【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践5.1
952 :
神も仏も名無しさん:2009/12/23(水) 17:29:26 ID:ofKMlSJC
[存在に対する認識の誤り]
これが破れれば、存在に対する妄執がなくなり、『渇愛(タンハー)』が
尽きるのである。ナーガルジュナが目指したのは、ここである。
あえて<病人>に喩えれば、上座仏教では、<病人>の病気の症状を抑える
ために、『対処療法』的にそれぞれの症状を抑える処方をするのに似ている。
風邪ならば、発熱の症状を抑える成分や、鼻水を押さえる成分を投与する。
『八正道』や『四念処(住)』など、三十七菩提分法がそれである。
そういう意味では、非常に科学的ではあるんだけれど、「症状」にとらわれ
てしまっており、その根本的な『原因(無明)』を見破っていない。それで
症状(輪廻)は消えるかもしれないが、根本的に治癒したわけではないので
ないか、という問いかけが大乗仏教のスタート。
953 :
神も仏も名無しさん:2009/12/23(水) 18:04:33 ID:ofKMlSJC
<存在が実在するという根本無明を破れ!>
これが、ナーガルジュナが発した号令である。
お前ら<病人>は、「有」とか「無」とか、二元対立する『相対観念』によって
汚染されている。あたかも放射能に被爆したかのように・・・
「我なし、我がものなし」・・・自分と他人が二元相対すると考えるからこそ、そこ
に<憎悪>や<愛着>という、『対象(存在)に対する妄執』が発生する。その
<憎悪><愛着>という『識(アーラヤ)』が、次なる輪廻の[種子(しゅうじ)]
つまり原因となる(これが唯識思想)。
「我なし、我がものなし」・・・自分と他人、自分と宇宙というように二元相対の
観念を解脱せよ! そうすれば、すべての存在がことごとく「法性法身」であり、
『一如』であることが認識されるであろう。それは、瞑想における、直接体験以外
には成立し得ないので、現象に振り回されるその心そのままで、瞑想すべし。
954 :
神も仏も名無しさん:2009/12/23(水) 18:53:18 ID:ofKMlSJC
>『一如』であることが認識されるであろう。
これは、表現のあや。
認識されることがないものが「法性法身」。肉体人間に認識される存在
など、しょせんそのカテゴリーの範疇の存在でしかない。
たとえば、アフリカ大陸を旅行経験したことがない者が、アフリカ大陸
のサバンナ気候を正確に認識できないようなものである。
したがって、「法性法身」とはいかなる方法によっても認識されること
がない。そんな認識されることがないものを、探求してもしかたがない
と、考えることもできる。
スマ長老は、「妄想」という言葉をよく使う。現実に存在しないものは、
みな「妄想」に他ならない。それはその通り。「法性法身」など「妄想」
に他ならない。
955 :
神も仏も名無しさん:2009/12/23(水) 19:21:38 ID:idX6AK1f
/三ミミ、y;)ヽ
/三 ミミ、ソノノ、ヾ、} いい ズバリ言うわよ。
,':,' __ `´ __ `Y:} ホリエさんは生まれ代わって
}::! { : :`、 ,´: : j !:! 前よりBIGになるわよ
{:|‐=・=‐ i !‐=・=‐|:}
r( / しヘ、 )j
g ! ` !-=‐!´ ,ノg
\._ヽ _´_ノ ソ
__,/ ヽー ,/\___
|.:::::.《 ヽー/ 》.::.〈
//.:::.`\ /'.:::.ヽ\
スマナサーラ「法に従わないテロリストは殺すしかないのだ」
957 :
神も仏も名無しさん:2009/12/23(水) 22:54:34 ID:PuV0XfCr
主観的妄想思考って気持ち悪いな。
人に語りたいがために仏教を学ぶなかれ。
958 :
神も仏も名無しさん:2009/12/23(水) 22:59:36 ID:ofKMlSJC
>主観的妄想思考
念佛宗の方ですか?
959 :
神も仏も名無しさん:2009/12/23(水) 23:12:55 ID:ofKMlSJC
シャム宗アスギリヤ派て、スマ長老の所属する派だろ?
960 :
神も仏も名無しさん:2009/12/23(水) 23:45:13 ID:Imn3WXSP
961 :
神も仏も名無しさん:2009/12/24(木) 03:37:19 ID:+KsiEUGI
本を読んで妄想するだけなら仏教を学ぶ意味がないわな。
ブッダは一体何を教えたのかな?
