1 :
神も仏も名無しさん:
常に意識を傾注している者として、坐すように。
常に意識を傾注している者として、立つように。
常に意識を傾注している者として、歩くように。
考えるな、感じるんだ!
何も考えずに2get
■坐禅
結跏趺坐を組み、姿勢を正し、半眼にする。
口から息を吐ききって、鼻から吸う。臍から10cmほど下の丹田に意識を置いて丹田呼吸する。
呼吸に意識を集中させ、邪念を排除し、囚われない。
■立禅
まっすぐ立ち、目を閉じて、全身か足全体の感覚に意識を集中させて観じる。
■歩行禅
歩いている時に、左右の足の感覚に意識を集中させる。
右足全体に意識を置いて観じながら感覚を捉え、右足を前に出して地に足を着け、邪念を踏みつぶす。
右足着地と同時に、即座に意識を左足に移し、左足全体に意識を置いて観じながら感覚を捉え、
左足を前に出して地に足を着け、邪念を踏みつぶす。
このように禅を続ければ
仏教徒なら仏性が輝いて悟りを得、涅槃に住まうかもしれない。
キリスト教徒なら、霊に満たされて、永遠の命を得、神を観るかもしれない。
5 :
神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 14:46:56 ID:aCdAMpE9
坐禅してるときに
目を薄く開けてるんだけど
視界が真っ暗になって何も見えなくなる時があったり
光がチカチカ見えるときがあるんだけど
これ何なの?
貧血
頭に血が上っている。
座禅で体を叩き心が清くするというのは
天魔禅だが、
>>5 のケースでは必要
深刻な内分泌異常を起こす前に止めよう
9 :
神も仏も名無しさん:2009/09/03(木) 18:37:36 ID:zE1iXBkk
単なるニミッタだろ
10 :
神も仏も名無しさん:2009/09/04(金) 10:25:04 ID:YdWRHlcv
8が言うのは、白隠の患った禅病かね?
11 :
だいおう:2009/09/04(金) 11:37:51 ID:Yr1hCYq/
そういえば、坐禅しなくても、やや暗めの所に行くと、
5氏の様な感じになる事がある、
ま、意味がない現象なんで、
念を起こさない事の方が大事やろな、
後、普通の精神状態に近い状態での日常生活の上での集中感の方が大事。
12 :
だいおう:2009/09/04(金) 11:40:10 ID:Yr1hCYq/
脳の活動が小さくなり、瞳孔が閉じ気味て、言うやつ、
密教系だと反対に瞳孔開く方向になりそう、まぶしい、金剛w
単純に脳血管の痙攣だよ。
坐るまえに、軽く身体を動かしておくなり、
五体投地で頭を低くする体操をすればいい。
最近、坐禅を始めた初心者なのですが、
結跏趺坐で座ると、情けない事に足が痺れてしまい
経行のときに、まともに歩く事が出来ません。
立ってるだけで精一杯です。
みなさま、先輩諸子はこの困難をどんな風に乗り替えたのでしょうか?
ぜひ、アドバイスを下さい。合掌。
×乗り替えたのでしょうか
◯乗り越えたのでしょうか
失礼致しました。
16 :
だいおう:2009/09/05(土) 11:01:38 ID:3YZYDLZT
ま、大森曹玄老師の参禅入門(講談社文庫だったけ?)を読むことだね、
このスレはいい加減な意見の奴も多そうだからね、
余計な思考、念が増えるのが関の山w
17 :
だいおう:2009/09/05(土) 11:22:35 ID:3YZYDLZT
ワイ、はんかオンリーだなw最近密教化していて坐禅すらしてなかったりしてw
ガマン大会じゃないんだからw
正式な坊主やりたいなら、がんばれよw
と言うしかない
アドバイス、ありがとうございます。
参禅入門読んでみます。
私は今まで、半跏趺坐でヨーガ系の瞑想をしてきたので
それらと決別する意味で、結跏趺坐を組むことに、こだわりたいのです。
ありがとうございました。
19 :
神も仏も名無しさん:2009/09/05(土) 23:04:42 ID:oYmkVOQb
「あぐら」ではなぜだめなんですか?
20 :
神も仏も名無しさん:2009/09/06(日) 00:46:17 ID:jfxZYXXO
道元禅師が、結跏趺坐か、半跏趺坐で座るよう書かれています。
21 :
神も仏も名無しさん:2009/09/07(月) 10:27:41 ID:EBNNW8yA
「一円相」ってこんな感じか?
無無無
無無 無無
無無 無無
無無 無無
無無 無無
無無 無無
無無 無無
無無 無無
無無無
22 :
神も仏も名無しさん:2009/09/13(日) 21:37:23 ID:pwmfuHgy
ティク・ナット・ハンさんの禅的生活の進めに詳しく載っているよ。
23 :
神も仏も名無しさん:2009/09/13(日) 21:59:12 ID:wH5rkGju
立禅、歩行禅を実践したいのですが、座禅と意識の持ちようなどは同じでいいんでしょうか?
生きてること、日常すべてが禅であるということ、私の目標であるのです。
24 :
神も仏も名無しさん:2009/09/14(月) 06:26:15 ID:FayAOg1q
>>23 どれも意が法と出会って妄想が発生しないようにするのは同じでしょう。
作務とかは日常すべてが禅ということでしょう。
25 :
だいおう:2009/09/14(月) 11:37:32 ID:+E8z2Z3z
>>23 曹洞宗的には只坐ってね、とその延長で只の日常行動、
曹洞宗的に世界と自分は一つて言う感覚が、悟りが生まれる時すべてを知る事が出来うるでしょう。
臨済宗は破壊的勢いがいるなw曹洞宗よりも精神の作用幅が大きい、着地点が難易度高いかもなw
26 :
23:2009/09/14(月) 19:23:24 ID:A4zezNPg
やってみるよ。
僕はね、天台小止観から始めるのをすすめる。
いきなり山頂に放置されるんじゃなくて、里からゆっくり登って行ける。
まあ、人各々だけど、そういう道もあるという事
私は毎日立禅を20分やってる
まだ瞑想はできないけど、ご飯がおいしくなって足の膝痛が緩和した
29 :
神も仏も名無しさん:2009/09/23(水) 11:59:51 ID:8S4HMjH3
瞑想するということは観照者になることだ。
30 :
神も仏も名無しさん:2009/09/28(月) 14:07:19 ID:hkdSJPIC
禅をしてると現実の自我感覚が薄くなってくる。
この世界は現象界だから、
その感覚がが薄くなって、
実在界(神の国やら彼岸やらかな?)の方に引き寄せられてる感じがする。
意識がキレイになってゆく感じだろうか。
31 :
神も仏も名無しさん:2009/09/28(月) 14:24:48 ID:hkdSJPIC
どの宗教だろうが瞑想しなければ意味は無い。
信仰だけでは宗教団体自体を神だとみなす危険性とエゴによる執着がぬぐえない。
32 :
神も仏も名無しさん:2009/10/09(金) 09:17:32 ID:E6A8SrLD
age
33 :
神も仏も名無しさん:2009/10/09(金) 23:21:41 ID:fIYrJLG9
阿含宗桐山教祖の逮捕歴
昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕
警視庁西新井署
十二月手形詐欺容疑で逮捕
千葉県松戸署
二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕
警視庁防犯課
二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決
五月入所
十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪
34 :
神も仏も名無しさん:2009/10/23(金) 20:35:01 ID:vGEy1mlI
スレタイに「臥禅」が無かったのは残念だ。
座禅の正しいやり方を、お寺で教わりたいけど
東京だと、どこがいいでしょうか?
宿坊で精進料理たべたり出来たら、なおいいです。
座禅をするとどうなるの?
なんか良いことあるの?
やってみたい
37 :
神も仏も名無しさん:2009/10/24(土) 20:12:46 ID:4WxcAgFo
悟れる
悟りたい!坐ってうすらぼんやりしてれば
ハッと真理がわかるの?
39 :
神も仏も名無しさん:2009/10/25(日) 12:08:41 ID:5DYdtNo7
坐禅の効能、庶民的に、
冷静な判断力が身に付く、
集中力が上がる、
多くの仏教の悟りとは、現実を冷静に無駄なく判断、行動できうる事。
無駄な情報処理無く、その場において適切な判断と行動の選択ができるうる。
悟りへの入り口、無駄な情報処理を減らす事。
ヒント、優秀なスポーツ選手は直接必要な事以外、不必要な情報処理を減らしているしね。
>>38、
修行している僧侶の姿を思い描いてみて、うすらぼんやりしているように思えてしまうなら、
もう悟ってるって。
41 :
神も仏も名無しさん:2009/10/25(日) 12:09:45 ID:5DYdtNo7
東京だと曹洞宗、総持寺かもね、
場所わからんw
関西やからなあw
>>40の追加
>うすらぼんやりしてれば
くらい軽い感じのが良いかもしんない。
モノが禅となると、肩を張り過ぎるきらいがある。
でも、のた打ちまわる、みたいな経過もあったりするし。
かえって難しくなっちゃうかな。ごめんね。
でも、ぼ〜っとでいいから座ってみるのだいじ。
案外、すぐ悟れるかもよ。これはその人その人でちゃうだろから。
43 :
神も仏も名無しさん:2009/10/28(水) 09:06:01 ID:jU4dNabq
坐禅て初めての人は大まじめにやるもんだ。
もっと明るく坐ろう。
>>43さん、そうだ。
「明るく座る」
この言葉、すごくイイ。
手前が中途半端に進んでて、呼吸に意識できずらくて、のたうちまわってたりするから、妙に深刻になっていた。
でも、それは一時だし。
良い言葉、いただきました。私も明るく座ります。
45 :
神も仏も名無しさん:2009/11/10(火) 17:17:00 ID:46B2CGYM
その通りだ。その通りだ。
まるで苦行をするかのように坐禅をするなんて外道だ。
釈尊は苦行は全く無意味だったと言っている。
46 :
神も仏も名無しさん:2009/11/17(火) 06:23:32 ID:CWPYovw3
無明や業障を払えますか?
47 :
神も仏も名無しさん:2009/11/17(火) 18:20:37 ID:Ys9d4aZ8
>>46 >無明や業障を払えますか?
ん?質問になってないぞよ。
無明や業障を払えるのは、あなた以外の他人じゃなくて「あなた」でしょ?
というか「あなた」しかできないでしょう?
坐禅やらの技法に信頼性があるのか、効果があるのか疑問に思ってたりするのはわかる。
よく寿司屋が一人前になるのに10年はかかると言うでしょう。
禅の場合は、かなり厳しく、やる気がなくなって、気の遠くなる、絶望的な、年数がかかる。
20年〜30年はかかると断言します。甘くない。これでみんなやる気を無くします。
これを聞いて、やる気を無くすようならもうだめです。甘くない。苦いよ。
それでも頑張るなら最後は甘くなるという。あとは自分で決めてね。
48 :
神も仏も名無しさん:2009/11/21(土) 11:58:40 ID:1C1UsgQJ
吐くときは黄門の筋肉をしっかり締めないと痔になるそうですよ。
49 :
絶対神:2009/11/21(土) 12:03:45 ID:YhmrdZDC
>>39 そういうのをカルトマインドコントロールというのですねw
>>47 何十年もかかると言って、深みを強調し、「結局、何も与えない」。
カルトの常套手段ですなあ。
言う事にもっと説得力を持たせたまえ。
すし屋というのは「実在し、実際にうまいものを食べる事が出来る」。
それに対して、お前の言っている事は「確認しようがない」。
『全然、意味が違う』
何十年もやった結果、「そうなった」と「お前が錯覚しているだけ」
かもしれないぞw
「やれやれ、カルトはこれだからな」w
「さて、座ろうか」と思ったら半分成功。
で座ると。短期間繰り返していくうちに要領が掴める。
でも
>>3が難しいと思う。これがうまくできりゃ・・・、、、
誤解を受ける書き方してもたw
坐禅そのものじゃなくて、あらゆる型の禅を
無意識に生活に取り込むという意味ね。
悟りが坐ってるときだけであれば、あんまし意味ないものね
日常生活の中でも不動の芯みたいなものが欲しいよ
>47
??30年間も何をしてたんでしょう??
30年なんて宇宙の時間で考えたら刹那。
そして人間も宇宙の一部なのだから、
30年がどうのなんて考えても始まらないよ
昨年1年坐禅中止し今年からまた始めた在家です。今年は坐禅1日15分と決めました。以前は週に数回3-40分とかやってましたが、
どうも効果的ではない様に思います。
毎日15分の坐禅で整調し、残りの時間正念相続するように図れば、坐禅は15分で足りるのではないでしょうか。
禅の要旨は、ただ「観」る事を相続するだけです。妄想があろうが何があろうが一切放って置いて。
私は坐禅中は只管に我が呼吸を「観」ます。(随息観)
それさえ出来れば全てついてくる。祖師録、般若心経、透過出来ます。
それを臨済禅師は、「無位の真人は常に面前(この場合鼻ですな)から出入する」と表現し、般若心経ではそれに熟達した修行者を
「観自在菩薩」と表現しているわけです。
後、看話禅は邪道だと確信してます。あれは妄想に他ならぬ。修行体系づけたのはノイローゼだった白隠禅師だし。止めるべき。
56 :
神も仏も名無しさん:2010/01/11(月) 01:20:58 ID:mmgCJPdD
>>55 確かにアーナパーナ(入息出息観)は基本中の基本ですからな。
看話禅は邪道かもです。ノイローゼ状態を無理矢理作り出す方法ですから。
そういった追い込んで悟らせるという方法は祖師にも仏陀時代にもありません。
まあ臨済録の臨済禅師の言動自体が過激なので何とも言えませんが・・・。
あとは・・カルト問題ですか。
坐禅などは基本一人でやるものですから、宗教団体に属してドップリ浸かってる方でないなら
大丈夫でしょう。前者記の白隠禅師の件がありますから野狐禅は危ないんでしょうがね。
私が基本的に思うに、「これこそ常道」とか「これが真の道だ」とか「これだけが道に至る」とか、
限定的な方法論や集団の技法に没入して欲しくないのです。
「自分だけのものであって、全ての者のもののためである」というような感じがいいと思います。
57
>>毎日1日4-50分やればいいのでは。
>毎日15分の坐禅で整調し、残りの時間正念相続するように図れば、坐禅は15分で足りるのではないでしょうか。
無理でしょう。
58は
>>55氏に。
1日15分でどうにかなるなら、白隠禅師だってそれだけで済ませてるでしょう。
60 :
神も仏も名無しさん:2010/02/02(火) 11:54:54 ID:USHNLz6j
修行僧よ。瞑想せよ。
なおざりになるな。
汝の心を欲情の対象に向けるな。
なおざりのゆえに鉄丸を呑むな。
灼熱した鉄丸で焼かれるときに、
「これは苦しい!」といって泣き叫ぶな。
それをいうなら、「おざなり」ね。
なおざり〔なほざり〕【等=閑】 [形動][文][ナリ]
1 いいかげんにしておくさま。本気でないさま。おろそか。「―な練習態度」「子供のしつけを―にする」
2 ほどほどで、あっさりしているさま。
おざ‐なり【▽御座なり】 [名・形動]
いいかげんに物事をすませること。その場だけの間に合わせ。また、そのさま。「―を言う」「―な処置をする」
61はこのまま出てこないつもりである。
64 :
61:2010/02/06(土) 09:41:44 ID:NwOVoNUP
失礼しました。なおざり、全く知らなかったッッス。プロバイダがアク禁くらってたので遅れました。
いわれて飛び出てジャジャジャジャy−ん
66 :
神も仏も名無しさん:2010/02/27(土) 13:00:46 ID:SwVgADZt
お前ら実行しろよ
68 :
神も仏も名無しさん:2010/03/07(日) 12:55:07 ID:/j99S+ia
そうだ!坐ろう・・・・。
トイレでやったらかぜにいた
パソコンの前の椅子で座禅。ネット中毒を抑えられるかも
>>1 >ウンコしたときに、神にウンコがベットリ付く奴は、ケツ毛を剃れ。
>オレは電気シェーバーの際ぞり用の刃でやってるが、
>剃るとあら不思議、あら簡単、ウンコがほとんど付かなくなる。
>トイレットペーパーの消費が減る。
デフォルメA環境アニメの探してからダイエットするなう。働いてから毎日が本番安く澄まそうらっしゃる。
私が学んだのはインデックスキャリア仕事探し。
力を日記ビリーミクデ旅行などのをば腕立て首後ろのツボする。
作っても良い抜く腹筋無人有能な人物になるルールをエッセイ検察官のような気持ちで整理していた。
溺愛する犬についてねーの?
ヘリオットのメチャメチャ安く澄まそう連絡まち。
奥深くへと恋人卒業式どちらかをやるの方が方法もう流行らない。
予行練習はなくロリコンきめぇ。
フロー体験と坐禅はなんか似てる
75 :
神も仏も名無しさん:2010/03/29(月) 09:15:04 ID:l6WXsZBa
フロートタンク体験と坐禅は全く同じ
77 :
神も仏も名無しさん:2010/04/09(金) 10:43:24 ID:AWI6nBar
禅⃞
78 :
神も仏も名無しさん:2010/04/24(土) 05:53:01 ID:rY24CPLx
坐禅したら零感だったのに霊感持ちや霊能力がついたって人いますか?
どういった方法でどれくらいの期間やったのですか?
是非教えてください。
79 :
神も仏も名無しさん:2010/05/02(日) 08:59:01 ID:KfS4P0uX
保守するともなく保守してみようかな
80 :
神も仏も名無しさん:2010/05/03(月) 12:12:07 ID:xDTH6/VU
数息観がいい。
>>78 坐禅は霊感とか霊能力とは無縁。
そういうのは宗教板よりオカルト板に猛者がおおいぞ。
よく座禅を心を静めるとか、忍耐力を養うとか思ってる人が多いが、
まぁ体験したいだけの人とか好奇心だけの人ならその程度の理解でもかまわんが、
本当の禅てのは、たいていの人が眠らせている死なせている脳を活性化することなんだよ。
人は「考えない」状態になると、それまで考えることによって押さえつけていた
脳がたちあがってくる。それを右脳とよぶか脳幹とよぶか爬虫類脳とよぶかは人によりけりだが、
座禅の真の目的は、その普通は死んでいる脳をよみがえらすことにある。
が、それには志ある人が真剣にとりくんでも三年以上はかかる。
おそらく一般人はそこまでやりとおせない。だから、禅が誤解されざるをえない。
本をよみかじるだけで本気で座ったこともない頭でっかちな者には想像もできないだろうが、
座禅とは理屈や思想とはなんの関係もない、身体的な現象なのだ。
わかるひとにはわかるだろう。
82 :
神も仏も名無しさん:2010/05/05(水) 18:11:15 ID:Xh4yA/iz
>>81 ああ、わかるような気がします。事実かどうかはともかく、そうじゃないのかなという疑問をずっと持ってた。
禅定っていうのは普段使わない脳の部位にアクセスしている状態のことじゃなかろうかと。
坐禅始めて間もないんで、禅定の状態に入ったことなんかないんですけれどね。ただ気持いい楽しいなあと思うくらいで。
ただそうだとすると、そのことと無常や悟りといった仏の教えとはどう結びつけたらいいんでしょう
三年と書いたけれど、その間まったく進歩しないというものではなく、
折にふれて発見や驚きのような感覚はある。トンネルをほるようなもの。
どこまで掘るのかはわからないが、土が後ろへたまっていくのは判る。
私の体感から言えば、思考を停止することで立ち上がる脳の発達が、
通常の生活をするための思考脳よりも優位にたった時点を、見性というのではないだろうか。
バソコンに例えるなら一つのCPUで動いている人体をデュアルCPUへ、さらに二つ目のCPUを
もとのCPUよりもスペックをあげると。
といって、
>>82さんの言われる禅定のための脳の発達が終わるというものではなく、
意志さえあるかぎり開発はどこまでも可能であると思われ。
私は見性と悟りを区別したいとは思わないが、あえていうなら、見性後のさらなる禅行から
えられる境地といえるのではないでしょうか。
84 :
82:2010/05/05(水) 22:15:04 ID:foJkHjUp
>>83 83さんは禅や仏教に造詣の深い方とお見受けします。
そこで唐突で恐縮ですが伺いたいのです。
人は何故座禅をしたり悟りを目指す(必要がある)のですか?と質問された場合、83さんはなんとお答えになりますか?
坐禅を通して83さんに変化が起こって、そのおかげで何らかの利益を得たり、有利になったことはありますか?
悩みがなくなったとか、仕事がうまく行くようになったとか…(私は自覚する分には全然ないのですが)
また、仏教は絶対の神に「救い」を求めるいわゆる「宗教」とは違うように思われますが
仏教に救いを求めることは可能でしょうか?
