【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】15

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>>466
また、現代日本仏教でも、(少なくとも伝統諸宗派は)、
全ての関わった人に「出家し、修行し、僧侶になりなさい」と積極的勧誘をすることはない。
今ある生活の中で、どこまでお釈迦さんの真意を知り得るか、近付けるか、「より善き生」とし得るか、にある。
 (―そりゃ今でも、(その形態、関係性は現代的になってはいても)「弟子」という言葉はまだ生きているし、
  そのような形で、仏門へ誘うことはあろう。だが、そこには当人の意向が確かなものとしてある。
  戦後や大昔のように、口減らしに寺へ預けられる末っ子のようなことは、もはや無い。
  今は、純粋に望む者が、山門をくぐる形になっている。―)
その意味では、今でも、(大乗仏教でも!)《「衆生済度」は「自己の精進に付随する」もの》だ。
「自未得度先度他」とは、ゴールまでのあと一歩を保留して、後続を待ち、或いは共に歩み、
最後の一歩だけ他者を先に行かせる、そういうものであろう。
けっしてそこに、自身の行が無いわけではない。
そこに、自身の行が無ければ、どうして他者を支え誘(いざな)うことができようか。

現在の上座部でも≪自身の行、自身の解脱が、(結果として)世の為になる≫というものではなかろうか。