962 :
神も仏も名無しさん:2009/12/24(木) 07:26:57 ID:szvckMDj
>スマナサーラ「法に従わないテロリストは殺すしかないのだ」
それ、スマ長老の発言じゃないよ。嘘、デタラメ、紛らわしい発言はよくないね!
まあ、同じシャム派の坊さんの発言だったと思うけれど。
963 :
スマナサーラ:2009/12/29(火) 18:27:28 ID:+TJ8N9po
智慧もサマディも悟りではありません。完全な悟りはどうやって得るのか?
仏教の世界で、一番優れていたと言われるのはお釈迦さまの一番弟子であるサーリプッタ尊者です。
サーリプッタ尊者ほど、仏教の話を明確に説明できる人はいなかったのです。ですので、いろいろな
修行者たちが悩んだとき、問題にぶつかったとき、彼らを解決に導いてあげたのは、ほとんど、サー
リプッタ尊者だったのです。
ある日、サーリプッタ尊者のところへ、ウパワーナという名のお坊さんが来て、こういうふうに質問
するのです。「サーリプッタ尊者、『智慧』 (vijjâ) によって完全な悟り、完全な解脱を得ることは
できますか」尊者の答えはこうでした。「いえ、できません」
そこでウパワーナは次の質問をするのです。「では『行』(carana) によって、完全な悟り、完全な解
脱を得ることはできますか」
これはちょっと説明しなければわからないと思います。『行』というのは『生き方』のことなのですが、
一般的な言葉で言うと、『道徳的な生き方』ということになるかと思います。何も悪いことをしないで
良いことだけして、嘘も言わない、大変正しい道徳的な生き方、戒律をきちんと守って生きる、生き方。
また、瞑想して集中力を持ち、サマディと呼ばれる状態を完成させることも、この『行』に入ります。
瞑想のサマディというのは、第一禅定、第二禅定など、だいたい八種類くらいに分かれています。
つまりこのときウパワーナ僧が尋ねたのは、ここまで含めた内容、心もできているという状態になる
ことだったと考えられます。「智慧で最終解脱が得られないなら、行でもって最終解脱が得られます
か」と聞いたのです。しかし答えはやはり「得られません」というものでした。
そこで三番目の質問は、「それなら智慧と行、この2つがあれば最終解脱が得られますか」答えはや
はり「得られません」でした。
そこで四番目の質問をします。「では智慧と行のどちらも関わりなく、最終解脱を得ることができま
すか」やはり答えは同じ、「得られません」でした。
964 :
スマナサーラ:2009/12/29(火) 18:29:23 ID:+TJ8N9po
なぜこのような質問をしたかというと、仏教においては、智慧と行という2つは、大変大切な修行だと認識されていたからなのです。
どちらがも欠かせない仏教の2本柱だと、誰もが思っていたのです。日本の『箸』のようなものですね。何かをつかむには、2本とも
なくてはいけません。
ウパワーナ僧は困ってしまって、片方でもだめだし、両方あってもだめ、だからといって両方やめてもだめだという、一体全体、何を
おっしゃりたいのですか、と問いただしました。 そこでサーリプッタ尊者は次のように説明されたのです。
965 :
スマナサーラ:2009/12/29(火) 18:44:57 ID:+TJ8N9po
智慧に執着しないこと 「もし私が智慧(vijjâ)によって人は悟ることができると言えば、執着があっても『悟った』というふうに解釈したことになります」…「智慧がある」つまり、
「ものごとが見えている」ということ自体が、自分にとって何か意味あるものが『ある』ということにとなってしまう。つまり「そこに、智慧のある自分がいる」状態なのです。
自分がいて、その自分に、「智慧」があるのです。この場合は、智慧といっても単なる知識ではなくて、「無常」に対する智慧なの で、大変超越した智慧 のことです。しかし、 それで
も「智慧がある」という場合、智慧に執着しているのです。「智慧がひらめいた」ということ自体は悟りではないのだということを、尊者は言っておられるのです。
智慧があっても、「私には、智慧があるのだ」という状態でいると、そこには、とらわれがある、執着があるのです。悟りというのは、無執着の状態であって、私もいないし、私のもの
もない状態なんですね。
サーマディに執着しないこと
2番目の質問に対する説明も、同じなんですね。生き方を完成したならば、あるいは、瞑想してサマディが究極的なレベルまで達したならば、それが悟りかというと、違う。そこにも
また、「サマディが完成した」という、執着がある。それで悟れるというのなら、執着があるまま悟ることができると、言ったことになるのだと。
966 :
スマナサーラ:2009/12/29(火) 18:50:07 ID:+TJ8N9po