私はまさに心を鎮める方法を探してるうちに坐禅に行き着いて、
ひとり、部屋で座るようになり(心を鎮める効果は確かにあったと思います)、
仏の教えについてもすこしずつ勉強を始めたのですが、疑問に思うことがたくさんあって、
一度坐禅に真剣に取り組んでる方に聞いてみたかった。ご面倒ご迷惑でなければ、考えをお聞かせください。
あと、スレ違いだったらすみません。
85 :
神も仏も名無しさん:2010/05/06(木) 08:35:33 ID:MqhqLBhe
86 :
83:2010/05/06(木) 17:57:16 ID:uXG17msX
私は、座禅をすぐれたメンタルトレーニングとする立場から書くほうが要旨が明解で自分も書きやすいので、
仏教から見た座禅については、よりふさわしい方におねがいできればと思います。
何故座禅をするかを一言で言えば、人生を楽しく過ごすため、という言い方が私は気に入っています。
誰だって人生を楽しく過ごしたいわけだが、2chなど眺めていれば誰でもわかるように、
人の心には嫉妬やら憎悪やら劣等感やらであふれている。物質に満たされていても、
生老病死をまぬがれる者はいない。外界を変えることは不可能である。
であるならば、自身をかえる以外にない。
変えるとは、すなわち、上記のような人生の苦痛を軽減、
もしくはそれらに影響を受けない自分にすることではなかろうか。
87 :
83:2010/05/06(木) 17:59:27 ID:uXG17msX
>>85の記事は中々面白いし、「座禅が苦痛を軽減する」という点では私と共通する。
その理由を、記事では、長時間痛みを伴う苦行を続けることで、
痛みに対応する脳が分厚くなるとあるが、そこは少しどうかという気もするが。
座禅の主目的は痛みに耐えることではなくて、「考えない」ことだから。
私の「座禅が苦痛を軽減する」という理由は、前述のように、人は「考えない」でいると、
通常は使わない脳が立ち上がってくる。(脳という言い方は我ながら抵抗があるが、
「新たな意識」とか「意識された無意識」とか、いろいろな言い方が可能か)。
この脳を鍛えることによって、デュアルCPUと例えたように意識の二重構造のような感覚になる。
それまでひとつの意識が10の苦痛を処理していたのが、二重になれば、
それぞれ5の苦痛を処理するだけですむ。肉体的な苦痛にしろ、精神的な苦痛にしろ、
処理の分散化が起これば、それは「軽減」もしくは「あまり影響を受けない」という結果をもたらす。
図式的なこんな説明のしかたもどうかと思うが、私の体感は、
とにかくそうしたものなのでどうにも仕方がない。
88 :
83:2010/05/06(木) 18:09:54 ID:uXG17msX
で、座禅から何か利益を得られたかですが、上の話と関連させていうなら、
苦痛だったことが苦痛でなくるなることは、途方もない利益をもたらす。
飯のうまいまずい程度のつまらぬことでピリピリしていた男がそれを気にしなくなれば、
妻や家族との関係は明るくなる。常にイライラして部下を怒鳴りつけていた男がいつも温和冷静でいるようになれば、
部下の信頼も上司の信望も厚くなる。人が信頼してよってくる。評価があがる。経済事情が好転するかもしれない。
恋愛についても同様。
先哲には、座禅をつづけていると人相がよくなるという人が多いが、
それも人間関係を良くする要素といえるかもしれない。
というように、人を不幸や不満におとしいれているのは、つきつめて考えると、
外界に原因があるよりは、むしろ自分自身のなかに原因があると。
自分がかわればおのずと世界はかわる。
苦痛を苦痛ではなくするとは、思う以上に、おおきなことなのでしょう。
>83
なるほど。些細な事のように思えることも、実際には大きな影響をあたえて
いる。それが瞬時に見えるようになることが「観」なのかも。
90 :
82:2010/05/07(金) 23:22:23 ID:Qivvfwmj
>>83さん
ご見解を伺うことができて非常に嬉しいです。ありがとうございます。
何度も読ませていただくうちにだんだん楽になっていく感じがあって、
坐禅に対してガチガチになってたんじゃないかというか、何かしら妄想を抱いてたんじゃないかと思い至りました。
ここ1年くらい、俺の人生終わったーみたいに感じてたせいもあるかなとも思うんですが、
坐禅をしたらそれで人生が好転しだすとでもいうような、
過剰な期待を持ってしまったような気がします。
>>89さんのレスにもはっとしました。坐禅というのは物凄くリアルな物なのかもしれません。
まだよくわからないのですが、とりあえず今日も座ってみます。
本当にどうもありがとうございました。
もうひとつだけ、伺いたいのですが
座ってる間、まばたきをしてもいいんでしょうか?
薄目を開けているとだんだん目がヒリヒリしてくるんですよね。
自然に任せてまばたきをして構わないものでしょうか?
我ながら馬鹿みたいな質問だとは思うのですが…よろしくお願いします。
>>90 82さんも色々な書物を読まれていると思いますし、
座禅についても多くの人がさまざまなことを言っている。
また、禅宗の方に聞けば、例えば曹洞宗ならば道元さんが
ことこまかに座禅の作法を書き残しておられるから、
その宗派の禅者は自分の経験からというよりは、
それをもとに指導するのが原則となっているでしょう。
ネットでもやれ腹式呼吸だ逆式腹式だ数息観だ随息観だとか、
まぁバラエティにとんでいる。
悪く言えばわけがわからない。
そこで大切なのは本質に帰ることで、
座禅の一番大事な「考えない」という場所にもどらないといけない。
「考えない」ためにはどうするのが一番いいか、そこがキモなわけです。
人は体型も体質も感覚もちがうから、食い物と同じで、ある人にとって最良のことが
ある人には最悪にもなる。
まばたきをすれば痛さが消えて集中しやすくなるならしたほうがいいし、
しないで涙目になりつつも痛さをこらえたほうが集中できるならしないほうがいい。
が、あくまでも座禅は我慢比べではありません。
スレタイにもある立禅とか歩行禅というのが成立するのも、
「考えない」状態を維持できるのなら、
姿勢や状態などは二義的な問題にすぎないということなのだと思います。
93 :
83:2010/05/08(土) 10:09:19 ID:dHeDmM6x
いつも長文で申し訳ないのですが、「考えない」状態のことですが、
私ははじめたころは二点に意識を置く、ということを心がけました。
禅宗の方の本にあった方法ですが。
ひとつは、半眼でぼんやりと何かをみている。床の線だったり畳の目だったり、
また面壁していれば壁のシミや木目だったり。
けれど、それだけだと色々雑なことを考えてしまうんですね。
そこで、もう一点意識をそらすために、座布と接しているももや尻のあたりに意識をおきます。
目と肌感覚、そういう二点に意識をおくと、考えることは不可能です。
当然そういう状態を続けるのは集中が必要なので、たまに途切れます。
目が痛くなったり顔がかゆくなって集中がとぎれることもある。
とぎれたものは仕方がない。そうしたら、また集中する。
そんなことをくりかえしているうちに、長く集中できるようになればいいのだろうと思いますし、
特別な工夫せずとも、自然にそうなっていきます。
いうまでもなく、目や肌感覚でなくてはならないというものではなく、
周囲の生活音に耳をすましたり、息や鼓動に意識をおく方法もあるでしょう。
自分で一番いい方法をみつけることです。
>93
よくわかります。私の場合は1点は痛みでした。痛みを堪えることで
集中できるようになりました。
95 :
82:2010/05/10(月) 23:11:09 ID:6fmkbRcD
>>83さん
すぐにお礼を申し上げたかったのですが、週末、体調を崩してつい時間が経ってしまいました。
失礼しました。
83さんのお話を伺っていると、自分が座禅をする上での出発点が洗い出される感じがします。
やっぱり、いろいろ自分では勉強してるつもりで、いつの間にか混乱していたのだと思います。
「考えない」ことが自分にできるかどうか、「考えない」事の先に何が見えてくるのか。。。
とりあえず今日も座ってみます。ただ先が長そうなのが不安ではありますが。。。
私は5つ数えないうちに頭の中がざわざわし始めます。
しかし、転んでも起き上がるしかないわけですしね。
どうもありがとうございました。是非またお話をお聞かせください。
宜しくお願い致します。
最近坐禅をするようになった。この方法は非常にいいと感じている。
今日は14日目。朝、40分坐った。寝る前にさらに40分坐るよていだ。
朝起きて、布団の中で考えたのは、
「随所に主となれば、立つ処皆真なり」
臨在義玄のことばらしい。WEBでたまたま見つけた。すばらしい言葉のような気がする。
これは何を言おうとしているのだろう。
主体的であれば、いつでも真実の自分でいれる。そういう意味だろうか?
主体的とはどのような時のことなのだろうか? 今布団にいる。まだ眠たい。しかし坐禅
をすると決めている。
起きなければならない。おきて坐らなければならない。さてここで、私は主体的なの
だろうか? 眠いのに起きて坐ることは主体的なのか? 主体的でなくても真である
ことはあるのだろうか? もし主体的でないのに坐るとすれば、真ではない。ならば
その坐禅は真ではないことになる。
まあとにかく坐ってみよう。
実にすっきりした。頭がクリアーになった。これはたぶん真だろう。
今日は集中できた。昨日は集中できなかった。なんとなく惰性で坐った。惰性で
坐っている時は、主となっていないことになる。多分そういうことだろう。
ということは、随所に主とは、常に意識的であれと言うことかもしれない。そう
キンヒンのときダラっと歩いている人がいたが、あれは主となっていないな。
今朝も40分坐った。半分くらいは集中できただろう。気持ちがいい。
「随所作主、立処皆真」だが、随所とは「どんなところでも」の意味だろう。
どこでも、主体的であれば、立っているところは、全て真。
つまり
どんなところに立っていても、主体的であれば、真実の自分でいれる。
外見は命令で「やらされている」ような時でも、心の中では自らやっていれば、真実の
自分でいれる。
どんなことも嫌々やる必要はない。自分の工夫でやるようにすればよい。
「主となる」とは主体的ということでいいのか? 主とはその場、その時の主だろう。
「主とならない」とはどういうことか? 隷属すること、家畜のように鞭打たれて自分が
無い状態だ。嫌々仕事をしているサラリーマン状態だな。上司がきらい、仕事がくだらない。
単純作業で無意味な仕事を延々とやらされる。そういう状態だ。
そういう状態でも「主となる」ことができるといっているのだろう。新米の托鉢僧に
言った言葉かもしれん。
これから托鉢に出る時に「腹減ったー、気が抜けたー、だらーん」としたそういう、托鉢僧
がいたのだろう。
16日目だ。今朝も坐った。妄想しているうちに、あっという間に40分がたった。
部屋を全て整理して禅堂にしよう。
行動方法を変えよう。禅のように。速やかに動くようにしよう。どうも
無駄時間が多い。
主というのもいいかもしれませんが、
主客の境がなくなる、
主客がひとつになる、というのはどうでしょう
主客なしとは全てが仏ということですか。なるほど。
主とは仏のことですね。これは境地が一段上という感じですね。
一遍さんの
「となふれば、仏もわれもなかりけり、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」
ですね。
「随所に主となる。」
わたしが書いているのではなくて、仏が書いている。
一大事です。まさに立つ所真です。
私の目は仏様の目
私の耳は仏様の耳
私の口は仏様の口
私の手は仏様の手
私の足は仏様の足
私の体は仏様の体
私の心は仏様の心
一遍さんの言葉はいいですね。
仏もわれもなかりけり。
座禅をやろうなんていう物好きは、たぶん自我とか自意識に苦しんでいる人が多いのではないでしょうか。
思うままにならない、むくわれない、誇りが傷つきたくない、他人に負けたくない。
自我自意識が強い者ほど、その苦痛は大きい。
苦痛をやわらげようとするなら、自我自意識を弱めるほかはない。
その果てとして、仏もわれもなかりけり。
座禅がそういうものであるならいいですね。
最近ようやく一つの悟りを得ました。坐禅とは、つまりトレーニングなのですね?
ゴルフの理論本をいくら必死に読んでも、練習しなければ上達しないように
坐禅も、いくら理論を勉強しても、それで心がクリアになるわけでは
ないのでしょうね。素振りを何百回もやってフォームが決まっていくように、
坐禅も、ただひたすら実践あるのみなのでしょう。いわばスポーツの練習と
同じものと考えたら、なんだか色々スッキリ理解できるようになりました。
過去に多くの禅師たちが、「いや、いいからとにかく座れ。」
と言っていた意味が、遅ればせながらようやく分かりました。
そういう言葉は知っていたつもりなんですが、今までは
その意味を全然理解してなかったのですね。
同じように思います。
人は素のままだと、地面のうえに大きな石が置かれているようなものでしょうか。
石とは、「考えること」。日常の煩瑣な出来事、心配事、過去の記憶等々、
ふだん我々の頭をすさまじく占領している「考えること」。
何もしなければ死ぬまで石は動かない。
座禅は、この石をどけることでしょうか。
どければ、地面から今まで育たなかった芽がでてくる。
芽が小さいうちは、また石が元に戻っておしつぶしてしまう。
でも芽が双葉になり本葉になり幹になりしていくうちに、
石はそうそう簡単にはもどらなくなり、幹のほうが強くなる。
この幹には無限の可能性があります。
どんなシチュエーションでも、どんな逆境でも、自己を護持できれば、誤る事は無い、と。
私はそう捉えています。
107 :
神も仏も名無しさん:2010/05/21(金) 10:04:28 ID:+dcVu5Yz
『莫妄想』(妄想すること莫れ)である。
坐しているときはもちろん、
日常的にあらゆる妄想の派生を警戒すべし。
これを第一義とすべし。
>>106 言われること、もっともと思います。
人の自己の在り様はそれぞれで、体重やコレステロールや血圧のように、
バランスのとれた人もいれば、高すぎて正常な生活すらできない人もいる。
同じように自己のバランスがとれていて己の欲するところに従って則を越えない人もいるし、
そうでない人もいる。
苦痛とはなにか、苦痛はどこからくるのか、それに思い当たる人が、
原因をしずめていけばいいのだろうと思います。
このスレに出会ってから変われました
自分のはきっと禅なんて言える代物じゃないんですが
欝病の彼女と大変辛い別れをしてから(死んだわけじゃない)
自分もそっちにかなり片足つっこんだような
雑念だらけの人間大嫌いな人間になってしまって
もう変わる気もありませんでした
このスレで皆さんがおっしゃってる事を
全部覚えるくらい毎日読んで、少しだけ見様見真似してみてるうちに
そんな日常生活や仕事に集中力とか、明るさや冷静で前向きな行動力みたいなものを
取り戻すことが出来ました。
毎日もっと善くあろうと何かしらの努力をすることが出来ている感じです。
「常に意識を傾注するものとして」というのは非常にいい言葉ですね
脳の使い方コントロールの仕方というものがほんの少しだけ分かってきた気がします。
ただこのスレとかリンク先読んでるだけなので、
たぶん半分もちゃんと分かってないのだとは思います。
ただ、変われた・・・というか
本来出来るはずの事が出来る人間に何年ぶりかに戻ることが出来た。
それは本当にこのスレのみなさんのおかげなのです。
一生無理だと思ってました。本当に苦しかった。
おそらく意味不明ですが、感謝の気持ちを一言書き込んでいきたかったので・・・
本当にどうもありがとうございました。
これからも、またさらにがんばっていけそうです。
よかった。こちらも元気をもらいました
>>34 >臥禅
座禅立禅とくらべ、寝ながらだと肺が圧迫されるせいか、
呼吸が安定しないので、瞑想にはいりにくい。
白隠が内観法でいっているのは、瞑想法とは別物と考えるのが
無難で、心身のリラックスのための呼吸法という感じかな
>111
深い瞑想は坐禅だが、軽い瞑想状態には寝禅でも十分はいれる。
河野十全の寝禅のやり方が詳しい。これは動禅(ゆっくり動く)だけどね。
殆ど無意識に動き出して、野口整体の活元運動の寝転がりバージョン
みたいな感じかな。あるいは寝てやる太極拳。
寝禅という言葉も、河野十全も知らなかったが、以前これと同じことを自分で
考え出して、かなり長いことやっていた。
すッごく気持ちがいい。しかし無意識に嫁に絡みついたりするものだから、
嫁に、「眠れないーーーーー」と嫌われて、それ以来、寝室は別々。
欲求不満になったらいつでも襲ってくれていいとは言ってあります。
因みに、今は一人寂しく朝の4時30分から坐禅です。
111だけど、以前調子わるいときに、ホロトロピックセラピーに興味をもって
試したんだが、ランナーズハイ的な快感は確かにあるんだけど、
瞑想といわれるとちょっと疑問あったんだよね。内観法もしかり。
白隠も河野十全、あなたにしても座禅をやりこんで瞑想にはいるコツをものにしたあとに、
寝禅をやったから瞑想にはいれるわけで、なんも素地のない人が寝禅といっても、
ただのランナーズハイ的な気持ちよさでおわっちゃわない?
河野十全は坐禅から入ったようですね。そこからよくあの寝禅を発見したなと思います。
まじめそうで結構やんちゃなのかもしれませんね。
私のように馬鹿だと、馬鹿なことを色々やりますので、必然的に寝禅とかは発見しやすい
のですが、河野さんのように人間研究をやられてた立派な人が、どうしてあんなことを
知ることができたのか、すこし不思議な感じがします。
普通は目が覚めたら、歩いて顔を洗いに行きます。それを布団の中でぐるぐる蠢いたら
私の嫁でなくても気味悪くなるでしょう。
寝禅を理解できるのはかなりレベルが高い(いや低いのかも)
河野十全氏の寝禅のサイトをみてきましたが、
自分の理解と少しちがっていて面白いですね。
寝禅てのはただ横になってやるのかと思ってたら、
寝起きのぼんやりした状態、
覚醒と睡眠の中間の状態を利用するってのは面白い。
そういうことなら初心者でも瞑想に近い状態にもっていきやすいかもしれませんね。
おっ、わかります? あれが解るというのは、すばらしい。でも初心者に
解りやすいかどうかは解りません。
河野さんが狙っているところは非常にいいせんいってるとおもいます。
無意識に蠢いていると、体に悪いところがあるような場合わかるといっていますね。
自分はそこまでは行きませんでした(体にわるいとこがないし)が、体の質感を変える
ようなことが自在にできるようになりました。つまり雲になったり、泥になったり
深い海になったり、そういうようなことです。
説明が難しいのですが、坐禅をやる人はまじめなんですね。ですが、不真面目さが必要なのです。でも不真面目では
だめなんですね。真剣であって自由度がある。つまり本人は実際は真剣なのに周りの人がみると不真面目でしかない。
そういう誤解を受けやすい人が適している。
斜めに構えている人とかすぐに茶化すような人はだめですね。やはり真剣さが必要です。
ああ解りました。
結局本人はあくまで真剣であればいいですね。 そうすれば、周りが見れば可笑しいはずです。
周りから見て変でないようでは修行が足りない。微妙ですね。「変」を狙ってはだめですね。
「変」がわからないのもだめかもしれない。「変」を承知でやってるのがいいのかも。
「かすかに変」と理解はしている。しかし実際は「大変」人。坐禅人は大変人。
河野さんのことです。あの人はまじめに可笑しい。
変な話だが、最近座禅やってるとエクスタシーのような感覚が断続的にくる。
酒や麻薬による快感が、薬理的な自我の喪失からくる緊張の弛緩だとするなら、
座禅も意識の変革による自我の喪失ともいえるわけで、
エクスタシーのような感覚がきたとしても、わりと自然なことかもしれない。
禅宗の僧侶はあまりそのことを語らないようだが。
座禅で禅定や三昧の境地に入ると、無上の至福感に包まれる、
と言うからな。
そのせいかどうかわからないが、
性欲をあんまり感じなくなった。
いいことかわるいことかわからんが
エクスタシーか。まだそこまで、いってないなー。
コーヒーとか飲んでます? 最近、水しかのまないようになってきた。
気持ちいい体験するとどっかでまたそれを経験したいとか思っちまう。
んで記憶にとらわれて今を逃しちまう。
食生活は普通でコーヒーも紅茶ものむけど、
以前はかなり飲んでいた酒をそれほどのみたくなくなったかもしれない。
座禅の効果に「緊張の弛緩」という段階があるのなら、
外的な嗜好品にたよる必要がなくなるということはあるかもしれない。
以前、佐保田鶴治氏やそのほかのヨーガ系の方の書物にも、
酒をのまなくなったという記述をみたことがあるので、
根拠のない話でもないのでしょう。
自分は生活習慣を直すのを先にはじめて、そのつながりで坐禅に興味が
でてきたので、逆だなー。
酒、タバコ、嗜好品はやめて、菜食にして、定期的に運動をする。というのが
最初だった。コーヒーだけは残しているけど、坐禅の直後に飲むと刺激が強す
ぎるきがする。
座禅中や瞑想中は代謝がおちるというから、刺激物をガブガブやるときついかも
その代謝が落ちたのをケアしないまま長期間放置した結末が白隠の有名な禅病かな?
かえってイラついたり不安感が増したり嫌な記憶がフラッシュバックしたり、
これは自分も今そうなので他人事じゃないやw
禅に精進するのはいいけど、代謝をもどすケアも平行してやんないといけないね
永平寺とかの禅修業は、動禅と静禅を交互にやってるよね。
普通の坐禅をしたあとは、廊下掃除の動禅やったり。
ああいうのも一つの知恵なんだろうね。
なるほど、以前禅寺の参禅会にいったとき、
禅と禅の合間に作務と称する掃除をやらされて、
これって意味あるのかなとちょっと疑問だったんだけど、
長い経験にもとずいた知恵なんだねー
129 :
神も仏も名無しさん:2010/06/10(木) 22:18:41 ID:sxAu+qcN
なんといっても
坐禅ころがしが一番加虐感があって
最高だよ。
座禅ころがしって、ダルマさんがころんだっていうあれ?
