外的な面があるのです。
ブッダだろうが例外はない
神格化してしまったら涅槃を否定する事になる
涅槃は何人を以ってしても否定出来得ない事実だ
故に釈尊を神格化など出来はしない
>>357 >書いてある。
鵜呑みするのか?
>成りすましのアキメクラには<観えない>だけ。
三宝帰依の者はその様な侮蔑用語を用いない、お前は偽善三昧だからそれが分からないんだよ
362 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 18:19:50.63 ID:qGfarg9S
>>360 >アナタのような他人を否定したいために法を使う人が三宝帰依というのは、
俺は他人を否定して居ない
意見に不同意で間違いを指摘しているだけだ
お前は他人を否定したりするのか?
それこそ傲慢極まりないだろ
363 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 18:29:00.32 ID:qGfarg9S
>>360 >これが自分は勝義だから何を説いても正しく、
はて?「勝義だから」とは何ぞや?
おかしなことを言うなお前は
勝義や世俗義は立場か身分か何かだと思って居ないか?
勝義に立つ、とか戯言を言うものにどうして仏教が語れよう
仏教を語ろう・議論しようなどと嘯くものに、どうして仏の教えが理解できよう
仏の教えを理解できたなら勝義に立つとか訳の解らん世迷言は抜かさない
そして、仏への誤解、教えへの誤解を説き続けて何が悪かろう
仏は「勉強しつくせ」とは言っていない、「修行しろ」と教えたに過ぎないのである
364 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 18:45:04.66 ID:qGfarg9S
>>360 >私の行は禅じゃありません。それでも半年ほど山に篭ったこともありますよ。
誇示するのは結構だが、下山しても身勝手は直ってないな
禅とは禅宗のみを指すと思ってるなら勉強不足なんじゃないかな
禅宗は禅に特化しているだけに過ぎず、仏教全般は禅に漏れない
それは禅定を抜きに行ずる宗派が皆無だからだ
一体山で何をしてきたのか判ったもんじゃ無いなw
それと、お前の行為が如何に身勝手極まりないか書いておこう
>私はまた同じ人だと分かったので終わりにしますよ。
お前は自分の事と自分の気分の事しか重んじておらず、これをして身勝手だと言っておく
相手がどんな説を唱えようと、例え自分が気分を害す事であったとしても
仏の教えを捻じ曲げる事を書いてある限りは指摘して正すべきは僧宝の為にあろう
山に篭るはお前の勝手に過ぎない、それで人様の役に立つ訳ではない
365 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 18:55:19.10 ID:qGfarg9S
例えばである
題目や称名念仏などを俺は行わないが、禅宗の坐禅とそれらが「違うもの」に観えてるなら
そのものの修行は形だけのハリボテと言わざるを得ない
この意味を判るものが仏道初学を透過出来ていると言えよう
日本人の教育水準は鎌倉時代とは違い飛躍的に向上したのであり
鎌倉時代的専修制の時代はとっくに終わったのである
現に、一般人はお目にかかれなかった筈の中論をこのスレでは論じようとしている
中観は結局、今残っている全ての宗派に掛かるものなのである
故に、行法がわからぬものに中論の何がわかろう
366 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 19:18:18.69 ID:Vr5f3Tn+
>>363 >仏の教えを理解できたなら
>鵜呑みするのか? (
>>361)
やっぱり成りすましのアキメクラだな。
ホント、書けば書くほど、ボロが出まくりだよw
おなじ言葉でも、未達者には、観得ないコト・領域がある。
『ブッダは、いかなる教えも、どこにおいても、誰のためにも、説かなかったのである。』(中論25-24)
『マーガンディヤよ。「わたくしはこのことを説く」、ということがわたくしにはない。』(Sn.837)
>仏への誤解、教えへの誤解を説き続けて何が悪かろう
曲解を撒き散らすな。
仏を対象化したうえでの執着だ((Sn.333・342・531・779・800・837など参照)。
367 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 19:21:21.27 ID:Vr5f3Tn+
訂正
× Sn.531
〇 Sn.532
会話の相関図が面白い構図になってるなwww
369 :
神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 19:58:08.86 ID:FWXcoacO
誤解なきように、浄土宗は禅定に主眼が有るのではなく、信に主眼があります。
アミダの誓願を心から信じられるかにかかっています。
次に禅宗でいう禅は、デャーナの禅定という意味に限定されません。
デャーナの禅定は、精神集中です。精神集中は止やサマタなど言われることと同じです。
この意味の禅定は、戒定慧の定にあたり、慧を行ずる前提条件みたいなものです。
禅宗でいう禅は、そうでなく慧得た後の本来の境地を指すことが多く、這箇や真面目、無名など色々な記号で呼ばれますが、
その境地を禅定と呼ぶ例は見たことがありません。
これはデャーナの禅定という精神集中に執着することを戒めてと思われます。
370 :
神も仏も名無しさん:2015/01/09(金) 00:24:07.45 ID:L7h6pq+N
>>366 >『ブッダは、いかなる教えも、どこにおいても、誰のためにも、説かなかったのである。』(中論25-24)
馬鹿者、あらゆる仏教経典は仏が悟り得た故に菩薩道として語った教えを
口伝で伝えやがて書式化されたものだ
口が利けないのは如来=ブッタだと龍樹が言っているに過ぎないし
それは間違いではない
故に
>『マーガンディヤよ。「わたくしはこのことを説く」、ということがわたくしにはない。』(Sn.837)
も間違いには成らないし嘘ではない
ではお前らは経典と称して一体何を議論し何をたたき台に載せているんだ?
