>>466 >在家に出家など薦めずに、自分ひとりがただひたすら解脱をめざして修行するのが・・・
ほとんどの宗教が、(内実は)そうでしょう?w
(「世界の救済、人々の救済」、「より良き社会の実現・理想形」を高らかに掲げる新興宗教・新宗教等は、
そうした建前の裏に「自己満足」や「自分の救済」が強固な前提となっている筈です。)
そして、実は仏教もそうです。他者の救済や慈悲は、《【自己の精進に】【付随する】もの》です。
その意味で、≪ 「 >自分ひとりがただひたすら解脱をめざして 」いること ≫という批判への
フォローと反駁は、常に用意されねばなりません。
(「犀の角」という在り方も、「悪しき者・修行の妨げとなる者と交わるな」なども「林住の薦め・称賛」も、
ここを批判する者にとっては格好の材料となり得ますw)
「これを潔しとしない価値観の方々が、大乗仏教を支え、発展させてきた」、とは言えるかもしれません。
この位相を逆転させ、《「慈悲」と「他者の救済」》を主軸にした、教えの再構築の歴史が、
大乗仏教の歴史である、と・・・。
「世俗という大海・大渦へ飛び込まずにどうするのか」という禅のスタンスに繋がるのでしょう。
「俗なる存在のまま、聖なる領域と固く結ばれ得ることを宣言」したのが、親鸞、浄土門となるのでしょう。
(※ ↑詳しい方、添削宜しく。 m(_ _)m )
また、大乗的に言うなら、ゴールへ至らなくても、共に歩み、目指したことに意義があるでしょうし・・・。