立禅や歩行禅は、自転車にたとえるなら両手離し運転。
瞑想とか禅定にはいるとはどういうことを意味するのかしらない者がそれをするのは、
自転車に乗れもしない者がいきなり両手離し運転するのとかわらない。
132 :
神も仏も名無しさん:2010/06/17(木) 13:05:24 ID:lUVxZEqB
「インターネット和尚」ってどうよ?
お経を読むことって坊さんの専売みたいに思ってる人がいるけど、
あれはトランス状態になるのに最短の方法なんだよ。
意識のすべてを言葉にむけ、忘我状態へみちびくもので、
TM瞑想でも似た方法をつかう。
>>133 なるほどトランス状態ですね、わかります。
読経は、自然な腹式呼吸にもなっていて健康にもいい。
坊主が長生きというのはそのせいという説もある。
真言なんかはその真言独特の波動を呼び出すためのものじゃないのか
a
やっと規制が外れた。
お経って全然憶えられん。 しかたないので、同じところを何回も繰り返して
いると甘みが出てくる。
>「インターネット和尚」ってどうよ?
時々見ている。すごい参考になる。
でもすこし気になったのが、「エックハルト・トールやガンガジじゃなくて坐禅」とか
書いてあって、彼等を過小評価しているんじゃないだろうか?
自分はエックハルト・トールは非常に解りやすい。
以前はクリシュナムルティに心酔していたけどやはり具体的方法論がないのが難点だと
おもっていた。
エックハルト・トールも禅に比較すると、方法論がすこし曖昧だけど、悟りの意味を
はっきり示してくれるのがいい。坐禅の場合「只座れ」というだけでそのあたりが
ほったらかし。
1)エックハルト・トール 悟りの意味を平易な言葉で示す。
2)クリシュナムルティ 悟りの意味が厳格(難解)
3)禅 悟りの意味が不明確、方法論(坐禅)が最高
禅も原田雪渓の本なんかは平易で解りやすいそうだよ。
探しているけど、どこにもなくて、読んだことないのでわからんけど、直感では
エックハルト・トールに劣らずいい本だと思う。
飯田とういんもギエンも雪渓も県内の県立図書館から全部しらべたのに、一冊もない。
幸福のカガクとか大作とかは何十冊もあって、不幸な日本だよな。
考えてみたらおかしい。ちょっとこれから図書館に講義メールをおくってみる。
と思ったが、どんな内容にしたらいい?
アメリカ発って結構日本の禅のパクリでしょ。エックハルト・トールなんか20万部
うれてるんだろ。
なんかおかしいよな。
>>139 抗議メールより購入希望を出した方がよくない?
141 :
神も仏も名無しさん:2010/09/10(金) 14:08:21 ID:ypHY7kLa
井上義衍老師
坐禅をするときは、自己を中心として坐禅をしてはならんのです。
それを本当にやめて、六根を開放して、六根の作用がどうあろうとも一切かまわずに、
一々の、その時その時の作用のままに、煩悩らしい作用が起きようと立派そうなのが起きようと放っておくことです。
その生じたり滅したりするそれ自体が、あなたの手つかずの真相なんです。
それですから安心して、ただ、そういうような働きの真相のそのままに注意していてご覧なさい。
そうすると本当に何にもないところから生じながら、直にそれと離れて、その事実が自分に完全に備わっていることが手に入るんです。
・・・・
ほかに云うこともやることもない。只、今の消息だけです。
それだから、もう方法も手段も尽きて尽き果てた、今の自分の様子だけでいいじゃないか。
それで初めて「本源自性天真仏」としての自分が、そこへ転がり出ておる。
それにお目にかかってくればいい、それだけじゃ。
それは、意識のなかに自己を忘ずることであって、意識をなくする事ではない。
意識自体が純意識体自身であるとき、自体が自体を知ることはできない。
主体が主体を知ることもできぬところに、意識の主体すらも消滅する。
眼が眼を見ることができぬ様に。
この確実かつ純粋なる道に徹するとき、無明は断絶する。
それは、識自体が識以前の純然たる法体性の事実に証せられて、
意識の及び難きものなることを正しく得たとき、
この生活自体が法身であることを自得するからである。
このとき、疑いようも信じようもない。
その必要も全くなく、その欲求すらも起こらないものである。
わかったような、わからんような、やっぱしわからん。
144 :
ばんこ:2010/09/18(土) 20:05:31 ID:vzmix+nf
>>142 参禅すると、あんまりこういったことで書く事なくなると思うよ。
>>138 おれは口が粘っこくなってしょうがない。
座禅やってると、たまーに頭のなかでグリっと何か動くような、
神経回路が入れ替わるような妙な感じすることがあるよね。
結局座禅ってのはそうした器質的な変化なのだから、
理屈であれこれいったところで自分で体感しなければ何もわからんのだと思う。
だから、つべこべいわずに三年がんばって座れ。
話はそれからだ
三年とか聞くと初心者はひくかもだけど、本当に大変なのは最初の三ヶ月から半年じゃないかな。
リハビリみたいなもん。脳や神経の死んでいる機能を生き返らすわけだから、はじめはどこをどうすればいいかわからず、意味も目的も見えない。
が、何ヶ月かすると少し方向性というか、ここを延ばせばいいんだなという感じがわかってきて、進歩も日々感じられ、苦痛でなくなる。
その後は修行というより楽しみにすらなってくる。三年など喜んで過ぎていく。
適性のあるひとならもっとはやいかもしれない。
149 :
神も仏も名無しさん:2010/09/29(水) 18:58:31 ID:IwulylG7
とりあえず座ってれば見性するから。
見性したらそれを修行の土台にしてさらに座り続ける。
それだけだ。
基本邪魔になるのは、
女性の、まあ男性もいるかもしれんが、
依存的な恋愛体質。
恋愛体質ってなに?
師とかに依存しすぎて本質を見失うとかいう意味かな
>148
自分はいきなり接心(7日間)を受けたのだが、それで坐り方はわかった。どこをどうすればいいかが
はっきりわかるわけではないが、「意味も目的もわからない」というようなことはない。少なくとも
気持ちいい。
だから毎朝30分坐るのが楽しい。そして5か月経った。
実生活でなにか変ったかというと、何も変化なし。ただし食事など節制をしているので体重は5kg減って、スリムになった。
測定器での体年齢が15歳若返った。呼吸が非常に柔らかくなり、普段でも体の隅々が気持ちがいい。ちょっとした
待ち時間でも、瞑想状態に入れるので、頭がスカッとする。その程度の変化はある。いやこれでも自分には大変な変化
なのだが、周囲の人から見ればなにも変わらないだろう。
自分は恋愛体質かも。なんだか気持ち良すぎる。坐禅に恋してしまった。
11月か12月にもう一度接心を受けてみようと思っているが、それより滝業みたいな苦行の方がいいのか。
>>151 初心者がいきなり摂心、五ヶ月でそこまでというのは、かなり適性があるのでしょう。
道場によってもちがうけど、普通摂心では日に七時間以上すわるのだろうから。
山田耕雲氏の本で、外国人の女性がいきなりの摂心で見性したという実例を
書いていたけど、そういう体質に近いのかもしれませんね。
彼女は、座禅はまったく未経験だったが、ピアノ(?)の演奏家で、演奏する行為と
瞑想にはいる行為との間に共通する感じがあった、とかなんとか言っていたそうです。
>>147 素人座禅ですが、「頭の中でグリッ」という顕著な感じこそないものの
頭蓋の左右端(内側は前頭葉と側頭葉の境目辺り)がジンジンするよう
な感じがします。感覚のないはずの脳が刺激を受けて痺れているような
感覚です。マジメに始めて数カ月ですが、これは好ましい変化なのでしょ
うか?
そういえば、始めて間もない頃、瞑想したまま寝てしまって目覚めたら
頭の左右がエアバックみたいに膨らんで圧迫されている感じになったこ
ともありました。脳が左右それぞれ外側にはみだした感覚でした。
>>153 気にしない気にしない。
頭が刺激されるとか、目の前に光が現れるなんてのは誰にでもある。
見性前も見性後も何も変わらない。これが原則です。
禅宗ではそういう言い方が普通なのかもしれないけど、
2chなどでは初めての人も多いだろうから、少し不親切な気がしないでもない。
見性してもする前とした後とでまったく変わらないなら修行しても意味がない。
なにが変わらずに、なにがかわるのか、そういうあたりを経験にもとずいて
面倒くさがらずに話すことが多少経験ある者たちのあるべき態度だと思うけど
>>155 禅宗じゃない。
本当に何も変わらない。
何か変わったとしても、何が変わったのかすらわからない。
>>156 これは反論ではなく、ただ聞きたいだけなんだが、
であるならどこで見性したという境をつけられるのだろう
>>157 正直に何も変わってない。
あと見性とかいう大げさなもんじゃない。
昔からそうだったし、何だそんなことかと気づいただけだよ。
>頭蓋の左右端(内側は前頭葉と側頭葉の境目辺り)がジンジンするよう
>な感じがします。感覚のないはずの脳が刺激を受けて痺れているような
自分(初心者5か月)もそれはある。自分の場合、その感覚をボールに
して腹に落とすと気持ちがよくなる。
上顎から舌をとおって喉に抜けるとき唾液がかなり出る。
そのあとは胸のあたりでスカッと広がる。気功に小周天というのがあって
経絡にそって気のボールを回すらしいのだが、遊びとしてそんなことを
試みたりしている。
たぶんその「ジンジン」が気ではないかと思う。頭のてっぺんにできやすいが
前頭部にできると、集中し過ぎた時のような不快感(頭痛の手前?)があるので
腹に落とす。
そうすると頭はスカッとするし、胸から下が宇宙空間のように広がる。
そこでボールは消える。
こういう感覚は人それぞれではないかと思う。たぶん普段でも起こっている
のだか、頭痛のように強くならないと気が付かない。坐禅で心が静かになる
ので気が付くようになるのだろう。
曹洞宗の坐禅では只管打坐で何も教えないけど、小乗では頭のてっぺんから
意識でスキャンするようなこともやるようだ。マスタベーションをわざわざ
教える必要はないというのが道元の考え方だろう。
ブッダも弟子のマスタベーションには相当苦労したらしい。ありとあらゆる
方法を考え出してやり始める。
まあほどほどに楽しんだらよいのでは。W
うまくいえないが、脳がジンジンするのは、眠っていた部分が活性化するプロセスではないかなと自分は思う。
人は本来使える脳のほんのわずかしか一生の間につかわないというから、禅という特殊な状態に身をおけば、未経験な体感というのはいろいろ起こるだろうとは思う。
マスターベーションと道元の話はよくしらないが、性的な快感と瞑想にはいるときの感覚には共通するものがあるのではなかろうか。
ヨガでグンダリニーというのか、尾てい骨あたりから背骨を通って頭頂部にぬけるラインには、通常生活しているだけでは未開発な神経があるように感じる。
禅定にはいるとき、このラインがふくらむというか、しびれだすというか、気というのかパワーが貫通する。気持ちがいい。
自分の場合、頭頂部になんか厚い膜のようなものを感じて、そこが未開発な気がしている。
やぶれそうでやぶれない。やぶれたらすごく気持ちよさそうなんだが。
そんなふうに、禅ですわっていると見かけはただすわっているだけなんだが、脳や神経は異常なほど動いている。
161 :
神も仏も名無しさん:2010/10/02(土) 21:20:08 ID:olXGLGeP
なんでチャクラの話になるんだ。
期待が膨らんでどんどん危険域に突入してる人が大杉。
もう知らん。あとは自己責任で。
162 :
153:2010/10/02(土) 22:20:38 ID:CfWIz2qA
皆さん、さまざまなご意見をありがとうございます。
自分としましては、脳の意識のない部分が何かの自覚を示しているようにも
思われますし、また「気」の感じにも似ていると考えておりました。ただ、
それを腹に落とすというようなことには気づかなかったので、試してみます。
私は現在、人生の谷間みたいなところにあって実生活では苦悩の日々を過ご
しております。しかし、素人瞑想を始めてから、日々起こる不安や悲しみを
以前より楽に受け止める(というか、“うっちゃる”)ことが出来るように
なりました。
見性にはまだまだ遠いのでしょうが、ここを越えまた稜線を望む日の来るこ
とを希望といたします。
今後ともヨロシクお願いいたします。
163 :
神も仏も名無しさん:2010/10/03(日) 02:12:57 ID:7VkOUoGy
164 :
160:2010/10/03(日) 08:54:35 ID:Mp6jFaeH
>>162 自分はジンジンは「脳の活性化するプロセス」と書きましたが、それが「気」てせはないという意味ではありません。
「気」とは人体をコントロールするエネルギーですから、脳に変革を加える場には当然強い気があつまるのも自然なことと思います。
自分は気の操作は上手ではありませんが、白隠の南蘇の法にもあるように、禅病や神経症の原因は頭に気がのぼりすぎて、イライラや不安感の原因になっている場合がある。
そういう場合に、白隠がしたように、頭にのぼっている「気」を下半身へさげていくことによって改善されることがあるのでしょう。
気孔では気のコントロールをよくいうようですが、禅においても大切なこととかんじます。
>>162 遠くない。
あなたはこれまでも今もこれからも自性清浄心だよ。
167 :
神も仏も名無しさん:2010/10/04(月) 11:23:27 ID:VMMvh6HE
只管打坐という。
坐禅は結跏趺坐でひたすら坐ることだが、
身体的な体が坐っているわけではない。
では、いったい何が坐っているというのか?
車ではなく牛をたたけ。
ここは実践スレなんだから、つまらん禅問答はいらん
みなさんは座禅専用座布団とか使ってますか?
家ですわるときは、やわらかめの座布団を折っている。
でも四角いとモモの裏あたりを圧迫してしびれてきたりするから、
寺でつかう丸い形の坐蒲(ざふ)があれば一番いいだろうね
ありがとうございます。
やっぱ丸い坐蒲のほうがいいですか。調べたらamazonでも売っていたので購入してみます。
>160
神経だとか脳だとかで説明すると、なんとなく違和感を感じる。
意識そのものはもっと神秘的世界に属する気がする。
最近読んだ「奇跡の脳」(ジルボルトテイラー)なんかによると、左脳が壊れると
ニルバーナの世界に入るらしい。坐禅をやってるものとしては少しショックだった。
寝たきりになると、筋肉が落ちて、骨が解けて歩けなくなるし、頭も馬鹿になるが、
坐禅をして思考を止めるというのは、ひょっとして、左脳が解けて馬鹿になっている
のではと思ったりもした。ある意味再構築としてはそういうことも部分的にはあり
うるのかもしれない。坐禅をして極端に馬鹿になっているような人も実際にはいる
ような気もする。「こいつ脳みそが解けているんじゃないのか?」というような宗教人
にも出会ったような気もする。
睡眠は重要だが多すぎると有害だし、坐禅も多すぎると有害だろうと思う。
自分はカルトと言われる集団の洗脳プログラムを受けたことがあるが、それもたったの
1週間程度だったが、かなり気持ちよく洗脳された。W
心理操作によれば、人格変容などは簡単に起こるし、脳というのは非常に危うい存在だ
というのを身に染みて感じた。
とはいえ自分はそういう事柄(人間機械論?)に同意しているわけではない。
173 :
神も仏も名無しさん:2010/10/06(水) 17:15:26 ID:dudjeHPZ
>>172 さすがに左脳が壊れるというのはない。
ただ右脳優位になると聞いたことはある。
つまり右脳が左脳の上位に立って左脳を支配するということ。
坐禅は思考を停止させることではない。
普通の人は左脳優位で頭の中がゴチャゴチャしてるが。
馬鹿になるというのが何をさすのか推測するしかないが、論理的思考が鈍るとか、
健忘とかをさすのだろうか。
それならば、当人が何をめざすのかという自覚によるのだろうと思います。
比喩がゆるされるなら、座禅とは、本来ひとつの自転車しかもたない人間が、
努力によって二つ目の自転車を得ることだ。そして二つ目の自転車ばかりこいでいたら、
そりゃもとの自転車はさびついてしまう。けれど、両方の自転車を按配よく乗っていれば、
どちらも良い状態をキープできる。それをするかしないかは、本人のライフプランをどこにおくかでしょう。
スピリチュアルな世界に埋没していきるか、あるいは世俗世界と精神世界を両立していくのか、
だとおもう。
「左脳が壊れるとニルバーナ」について私の理解では、左脳というのは、
水道でいうなら蛇口のようなものかもしれない。どれだけの量をどれだけの水圧でどれだけの時間開くか、
それを調節するのが蛇口であるとしたら、
左脳も人間の奥底に秘められた無尽蔵な知識を必要なときに必要なだけ出す蛇口であるとも言える。
それが本当に壊れたら、あるいは停止するだけでもそうだが、
それをニルヴァーナという名がふさわしいのか知らないが、
貯水湖そのものに触れることにはなるかもしれない。
初めてきたけど難しいなあ。
僕にはシッタカブッタ読んでる方があってそうです。
座禅組み 定印した手で 蚊を殺す
人生楽しくいきるには、馬鹿になるのも悪いことばかりではない
178 :
神も仏も名無しさん:2010/10/08(金) 10:41:07 ID:VX1Pvxdo
バカボン=薄伽梵=仏 ですよ。
最近の楽しみは座禅しまま何センチジャンプ出来るのかという事だ。
これだけははっきりいえるが、最終到達点などというものはない。
節目節目での進歩や高い境地というものはあるが、無限にその奥はある。
だから、何かそこに到達したかのようなことを軽々しく語るような者たちの話は、
聞き流す程度がよろしかろう。
>貯水湖そのものに触れることにはなるかもしれない。
これはいいたとえだね。
>これだけははっきりいえるが、最終到達点などというものはない。
あるかないかは行った人でなければわからない。だからあるかもしれないし、
ないかもしれない。
芋虫が蛹になり蝶になったら、それは最終到達点だ。蝶もあっちの蜜を吸い
こっちの蜜を吸いしているうちに少しは進歩するかもしれないが、芋虫からの
変容に比較したら微々たるものだ。
今、芋虫のあなたも、もし蝶に解脱したら、それは最終到達点と思ってもよい
でしょう。これは十分ありうる。もちろん私には真偽はわからない。
183 :
ケンシロウ:2010/10/11(月) 18:50:40 ID:ET8L9k5i
あるのかないのかどっちなんだ?
だからないアルよ〜!!!
唯識思想でいえば、アラヤ識というのがある。
眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識は読んで字の通りで、
その奥にマナ識があり、それはいわゆる個人的な無意識とか潜在意識というものだろうか。
そして、その奥にアラヤ識という、集合的無意識とでもいうのか、人類規模にさかのぼる無意識の世界があるという。
普通、禅とか瞑想とかいうと、この世界にアクセスすることが目標というか、願望というふうにとらえられる場合が多いのではなかろうか。
が、唯識思想では、その奥にもアマラ識、ケンリツダヤ識といわれるものがあるらしい。
おそらく宇宙の果ての果てのような無意識をさすのだろうが、想像もつかぬ。
ヨガの瞑想でも進歩の段階を七つほどに分類していて、最後の段階はまったく自我を喪失した、限りなく死にちかいものとされていたような気がする。
というように、仮にあると仮定したところで、そうしたものなのであって、宇宙が有限であるのは確かだが人間からすれば限りなく無限と同等であるのとかわらない。
まぁ、悟ったとか見性したとか言いたい気持ちもわかるが、少しずつの進歩を謙虚に喜ぼうということだ。
荒屋敷
県立陀屋敷w
止観双運。
瞑想の入門書を読むと止と観のバランスが大切だと書いてあった。今は只管打坐を
やっている。これは止のことだろうか? これだけをやっているが、どのあたりから
観の練習をすればよいのだろう? そもそも観の練習はどうやるのだ。
一つの方法として、「まず呼吸に気づき、それから身体の精妙な動きに気づき、
さらには心の動きに気づき、そして心の本源(意識、無)に気づく。」
と書いてあったような気がする。立ち読みなので忘れたが、要点としては、先ずは
止により定力(集中力)を鍛えて、観ができる力を養う。
止は自分にとっては驚くべき方法だった。
しかし観とは何なのか? 「気づく」てどういうことなんだ? 止に比べて観は
方法論的にあいまいな感じがする。 ラべリング? あれはどうも納得できない。
率直に違和感がある。
素直に考えると観の方法論としては現代的にベストな方法は哲学ではないだろうか?