仏の教えが書いてある「本」を読書して議論してるのとは違うのか?
であればそれが間違いだと俺は言っている
言わねばそれこそ「小乗仏教」なのだよ
閻魔、お前は小乗の人なのか?
>『マーガンディヤよ。「わたくしはこのことを説く」、ということがわたくしにはない。』(Sn.837)
をごり押ししたのは有部ららしいぞ?
371 :
神も仏も名無しさん:2015/01/09(金) 00:28:32.32 ID:L7h6pq+N
>>369 >この意味の禅定は、戒定慧の定にあたり、慧を行ずる前提条件みたいなものです。
良く分かってない事は口出さない方が身の為だな
>禅宗でいう禅は、そうでなく慧得た後の本来の境地を指すことが多く
単に示すが境地を表すとは臍で茶が沸く
仏道の目的は何だっかのう?
372 :
神も仏も名無しさん:2015/01/09(金) 00:40:52.77 ID:L7h6pq+N
経典などを研鑽するのは別に悪くない
しかし、それは仏道だろうか?
それも含めて仏道だと言うならそれもよかろう
ではいつになったら完成するのか
完成を目指さない仏道がもしあるなら
それは現世利益御信心と何が違うのかのう
切り文つき合わせて正しいの間違ってるのやるのは
創価・法華講とのやりとりとさして変わらん
お釈迦様はそんな事をやれと教えたかのう
373 :
神も仏も名無しさん:2015/01/09(金) 01:04:28.77 ID:L7h6pq+N
因みに
837 師が答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。
の切り文の続きは、上記の理由として
>諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における過誤を見て、
>固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。
故だと
これなら確かにブッダは何も語らない、当たり前さね
では、経典は何故存在するのか
誰かが「教えてくれ」と頼んだからブッダは教えた、それが口伝された
本当に語ってないならお前らは議論も出来ないのだよ
良いかな?
我ら仏弟子は三宝に帰依している
その中に於ける「僧宝」とはまさしく「誰かが「教えてくれ」と頼んだからブッダは教えた、それが口伝された」
これが仏教僧宝の因縁であり我らの諸伝の根幹なのだよ
ちゃんとお寺さんなりに行って三宝からやり直せばいい
374 :
神も仏も名無しさん:2015/01/09(金) 10:21:25.33 ID:E1nVuoYN
やっぱり成りすましのアキメクラだな。
ホント、書けば書くほど、ボロが出まくりだよw
375 :
神も仏も名無しさん:2015/01/09(金) 11:24:27.11 ID:BwuYNwfm
376 :
神も仏も名無しさん:2015/01/09(金) 11:56:52.03 ID:E1nVuoYN
やはり、吉蔵の言うとおり、未達者は無方便者であって、方便は通用しない。
・『又“理“に依って明さば、道門は未だ曽て三一に非ず。三と説き一と説くは皆是れ方便なり。
★即ち是れ無名相中に強いて名相をもって説く。』
(法華義疏、巻6、大正蔵34巻、p538〜)
・『又如来は、常に二諦に依って法を説きたもう。
但し二諦は是れ因縁の空・有なり。
而るに外人は、有を聞いては有の解を作して自性の有を成ず、
無を聞いては無の解を作して自性の無を成ず。
即ち二諦を障うれば即ち二智生ぜず。
便ち三世の諸仏菩薩なきになんぬ。斯の病既に深し。
故に須らく重ねて破すべし。』
(中観論疏、巻7末、大正蔵42巻、p111)
377 :
神も仏も名無しさん:2015/01/09(金) 12:23:05.21 ID:E1nVuoYN
やはり、吉蔵の言うとおり、未達者は無方便者であって、方便は通用しない。
毒(言語)によって毒(言語)を制するは不可能なのだろう。それ自体が毒(相対思考)でしかないからだ。
菩提心あるものに、すべての事象が、ただただ<機>として機能(対機)すれば、なんでもいいのである。
坐禅もその一手段でしかない。
坐禅に固執していては、何年坐ろうと<機>は訪れない。
日常に於ける『二相の相即的実践』が<機>をもたらす。→無門関7 趙州洗鉢 参照。
無門和尚に怒られそうだから、ここで退散する。
さあ、飯だ!
378 :
神も仏も名無しさん:2015/01/09(金) 17:47:10.41 ID:soaEu5kp
ID:E1nVuoYN
何の話をしとるのかのう
三乗方便一乗真実などここでは誰も言っとらんのに
>毒(言語)によって毒(言語)を制するは不可能なのだろう。それ自体が毒(相対思考)でしかないからだ。
全て妄想だと言っとろうに
閻魔もいよいよヤキが廻って下らんこぴぺおじゃると化したか
気の毒にのう
379 :
神も仏も名無しさん:2015/01/09(金) 17:51:40.98 ID:soaEu5kp
>>377 >坐禅に固執していては、何年坐ろうと<機>は訪れない。
坐禅に固執などしとらんだろう
仏の如く「禅定」に励む、ただそれだけ
閻魔はなぜそんなに必至に牛車の車輪に鞭打ちたがるのか
>坐禅に固執していては、何年坐ろうと<機>は訪れない。
に固執するのがそもそもダメだと言われとるのに
380 :
神も仏も名無しさん:2015/01/09(金) 18:26:21.58 ID:L7h6pq+N
権威主義は仏道に不要
ま、
とりあえず食い終ったら茶碗片付けろ、って話だ。
382 :
神も仏も名無しさん: