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仏典に於いて、最初期の弟子達は、あまり名前が(→「逸話や法話、感興の言葉」が)残っていない。
名前の登場頻度だけを見ても少ない。 後期・晩年の者の方が多い傾向があるように見える。(気のせい?)
(初期の「散っていった弟子達」と「大きな精舎(→広い場所)での定住生活」という対比も含め、
その少ない理由と被ってくるかもしれないが)、律蔵大品ヤサまでを見ると、少し想像が膨らんでくる。
律蔵大品は言う。「この時、世に六十人の阿羅漢があった」と。
そこで釈尊は彼らに何と言ったか? 思い出されて良いと思う。
釈尊は「遊行せよ」と言った。 「地方を経巡(へめぐ)りなさい」と言った。
なぜだろう?
・無所有とリンクする「一所不住」の具体的在り様、とは言えると思う。(→この「一所不住」も重要なポイントだが・・。)
また、
・「多くの人の耳に、この教えを届けろ」ということかもしれない。気付きを生じる者がいる筈だ、と。
・「教えに触れた者が増えれば、社会自体も(善い方向へ)変化してゆくだろう」という期待もあったかもしれん。
この二つが、仏典の中で、そして通仏教的に前面に押し出されている「遊行の理由」だ。
そしてもう一つ、上の「一所不住」とも被るが、
・【「食を乞わねばならない自分達」の在り方】として、あるべき形が示された。
と見ることもできる。 大勢が食を乞えば、それだけ在家には負担となるからだ。
(はっきりと、この意味のことが述べられた経があったような気もする・・・。)
仮に、小さかったとしても、村全体が出家したらどうなるか?
(貴方の思考実験では、在家者ゼロなわけですが)、他の村に依存することになる。
子供や乳幼児のこともあるので、これも極端な話であるが、
いずれにしろ、この方向性があるから、
≪【固まって住むことなく】(【固まって托鉢せず】)【定住せず】、【各地へ散らねばならなかった】のだ≫と・・・。
私は、そう考えている。(※散って、林住メインだから、名前の残り方が薄い、と・・・w ? )
そして、それ(各種対処)が不可能な、上記の「ゼロか百か」の思考実験に於いては、単純な答えしか導かれない。
多少はお解り頂けるだろうか・・・?