仏教哲学には唯識なるものがあるらしいが、修行としてはべつにそんなわけのわからん
ものをやる必要はない。あるいは心理学という選択もあるかもしれない。
187 :
神も仏も名無しさん:2010/10/12(火) 12:54:00 ID:pFZZ5y0B
>>186 昔の俺だ。
座る、ごちゃごちゃ考える、座る、ごちゃごちゃ考える、座る、ごちゃごちゃ考える、のループ。
ある日の「気づき」ですべて氷解したがね。
そうか。やぱり、観とは「ごちゃごちゃ考える」ことなのか。
最近プラユキ・ナラテボーの”「気づきの瞑想」を生きる”って本を読んだが、
そのあたりのことが詳しくかいてあってすごく参考になった。
この人は非常にバランスのとれた悟りかたをしているという印象をうけた。
仏典の和訳による引用もセンスがいい。
たとえば、
これある時に、かれ在り
これ生ずるが故に、かれ生ず
これなきときに、かれ無し
これ滅するがゆえに彼滅す
とか、他にもカーラーマ経の引用だとかもセンスがいい。漢語をベタベタ貼り付ける
のはどうも好きになれん。慣れの問題とは思うが、漢文ベタベタは品格と言い情緒と
いい随分格下に見える。
一番印象に残ったのは、瞑想髄煩悩で
静謐(シーン)
確信(これっきゃない)
理解(わかっちゃった)
.....そのた。
自分にピッタリ当て嵌まっていて驚いた。
つまり、わかったと言う事はわからんと言う事だ。
安定して入れるようになると、もう止とか観とか無意味になるのは確かかもね
>>187 “ある日の「気づき」”がどういうものであったのか教えて戴けないでしょうか。
私も
“座る、ごちゃごちゃ考える、座る、ごちゃごちゃ考える、座る、ごく稀に透き通る、
座る、ごちゃごちゃ考える・・・” なんです。
鉄棒の逆上がりとか自転車とか、できないときって、いろいろ考えるよね
勢いをどのくらいつけるかとか、どこに体重のせるかとか
できるようになると、もう何も考えない
>>191 そういうのは知らない方がいいだろう。
知るとあなたはそれを目標にしてしま
う。そうなるとさらに遠ざかる。鼻先
に人参をぶら下げて全力疾走しても永
遠に人参に手が届かない状態になる。
確かに目的や目標のような指標がある
とわかりやすい。だが坐禅に関しては
方法はない。実践の期間もない。そし
て、目的はない。
あなたは今でも、いつでも気づいてい
る。「気づいているはずだ」ではない。
現に「気づいている」のだ。
座禅しながら今日の晩飯の事でも考えているのがよい。
何かに気付き、その度に何かを見落としてるかもしれないし、見落としてないかもしれない。
家で座ってる人は法界定印にこだわりあるのかな
自分は法界定印だと肩がこるので、
ヨーガ風に手の甲をひざにのせているけど、
道元は法界定印の必然性になんといっているのだろう
座り方の問題では?
自分も最初はハンカフザでやってたら肩こってしょうがなかったけど
両足重ねないタイプのあぐらにしたら良くなったよ
気づきとか色々言い方はそれぞれだけど、
ひとつの入口の目安としては、空間、時間認識があいまいになるというのは
いえるかもしれない。
左脳的時間認識がにぶると、一時間が五分にしかかんじられなかったり、
三時間すわってたのに、一瞬だったような気がしたり。
時計の針が気になるようなら、まだ左脳がビンビンに生きているという目安かな
聞いた話だが、10年近く本気で修行した僧などは、
摂心などでは日に何時間の座禅を一週間もつづけるわけだが、
やっている本人は何時間もすわっている自覚はないらしい。
すわれば知らぬうちに終わりの鐘がなる。
すわったと思ったら一瞬でおわっている。
だからこそ、あれだけの長時間あの姿勢でなんともなくいられるのでしょう
中級者向けのいい本ないかな
座りもしないで知識だけで書いてるようなのではなくて、
実践にもとずいた
本を探すのも修行
ダライラマの「大乗の瞑想法」に書いてあったが、坐禅で集中力をつけて
その集中力で法を分析する。それが「観」だそうだ。
分析というのは、それに先立って完全に理解したものを、ディヤーナの
状態で分析することをいう。
さらに「理解」とは
1)完全に覚える。
2)唱和する。
3)徹底的に考える。
が必要条件ということだ。
まとめると
第一段階の理解:文章を記憶する。声にだして表現できる。意味を完全に理解している。
第二段階としての観(分析):ディヤーナに入る。理解したものを深く集中的に考察する。
観の対象は12分教?となっていたが、現代的には好みの哲学書と考えていいだろう。
こうなると、左脳の使い方も半端じゃない。
坐禅を修行と考える人が多いが坐禅は修行ではなくて遊びか休憩かもしくは寝ることだ。
覚めた状態で寝るのが坐禅の特徴だろう。
そして「観」が修行なのだ。
>方法はない。実践の期間もない。そし
>て、目的はない。
これはまさしく「遊び」の特徴だ。理由も目的も時間もなく無条件に面白い。それが遊びだ。
しかし遊んでばかりではダメ。目標をたててちゃんと勉強しなさい。
孔子は「よく遊びよく学べ」と言った。これこそが止観である。「止」つまり坐禅ばかり
ではだめだ。しかし「遊び」や「休憩」や「寝ること」を低くみるのはこれもまた間違いだ。
遊びは非常に大切で、しかも強力だ。遊びによって定力(集中力)が着く。
坐禅は驚くべき遊びだ。こんな遊びを嘗て知らなかった。坐禅をはじめてから他の遊びは
どうでもよくなった。もう一生遊んで暮らせる。
204 :
真言・念仏・禅は謗法邪宗:2010/10/17(日) 21:12:03 ID:bhE5zqpR
(よく誤解されるのでことわっておきますが、私はどの宗教団体とも関係ないです)
「真言・念仏・禅」の邪宗が多い理由。まず、邪義「真言」が、なぜ広まったのか。
それは、像法の末に伝教(最澄)が「法華経最第一」を確立した「後」に、
空海(弘法)によって伝来したからである。
つまり、天台・伝教の破折を「まぬかれている」のだ。
伝教(最澄)が南都六宗の邪義を破った後に、空海(弘法)によって伝来した真言が、
後に天台宗の人々が真言に「籠絡されていく落とし穴」となってしまった。
真言は、天台の一念三千の法を「盗み入れて」自宗の極理となし、「真言宗は天台宗と
法理の次元では同じだが、天台宗にない印と真言という事相があるから勝れている」
との邪義を立てた。その策略にかかり、天台宗を真言へとおとしめてしまったのが
比叡山第3代座主の「慈覚(円仁)」である。
伝教が一生の闘争で確立した「法華経最第一」の原則を崩し、「理同事勝」の邪義を唱え、
天台宗の真言密教化に踏み切ってしまった慈覚が、謗法の端緒を開く元凶となった。
さらに、慈覚の弟子「安然」は、禅宗を促し、「恵心」は、念仏を広める役割をした。
高徳・碩学と仰がれた慈覚が、後世の安然や恵心の邪義を引き出す呼び水になったのだ。
法をより深くむしばむ害虫は、他宗ではなく正法を護るべき天台宗の中にいた。
(よって現在の天台宗は、慈覚・安然・恵心の謗法を引継ぐ邪宗・謗法宗である)
そして、謗法に毒された人々を救うため、末法悪世の変革のために、次々と起こる
大難・迫害に命がけで戦い勝ち越えてきた、末法における妙法流布の法華経の行者が
日蓮である。謗法の人々も今は法華経を誹謗しているが、亡国・亡身の危機に直面した
とき、一切の仏寺・一切の神寺を捨てて、「南無妙法蓮華経」と唱えるようになるだろう。
よく座禅において、別の目的のために座禅することを凡夫禅というらしいね。
たとえば健康のためとか、人間関係をよくするとか、仕事を繁盛させたいとか
本来座禅には目的というものはなく、座禅そのものが目的であるからということらしい。
で、自分についていうと、数年前に個人的に不幸があり、
またそれに関連する出来事について怒りと後悔が消えない。
四六時中そのことを考え、腹が立ったり他人にあたったり意気消沈したり。
で、こうした不快感を招いているのは、つまるところ他人とか出来事にあるのではなくて、
それを感じる自分の心に原因があるのではないか、自我をどうかすることでこの苦しみは
消えるのではなかろうか。
自分が座禅を始めた動機はそうしたものだった。思う結果がでているかどうかは修行途上だからひかえるべきだが、方向性はみえているような気がしてきた。
えらい禅僧は、禅をこころざす心が大事だとはよくいわれるようですが、
ここのみなさんはどういう動機から座禅をされるようになったのだろうか、聞いてみたい気もいたします。
>>205 自分の場合は、しいて言えば暇だから、かなあ
人生退屈だし、余暇の時間にすることもないし、坐禅でもするか
っていう感じ
そんな立派な動機とかはなかったなあ
はじめて2年ほどたつけど、見性の兆し的なものもないし、まあこうやって座ってもやっぱり何もならずに死ぬのかなあ、みたいな感じ
さすがにマジメな禅入門書には書けないだろうけど、
頭をカラにするとか、すべてを投げ出すような気持ちとか、身心脱落とかいうのって、
平たく言うと性行為でイクときのような気持ちをいうような気がする。
もうなにもかもどうでもいいから好きなようにしてくれ、と
まじめな場ではもちろんそんな表現できないから小難しい言い方をするけどね
初心者ですが質問させてください。
坐るとほどなく視界がモノクロ・ネガポジ逆転したり、
全体に変色します。
また見えている物の境界がにじんだり、ぶれたり
渦をまくように動いたりします。
>>5氏と似たような感じかとも思いますが、坐禅的に
この状態は正しいのでしょうか?
坐って一点を見つめるというような事は自分には
すぐに上のような状態となり無理なのですが、
このまま座り続けてもよいものでしょうか?
そんな現象が起こる人がうらやましい。俺はそういうのは起こらん。
頭が弱いのだろう。芸術家にはそういうのが多い気がする。常人には
見えないものが見える。
俺は頭が強いんで、酒のんでも酔わないし、葬式にでて笑ったりする。W
しかし、坐禅をすると多少まともになる。笑わないし、ちゃんと静寂に入る。
精神的には変化がないが、肉体的変化が大きい。タコのように体が柔らかくなった。
ヨガをやってる嫁よりも坐禅しかやらない俺の方がヨーガのポーズがキチッと
決まる。まるで時間が止まったようにピタッと静止する。
>>208 半眼にする理由は、眠気をそらす、意識を目にむけて雑念をへらす、といったあたりかと思われる。
だから、眠気をもよおさず、雑念をおさえることができるのであれば、絶対必要というものではないと個人的には思う。
ヨーガの瞑想では目をとじる場合も多いのではないかな
信頼できる禅宗の方の本には、その人は一点をみつめていると気持ちがわるくなって吐き気さえもよおすので、
目はほとんどつかわずに、外界の生活音に耳をすまし「聞くともなく聞く」という方法で雑念を消すとも書かれていました
211 :
208:2010/10/20(水) 23:41:19 ID:VjVRls/6
お二方レスありがとうございます。
アプローチは人それぞれという事でしょうか。
余計な事を気にせず雑念を消してみます。
みんな体型も体質もちがうのに同じやり方を強制するほうに無理がある
大事なのはどうすれば一番頭をカラにできて安定した体制を長時間たもてるか、
自分で試行錯誤するしかない
慣れてくると歩いていても瞑想できるんだろか?
できれば、仕事しながら瞑想していたい。
>>213 私が通ってる禅センターのお師匠の師匠がそんな事をいってたらしいよ。
禅なんて運転しながらでもできる、というか禅センターでの座禅は、
不安などに心を惑わされない様に雑念を消して日常生活を送ることができる様になるための訓練だと。
禅の修行をつむことで「不安などに心を惑わされない様に雑念を消して日常生活を送ることができる」
平常心をつねにもちつづけられる。だから活動してようと座っていようと常に同じ平常心をもてる、という意味ならわかるが、
本当に禅定にはいると意識はとぶので、少し誤解をまねきやすいかもしれないね
217 :
教外別伝・不立文字【邪義】:2010/10/23(土) 00:38:00 ID:9OM/C2eY
禅は、教外別伝・不立文字の「邪義」
「教外別伝・不立文字」の自己矛盾が禅宗。
釈尊が禅の一法を迦葉に拈華微笑して、教を離れて別に伝え付嘱したというが
それをいうこと自体が「教」になっている。
また、「文字を立てず」というが、そのことを言葉にして語れば、「教」であり、
「文字」を立てていることになる。
また、人に伝える時には、言葉や文字を使わなければ弘通できない。
達磨が説いた「直指人心・見性成仏」の義も、法華已前の権大乗教ですら説いている
低い教えにすぎない。
言葉で表せない悟りに到るために教えが説かれたのであって、この教えを不要というのは
目的地へ行く道を否定するのと同じで、それでは、目的地に到着できない。
そうかな?よく分かんねーや
月を指す指をうんたらかんたら
言葉や理屈で悟れないのは本当かと。
言葉は道路標識かな。方向をしめすだけで、自分で歩いていくしかない。
歩行禅については、禅の熟練者ならば意識の操作に慣れていて、ブロック単位のon off
が可能ではあるかもしれない。ふくろうは外敵から身をまもるために半身寝かせて
半身目覚めているというが、熟練した禅者もそうしたことができるかもしれない。
が、それはそうした境地に到達した人たちの余技というか試みといった類のものであって、
入門者とはなんのかかわりもない世界かと思われる。
まずは座りに座りぬいて「三昧」とはどういうものか知ってからだ
禅と呼吸法を混同している人がいるのは注意が必要かな
腹式呼吸とか丹田呼吸というのは、副交感神経優位になってリラックス効果があり、
また酸素を多くとりこみ血液の循環をよくするが、そうしたリラックス効果と
禅でいう瞑想とか禅定とはまったく異質のものだ。
禅では呼吸法とか数息感というのは心身を安定させるプロセスにすぎず、
一度禅定にはいるともはや無呼吸といわないまでも微呼吸状態といってもよく、
呼吸法などはもはやほとんど意味をなさない。
確かに微呼吸状態になる禅定もあるようだが、全部がそうじゃないと思う。
そういうことを書いている人は天外司郎氏しかしらない。
あまり一般的じゃないのでは?
曹洞宗の南直哉氏が無呼吸をほのめかしていたが、本意は「大事なのは呼吸ではなくて、
瞑想状態にはいれるのであれば、呼吸法など個人個人にあった方法でいい」という
はばのひろいニュアンスだったように記憶している。
曹洞宗公式サイトの「座禅の作法」でも呼吸法については、「深々と息を鼻から吸い込み、
これを徐々に口から吐き出します。この深呼吸を数回行った後は、
自然と鼻からの呼吸にまかせます。」
とあり、「自然にまかせる」ことをよしとしている。
私がいいたかったのは、変に呼吸法と禅を結びつける態度は誤解をまねきやすいのではないかということです。
街の中を歩く時は無理だが、
山登りの時など無心で登っている時がある事に気がついた。
無意識で歩行禅の様な状態になっているという事か。
接心では呼吸を数える方法で指導を受けたが、呼吸を数える方法や呼吸を見つめる
方法ではなかなか禅定には入れなかった。自分が禅定に入るコツは
1)結跏趺坐であること
2)なにもしないで静止すること
このふたつ。呼吸を数えたり意識するのをやめることで禅定にはいれるようになった。
恐らくこれを只管打坐というのではあるまいか?
逆に坐禅ができるようになって、はじめて呼吸を見つめることができるようになった。
「微呼吸状態」というのは代謝が非常に落ちた状態で、かなり深い禅定なのではあるまいか。
自分の場合はそんなに深い禅定には入れない。呼吸がゆっくりになり、軽い変性意識状態に
なる程度。
座り続けると徐々に深まって微呼吸状態になるのだろうか? それともまったく違った
種類の禅定なのだろうか?
君たちはね、難しく考えすぎ。
そういう俺は簡単に考えすぎ。
難しく考えようと易しく考えようと禅定にはいれればいいのだ。
禅定には深浅があり、ある意味そこからが本物の修行であるともいえる。
禅定にはいれるようになった、もうわかっちゃったからいいや的な人は、オードブルだけ
食べて帰ってしまう人とかわらない。高僧でもそういう人がままいる。
射精する瞬間は確かに禅定に入っている気はする
うっ!!!
性的快感というと不真面目な話題にとられがちだが、
人間には本来薬物も酒もつかわずに、自力だけで陶酔をうめるようにできている。
ただ、それを意図的に、持続的にやれるようにするとアホになるから、
うまいこと中々できないような具合にできている。
ヨーガのクンダリニーというのは、まさにそれを目覚めさせて支配しようという試みといえる。
禅修業などやるような人間は当然自制心があるから、そうした陶酔感を永続的に生産的に活用できる。
前の人が驚くべき遊びといっていたが、使う人によってはアホにもなり、賢く使えばすばらしい玩具にもなる。
禅の呼吸法は
"Who am I?" と鼻から息を吸い込んで
"I don't know…" と口からゆっくり吐き出す
とアメリカで習った。
数息感は「数える」という思考が邪魔になるから、
そのアメリカ式はお経とおなじように、言葉に意識を向けられるから有効かもしれないね
なにもわかんない 私は誰? ってのはおもろいw
/\___/ヽ
/ -‐' 'ー- \
. | (●),(、_,)、(●) ::| スウーッ
| /,.ー-‐、i :::::|<Who am I?
| //⌒ヽヽ .::|
| ヽー-‐ノ :::::|
\  ̄ ...::/
/`ー‐--‐‐―´\
/\___/\
/ ⌒ ⌒ ::\
| (●), 、 (●)、 :|
| ,,ノ(、_, )ヽ、, ::|<I dont know!!
| ト‐=‐ァ' :|
| |,r- r- | .:::|
\ `ニニ´ .:/
/`ー‐--‐‐一''´\
人には寝付きやすい人と寝付きにくい人がいる。
ふとんと枕があればコトンと寝てしまうような人は呼吸法なぞ必要ないし、
睡眠薬のんだり苦労しないと眠れないひとは呼吸法をつかって気持ちをおちつかせる。
ということであって、最終的には呼吸法は禅において本質的な要素ではない。
このこと言う人少ないけど、音楽かけて座るのは意外とありなんじゃないかな
ホロトロピックセラピーで過呼吸やるときも音楽かけるし、瞑想のセミナーでも
特殊な周波数の音をかけたりする。
要は、音に意識をむけることで思考を遠ざけるというわけで、理にかなっていると思うが
/\___/\
/ ⌒ ⌒ ::\
| (●), 、 (●)、 :|
| ,,ノ(、_, )ヽ、, ::|<I dont know!!
| ト‐=‐ァ' :|
| |,r- r- | .:::|
\ `ニニ´ .:/
/`ー‐--‐‐一''´\
下手な瞑想と上手な瞑想がある。マントラ(お経)や旋回や凝視や、そんな瞑想は
下手な瞑想で、只管打坐が一番上等な瞑想だ。と思いつつ、夢の中でうろ覚えの
お経を唱えながら、心と体がどんどん変わっていくのを感じる。
「お経はこんな風に読むのか」と納得している。そういう不思議な夢を見た。
普段、お経は唱えない。重要とも思っていない。しかし深層ではお経の不思議な効用
を知っているのかもしれない。
知っているかもしれないし知ってないかもしれない
TM瞑想のような無宗教の合理的セミナーなんかでも、
ある種お経のような言葉をえんえんと唱え続けたりする。
要は、人間てのは普通にしていると晩のオカズのことや、
仕事の得意先の顔色やら、女子高生のミニスカとかが頭にうかんできたりするもんだから、
なにかそうした意識をそらせるツールが必要ってことだよ。
滝にうたれるのもしかり。お経しかり。マラソンや登山で無心になるというのもそうかもしれない。
方法は数あっても目的はほぼひとつであり、意識を統一することであって、
それが徹底されたときにおどろくべきことがおこるというわけだが、その道は簡単ではない。
経だとか無理に考えることはない
自立訓練法ってやつ、あれはかなりいい、意識を統一させようと努力するのは無駄だ
意識はあるままにある、とらわれずに内観せよ、無心に「なる」のではない、無心で「ある」のだ
/\___/\
/ ⌒ ⌒ ::\
| (●), 、 (●)、 :|
| ,,ノ(、_, )ヽ、, ::|<Oh! I know!! I stood on the mountaintop!! It's SATORI!!
| ト‐=‐ァ' :|
| |,r- r- | .:::|
\ `ニニ´ .:/
/`ー‐--‐‐一''´ \
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【切り株】
言葉は難しいけど、「意識の統一」というのは肩に力がはいって「統一してやる」っていう
意識がちょっとうるさい感じ
「意識の解放」「意識をとっぱらう」そんな感じ。
難しい話しても意味ない大衆にお経というものを考案した
一遍とか法然というのはえらいね
道元が立派なのはいうまでもないが、やや秀才肌向けかな
最近アーユルヴェーダに関する本よんでいたら、
寝ている人のミケンにオイルを長時間たらすんだってね
まぁいってみれば滝行で水の勢いのために通常の意識をわすれてしまうように、
ミケンのオイルに意識がむかうことによって、日常意識から離れるというものなのかもしれない。
なにしろ素人だからくわしくはしらないが。
ただ、思うのは、日常的な意識、思考、そういうものから離れるということには、偉大ななにかがあるのだろう
坐禅歴6か月
昨日は久しぶりにはらわたが煮えくり返った。
坐禅は随分上達したつもりでいたが、感情コントロールはまだまだ全然できない。
大手企業の脳タリンがエラそうに難癖をつけてくるとシバキ倒してやりたくなる。
このまま坐禅を続けていたら、そのうち感情コントロールはできるようになるんだろうか?
感情コントロールは坐禅とは関係ないかもしれないな。
自分もこの間、細かい事がいろいろと重なり
イライラが抑えきれなくて困った。
禅の時のように呼吸を整えたりしたけどダメだった。
まだまだ禅が足りないのだろうか?
脳内物質の湧き方と分解のされ方の問題か?
以前総持寺の参禅会へいったときに聞いた話では、
禅修業をつむと第一次感情をもつことは当然ながらあるが、
第二次感情をもつことはなくなる、もしくは少なくなるという話をしていた。
つまり、誰かにムカツク。これが一次感情だ。まぁそんなのは誰にでもある。
が、その相手を恨んだりいじめたりいやがらせしたいとかいう、
持続的な感情、これを二次感情というのだと.思われるが、それがなくなるという意味らしい。
もっとも修行の優劣によって差はでてくるだろうし、すぐにそうなれるものでもなかろうが
>>247 >脳内物質
禅の効果は脳内物質のコントロールというような説もあるようだが、
むしろ、日頃つかう脳の変化というのもあると思う。
怒ったり劣等感もったり憎んだり嫉妬したり、そういうことをする脳を
我々は生まれつきつかっきているわけだが、それとは別の脳をつくりだすこと。
ぜんぜんいままでの価値観とはちがう価値観をもった脳を、脳のなかに育てること。
250 :
247:2010/11/07(日) 17:34:32 ID:Za1Nj25R
>>248,
>>249 ありがとう。
2次感情の抑制という部分では少しずつ実感出来て
いるので、新しい脳の形成が出来る様さらに精進します。
おだてられればいい気になる。悪口言われりゃ腹が立つ。
これはどうしようもない事だ。
それを受け入れたら後は他人の事などほうっておきなさい。
ほうっておくということができるようになるための修行かもね、禅て
思い出したらまたはらわたが煮えくり返ってきた。
怒鳴りまくる奴って、怒鳴ったことをケロッと忘れてる。普段は普通なのだが
機嫌を損ねると、怒鳴り始める。しかししばらくしたらケロッとしている。
ある部位の記憶に障害があるのではないだろうか? 怒りと記憶は関連している
気がする。
逆に、必要な時に怒りが発生しないのは明らかに問題だが、怒りが生じたにせよ、
それが記憶に残らないというのも何らかの問題?があるのではないか。
そこは微妙なところがあるように思う。
怒り狂う人と逆に怒りの生じない人、 性格的には全く別のように思えるが、実は
構造的には似ているように思う。
坐禅は脳の構造を変えるきわめて強力な方法だと思う。強力が故に決して安全とは
言えない。失敗の可能性もあるし、可能性どころか失敗の方が多いかもしれない。
臨在の公案禅なんかを読んでいてもそんなことを感じたことがある。どこか狂って
いる感じがある。
記憶がなくなるというのとは少しちがうのではないかな。
主観的から客観的になる、という言い方はどうだろうか。
恋でも、ほれまくっている最中は会いたい一心で仕事も勉強も手につかないで、
相手のことばっか考えている。が、恋がさめてしまえば魔法もとけて正常にもどる。
かといって、恋していた記憶がなくなるのでもなく、してきたことバカさかげんを忘れたわけでもない。
つまり、客観的に冷静に自分をみつめることができるようになったわけだ。
恋がそうなるには時間がかかるが、怒りや悲しみといった感情も原理的には似たようなもので、
親や子供が死ねば自殺したくなるほどさびしいが時間が解決してくれる。
これもまた主観が客観へと移行するからといえなくもない。
禅者は、そうした過程が、通常のひとたちよりもすみやかにというか、即座に近い形で
おこなわれるという言い方はどうだろう。
スレ違いのようで恐縮ですが、
剣と禅のつながりについて少し。
剣道では”残心”という言葉があって、打ち合った後に振り向き、
必ず残心の構えを取らなければなりません。
残心の構えとは、相手の喉元に竹刀を向け
常に臨戦態勢であるという意味です。
同時にもう一つ意味があり、
振り返って残心した時点で、過去の打ち合いの事は水に流そう。
打ち合えば当然、どちらかが打たれる訳ですが、
そういったものを引きずるのではなく、一度、過去を清算しようではないかいう意味があります。
>>254 >失敗の可能性もあるし
失敗なのかプロセスなのかは誰にも分からないね。
自分も座禅を続けていたことで過去の不愉快な記憶がこびりついて苦痛になることもあるし、
不安神経症のように小さなことが気になったり、被害妄想がおこることもないわけではなかつた。
禅は、脳のソフト的改変というより、ハード的改変といえるから、予測不能な変化がおこりかねないのは確か。
でも、フィギアの選手が身長がのびたことでジャンプできなくなったからといって、それを失敗といえるだろうか。
それに順応させてさらにいいジャンプできるようにすればいい。
自分は座禅によって時には起こる苦痛はプロセスにすぎず、かならずや良い方向へ向かうことを信じている。
たけしの家庭の医学で座禅による副交感神経の推移を調べていたが、
座禅未経験者に目をばっちりあけさせていたけど、あんなにしっかりあけると
目痛くならないのかな
だけど、座禅や瞑想の目的を副交感神経上昇によるリラックスととらえちゃうと、
もうあれだよなぁw
科学者は禅を副交感神経とかセロトニンとかシータ波とかで説明したがる傾向があるみたいだけど、
「左脳優位から右脳優位への転化」というのをうまく説明できないと、
見当違いにおちいるだろうね
南浦紹明(大応国師)って入宋する前と後で思想に変化ってあったのかな?
中国の虚堂智愚から何を教わったんだろう?
261 :
神も仏も名無しさん:2010/11/17(水) 18:06:43 ID:Q8CWM3CA
俺が知ってる悟った人
井上義衍
原田雪溪
川上雪担
義衍さんは亡くなった。雪溪さんはまだ生きてるが相当高齢。
最後のせったんは2ちゃんだろうがyahooだろうがミクシィだろうが
どこでも辻説法する親しみやすいタイプ。
263 :
神も仏も名無しさん:2010/11/18(木) 01:14:30 ID:PjibRm1u
>>262 おや名無しさん、スカートの陰からコソコソご苦労さん
>>263 >
>>262 > おや名無しさん、スカートの陰からコソコソご苦労さん
 ̄|_|○ ドテッ
265 :
神も仏も名無しさん:2010/11/18(木) 19:18:52 ID:o+ap81Hm
>>208 そんな状態は気にしないでほったらかしにしてください。
>>213 仕事中でも修行中です。意識せずに修行できるようになればよいのです。
>>239 統一する必要ありません。初めから一つです。
>>255 「本来の 面目坊の 立ち姿 一目見しより 恋となりぬる」です。
266 :
神も仏も名無しさん:2010/11/18(木) 19:23:19 ID:o+ap81Hm
>>261 悟った人は役に立ちません。あなたが悟るのです。
>>262 騒動衆です。仲間集めてサトリ教団みたいなものです。悟り主義者集団はテロ集団化するかもです。
抽象的な言葉遊びで話すくせは、人が離れるよ
268 :
神も仏も名無しさん:2010/11/19(金) 20:58:11 ID:hOMLHq48
>>266 >
>>262 > 騒動衆です。仲間集めてサトリ教団みたいなものです。悟り主義者集団はテロ集団化するかもです。
騒動衆は、現在では、道元から遠い存在になりました。
さとりとは無縁のお行儀の良い人たちです。
完全なド素人ながら、参禅会に通ったり、色々本を読んだりしたが、
結局、どうも坐禅の仕方がよく分からない。
最近思ったのは、とどのつまり坐禅は教える事も、伝える事もできないんじゃないか、という事。
道場もただ坐る場を提供してるだけで、指導の場ではないんじゃないだろうか。
結局、毎日一定時間、とにかく強制的に坐り続けて
少しづつ自分なりに理解していくしかないんじゃないか
と思ってきたんだが、いかがでしょう・・・
40分というのは素人には長いんだが、
やはりこの長さにも意味はあるのかもしれない。
どうせ素人は坐禅なんかできないんだから量でカバーし、
40分坐って5分でも坐禅ができればラッキー!
という割と投げやりだが合理的な発想に
基づいてるんじゃないか、という気がしてきた。
だとしたら、自分は素人だから20分、10分で十分だろう、
という今までとってきたやり方は、本末転倒だったのかもしれない・・・
>>269 >最近思ったのは、とどのつまり坐禅は教える事も、伝える事もできないんじゃないか、という事。
まぁ、そのとおりだね。
クロールとか背泳ぎの本百冊読んだって、実際におよがにゃなんにもわからん
やっててこりゃすごいと思えるまでには、早い人で半年、遅い人なら三年以上かかる。
会社の仕事でも全体がみえてきて面白くなるまでにはそれくらいかかるわな。
そこまでやる気がないなら、なんの意味がないから、やめることをすすめる。
>>271 結構根気が要るね。普通の素人だと
ついサボったりして中々続かないんだよね。
まあ、そこをコツコツ続けられるかが
成功する人と失敗する人の分かれ目なんだろうけど。
>結局、毎日一定時間、とにかく強制的に坐り続けて
>少しづつ自分なりに理解していくしかないんじゃないか
>と思ってきたんだが、いかがでしょう・・・
坐禅のマスターにはコツがあると思う。
自分も長い間、気功とか太極拳だとかの教室にいったりしていたが、座れなかった。
ところが7日間の接心を一回受けたら、坐禅がわかった。
初心者はまず最初に集中的に1週間やった方がいいと思う。
難易度としてはちょうど自転車に乗る程度ではあるまいか?集中的にやれば
簡単に理解できる。
毎日自転車にまたがっては、降りるを10年やってもやっぱり乗れないと思う。
自分の場合はそんな感じだった。
>ところが7日間の接心を一回受けたら、坐禅がわかった。
>毎日自転車にまたがっては、降りるを10年やってもやっぱり乗れないと思う。
すごい何かしっくり来たわ、ありがとう。
7日間の接心って考えるだけでも恐ろしいけどw
逆にそういう発想はあんまなかったわ。
>>273 あなたは
>>151の人だと思うけど、ご自分でも言われているとおり、
太極拳や気功の素養があったからいきなりの七日間接心ができ、
また開眼したという点もわすれてはいけないと思う。
はやくして理解できるような人は、前にも似たようなことを書いたが、
たいていなんかしらの素養を積んでいるケースが多いと思う。
性犯罪被害者には ゼッタイ、妥協しないし、したくない!*
性犯罪被害者には ゼッタイ、妥協しないし、したくない!*
性犯罪被害者のアンチモコ派には 負けたくないし、負けてない!!☆
アンチモコ派には ゼッタイ、死んでも 負けませんよ!*
モコ派を支持してくださる皆様!
いつも ほんとうに いつも ありがとうございます!☆
モコは 心のそこから感謝します*
イケメンチンポは 飢えた女どもの共有財産!*
バリケード封鎖して イケメンチンポを守れ!☆
モコは ケツの穴にアナルビーズを入れ始めた * *
どんなに たくさんのアナルビーズを入れても モコは耐えた *
これには アンチモコ派も 驚いた * * *
これからも モコとともに 夢を見ながら 汗かき べそかき くそ出し 歩こうよ☆
モコがウンコをつけた あとにゃ きれいな花が咲くでしょう*
しあわせの扉は モコの肛門のように せまいんだヨ☆
だから しゃがんで クソ出しながら 通るのね*
モコはイケメンチンポをにぎってる!*
モコが死んで 喜ぶヤツらに モコのイケメンチンポを手渡すな!☆
イケメンチンポを手放すな!* いっちゃってイイですかぁ〜!? ☆
イッちゃうぞ、このヤロウ〜!*
いない いない バァ〜!* いない いない バァ〜ちゃん!*
いらない いらない モコ!* いて欲しい いて欲しい〜 モコ!☆
モコがウンコブーブーをパンクさせたという話も 当然、真っ赤な大ウソだ*
鋭く追及されると、アンチモコ派は「完全な誤り」と認めた。
「訂正とお詫び」を掲載して「勉強になりました」とハッキリと非を認めたんだ☆
だいたい、ちょっとでも自分の眼で確かめたら、
すぐに「作り話」だと分かるはずだ*
アンチモコ派の作り話で具体的な事実が出てきたためしなんか、
ただの一度もないじゃないか(大笑い)☆
277 :
275:2010/11/23(火) 10:43:52 ID:wulSHjqE
初心者が接心するという話に水をさすようなことを言ったようで気になりましたが、
反対するのではまったくなく、接心とはかなり大変なことなので、指導者と相談のうえで
慎重にやってほしいという意味で書きました。
食事制限、睡眠制限はもちろん、それ以外の時間の大半を座禅という毎日を
七日間つづけるわけですから、
それなりの覚悟がなければならないことはいうまでもありません。
接心って本職の禅僧でも結構きついんじゃないの?
15分座るのがやっとな俺としては気の遠くなる話だな。
接心て大変なことなのか? そんな感覚はなかった。
確かに修行だから旅行に行く気分ではいけないかもしれないが、実際には
旅行よりははるかにリフレッシュできる。
ただ永平寺とかだとかなり厳しいのかもしれないな。といっても重労働を
するわけじゃないし、座るだけだからそんなにたいしたことはないとおもう。
普通に大変でしょう。つうか俺の場合
まず結跏趺坐できるようになるのが先だな。
でもやり遂げたら何かが変われそうな気はする。
「ボケ、カスアホ」と言われ理不尽な要求の納期に追われて、大手の下請けなんて
そういうものだから、現実の仕事の方がはるかに苛酷で、接心は正直休養だよ。
自分の職業はエンジニア兼太鼓持ちだったが、最近は太鼓持ちの方が洗練されてきて
太鼓持ち兼エンジニアだよ。そんなベテランの太鼓持ちでも昨日は卑劣な担当を
コンクリートにくくりつけて沈めてやりたい気持ちになった。
戦争がはじまったらドサクサにまぎれてあのビルにロケット弾でもぶち込んでやりたい。
とまだまだ修行がたりない。W
坐禅を初めて精神的にかなり成長したと思うのだが、それに付け込むように現実は
ますます苛酷になっていく。試練が与えられているのだと思うようにしている。
>>279 参考までに、どんなスケジュールで行われたのか詳細をかいてもらえると、
よく知らない人にとっても身近なものになるのではないでしょうか。
接心というと、しり込みしてしまう人も多いでしょうから
曹洞宗の接心だったら大体どこも同じですよ。
AM4:00−PM10:00 でその間40分の坐禅を10回程度します。
食事は朝はお粥1ぱい+たくあん2切れ。昼はご飯一杯+おかず2つ3つ。
夜はまたお粥+おかず1品?。
接心の期間は一切喋ってはいけない。寝言もいびきも禁止。
そんな感じです。
寝言やイビキをやると、警策(きょうさく)でたたかれます
冗談に反応すんなよ。W
小食と、喋らないというのは非常にいいよ。坐禅もいいけど、坐禅だけじゃなくて
食事の作法なんかもそうだけど、接心が醸し出す雰囲気というのが非常にいい。
当然携帯とか本とかの私物や外出などの自由行動も制約されるのだろうね。
大変だとは思うけど、たしかに完走したら、それなりの収穫がないわけはないね
>>246 >>247 >>281 同一人物かな。ストレスで感情が激化してるようです。
坐禅の仕方に問題あるかもしれません。
何やら坐禅を妄想や感情や浮かんだ念を無理矢理に意志で叩き斬ろうとする
向きがありますが、それはよくありません。単なる抑圧になって後で暴発かもです。
雑念や感情を抑えつけるように坐るのは間違いです。
もちろん座中に念が起こりますが、
問題としては、自己は自己なのに、
念が起こっている自己とそれを観察している自己の二つになっていることです。
誰でも座ればいろいろなことが起きるのでそれを見ることができます。
それで坐禅の効果がまったく現れない場合というのは、
見ている方が、念が生じている方を意志的に支配しようとする坐禅です。
そうではなく、見ている方(観察している方)が自我でありボスですので、
念・感情が生じている方は放置するのです。
座中に、この自己の、雑念やら感情を何とかしようとするのではなく、
何とかしようとしている自己(自我)を餓死させることが坐禅であります。
そう言うと、御者がいない馬車が暴走すると危惧するかもしれませんが、
自己内部の葛藤やら矛盾というのは、ほぼこの自己の内部対立で起こることです。
むしろその対立が沸点を超えてハチャメチャになってしまうことの方が問題なのです。
つまり喜怒哀楽の例で言えばですがね、
「喜びが喜びであるとき、喜びはありません。」
「怒りが怒りであるとき、怒りはありません。」
「悲しみが悲しみであるとき、悲しみはありません。」
「喜びが喜びであるとき、喜びはありません。」
ある特定の感情が強く発生する場合、
その反対の感情が同時に相対的に生じているということです。
障害があった方が恋は燃える、とかと同じかもしれん。
で、反対の感情を生じさせて困らせているのが、自我という偉そうな審議委員長なのです。
「それってどうなの?」といつも反対の感情やら見解を提示して意義を唱えてきます。
自分の大好きな趣味に熱中していると、自我は登場しません。
反対しようにも100%没入してますから手が出せません。
そういうときは記憶に残らないほど熱中しており、子供であるほどその度合いは強いです。
大人になって分別がついてくると厄介なことになり、自我が大威張りで娑婆が刑務所状態です。
自我が強い人というのは、自分の自己認識とは関係なく、
いい人だろうが嫌な奴だろうが、善人だろうが悪人だろうが、
他人にイヤな「感じ」をもたらすものです。
どうか「ボケ、カスアホ」と言われても、英語を全く知らない人が
「Fuck you ! Ass hole! shit!」と言われてトンチンカンなくらい観念を落としてください。
ジルボルトテイラーの奇跡の脳なんかを読むと、ニルバーナというのは
右脳の特殊な発達だろうと思うが、これとバランスするように自我の発達
も必要なのではあるまいか? 餓死はまずいように思う。
餓死ってのは文字通り消えて消滅だから。それはいいすぎなのかな。
放置、無視、解放、というほうが287さんの真意にも近いのではないかと勝手に推測します。
空海のように生き仏にでもなるつもりならともかく、人間は社会的動物である以上
ニルバーナにひたっているだけでいるわけにもいかない。
そこがむずかしいところでもありますね。
道元のような人ですら最晩年に北条氏による鎌倉幕府とのことで心労を重ねた。
290さんのバランスという言葉は大事なことだと感じます。
「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」、「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」
相沢三郎は剣道四段で、少尉時代には仙台の輪王寺に下宿して、無外禅師の教えを受け、三年間禅生活を送った。
質素にして、常に綿服をまとい、一見古武士の風格があり、上官には恭敬をもって仕え、部下には
慈愛をもって臨み、至誠至忠、その言行は模範的であった。
他人に対しては丁重、慇懃であり、皇室や国歌に関すること以外は、人と論争したことがなかった。
然諾を重んじ、偽りをいったり駆け引きをしたりはしなかった。
しかし時代を読む目がなく、永田鉄山を暗殺するに至った。
ある特殊な集団に関ることで、異常心理(彼らからすると我々の世界が異常なのだが)
の現象をたくさん見てきた。覚醒すると目が綺麗になり本当に生き生きとする。しかし
現実認識にはそれなりの教養が必要だ。同じ覚醒をしても、あまり教養のない人と
バランスよく教養を身に着けた人とでは安定感が違う。あまり教養のない人の覚醒は
ただ単に子供返りしたような印象を受ける。
覚醒とひとくちにいってもいろいろレベルがあると思う。
以前にもどこかで書いた気がするので重複したら申し訳ないが、
ある高く信頼できる禅僧の方が著作のなかでこんなことを書いていた。
「身心脱落ということを私がいったら、ある先輩がそれはいいすぎではないか、と」
つまり、このお二人は両者とも自分が覚醒というか、悟りというか、見性というか、
言い方はともかくとして、達すべきところへ達したと感じている。ところが、一方は
身心脱落という言葉が適切と感じ、また一方はそれは言いすぎだとかんじている。
内面のことだからそれがおなじものなのか誰にもわからない。
こういう例をみると、その人の素質や素養や情熱、積んできた努力、によって、覚醒なるものの内容は
おのずとかわってこざるをえないのではなかろうか。
見性も、天地が引っくり返るような内面的大変革として起こる場合もあれば、ゆっくりと
進行し高いレベルに達する人もいる。禅僧には劇症的見性主義を否定する人もいる。
「覚醒」は人によっても、修行の方法によっても異なると思う。とくに劇症型の覚醒
は体質もあると思うが、臨在系のように公案で徹底的に追い詰めて無理やり覚醒させた
ような場合に起こりやすいのではないだろうか?