「行」ということを、少々説明してみましょう。ふつう、「行」というと、修行すること、善い行いをすることなどが考えられます。
ここでは「悟りに至る行」に対する質問ですので、一般の修行とは比べられないほど、レベルの高いものを意味します。
ここで言う「行」は、瞑想の経験のことです。瞑想すれば「サマディ」という、普通の人に経験できないほど高度な、精神統一が生まれ
ます。仏教では、精神統一も究極的なレベルまで上達する方法を教えています。サマディ状態には、8つのレベルがあります。
最初の4つのレベルでは、からだと心の、完全な喜悦感が現れます。5番目のレベルでからだに対する意識が完全に消えて、心だけを感
じるようになります。8番目まで達すると、心も、あるかないかわからないほど、集中力が高まります。
集中力には、これ以上の成長はありません。8番目は、サマディの最高位です。心が欲と怒りで汚れていると、1番目のサマディでさえも、
作ることができません。8番目になると「自分がいる」と感じられないほど成長していますので、心の汚れはすっかり休眠状態になってい
るため「悟り」だと勘違いする恐れがあります。
もし「私には、サマディ、行 ( carana ) がある。ゆえに悟っている」と思うならば、それは解脱ではなく、サマディという状態を『持っ
ている』ということになります。
では、智慧(vijjâ) と行(carana) 、両方が完成したらどうなるかというと、同じことで、やはり『執着があり』ながら『悟った』と
いう矛盾になるのです。
また、少し説明してみましょう。ここで執着というのは、欲や物を欲しがる、ごく一般的な心のことをいっているのではありません。
8番目までサマディを作っている行者の、サマディに対する執着、智慧に対する執着のことなのです。究極的な智慧、究極的なレベルの、
サマディ、その両方があっても、その人にはその智慧が『あり』禅定が『ある』という問題があります。それは執着であり悟りではない、
そう言うのです。
4番目の質問は、簡単です。それでは、智慧(vijjâ) も行(carana)もなくても悟れますかという質問です。もしそうであるならば、一般人
も皆、悟っていることになります。そんなことはありませんね。
967 :
スマナサーラ:2009/12/29(火) 18:52:33 ID:+TJ8N9po
悟りには主語がない
そして、尊者はこう説明するのです。智慧ある人、サマディを持ち徹底的な集中力を持つ人はありのまま、現象を観ています。
自分の解釈も論理も一切ありません。すべての現象がどのように生まれて消えるかということを観られるのは、この超越した智慧
と超越した集中力がある人だけなのです。
そのような人が超越した智慧と超越した集中力をもって、ありのままにものごとを観ていると「最終解脱は起こるのです」
…それが答えでした。
言葉を超えた智慧が生まれても、それは解脱じゃない。すべての現象が無常であり苦であること、無我であることを感じ続けて
いて、精神的に落ち着いていても、それ自体は悟りということにはならない。
しかし、このようにものごとを観ていくと、心は何ものにもとらわれない状態を作るようになる。
そもそも、心とは「取る」「とらえる」ものです。「心」という何かがあるのではなく、対象をとらえるのが心であり、瞬間瞬間
の作用が心なのです。だから、何ものにもとらわれない心というのは、あり得ない話なんです。ですから、仏教では、この状態に、
「主語」がないのです。主語なしに『解脱』『涅槃』と呼びます。
そこには心もないし、とらえるものもないということですから、言葉では、何も言えないんですね。
仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも旅するにも、常に人に呼びかけられる。
他人に従属しない独立自由を目指して、犀の角のようにただ一人歩め。
四方の何処にでもおもむき、害心あることなく、何でも得たもので満足し、
もろもろの苦難に耐えて、恐れることなく、犀の角のようにただ一人歩め。
金の細工人が見事に仕上げた二つの輝く黄金の腕輪を、
一つの腕にはめれば、ぶつかり合う。
それを見て、犀の角のようにただ一人歩め。
このように二人でいるならば、我に饒舌といさかいが起こるであろう。
未来にこの恐れがあることを察して、犀の角のようにただ一人歩め。
実に欲望は色とりどりで甘美であり、心に楽しく、種々のかたちで心をかく乱する。
欲望の対象にはこの憂いのあることを見て、犀の角のようにただ一人歩め。
(原始仏教の美しい言葉(ブッダの言葉・悪魔との対話・神々との対話 中村元訳/岩波文庫より))
969 :
神も仏も名無しさん:2010/01/01(金) 20:42:56 ID:tfcYrU+m
970 :
通行人の感想:2010/01/01(金) 21:17:45 ID:jwK4M1zF
↑なにこいつ?
テーラワーダだってふつーに宗教だろ
欺瞞とかいってるけど、こいつのゴちゴチのド頭で言葉を
解釈して主観できめつけているにすぎない。
もっとヒドイ実態がテーラワーダ仏教協会にあるのかと思ったのだが
人をバカにするのもたいがいにせい!
971 :
神も仏も名無しさん:2010/01/01(金) 21:41:12 ID:tfcYrU+m
↑なにこいつ?
テーラワーダだってふつーに宗教だろ
欺瞞とかいってるけど、こいつのゴちゴチのド頭で言葉を
解釈して主観できめつけているにすぎない。
もっとヒドイ実態がテーラワーダ仏教協会にあるのかと思ったのだが
人をバカにするのもたいがいにせい!
973 :
Urayasu Taro ◆lq7M3F4Wkk :2010/01/08(金) 11:42:29 ID:kV1dMDQI
974 :
神も仏も名無しさん:2010/01/09(土) 23:10:10 ID:rsjiARbV
>>973 >パパンチャはパパンチャと捉えれば、良いのです。
パパンチャを妄想と訳した所に長老の不善な価値判断があります。
ご承知のように、妄想という言葉には、マイナスイメージ、否定イメージがあります。
そこに長老の怒り、侮蔑といった価値判断が働いています。
価値判断なく、例えば、虚構、虚妄といったニュートラルな言葉でパパンチャを説明
すれば済むことではないかと思います。
相変わらずアホのままだ。本当に悟ってない限り、自分の判断も認識も妄想であることが分からんのかな。
パパンチャを妄想を打ち破ること(悟ること)がどれほど大変なことか全然分かってないよな。
言っておくけど、パパンチャは生物が生きるために外界を認識するシステムなんだよ。そのシステムから
自由になることがどれだけ困難なことか・・・・分からんだろうな、アホには。
そのシステムからの脱出に非常に効果的なのは
小食にすることなんだよね。
システム自体弱まるし、場合によっては消える。
プラユキ師や大阪の精舎のブログに書いてる人って
ガリガリでしょ。
あれではシステムは作動しにくく性欲さえ
制御できる。
おれも短期間で約18キロ痩せた。
もし小食ができないのならば
まだ生きたいという気持ちが強い
ということなので、出直した方がよい。
妄想って言葉にイメージ加えてるのが自分だと気づいてないのかな
977 :
b.m.:2010/01/10(日) 00:49:53 ID:7l56F64S
>>974 あなたもその「アホ」と五十歩百歩であることをお忘れなく。
1.他人の言動を眺めていて、それが誤りであると思った。
2.誤った言動をしていると思うその他人を、「批判する」(浦安氏の場合)
「アホ呼ばわりする」(974氏の場合)。
論争合戦をする人々は大抵このパターンに陥っているのではないでしょうか?
1の背景には自分の判断が正しいという暗黙の前提があります。そこまではまだ
一応okなのです。皆、自分の正しいという信念を基に誠実に向上努力するもので
しょう。問題は、直前まで1だった人が、次の瞬間2に陥ってしまうのです。そし
て2以降は、他人から見れば、「罵しる人」「馬鹿にする人」という「行為」を
行っている人に堕すわけです。「人は行為によって『バラモン(清浄な人)』
にも『非バラモン(不浄な人)』にもなる」というのがお釈迦様の言葉です。
結局、浦安さんも974氏も、発言内容の是非によらず、行為によって、「罵しる
人」「馬鹿にする人」になっています。頭の中身、信奉している主義信条の正
邪によらず「行為がその人を形作る」というのがお釈迦様の教えです。
このような失敗を犯さないように、常に「自己の行為」に注意するためにこそ、
「サティ」があるのです。別にサティは、ヴィパサナー冥想の準備体操のために
あるのではありません。「サティ」こそ修行の目的だとすら言えるのではないで
しょうか?
また、一歩進んだ話としては、2に堕すのがオチなので、1のように何らかの見解
に強く執着しない、あらゆる見解から(たとえそれが「正しい仏法」という名目
のものであったとしても)離れて依存しない状態こそが、お釈迦様が説かれてい
る境地だと思います。
978 :
神も仏も名無しさん:2010/01/10(日) 01:02:10 ID:e9HcQJoQ
お、いつものキモオカマちゃんの登場か
979 :
b.m.:2010/01/10(日) 01:03:56 ID:7l56F64S
1.他人の言動を眺めていて、それが誤りであると思った。
2.自分ならこれが正しいと思う言動をする。
とすれば、別に問題はないんじゃないかと思います。論争合戦をする人は、どうも
言葉を「2.自分が誤っていると思う相手に否定的な言葉を返す」ことをしなくては
気が済まないみたいで、それをやってしまうと、必ず反対側の意見を持っている人
から同じ言葉の応酬となるのは自明の理だと思います。
お釈迦様は「理不尽な批判を受けたとしても堪え忍ぶこと」も説かれています。こ
のような人同士であれば、意見を異にする人同士であって、争いは生じず、互いに
和してゆけるはずです。お釈迦様は、アーナンダ尊者に言われました。「善友に恵
まれるということは、道の半ばではなく、その全てである」と。意見を同一にする
から仲が良いというのは単に利害関係が一致しただけです。意見を異にしていても、
互いに和することができるということこそが真の友=善友というのに相応わしいと
言えましょう。
980 :
Urayasu Taro ◆lq7M3F4Wkk :2010/01/10(日) 03:17:20 ID:dyrvo+WN
>>974 妄想を打ち破ることなどできませんよ。
そこに怒り、侮蔑があり、かえって、執着を深めるだけだからです。
それは、あなたの言説を見れば、明らかです。
虚妄だと思って、優しく手放せば、それ程、困難なことではありませんよ。
それから、b.m.さん、お言葉ですが、批判、疑問を許されない集団は、カルトではありませんか。
日本テーラワーダ協会は宗教法人ですし。
仏教は宗教ではないと長老が言いながら、何故、宗教法人なのか、そこの所も解りませんが。
981 :
神も仏も名無しさん:2010/01/10(日) 08:52:25 ID:Gs+6LECI
理不尽な批判とまっとうな批判とはわけて考えるべきでしょう。
話にもならない理不尽な批判は反論などして争うな耐え忍べと意味でしょ
釈迦云々をもちだすまでもなく、常識的にそのとおりだと思います。
982 :
神も仏も名無しさん:2010/01/10(日) 11:58:41 ID:e9HcQJoQ
bmはわかりきったことをもっともらしく語る典型的な偽善者ね。
宗教家(と言ってもカリスマ性がないからよくて牧師や支部長ね)によくいるタイプね。
自己の暗さに真剣に向き合うことをしない(できない、したくない)できれいごとばかり
語るのね。この気持ち悪さは理性的で毅然とした禅やスマ長老とは合うわけないね。
>>976 「やせた自分」「小食を実践した自分」
が肥大してるね。
984 :
b.m.:2010/01/10(日) 17:58:56 ID:7l56F64S
>>980 浦安さん、私が取り上げているのは、「スマナサーラ長老が正しいが間違っているか」
「協会が正しいか間違っているか」という是非の問題ではないのです。是非の問題に
心が囚われていること、その状態が、仏道に外れるという話です。
例えば、「世に間違っている物事があれば、それを徹底的に批判し、攻撃しなさい」
というのがお釈迦様の教えであり、そのように経典に説かれているでしょうか?
むしろ、反対のことが説かれていると私は考えます。「争う」という行為は、その
争う名目、理念が何であれ、その行為自体で「苦」だからです。
しかし、世の人は、仏教徒であれ、多くの人は「真理」を求めており、真理によっ
て幸せになるという風に発想の出発点から勘違いしているので、上記のようなお釈
迦様の教えは誤解されることが多いようです。お釈迦様自身、「私の悟った縁起の
法は、甚深微妙にして世間の人々の知り難く悟り難いものである」と述べて、梵天
勧請まで説法をためらったわけですから。
何がしかの「真理」を求める人は、物事の是非に心が奪われても、当然だと思います。
もし、これ以上私がこのことについて述べても、浦安さんの是非心を刺激するだけ
でしたら仕方がありませんので、これ以上続けることはやめておきます。
985 :
神も仏も名無しさん:2010/01/10(日) 21:35:08 ID:1+ko+PA6
>理性的で毅然とした禅やスマ長老
??? 釣り…か?
迷いの中の是非は是非共に非なり。
この世に絶対的悪など存在はしない。
>>986を殴って「これは善か悪か」と尋ねる。
「善だ」と答えたら悪だと答えるまで殴る。
「悪だ」と答えたら「俺にとっては善だ」といってまた殴る。
988 :
神も仏も名無しさん:2010/01/11(月) 13:47:06 ID:dpUAlCSy
>>984 丁寧なだけど屁理屈なおはなしですね。
1+5=8と言い張る人に、それは6ですよと真実を指摘するのは別に怒りでも苦でもないし。
ただ、その人が6を受け入れるかどうかは別だけど。
989 :
神も仏も名無しさん:2010/01/11(月) 15:22:47 ID:aAlz9lpH
浦安のプログより
スマナサーラ長老の法話を久しぶりに聞きました。
あいかわらず、面白いですね。
たいした話術です。
長老の話の特徴は、90%〜99%正しいことです。
ただ、わずかに、長老独自の不善な価値判断に基づく論理展開があります。
そして、それは、法話全体の根幹をなしています。
致命的誤謬です。
しかし、多くの聴衆者は、法話を完全に正しいと受け取ってしまうのでしょう。
それも致し方のないことかもしれませんが。
スマナサーラ長老は仏陀の再来だ。長老は絶対的に正しい。浦安は地獄に落ちるぞ。
>>987 その前に君は斬られるだろう。
善悪を問うヒマなどあたえんよ。
991 :
神も仏も名無しさん:2010/01/12(火) 02:34:44 ID:eV38qo1r
992 :
神も仏も名無しさん:2010/01/12(火) 03:22:33 ID:qqH5+fjo
テーラワーダに限らず、宗教団体や瞑想団体というものは何らかのカルト的要素を含んでるのはしょうがない
「宇宙の根っこにつながる瞑想法」の著者でさえそう
だからいろんなものを自分で勉強したり触れたりすればそのカルト的要素が見抜けて、役に立つ部分だけを利用する事が出来る
あと、気になったのが、
浦安氏は本当はうつと対人恐怖を治すのが目的だったはずなのに、いつのまにかテーラワーダの思想にどっぷりはまり、
そして違う宗派の思想にどっぷりはまり、本来の目的を見失い、テーラワーダを叩くことにエネルギーと時間を費やしてる
40歳を過ぎてもうすぐ死ぬ身なんだから、そんなくだらない事にエネルギーと時間を使わずに、もっと他に使うべき対象があるだろうに
浦安氏は宗教行為や宗教思想から足を洗った方がいいよ
993 :
Urayasu Taro ◆lq7M3F4Wkk :2010/01/12(火) 04:37:01 ID:VZkxjDBn
>>992 私は、宗教になどはまっていませんよ。
座興です。
994 :
神も仏も名無しさん:2010/01/12(火) 11:12:01 ID:fNYRECVZ
995 :
神も仏も名無しさん:2010/01/12(火) 21:52:50 ID:OScaaSp9
996 :
神も仏も名無しさん:2010/01/12(火) 22:18:44 ID:rqcMQ10X
鬱は宗教やオカルトでは治らないよ
明日死ぬ、と覚悟したら鬱は直るし
直らなくても鬱の苦しみが終るのだから
こんなに素晴らしいことはない。
生きよう、と思うから苦しい、それだけのことだ。
近代資本主義は生きる事は素晴らしい、
おいしいものを沢山食べ、楽しみ、
消費することこそ美徳だと、宣伝する。
その逆をやればいいということだ。
実に単純な答えだ。
999 :
神も仏も名無しさん:2010/01/13(水) 00:31:24 ID:mROd3CCA
1000 :
苦楽中道こそ仏道ならんか、如何?:2010/01/13(水) 01:21:43 ID:TpWTe+Ic
>>998 >近代資本主義は生きる事は素晴らしい、
>おいしいものを沢山食べ、楽しみ、
>消費することこそ美徳だと、宣伝する。
=楽行
>その逆をやればいいということだ。
>実に単純な答えだ。
=苦行
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。