禅というのが、意図的に思考や論理脳を休止させて
右脳や自律神経系を活性化させる技法だとすると
公案ってのは非常に合理的なテクニックだな。
公案は論理では絶対解けないわけだが
要するにあれは論理脳をスタックさせて休止させるための
一つの手法なんだろうな。
昔の禅僧は経験的にこういうテクニックが有効だと悟って
公案禅を編み出したんだろうが、そう考えるとよくできている。
論理的に絶対解けないことを論理を使って考えてるんだから
おめえのは論理破綻してるろうw
>>432 ん? いやだから公案は論理脳を休止させるための手法だろうと言っただけ。
師匠が公案をチェックするのも、そういう意味があると思う。
論理脳をドライブさせて屁理屈をひねり出しているだけか
本当に休止した状態にあるのかを見極めているんだろう。
そして、その見極めは多分ある程度禅定状態に
入った経験がある人じゃないとできない。
だったら考えねえで直感だけに頼る事が目的って事だな
435 :
禅中毒者:2011/02/19(土) 19:58:53.03 ID:HpAaYzHw
「論理」でも「直感」でもないよ。
左脳が論理的思考をして、右脳が直感を司るならば、
その主体を乗り越えたところだ。
考えないで感じることなら誰でもできる。
さらに、その奥である。
「正受」すると云われる所以である。
これは実に超越的事態だ。
あらゆる議論や論争は届きようがない。
論争や相手に理解させようなどと思えない。
個人的主体を超えた完全なる御満悦状態だ。
がむしゃらに坐れば誰でも来れる。
その時には議論など馬鹿馬鹿しかったと思うだろう。
諸法非我である。
なんだよ来れるってw
おめえの言ってることは、葉っぱとかシャブ打ってえられるような快感を脳内で作り出すって事だろ。
それって三昧ってやつだろ。俺だって経験あるよ。
>>431の言ってる事はそんなのとは別だろ。
437 :
禅中毒者:2011/02/19(土) 20:17:07.26 ID:HpAaYzHw
>>436 なんだか勝手気ままにほざいてしまって申し訳ない。
三昧というのは三昧であって、快感であるだろう。
「俺」だって三昧を経験したんだ。
だがそうではないんだ、何とも言いようのない
グログロした気持ち悪いとも何とも表現できないところでしたよ。
不満も満足もない。それはもう満足しようという気持ちが完全に失せた人にとって
安らぎだった。実に世俗的快楽に未練がある者は見てはならない。
警告である。
>>437 > グログロした気持ち悪いとも何とも表現できないところでしたよ。
> 不満も満足もない。それはもう満足しようという気持ちが完全に失せた人にとって
> 安らぎだった。実に世俗的快楽に未練がある者は見てはならない。
> 警告である。
こわいよー
なんか自分にはたどり着けそうにない気がして来た。
余分な事は考えず、明日を生きるために坐ろう、うん。
不立文字
test
香の良い香をたこうと思うが、お勧めはある?
443 :
神も仏も名無しさん:2011/02/20(日) 15:54:46.64 ID:Evt/pKdJ
臨在禅はよくしらないし公案も未経験だけど、
公案が禅定へはいるために論理脳を停止させるテクニックというなら、
公案は入門者向けという理解でいいのかな
上級者はとくにそうした手段をとらなくても座って少し集中すればはいれるだろうから。
それとも上級者にとっても得るものがあるのだろうか。
444 :
神も仏も名無しさん:2011/02/20(日) 16:03:21.80 ID:Evt/pKdJ
「グログロした気持ち悪い」とか、そういうのは個人差の領域だからね
禅定の状態というのはいわゆる論理脳が停止することによって、抑圧されていた
潜在意識が表面にうかびあがってくる。
その潜在意識の具合いかんによって、表れ方はさまざまだと思う。
悪夢をみたりうっとりする夢をみたり、心の具合によって体の状態によってかわってくるように。
あれこれ理屈こねてないで、ただ坐れ
446 :
神も仏も名無しさん:2011/02/20(日) 16:21:58.47 ID:Evt/pKdJ
すまんw
>>442 日本香堂の天壇シリーズは結構いいと思う
448 :
神も仏も名無しさん:2011/02/21(月) 10:51:25.81 ID:MJZxOZMY
臨済禅の場合。
公案は役に立つし、役に立たない。
公案はドンピシャかと思いきや、全くの的外れ。
公案というのは入り口であって、
必要なくなる時が来よう。
自分で論理脳を停止させるのではないんじゃ。そういったテクはありませんぞ。
悟りは自分の努力も必要じゃ。じゃが自分の努力では悟りは来ない。
では待っていれば来るのか。来ない。ではどうするか?
努力して一心不乱に妄想連発の大地獄の中をもがきながら座るしかない。
そうすれば必ず見性はある。
重要なことを言うと、誰もが「悟り」とは何なのかを
言葉を追って必死に調べている。しかしわからないものじゃ。
だが一旦、悟をちらっと垣間見ただけで、なぜ言葉ではわからなかったのかがわかる。
そして言葉にはできない。
なぜなら法は得た人だけのもので、互いに教えあったりできないからじゃ。
公案って、左脳停止のための答えなき問題だとカラクリを知ってしまったら、公案にならんのじゃないか?