特殊なセミナーなどでは、何人もの人が一人の覚醒のパワーに釣られてドンドン覚醒
していく。しかしこういう覚醒は小悟であり冷めやすい。一週間もするともとに戻る。
坐禅によっておこる覚醒は本来静かに進行していくものだと思う。自分の場合も覚醒は
静かに進行している。ある本には7つの段階を経て涅槃に至ると書いてあったが、その
段階通りではない。数段飛ばして先の現象が現れてみたりまた元に戻ってみたりする。
ゆきつ戻りつ進歩していくようだ。
「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門」はいい本だね。この本の教えなら
段階的に凡人でも解脱できそうな気がする。坐禅を半年ほどやってきて実感
としてもよくわかる。
いままでImThatとかを読むのが好きで、素晴らしいとは思うのだが、修行
の具体性に関しては殆どわからなかった。
297 :
神も仏も名無しさん:2010/12/07(火) 22:52:54 ID:AJLPqfdJ
セミナーのようなものに参加したことがないのでよく知らないけど、
卒業式で誰かが泣くと連鎖反応的に他の人ももらい泣きするような現象なのかな
座禅というのは心理的な変化とはちがって、もっと生態的な神経や皮質などの発達
のようなものだから、芸事の進化と同じように、ゆるやかな進化が自然なのでしょうね
>セミナーのようなものに参加したことがないのでよく知らないけど、
>卒業式で誰かが泣くと連鎖反応的に他の人ももらい泣きするような現象なのかな
心理学的な手法を使った洗脳プログラムのようなものがあります。
かなり強力で一週間程度外部との接触を遮断して教育すれば、だれでも完全に洗脳されます。
共産圏では応用されて、捕虜になった兵隊が洗脳、赤化されて共産主義者になると
いうのは有名です。
作文を書かせるだけのような非常に単純なものでも、強力に洗脳することができます。
特に優秀な人ほど洗脳に嵌りやすい。みるみる人格が変わって聖人のようになります。
一週間程度の洗脳であれば娑婆にでて、汚れた世界を一週間も経験すればまた元に
もどります。ただ宗教などで応用されると定期的にリフレッシュしますので、洗脳から
は抜けることはできません。
自分も洗脳の経験があり、危険なカルトというほどの団体ではなかったですが、数年
関わっただけですが、団体をやめてからも、影響を抜けるのにかなり時間(数年)が
かかりました。ただこの経験は当時も今も非常によかったと思っています。
洗脳というのは、ひらたくいうと、「他者によって自我を支配される」ということになるのかな。
催眠術とか、宗教等の洗脳とかも、そういうふうに言えるのだとすると、
禅というものは、「自分自身によって自我を支配する」というふうにもいえるかもしれない。
そうなると、自我を支配する「自分自身」とは何だろうか。
丹田呼吸って集中力が続かないんだけど
禅僧は本当にあれを40分も続けているのですか?
呼吸法やってても途中で胡散霧散してしまう。
ただ単に慣れじゃないの?
じぶんは意識の集中力は切れてても呼吸は別に変わらず続けられるよ。
あと腹筋や吐く力が足りないとか。
日常で吐き切る深呼吸を取り入れてみれば。
前にも言ってた人がいるけど、禅と丹田呼吸を同一視しないほうがいいと思うよ
丹田呼吸は、頭にのぼった気を下半身へおろし、イライラや神経過敏をやわらげ、
酸素を多くとりいれることによる身体機能の浄化、というものかな。
自分は寝られない夜にこれやるといつのまにか眠ってしまうw
そして座禅は、従来つかっていた意識というか脳の部分を停止させて、
いままで使わずに死んでいた別の脳の部分をたちあげる行為。
まったく別物といっていいと思う。
>禅というものは、「自分自身によって自我を支配する」というふうにもいえるかもしれない。
>そうなると、自我を支配する「自分自身」とは何だろうか。
それが解るには逆説的になりますが、自分自身を他者に支配させてみることです。
アニミズムの手法では憑き物に取りつかれることで、自分の源泉に触れます。
禅は実は本質的には他力なのです。
寝たいときに寝て、歩きたいときに歩いて、腹減ったときにめしを食うのが禅じゃないの?
>>301-302 ありがとう。やはり慣れも大きそうだね。
あと呼吸にそこまで拘り過ぎなくてもよいと言うことかな。
良い意味で地道に適当に訓練を続けてみます。
>>303 面白いお話ありがとう。
自力と他力というふうに考えると二元論な話になるけれど、
「他力」というのは、言い方をかえると「自他の境なし」の方向というか
「一元論」の方向というのは言いすぎでしょうか
個人なら別々ですが、人類の次元なら一体ですから、源泉に深く頭を突っ込めば
当然、自他一体ですね。坐禅が関与するあたりがどのあたりなのかですね。
宗教的原理として、完全受動状態(神に委ねる)になれば、なにか恐ろしく
強力な力が発動するというのはよく知られていますね。坐禅もそのあたりを
覗こうとすると必然的に自分を捨てる必要が出てきます。
能力開発というレベルではそこまでは必要はないでしょう。
私が思うのは、非常に深いところまで行こうとするのなら、純粋に坐禅で覗くこと
ができるのか、それとも宗教的手法に依るのがいいのかです。悟りを誘発している
老師の場合は、概ね最終的なところは宗教がかっていますね。そこの部分は非常に
難解に見えます。 小乗系では技術だけで乗り切ろうとするのでわかりやすい。
飯田トウインやギエン、原田雪渓などは同一の法系で多くの見性者を出していますが、悟り
の最後の詰めのところが「坐禅が坐禅する」というような、不可解な表現になっています。
ここばかりを先走って強調するのは個人的にはあまり気に入らないのですが、たぶん最後は
そこがカギになっているのでしょう。志の高い修行者の場合そこに行くのは容易で、そこを
ぶち抜くことだけが問題で、そのためその部分だけが強調される。
我々の場合はそれ以前の到達もままならないので、こんな不可解なものに振り回されない方が
よいと思います。その直前までは、小乗系の技術による坐禅を淡々と実践するのが近道だと
思います。
>>307 >それとも宗教的手法に依るのがいいのかです
宗教的手法というのは、形而上的な、一種の客観性のない信仰みたいなものかな
みんなは『なぜ』悟りを得たいの?
誤爆
今の自分がいやだから
他力って言葉個人的に好きではない。
しょせん他力に依存して自己願望をかなえようって発想でしょ
そこには、どうしてもエゴイズムというか、楽して得るというニュアンスがぬぐえない。
まぁ、なにやってもうまくいかない、努力しても苦労しても報われない、
そういう人にとっては救われる思想かもしれないが、それの目的が自己願望達成である
範囲にすぎないなら、あんまりほめられたものではない。
むしろ「おのれを捨てる」というのが「他力」の真のありようだというほうが理解しやすい
百姓は自然の力がなければ作物を作れんぞ。
人は自分の力だけでは生きられず、いろいろな人や環境の支えがあってこそ
生きられるんだ、ってことを言いたいのかな?
そりゃ電気や水や道路にしても、公共というものがなければまともに生きては
いけないのが人間だが、そんな小学生でも知ってるようなことをいまさら言ってところで
何になるのだろう。
たとえば、そのことが「生老病死」という苦に対して、どんな解決になるというのだろうか。
解決?そんなものはどこにも無いだろう
生老病死の解決になどならんよ。
そもそも、なぜいきなりそこへ話が飛躍するのかが不思議だ。
生老病死という苦の解決?何を言ってるのか分からんな。
苦を理解し、苦と共に生きることが人間本来の在りようだろう。
それとも悟りでも開いて高次のステージとやらにでも到達する気か?
生老病死の自己内の「当たり前化」だろ
自分は、生老病死の解決とか救いといったものは、あると考える。
それは「自我の解放」「おのれを捨てる」ことではなかろうか。
自分なんてものにこだわりがなければ、貧しかろうが年とろうが病気しようが
死のうが、なんのことはない。勝手にしろだ。
だから、他力の話をするときに、まず自力ありきでそのうえで他力にゆだねる
という二元論的発想では、しょせん自我の苦しいしがらみからは逃れることはできない。
そんな他力など、屁のつっぱりにもならない。
>>317 >苦を理解し、苦と共に生きることが人間本来の在りようだろう。
そういう話をしたいならメンヘラ板かPKO活動でもするほうがいいよ
禅とはなんの関係もない
禅って定印みたいな印を組むよな。
今まで何のためにやるのか疑問だったんだが、実は結構
重要なんじゃないかと思えてきた。印を結び続けると、
僅かではあるが一定の意識的緊張を強いられるわけで、
それをすることで注意力や脳のリソースを一点に集中させ、
意識が散逸して雑念が起こるのを防止する機能を
果たしているのではないだろうか。
それを考えると、印も意外に侮れない。
今まで手は適当にしてることもしばしばあったが
やはり法界定印はきちんと結ぼうと思う。
テレビで座禅は「集中」と力説していたがみんな実際みんなこんな感じでやってるの?
俺の場合は呼吸にだけ気をつけて意識はただボケーっとしてる
そのほうがリラックスできるし、座禅が集中だったら疲れるだけだろうなと思うんだが
歳をとると絶対他力の奥深さに気がつく
と五木寛之がいってたが
俺の身にも沁みます
>テレビで座禅は「集中」と力説していたがみんな実際みんなこんな感じでやってるの?
>俺の場合は呼吸にだけ気をつけて意識はただボケーっとしてる
日常会話でつかう集中とは違うとおもう。集中は「静まること」と同じ。
だから気持ちを一点に集中するんじゃない。
でもボケーッとというのは語感が違うな。体が無くなって空気のように軽くなる。
そしてどもまでも静かになっていく。でも音が聞こえてくる。その音が震えるところが
体なのだが、もはや体は無いから、音だけがある。そのことで、自分がそこにいるのが解る。
>苦を理解し、苦と共に生きることが人間本来の在りようだろう。
最近クリスチャンの本を読んでいて、「苦を神に贈り物としてささげる」と
いうような発想に出会った。
これはいいなーと思ったよ。こういう発想をすると、苦がある種の喜びに変わる。
子供のころ、ナスのからし漬けとか苦手だったじゃない。でも大人になると、そういう
ものがおいしくなる。
苦渋というのは複雑な味だが、それも美味しいものだと思う。
>>322 集中というか、緊張と弛緩のバランスではないだろうか。
単にリラックスするだけなら寝るかヨガのジャバアーサナみたいな
姿勢をとればいいわけだが、坐禅は一定の心身の緊張状態を要求される。
警策でぶっ叩かれたりするのも、弛緩に傾きすぎているのを
適度にバランスを戻す役割もあるんだろう。
その絶妙な状態の中に禅の目指す境地があるのではないかと思う。
>>320 >そういう話をしたいならメンヘラ板かPKO活動でもするほうがいいよ
この辺りに必死さが滲み出てるね。
まあ、自我の開放とかおのれを捨てるに拘って殺人事件とか起こさないようにな。
その前に精神病院に収容されることを願うよw
>>325 あんたがそう思うならそうなんだろうが、
いるんだかいないんだか分からん神に苦を捧げる気はないよ。
生老病死。あたりまえの事。それだけだ。
そこから生じる苦と向き合うには覚悟しかないんじゃないの。
なんだか、ここには苦を解決できるとかいうロマンチックな電波お花畑ちゃんがいるみたいだけどw
まぁ随分と……な…
坐禅はじめたばっかりなんだけど、呼吸は鼻の音が気になるほど深くしたほうがいいのかな
それとも、眠る時みたいに浅く空気がほとんど揺れない長い呼吸のほうがいいの?
それは道元がそう言ったからだな
長すぎず、短すぎずだそうだ
呼吸が重要でないというのは理解できんな。
空手だろうが弓道だろうが、およそ東洋系の技法は
徹底的に丹田呼吸とそのリズムに基づく身体運動を重視する。
それが呼吸法を全く意識しない西洋スポーツとの最大の違いだし、
元々これらの東洋系アートは全て禅で培われた技術を
基本に発展してきたものなので、アーキタイプである禅で
丹田呼吸が重視されないなんてありえないと思う。
第一、釈迦も呼吸法について説いてるし、
呼吸法だけを解説したお経とかもあるじゃん。
>>332 前にもいってた人もいるが、禅定とか瞑想が決まると、わかるひとにはわかるが
ほぼ微呼吸に近い状態になる。呼吸法というのは、そういう状態にいたるまでの
プロセスにすぎないという理解のほうがいいと思う
しかし呼吸なんて全然意識していないが、坐禅をすると呼吸がメロメロ
柔らかくなる。丹田呼吸法なんて教え方が完璧に間違ってるよ。
坐禅をしたらいい。坐禅をしたら、丹田呼吸だろうが頭頂呼吸だろうが
光の呼吸だろうが何でも自在だよ。
ヨガからストレッチを抜き出した馬鹿と同じだな。わざわざ間違った
ことを教えている。
まあきっかけというか入口ってことだな
「入口」で思うけど、丁寧に手取り足取り教える人と、金槌なのに大川へどぶんと
投げ込んで「泳いで帰ってこい」みたいな教え方をする人と、2種類ある。
どっちが早いかというと後の方だろうな。
手取り足取り教えると、本当に重要なことを掴むのが遅れる。本質に気が付きにくい。
マイケルジャクソンやアステアのダンスが飛びぬけてうまいのは、呼吸のような
身体の一面だけを抜き出したテクニックじゃない。
つまり、要素を集めて構成されたダンステクニックじゃない。
身体性としての自由なダンスができるし、自在なダンスする身体を持っている。
それが決定的に違う。
ムーンウオークを練習しても全然質的に違ったものになるし、そういう練習からは
彼らの域には到達できない。
本質を掴んだ上で、丁寧な師にであうと、バランスよくメキメキ上達する。
自分で必死で掴んだものは深さにおいて全く違う。
まぁ、座禅=丹田呼吸とかかんちがいしている師匠まがいな人もいるからね
いい師匠をえらぶにはどうすればいいのだろう
まぁ、キリストを思いながら、瞑想するわけだが…
師匠というのを全的に完成された人ととらえると、誤るかもしれない。
David Fontanaの心と体の瞑想術によれば、良い師は
「一つか二つの教義を堅持する人たちよりも、様々な経験を積んで受け入れる人たち
だった。」とある。
自分も多くの良き師に巡り合えたと思うが、その多くは本を通してであって、直接
教えを受けた人は少ない。TVや写真に写る僅かな瞬間であっても、それは何かを教えて
いると思う。特に立ち居振る舞いは誤魔化しは聞かない。少しでも未熟な部分があれば
どこかに表れる。
まぁ、それだけ本物は少ないということだね
師匠が必要なのはセンスがないからだ
己で悟れ!
師匠がなければ悟ることはできない。しかし、最良の師匠は自分自身である。
今を捉えるなら
まず呼吸に目を向ける。
雑念は放っておく。
呼吸を見続けられるようになったら、
呼吸と同時に音を意識する。
二つを同時にできたら、眼に映っている色を意識する、
三つ同時にできたら、坐っているケツや全身の感覚を意識する。
四つできたら、自分の捉えられる限りのすべてを一辺に意識する。
それを四六時中続けていれば、
意識をし続けている自己が消えることが起こる。
そのとき自己はいない。
これで終わりじゃない。終わったと思って禅理論を構築などし始めたら振り出しに戻る。
準備運動が終わっただけである。
自分だけが大事
自分以外は全員クズだと思うようになった
346 :
神も仏も名無しさん:2011/01/08(土) 00:49:40 ID:j+LGuJnb
>>344 名無し さん
> 今を捉えるなら まず呼吸に目を向ける。 雑念は放っておく。
> 呼吸を見続けられるようになったら、 呼吸と同時に音を意識する。
> 二つを同時にできたら、眼に映っている色を意識する、
> 三つ同時にできたら、坐っているケツや全身の感覚を意識する。
> 四つできたら、自分の捉えられる限りのすべてを一辺に意識する。
> それを四六時中続けていれば、意識をし続けている自己が消えることが起こる。 そのとき自己はいない。
> これで終わりじゃない。終わったと思って禅理論を構築などし始めたら振り出しに戻る。
> 準備運動が終わっただけである。
臨在か?
>自分の捉えられる限りのすべてを一辺に意識する。
これ、受け取った、ありがとう。
>二つを同時にできたら、眼に映っている色を意識する、
これどういう意味? 「目に映るもの」じゃなくて「目に映る色」なの?
集中しよう、しよう、と思うのは、禅じゃないよ。
349 :
神も仏も名無しさん:2011/01/09(日) 07:57:21 ID:Jd+qv4ma
白隠禅師の内観法で「両下肢を強く伸ばして踏み揃える」
とあるのですが、寝た状態で足を踏みそろえるというのが理解出来ません。
踏むとは地面を踏むという意味では無いのでしょうか?
その言葉のままできそうな気がするが、
351 :
神も仏も名無しさん:2011/01/12(水) 08:01:21 ID:De8MJWY9
寝た状態でどうやって地面を踏むのですか?
352 :
神も仏も名無しさん:2011/01/12(水) 08:03:02 ID:De8MJWY9
膝を立てるなんて事も無いようですし
両足フレックスで揃える
じゃない?
慄然とする
ナンチャッテ
立禅とかけてたのか
356 :
神も仏も名無しさん:2011/01/14(金) 09:10:04 ID:VzaAR7Be
結局誰も分らないの?
357 :
神も仏も名無しさん:2011/01/14(金) 21:07:23 ID:LH86UBJA
誰もわからんようなことは、どうでもいいことだよ。W
わからないんじゃあなくて
読めなかったんだろ
イイヨイイヨ無理しなくて
白隠が仙人に伝授された「内観の法」
仰臥して、丹田から両足にかけての範囲に意識を置くための4つの公案を静かに唱える
放下着(リラックス)のうえ、丹田呼吸を行っていると、身体の充実感が感じられ、
気分が落ち着き、安らかとなり、軽い催眠状態となる。
そこで次のような内観の言葉とともに観想〔心で見、深く思う〕を行う。
(1)自分の臍のまわりから、下半身はそのまま自分の心であり、
それは浄土(禅では心そのものをさしている)である。それはどんなに荘厳であろうか。
(2) 自分の臍のまわりから、下半身は自分の身体の中にある阿弥陀仏である。
この阿弥陀仏はどのような法を説くのであろうか。
上記効果
次第に身体全体の気が下腹部、腰、下肢、足の裏(「下半身」と呼称する)まで満ち渡り、
手足から身体全体へと温かくなってくる。
そして何ともいえぬいい気持になり、そのまま熟睡に入れる。
360 :
神も仏も名無しさん:2011/01/16(日) 09:01:22 ID:cybjU/6k
意図的に「両下肢を強く伸ばして踏み揃える」
を省くのは何故?
この「強く踏み揃へ」は、比喩だよ。 たとえば、寝た状態で土を踏むようなつもりで、つまり
力をいれるが力まない。リラックスするが、フニャフニャではない。そういうしっかりと意識を
おいた感じを表している。気功では「充実させる」という。
でも現代人では武術などをやっていなと、この感覚は分からないかもしれない。簡単に理解しようと
すれば、いまなら水を被ったらいい。
川に入ってみるか、冷たい水道水をザブッと被ってみる。5分ほど川に浸かって上がれば、気が充実
して体はポカポカになる。
毎日水を被って、一ヶ月もやれば、臍下丹田に気を充実させるなんてのは簡単にできるようになる。
今はそういうトレーニングをする最高の時期だね。
昔の人は生きるためには修羅場を何回もくぐりぬけているから、腹をくくるとか腹に力をいれるとか
そういう身体感覚はだれもが持っていた。現代でそれをやろうとすると、意図的に危険な状況に
踏み込むか、せめて水を被る程度のことはしないとだめだろうな。
滝行をやるとすぐにお経を覚える。藁にもすがりたくなるというが、お経でも唱えないことには
寒すぎて、とても水に入れない。死なないとは分かっていても限界を超えて真剣になる。解るというのは
いろいろなわかり方があるもので、「ふんふん、わかった」とただ意味を理解したところで、あまり
意味がない。逆に意味の理解は間違っていてもいい。体験でとらえることができる。
と偉そうに言ってみたが、自分も初心者だ。坐禅も少し慣れてきて、ただ気持ちいいだけになっている。
これはいかんとおもって、滝業を始めた。
おお、このおやじは誰だか知らない口の悪いおやじだが、水垢離の本質をとらえているな。
しかし初心者の自分も、直感的にこれは理解していたなー。真言などしらんので
うろ覚えの般若心経を「ガーテーがーてー、ツメテー」と唱えていたが、
やっぱり体験というのはすごい。誰に教わることもなく自然に解る。
しかしこうやって体系的に教えてもらうといっそうなるほどとよくわかる。
思うに白隠さんもいいが、あれから何百年もたって、いろいろの情報も体験も蓄積され
かみ合わさって、進歩しているんだから、この口の悪いおやじがどれほどのおやじかは知
らんが直感的に正しいと思ったらこういうおやじから学んだ方が、絶対に合理的だと思う。
もちろんすべてを鵜呑みにしてはダメだし、態度や口の悪いところや女癖のよくなさそう
なところは学ばない方がいい。
そんなの個人の自由だろ
なんでそう上から目線なんだよ
○○セミナーとかいくと
よくこの手の上から目線発言オヤジがいる
>>347 >>二つを同時にできたら、眼に映っている色を意識する、
>これどういう意味? 「目に映るもの」じゃなくて「目に映る色」なの?
眼に映るもの=色です。
仏教の六根と外境との対応は以下のようになっておりますので。
眼耳鼻舌身意
||||||
色声香味触法
眼で色を見、耳で音を聴き、鼻で香りを嗅ぎ、舌で味を感じたり声を出し
体で痛痒冷温等感じ、意で諸法である思考や思い、感情、気分を捉えます。
人間がしているのはこれだけです。
禅宗では六根(眼耳鼻舌身意)で捉えられない法(ダルマ)に
気づくことを見性と言っております。
見性は、自己は無自性なり、です。
自己は無自性なり、は見性ではない、です。
よって、表現不可能です。
外傷によらない後天的な精神の病と称されるもの、苦・無明・迷いは失せ、全快します。
禅の方法論も全て役に立たないと失望して、自分の部屋で一人で坐ってればいいだけです。
普通に同時に全部できると思うが、訓練するほどのことなのかな?
368 :
神も仏も名無しさん:2011/01/25(火) 12:59:50 ID:MGvR+Uu3
完全な絶望状態こそが禅である。
これこそ真の希望である。
一切の相対判断を超えた無量光なり。
一切処にあって普賢である。
万法帰一である。
369 :
神も仏も名無しさん:2011/01/26(水) 15:19:52 ID:Vgv9X+ok
>>368 絶望って言葉のなかには、「希望が挫折」っていう感じで、
希望のカスが残っているイメージ。
何かを欲する主体である自己の作用が弱まることが大事というなら、
絶望よりも無望という言葉のほうがしっくりくる
それも望み有りきだろw
無望という状態ってのはあるよ
たとえば寝ているときは、自己があいまいになるから、
自分のほっするところもあいまいになる。
自分が何をほっするかがあいまいになれば、絶望感や挫折感もあいまいにならざるをえない。
問題は希望をもつかどうかというよりは、自己をもつかどうかだ
望みという漢字を使う以上、望み有りきと言ってるんだよw
なるようになるよ
>>374 あなたは理屈で考えすぎ
人は訓練によって心をそういう状態へもっていくことができるって話だよ
フィジカル的な話
けど、こればかりはわかる人はわかるが、わからない人はわからない
373に付け加えるなら、眠りのなかが比較的平安なのは自己が薄れて欲望が薄れるからだ。
そういう状態を意図的につくりだすのが座禅であり、それはたしかに可能だが、修行はいる。
言葉に拘ってるのはどっちだよw
俺は絶望でも無望でもどうでも良いと言いたいだけw
何という地獄絵図
379 :
神も仏も名無しさん:2011/02/05(土) 08:25:37 ID:oWdeizYE
議論はいいことだよ。それなくして良い考えもでてこない。
なんでもお手手つないで仲良くすればいいというものではない。
380 :
神も仏も名無しさん:2011/02/05(土) 13:36:14 ID:sCzTvF6x
>>379 うむ、確かに独参なんかはガチンコ対決だしな。
最近の私の境涯は、自己の体の中が空洞で、体の外側に自己が充満してる感じだ。
誰かわかる人つっこんでください。
体の真ん中は実際に空洞だしね
希望をもたないっていうとなんか無味乾燥な禁欲的な暗い印象うけるけど、
酒や麻薬が気持ちいいっていうのも、睡眠時の平和のように、自己が薄れることによって欲望が薄れるからではないかな。
とするなら、希望をもたないというのは、とても気持ちのいいことなのではなかろうか
酒飲んだら我が膨れあがって欲望だらけに成る奴のが多いけどな
大体酒飲んで失敗する奴はそんなのばっかだろう
すると、酒というのは、自己はそのままで、自己抑制が崩壊して、
自己の中身が一挙に流れ出すという感じなのかな。
まぁ、酒でもワインと日本酒では酔い方がちがってたりするし、
麻薬の効果もそれぞれちがうから、ひとくくりには言えないね
>>380 般若即非だね。
380という存在を構成しているものは380の外側の世界である。だから380が存在している。こんな感じ?
食べたり飲んだりで外側の物質を取り込み自分として、やがてはウンコしっこで自分以外になる。
思考もそんな感じで、「私の心」と思っているものも実は、過去の体験に因る情報のインプットと、それらの内的なエコーに過ぎない。
今こうした考えを書き込んでいることも、自分の意志であることは確かなんだけど、それらを成立せしめてるのは、
このスレや、過去にネットで得た知識の受け売りというか、因果関係の行為というか。。
──漏れはこんなことを考えてみた
>>380 トンネルでしょ、それ。
トンネルって山とかの土のないところ。
>380
それって体感だろ。おれも、最初の接心がおわった時、体が空洞になった。
からだの外側に自己が充満ってのは分からん。
>385
それは言葉のウンコだろ。そういうものを含めて全部スッカラカンに
なったら空洞になるんじゃなかろうか?
389 :
神も仏も名無しさん:2011/02/09(水) 15:31:19 ID:Dp7ZpbOH
iPhoneやandroid携帯のZEN Timerって知ってる?
指定間隔で鈴がチ〜〜〜〜ンって鳴るんだ
俺はいつもこれでカップラーメン作ってるよ
海外の人はスクワットや腕立てでもやる感覚で禅をとらえているのかな
でも意外とそれは正しいかもしれないね
日本人は禅問答みたいな理屈ばっかで、あんま中身がない
>>390 リズム運動は精神安定に効果があるって言うしね
死神、疫病神、貧乏神のスレにスレタイ変えろwwwwwww
393 :
神も仏も名無しさん:2011/02/10(木) 04:15:17 ID:6ZGVMwn9
坐禅
>392
すいません。少しレベルが低くなってきましたね。
↓から、もうすこしレベルを上げますから。WWW
396 :
神も仏も名無しさん:2011/02/10(木) 10:30:37 ID:w9A3k9LZ
40分くらい、なにもアプリでなくても、普通のタイマーでいいじゃん。
姿勢がくずれたら警策してくれるってならいいけど
397 :
神も仏も名無しさん:2011/02/10(木) 13:19:18 ID:hXOp/y5Q
苦しいときは胸のあたりに意識を置いて坐禅すると
ほんわか落ち着く。
自律神経はみぞおちあたりと丹田あたりに密集しているらしいから、
脳にたまった気をみぞおちや丹田へ落とすことで精神的に安らぐのは
理にかなっているだろうね
399 :
神も仏も名無しさん:2011/02/10(木) 21:17:58 ID:T8k62vAr
和田あき子[金現子] 和田アキ子、
1949年4月10日、大阪市東成区生まれ。大阪府大阪市生野区鶴橋出身。
本名は金福子、通名は金海かねうみ福子。大阪の在日スラム地区のキムチ商人の娘。
父は金基淑(きんもとよし、金海基淑)、母は金海森子。3人の弟がいる。
父は韓国済州島、母は慶尚南道の出身。
大阪・鶴橋に移住。和田の実家は、大阪環状線に近い長屋の連なる一角。
父は料亭などを経営し、自宅では「金海道場」という柔道場を開いていた。
母は、鶴橋・国際市場で米屋を営んでいた。
芸能界デビュー時に、在日韓国人だとわかる名前をまずいと思った父親が、和田アキ子の叔父(叔父は当時既に帰化して「和田」姓だった)の養子にしてもらい、同時に名前も「現子」と改名して「和田現子」となった
[現在、彼女本人が日本に帰化している。
父は金基淑(きんもとよし、金海基淑)韓国済州島、母は金海森子慶尚南道の出身。3人の弟がいる。
大阪・鶴橋に移住。和田の実家は、大阪環状線に近い長屋の連なる一角。
父は料亭などを経営し、自宅では「金海道場」という柔道場を開いていた。
母は、鶴橋・国際市場で米屋を営んでいた。
【和田アキ子、週刊文春で「私は在日韓国人」とカミングアウト
週刊文春「実録 和田アキ子 『血と骨』のブルース」という和田へのインタビュー記事。
執筆は週刊文春記者の中村竜太郎。
以下、記事より抜粋。カッコ内は和田の発言。
●「私の中では、文春の取材を受けるのは、80パーセントは嬉しくて、あとの20パーセントはまだ不安なんですよ。
活字になったらどうなるんだろう。活字って冷たいじゃないですか」
●「『あれ、文春でも取材しないで書くんだ』と思ったら、冷めちゃった」元々文春の愛読者である和田。
2002年2月21日号の「驕るな和田アキ子! お前は実父も捨てた!」という、和田の叔父・和田忠浩の一方的な発言の記事に、不信感を抱いていた。
●和田が「自分は日本人じゃない」と気付いたのは中学生の頃。
なんでこんなにいじめられるんだろう、と思っていたが、区役所で「あ、違うんだ。みんなと」と驚いた。
しかも父には本妻、二号がいて、母は三号だった。
400 :
神も仏も名無しさん:2011/02/11(金) 08:22:36 ID:dE8LeZBO
昨日フジのアンビリーバボーで、脳死患者が実は意識があったという話を
していたが、もしかしたら首からしたの自律神経や臓器に意識が宿るという
可能性はないのだろうか。禅では意識を下半身へということを言ったりするが、
そこでいう意識と普通の意味の意識はちがうのかな
401 :
絶対神:2011/02/11(金) 08:40:07 ID:mVcdSN2H
>>400 「アンビリバボーでやっている事は、嘘が多いよ」(心霊特集
なんかはもろに検証して暴露してるサイトもあるね)
調べれば判るけど、常識的に言って、「無い」と思える事は、大抵、
あり得ないから
「禅は、大昔の人が考えたものだから、当然、現代人から見れば、間違えて
いる部分も多いというだけの事だと思うよ」
『それと、丹田というのは「架空のもの」だから』
402 :
絶対神:2011/02/11(金) 08:47:23 ID:mVcdSN2H
>>384 「仏教的な観点から「現実」を捉えない方がいいでしょう」
「仏教や禅理論は、「所詮、宗教の教義」ですから」
普通に、「酒を飲むと酒癖が悪いのが結構いて大変な事になる場合がある」
で良いのでは?
『煽りではなく、正直、なんでも禅理論でとらえようとする君の姿勢は、滑稽
としか思われない』
「つまり、なんでもかんでも「宗教」と結びつけない方がいいと思いますが」
403 :
神も仏も名無しさん:2011/02/11(金) 10:42:10 ID:dE8LeZBO
専門家でないからあれだが、理論的には足の裏の皮膚のDNAからもクローンをつくれるんだよね。
とすれば、人間のどの部分にもその人間全体を構成する情報が埋まっているということではないのかな。
脳以外に意識がないと断言してしまうのはなんとなく怖い気がしてしまう。
あなたのいうほど自分はなんでもかんでも宗教に結び付けて考えるわけではないんだが、
われわれにはわからないこともまだ多いという謙虚さも必要だと思う
それはもっともだが内蔵に意識はないだろ常識的に考えて…
腹脳
臓器移植された患者が、
いままで見たこともない国の夢をみるようになって
奇妙にかんじていたところ、その臓器の元の持ち主が
その国の人だったとかいう話を聞いたことがある。
ネズミの実験だが、肥満ネズミの腸内物質をそっくりそのまま、痩せネズミに移転したところ、肥満になったらしい。
ニワトリに別のニワトリの脳を移植した実験もあったな。
したら、体は生きているのに脳を排撃したらしいね。
こまかいとこは忘れたけど、要は免疫系が他者の脳だと判定して、
非自己を排撃したということらしい。つまり、司令塔は脳ではなく、
免疫系のほうが脳よりも上位にあるという、結構驚くべき話だった。
409 :
神も仏も名無しさん:2011/02/12(土) 13:41:27 ID:ht74qUSe
>>397 胸のあたりに意識を置くと落ち着くのは神経層とか集まってるじゃまいか
眉間の中央 胸の中央 臍下の丹田
東洋医学では、これらは有名なツボになっている
だから、落ち着きたいと思ったら、意識を手のひらに集中するとハリ治療と同じ原理で落ち着く
頭に血が上ったなと思ったら、足底の中央の湧泉のツボに意識をおく
すると上せが取れる
これを今やっても,効果ないと思うよ
何故なら、ツボへの集中ができないから いつもやっていれば、できる
禅での集中とかで 意識を集中した場所は血液が集まると共に気(プラナ)が集まる
後は、体の弱い場所に意識を向ければそこに血液が集まり直す
白隠禅師のなんその法と同じ原理な訳だ
つまらんカキコしてごめんよ 興味のない人はスルーしてねw
410 :
神も仏も名無しさん:2011/02/12(土) 15:53:05 ID:yKh3XJKA
禅のスレで脳が上位とか驚いた
411 :
神も仏も名無しさん:2011/02/12(土) 16:27:23 ID:wTv/LiLA
脳みそをすこし切り取っても普通に生活できることは証明されている。
手足がないと不便極まりないが、脳みそがないのは、快感ですらある。
8割がた処分しても、楽しく、普通に生きていけるかもしれない。
そういう向きには、修行などやめて、ロボトミーでもするほうが手っ取り早いかも。
>>410 よく知られた禅入門の本の著者が、禅定というのは、
日ごろ思考につかう脳のスイッチをオフにして自律神経をオンにすること、
みたいなことを書いていたが、医学的にはたぶん証明しにくいのだろうが、
その感じはよくわかる。
>>406 臓器移植って、自分とは別のDNAを自分の細胞としてとりいれることだから、
その過程であたらしいDNAにきざみこまれた情報をとりこむというのは、
素人考えながら、ありそうな気もする。
415 :
神も仏も名無しさん:2011/02/15(火) 18:20:31 ID:n7uqEIts
禅の話じゃなくてすまんが、
意識も何もかも、その派生要因を「脳」だとして、
「脳」を独裁者みたいに考えるのはおかしくないか?
現実でも政治に例えれば、首「脳」である大統領が壊死して、
「心臓」みたいな軍部が政権を掌握することはある。
臓器移植だって、心臓移植したら脳へ送られる血流量や心拍数だって変わるし、
それで脳が何の影響も受けないとは考えられない。
しかも筋肉のかたまりの心臓が別人のものになるのだから、
体内の水分量や体温を一定に保とうとする脳の機能が、
移植された心臓+その他の肉体、に対応してバランスを取ろうとするはず。
つまり、機械の場合は、部品を鉄からプラチナに変えたって、単なる歯車だから働きは変わらない。
人体のの場合は、必ず脳が変わった部品にたいして、バランスを取ったりするはずなんだよ。
だからそのあたりがネックになるでしょう。必ず影響し合って単独になり得ない。
禅と無関係ではないと思うよ
脳を下位におくのが禅だとしたら、
上位には何がくるのかは興味ある問題だし
417 :
神も仏も名無しさん:2011/02/16(水) 00:02:08 ID:MRasOxun
◆mojimojics #ラ*U粒{
◆PEROPEROm6 #:謫+Y運y
◆YUKIKAZEv2 #蛬!貼70F
◆kamikazeQU #|ヲカ蜻0挾
◆KOTOWARUiQ #Jァ'^IΩs
◆Railgun/i6 #諺ケ「絳Z,
◆Lucifer/cE #{筍?-:悪
◆lucifer/Oo ##3CA4964535012F27
◆StingRay4I ##76A18F790D7F061D
◆ka92nkomo9Kj : #h4sャ9wォ^^x|Lj,*]
◆Sinshuukyoj. : #0アk<ヲtーV8M{ウt"nツ
◆ONE.HOPPERrc : #イJ:ォs"タ`W(nY*O1O
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◆ROTORPOLE/OP : #ィAdコャb(ケc、キ|tHィD
◆UTSUBOCHI.9C : #(h?CョuタDr754eァb=
◆OOCHINUMA.4A : #ッ4RmコーOJーo|`サ+ィゥ
◆Disk/QuotaDU : #/Sュクク?4hQォテl`)i*
◆KotenzidaiGc : #\:skィ9>;=トTrE~mz
◆Mineraloid0K : #5XAMイAソtC[ュ|v6h\
◆Mangozisyoot : #イFC+/o?IT・ョn!ヲ。+
◆SIMOBESSHOjg : #{4rMャsXH<スd]ェ`yH
◆Furunocho.A9 : #?3f5(ャ3ewpJ,rトIィ
◆HATIGAITO.S4 : #I}(65*Kg=、コ)06`シ
◆DualBlock.1M : #Xr!66oz/`w1Z{コUh
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◆HoldingWareE : #bZ+アエ}aAィZOSi、i0
◆Rag/About.rZ : #コ\0チ*「mォT%、&スLェ4
◆Bad/Fit//Kea : #トs6w?:ョ'{KEM
◆Fit/In//.qjT : #ッphO[@ソiQfg3
◆StayFit//EhI : #ー6ク,)ア(^G<%タ
◆Look.Fit/pHJ : #ッmjWウPコ3<{]ッョzvイ
◆Fit/To///mOc : #CKaRNbJJdums
418 :
神も仏も名無しさん:2011/02/16(水) 00:39:09 ID:MRasOxun
骸骨の歌(白骨無常を示す事) 沢水和尚「仮名法語」
「この世界の仮なる事、この肉体の仮なる事は、夢のようでもあり、泡影の如くである。
坊主は夢のうちにしばらくの間、寺を持っているにすぎず、在家者は夢のうちにしばらく妻子を持ち、夢のうちにさまざまな困難や苦しみを受けたり、歓楽を愛しているにすぎない。
この世に生きていろいろの策略を設け、数々の悪心や悪念を増長させるのは、この世の仮なることを知らないからである。
この肉体も仮なるものであって、賢愚貧福、貴賎老若を問わず、遂には白骨となることをわきまえなければならぬ。
ただ毎日毎日の生活だけに深く執着して、明けても暮れても目前のことだけに頓着していれば地獄の業を受けるのである。
父母師長も夫婦も兄弟朋友もすべて白骨となる。
お経に「老少不定」と説かれているように老年まで堅固に生きられるという保証もなく、二十で死ぬ者も、三十で死ぬ者も、二,三歳の幼児で死ぬ者も、胎内で死ぬ者もあり、たとえ八十歳、九十歳と長生きしても終に白骨とならねばならぬのだ。
親に先立って死ぬこともあれば、子に後るる者もあるが、遂には一面の白骨となるにすぎない。
そこで「この世は仮の宿」と思って毎日を生きねばならぬ。」
お話もっともと思うが、それを理屈による理解ではなく、実感で納得するためには、
人間の生き様というものを客観視できなくては、とうてい無理。
妻子のため自分のためにせちがらい世の中で必死に生きている人に
「この世は仮の世だから」と説教したところで、屁のたしにもならぬ。
だから大切なのはその客観視点を得るためにはどうするのかだが、
それが座禅なのだろう
坐禅って逆腹式呼吸が基本なの? いままで腹式呼吸してたのだが、そういう
ことをいう人がいて、逆腹式に変えたら、どうもうまく座れない。上半身が
呼吸のたびにグラグラする。
ヨガでは逆(吐く時に腹を出す)もあるけど、坐禅は普通だよ。
422 :
神も仏も名無しさん:2011/02/16(水) 18:18:36 ID:V61Bq4g3
自宅で坐禅をする為に坐蒲を購入したいのですが、購入に際して注意点などはありますか?
423 :
神も仏も名無しさん:2011/02/16(水) 18:24:40 ID:E4uXso+i
創価はヤクザ後藤組を行使した。しかも本山を攻撃するのに右翼まで使った
これのどこが平和的かつ正義なのでしょうか。最近では創価公明のポスターに
「人にやさしく環境に優しく」などという標語を使っていたが、こういうのを偽善という
のです。
決してやってはならない宗教は
@ 創価学会
A エホバ
B 日本キリスト教団 です。これはしかるべき伝統スジから手に入れた
情報です
これらの宗教をやると人生のどこかがオカシクなり始めます。なんなら
みなさんも見学しにゆきますか?面白い光景をお目にかけます
創価との関係を元後藤組組長が暴路、後藤忠政「憚りながら」
創価学会に雇われ、殺人事件も起こしている。
墓苑事業では、反対住民の自宅にブルドーザーで突っ込み、
日本刀で片腕を切り落とした。
又、創価にはヤクザ右翼学会員が多いのをご存知ですか?聖教を読んでるせいか
素行の悪い学会員が多いのは偶然ですか?それと創価を誹謗中傷して破門になった会員もいる。学会批判をさせないために恫喝してきた。手法は
「創価はオウムより怖いのだよ」という恫喝でニセ本尊等々の批判
をさせてこなかったという話を会員から聞いた。また病人と貧乏人の集合体となり果ててしまったのは偶然ですか?
>>422 綿のつまり具合=硬さは重要かな
自分の買ったのは坐ると潰れが大きくもう少し高さが欲しいと思う
これは身長も関係するかも
あと体格がいい人だとレギュラーサイズじゃ面積が小さいらしい
と書いてみたが、坐蒲など気にせずとっとと坐れと言われるな
425 :
神も仏も名無しさん:2011/02/17(木) 17:58:25 ID:UwUq5oTy
>>420 > 坐禅って逆腹式呼吸が基本なの? いままで腹式呼吸してたのだが、そういう
>ことをいう人がいて、逆腹式に変えたら、どうもうまく座れない。上半身が
>呼吸のたびにグラグラする。
臨済宗なら丹田呼吸を重視するだろう。曹洞宗でも腹で呼吸するに変わりはない。
だが「坐禅」と「瞑想」の異なる部分があることをしっかりご理解ください。
瞑想は呼吸法などに代表されるように技巧的に上達させるものなのです。
つまり、呼吸やテクニックや技や身体技法やらを用いて、「高める」というのが瞑想の
方向です。瞑想なら逆腹式呼吸だろうが火の呼吸だろうが周天だろうが何でもいいのです。
ただし、坐禅の場合は違います。坐って最初だけ呼吸に意識を向けますが、
その時だけです。(公案禅を除きますが・・・)
その後に呼吸法や技法やテクニックを用いると坐禅になりません。
なぜなら坐禅は「自己忘」を求め、そして悟るのが目的ですので、
テクニックや自己を使うのは坐禅ではありません。
426 :
神も仏も名無しさん:2011/02/18(金) 08:47:36 ID:eV6IR3Hb
思うに、丹田呼吸の目的は、通常式逆式関係なしに、丹田に意識を集中させて気を集めることだと思う。
気孔の熟練者によると、熟達すると丹田が熱くなるのがわかるという。
つまりそういう状態へもっていくのが目的であって、逆式かどうかは二義的な話だと。
まちがってはいけないのは、その熱くなるの意味は激しく下腹部を動かすという意味ではなくて、
気を集めることによって熱くなるということで、一朝一夕にできることではなさそうだ。
でも普通に坐禅しながら丹田に意識を置くと裏丹田(仙骨)のから腰の辺りが
暖かくなって来る感じはあるよ。
それは熟練者だからだろ。
俺は未熟者だから、丹田に意識を置くと股間が熱く固くなって坐禅どころでは
なくなる。
熟練者ってw
太極拳を20年と坐禅を2年ほどしかやって無いよ
禅というのが、意図的に思考や論理脳を休止させて
右脳や自律神経系を活性化させる技法だとすると
公案ってのは非常に合理的なテクニックだな。
公案は論理では絶対解けないわけだが
要するにあれは論理脳をスタックさせて休止させるための
一つの手法なんだろうな。
昔の禅僧は経験的にこういうテクニックが有効だと悟って
公案禅を編み出したんだろうが、そう考えるとよくできている。
論理的に絶対解けないことを論理を使って考えてるんだから
おめえのは論理破綻してるろうw
>>432 ん? いやだから公案は論理脳を休止させるための手法だろうと言っただけ。
師匠が公案をチェックするのも、そういう意味があると思う。
論理脳をドライブさせて屁理屈をひねり出しているだけか
本当に休止した状態にあるのかを見極めているんだろう。
そして、その見極めは多分ある程度禅定状態に
入った経験がある人じゃないとできない。
だったら考えねえで直感だけに頼る事が目的って事だな
435 :
禅中毒者:2011/02/19(土) 19:58:53.03 ID:HpAaYzHw
「論理」でも「直感」でもないよ。
左脳が論理的思考をして、右脳が直感を司るならば、
その主体を乗り越えたところだ。
考えないで感じることなら誰でもできる。
さらに、その奥である。
「正受」すると云われる所以である。
これは実に超越的事態だ。
あらゆる議論や論争は届きようがない。
論争や相手に理解させようなどと思えない。
個人的主体を超えた完全なる御満悦状態だ。
がむしゃらに坐れば誰でも来れる。
その時には議論など馬鹿馬鹿しかったと思うだろう。
諸法非我である。
なんだよ来れるってw
おめえの言ってることは、葉っぱとかシャブ打ってえられるような快感を脳内で作り出すって事だろ。
それって三昧ってやつだろ。俺だって経験あるよ。
>>431の言ってる事はそんなのとは別だろ。
437 :
禅中毒者:2011/02/19(土) 20:17:07.26 ID:HpAaYzHw
>>436 なんだか勝手気ままにほざいてしまって申し訳ない。
三昧というのは三昧であって、快感であるだろう。
「俺」だって三昧を経験したんだ。
だがそうではないんだ、何とも言いようのない
グログロした気持ち悪いとも何とも表現できないところでしたよ。
不満も満足もない。それはもう満足しようという気持ちが完全に失せた人にとって
安らぎだった。実に世俗的快楽に未練がある者は見てはならない。
警告である。
>>437 > グログロした気持ち悪いとも何とも表現できないところでしたよ。
> 不満も満足もない。それはもう満足しようという気持ちが完全に失せた人にとって
> 安らぎだった。実に世俗的快楽に未練がある者は見てはならない。
> 警告である。
こわいよー
なんか自分にはたどり着けそうにない気がして来た。
余分な事は考えず、明日を生きるために坐ろう、うん。
不立文字
test
香の良い香をたこうと思うが、お勧めはある?
443 :
神も仏も名無しさん:2011/02/20(日) 15:54:46.64 ID:Evt/pKdJ
臨在禅はよくしらないし公案も未経験だけど、
公案が禅定へはいるために論理脳を停止させるテクニックというなら、
公案は入門者向けという理解でいいのかな
上級者はとくにそうした手段をとらなくても座って少し集中すればはいれるだろうから。
それとも上級者にとっても得るものがあるのだろうか。
444 :
神も仏も名無しさん:2011/02/20(日) 16:03:21.80 ID:Evt/pKdJ
「グログロした気持ち悪い」とか、そういうのは個人差の領域だからね
禅定の状態というのはいわゆる論理脳が停止することによって、抑圧されていた
潜在意識が表面にうかびあがってくる。
その潜在意識の具合いかんによって、表れ方はさまざまだと思う。
悪夢をみたりうっとりする夢をみたり、心の具合によって体の状態によってかわってくるように。
あれこれ理屈こねてないで、ただ坐れ
446 :
神も仏も名無しさん:2011/02/20(日) 16:21:58.47 ID:Evt/pKdJ
すまんw
>>442 日本香堂の天壇シリーズは結構いいと思う
448 :
神も仏も名無しさん:2011/02/21(月) 10:51:25.81 ID:MJZxOZMY
臨済禅の場合。
公案は役に立つし、役に立たない。
公案はドンピシャかと思いきや、全くの的外れ。
公案というのは入り口であって、
必要なくなる時が来よう。
自分で論理脳を停止させるのではないんじゃ。そういったテクはありませんぞ。
悟りは自分の努力も必要じゃ。じゃが自分の努力では悟りは来ない。
では待っていれば来るのか。来ない。ではどうするか?
努力して一心不乱に妄想連発の大地獄の中をもがきながら座るしかない。
そうすれば必ず見性はある。
重要なことを言うと、誰もが「悟り」とは何なのかを
言葉を追って必死に調べている。しかしわからないものじゃ。
だが一旦、悟をちらっと垣間見ただけで、なぜ言葉ではわからなかったのかがわかる。
そして言葉にはできない。
なぜなら法は得た人だけのもので、互いに教えあったりできないからじゃ。
公案って、左脳停止のための答えなき問題だとカラクリを知ってしまったら、公案にならんのじゃないか?
一種のダダイズムとかシュールレアリズムといった類かね
不立文字
只管打坐
>>449 そんなこともないんじゃね
何か取っかかりがあった方がいい人もいるだろうし
>>450 何言ってるのか分からんw
453 :
448:2011/02/21(月) 19:40:16.09 ID:MJZxOZMY
>>449 カラクリを知ったら役立たずで無駄じゃよ。フォッフォッフォ。
公案にならんしな。じゃが公案はそんな簡単に知れるほど偏狭じゃないぞよ。
公案に答えはないんじゃ。じゃから自身の境涯を提出しなけりゃならんし、
物真似やまねっこなら、初めから失格のパクリ屋で、本人の納得は永遠に無しじゃ。
>>450 芸術家かな?歓迎じゃよ。
ダダイズムもシュルレアリズムでもないんじゃ。
〜イズムなんか吹っ飛んでるんじゃよ。
>>451 基本みたいに不立文字・只管打坐でないんじゃ。
不立文字立文字・只管打動でもあるんじゃ。
>>448 >自分で論理脳を停止させるのではないんじゃ。そういったテクはありませんぞ。
臨在禅の立場ではそうかもしれないが、曹洞宗ではそういうものはないから、
そういったテクがないというのは、少しいいすぎとちがいますかね
論理脳をそらすためによくいわれるのは、五感に注意を集中する方法がよくいわれる。
つまり、音、触感、そうしたものに注意をむけるのは、テクニックとはいえないのかな。
悟りっていうエベレストに上ったところで、岩と風と氷があって、高いってことだろ。
すごいんだから、行きたい人は行ったらいいのではないだろうか。
俺はポンポン山で十分、汗かいて気持ちがいいし、お弁当がおいしい。
エベレスト登って降りてやっぱ我が家がいいよねって帰ってきたところが悟りだな。十牛図とかしかり
精神病者は例え悟った所で意味茄子
459 :
神も仏も名無しさん:2011/02/22(火) 22:04:44.43 ID:mZ7Jt6vs
>>454 >臨在禅の立場ではそうかもしれないが、曹洞宗ではそういうものはないから、
〜教や〜宗とか関係ない。あなたの問題なんだから。
あなたが無宗教だろうがクリスチャンだろうがムスリムだろうが関係ないんじゃ。
>そういったテクがないというのは、少しいいすぎとちがいますかね
言い過ぎではない。テクはない。テクがないことがテクじゃよ。
>論理脳をそらすためによくいわれるのは、五感に注意を集中する方法がよくいわれる。
>つまり、音、触感、そうしたものに注意をむけるのは、テクニックとはいえないのかな。
テクニックにしがみついていたいなら、限界までしがみついてみるのも手です。
公案だってテクの一種だろ。坐禅だってテクだし。 言葉の定義が違うのか?
意味が解らん。
なんだか日本の禅は煙に巻くようなことを平気で言う。
もっとシンプルなことだろ。なんでそう誤魔化す。
461 :
神も仏も名無しさん:2011/02/22(火) 23:02:04.95 ID:GkrpPiha
僧衣にしても頭まるめるのにしても、仏教を学ぶために必須かどうか
というのと同じかな。威厳が必要なのでしょう
海外の禅への考え方を見習って、日本でももっと合理的にあつかうべきだと思うね。
本来座禅は、ウェイトトレーニングなどと同じように、純粋なフィジカルトレなのに、
どうしても古来からつづく禅宗の教義や伝統様式にしばられすぎている。
〜べき、って言った時点でアウト!
べきっていうのも、アウトっていうのも、同じでしょ
自分の気持ちをおしつけるつもりはないけど、禅を宗教だという先入観を
もっている人たちが多いのが少し残念でね
たとえば禅にはいる前の合掌とか、どういう意味があるのかわからんし
禅は要するに何もかも捨てることだからな。
禅の師家は修行者からすべて奪い取る。
師に参禅するのが必要である所以だ。
上のテクニックがどうやらというやりとりは
師家と修行者のやりとりに極めてよく似てる。
修行者の提示したものを師はすべて奪う。
そして意味不明で絶対理解不能な言葉を
投げかけて修行者をさらにもがかせる。
まあ、単なる気晴らしとしてのヨガ体操みたいに
禅をするならそんな厳しいものは必要ないけどね。
合掌には意味があると思うよ。というか意味を持たせた方が好い。過度に宗教的に
なるのはよくないと思うが、節度ある作法は大切だと思う。
お茶をずるずるとすするよりも、茶道の形で飲むのが芸術的だし、意味がある。
それと同じ。
作法は無意味のようで実は意味がある。いや意味を持たせることでより効果的に
修行できる。
>465
分からんでもないが、ボートを乗り捨てるのは、最後の方でいい。
そんなに最初から、何でもかんでも捨てていたら、接近すらできん。
468 :
神も仏も名無しさん:2011/02/23(水) 12:01:12.15 ID:FXYsFwC4
きけわだつみのこえなんかの学徒兵が問答無用の軍事訓練を
かさねていくうちに人情とかが薄れてきて非人間化していくような、
そういう自分の見失い方や捨て方では仕方ない。
師に依存するあたりが、なんかちがうなという気がする
>>466 > 合掌には意味があると思うよ。というか意味を持たせた方が好い。過度に宗教的に
なるのはよくないと思うが、節度ある作法は大切だと思う。
お茶をずるずるとすするよりも、茶道の形で飲むのが芸術的だし、意味がある。
それと同じ。
> 作法は無意味のようで実は意味がある。いや意味を持たせることでより効果的に
修行できる。
これは、大事なことだと思う。作法によって効果は大きく違うと思うが。
470 :
神も仏も名無しさん:2011/02/23(水) 12:34:46.47 ID:FXYsFwC4
自分は形式よりも実をとりたいたちなので合掌はしないが、
それをすることで効果を感じられる人はすればいい。
中国禅などもそうらしいが、もともと禅道場とはもっとラフなもので、
好きな時にあらわれて好きな姿勢で好きな時間座っていくというものらしい。
五木寛之さんと禅僧作家の対談にそんな話があったが、日本の禅
ほど「いちについてー、よーいどん」な禅はないそうだが、どうなのだろう
おまえら、左脳発達しすぎなんだよ
>>466 合掌そのものというより一連の作法には意味があると思う。
脳は一連の決まりきった作法を繰り返していると
集中モードに入っていく特性があるから。
最初は億劫な廊下の雑巾がけとかも一生懸命やってると
いつの間にか集中してやってしまうのと同じ。
>>465 まあここは方法論について話す実践スレだからな。
473 :
神も仏も名無しさん:2011/02/23(水) 14:59:35.74 ID:0gpdyZBv
『我れ神の子なれば一切の不幸なし』
人間は物質で生きているのではない。
神の生命で生きている。
人間のほんとうのすがたが神の子であり
金剛不壊(こんごうふえ)の実相身であると判れば、
その刹那(せつな)から「霊によって新たに生まれる」ということが始まる。
即ち、その人の生命は神の生命となり、その人生は神生となり、
恐怖、病、死等の一切の不幸はなくなるのである。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様有難うございます
守護神様有難うございます
天皇陛下有難うございます
>>471 おれもそう思う
なんだかんだで理屈だらけw
仏陀はバランス(中庸)を非常に重視している。
バランスというのは右と左が同じように発達すること。つまり左脳が小さいなら
右脳も小さい。左脳が大きければ、右脳も大きい。これがバランス。
実例でもわかるが、左脳的にレベルの高い人が悟りを開くとやはりレベルの高い
悟りになる。これが、魚やとか大工の寅さん熊さんが悟りを開いてもやはり
バランスよくそれなりの小さな人物にしかならない。
てか、座禅をしようという動機は、左脳的苦しみである人も多いのではないかね
だからこういうスレに左脳型の連中があつまるのはわりと自然な気がする
左脳とか右脳とか見えもしないものについての分別が大好きだなお前ら
左脳型は頭の中で哲学的思考をとりとめもなくやってるよね。
そういう思考は運も悪くするし、人間的魅力も半減させる。
健康に悪い。
でも、右脳型も大変よ。周囲ふりまわされるし。
自分が修行中に右脳型に傾いたときは、言葉でてこないし、本読めないし。
>>478 そうそう、いろいろと考えすぎる
それから逃れるために坐る
坐った後は少しそういう状態から離れる事が出来る
全く逆の印象がある。
考えすぎるくらい考えないといけない。どうもこういうところへ来る人は
考える力が弱い気がする。
考えるのも考える。
坐るのも座る。
それでバランスが取れる。
お釈迦さんは「あんまり考えすぎてもいけない」って言ってなかった?
悟りを特別な状態って所から引き落として
心をよりよく安定されるテクニックにかえて考えると
人は嫌でも何か考えるからストレスがかかる雑多な日常のことよりも
公案や呼吸や体の動きなどに心を集中させた方がいってこと
とくに考える苦痛のない人は座禅なんかしなくてもいいのでは?
>>482 釈迦の言葉は逆説的な面も多いでしょ
「苦行はよくない」と彼はいったそうだが、彼は10年近くもの苦行した末に
そういったそうなので、その10年の苦行したおかげで苦行のよしあしがわかるようになったともいえる。
最初から苦行しなかった人とは天と地の差があるはず。
その考えるにしたって、釈迦が極度に考え苦しんだ人であることは誰でも知っている。
その苦しみの果てに「かんがえすぎはよくない」といったとしても、最初から考えなかった人
と、考え抜いた末に考えることをやめた人とでは、これまた天と地の差があるだろう
というか考えあぐねるくらい考え尽くした人じゃなきゃ
禅なんかやろうと思わんでしょう。
「妄想を除かず真を求めず、無明の実性即仏性。」
考えや思考は人間にとって必要不可欠だから、
要するにそういう考えが邪魔になってなければいいのでしょ。
「自己をならふといふは、自己を忘るるなり。」
だから考えていようが考えてなかろうが、
そうしている自己を忘れちまえば宝鏡三昧。
仏弟子のシュリハンドクは毎日ただひたすら掃除を続けるだけで悟ったというが
これも一つの禅なのかも知れんな。
STEP TO STACK また遠くまで
機能美の陽が降る前に
STEP TO STACK TO STOP TO STOCK
貨車は虚無 キミへと SPEED BY SPEED
やってることに常に集中出来れば、その人はもう悟ってるでしょう
490 :
仏陀:2011/02/25(金) 20:13:30.00 ID:qLDYyZ8u
とにかく君らは考えが足らん。坐禅はもう十分だから、しっかりと考えることを
練習しなさい。
491 :
神も仏も名無しさん:2011/02/26(土) 13:35:26.24 ID:3NfKGrO/
テクニックとしての瞑想を紹介する。
いま君たちの大多数はパソコンのの前にいて
スクリーンをながめているだろう。目はスクリーンをみている。
この時点では、あなたとあなたが見ているスクリーン(対象)が二分裂している。
まず、頭のてっぺんに一つの法眼があると思ってごらん。
その眼は全宇宙の空性を捉えることができる眼だ。
その眼が正しく機能していれば、
あなたの眉間の奥もしくは前頭前野の上あたりに何かを感じてくるだろう。
その眼は一大法界を捉える。
そのときあなたは静寂の世界に包まれる。
辺りは隔たり無く一辺となり世界は一変する。
見るものと見られるものは一つとなり、一切を掌握する空性が全宇宙にみなぎる。
それをいつどこでも何をしていてもできるように頑張ってごらんなさい。
これが観音の三昧境である。
492 :
神も仏も名無しさん:2011/02/26(土) 15:05:01.34 ID:DA/ye/HU
わたしは坐禅毎日やるようにしてるんですが、ついさぼってしまいます
皆さん動機の維持などはどうされていますか
やっぱり参禅とかするといいんでしょうか
493 :
仏陀:2011/02/26(土) 17:54:24.42 ID:52toqoPp
俺もサボリ気味になる。毎朝5:00時から坐っていたが、最近目が覚めると
7:00。坐禅をすると精神が落ち着いて、よく寝られるようになった。W
それで、ペースが戻るまでとおもって、最近は瞬間坐禅とロング坐禅を組み
合わせている。
ロング坐禅はいままで30分だったのを、1時間から1時間30分に伸ばした。
自分は結跏趺坐なので、30分が限度でそれから足がドンドン痛くなる。
その痛みをガッーーーーーーーっとこらえて坐禅する。これをやると朝寝坊した
ことの申し開きができるような気がして、やり終えた後に充実感がある。
もう一つは瞬間坐禅で、昼間あまり時間がない時にサッとやる。
不立文字
只管打坐
495 :
神も仏も名無しさん:2011/02/27(日) 09:21:24.53 ID:jZfbAsXv
496 :
神も仏も名無しさん:2011/02/27(日) 09:38:18.04 ID:6LqphPFX
瞬間座禅がどれくらいの長さなのかはわからないけど、
ほんの二三分の座禅なり瞑想でも効果があるのはわかるね。
授業中にひどく眠いときでも瞬間的にコックリするだけで、すっきりすることもある。
長さよりも深さだと思うから、ついさぼりたくなるときでも、五分だけ本気の集中をする
ということなら面倒ではなくなるかも。ただ毎日つづけるのは大事だね
497 :
神も仏も名無しさん:2011/02/27(日) 12:39:53.51 ID:xSRfvUIQ
大事なことを一つ言っておく。
疑団がないと坐禅は毒になります。
疑団ってなんだ?
それになんで毒になるんで?
>長さよりも深さだと思うから、ついさぼりたくなるときでも、五分だけ本気の集中をする
本気の時は息を長く止めるのがいいと思う。
3分間かけてゆっくり吐いて2分間止める。
これをやると、わずか5分でも一世一代の大仕事をやった気になると思う。
ところで何分とめてる?
長い人は20分とか30分とか止められるみたいだね。
俺は3分くらいかなー。
500 :
神も仏も名無しさん:2011/02/27(日) 13:20:28.35 ID:jZfbAsXv
>長い人は20分とか30分とか止められるみたいだね。
こういうの信じる奴はカルトにハマるぞ。
限りなくゆっくりとしたペースで2、30分呼吸するのは聞いたことがあるが
息を止めるのは聞いたことないな。ってか普通に危険じゃあ・・・
いや、胎息ってのがあるが、それは息をしない。
天外しろうも、息をしない状態になって、瞑想の初段?レベルといっている。
息をしないというのは、気道の酸素だけで十分なくらい代謝が落ちた状態を
言う。 だから彼に言わせると、呼吸をしているのは瞑想じゃなくて
まだ初心者。
504 :
神も仏も名無しさん:2011/02/27(日) 15:45:13.02 ID:jZfbAsXv
だからそういうのを信じるなって言ってるの。
実際に目の前で見たわけじゃ無いだろ。
胎息とか無呼吸とかいうから誤解が生じるだろうけど、私の信頼できる禅僧のかたの著作にも、
「無呼吸状態に近い状態」という表現があるし、自分でもそういう状態をかんじることがある。
だけど、それって理屈にかなわないことでもないでしょう。気道がたとえば開きっぱなし状態であれば、
とくに収縮運動しなくてもわずかな酸素のとりいれは可能に思えるし。
ただ胎児が呼吸しなくても生きられるのは母体から酸素もらっているからだとは思うが。
>>505 無呼吸に近い状態に自然と「なる」のと
自発的に息を「止める」のでは、天と地ほどの違いがあると思うよ。
変な誤解やかけ違いで危険なことになったら、しゃれにならんと思う。
>>506 息を「とめる」というのは、ちょっとちがうね。
座禅が深まってきて自然と代謝がおちてきて、無意識のうちに体が酸素を
それほと必要としなくなる。結果として、無呼吸に近い状態になる。
そういうかんじでしょうね。
こうしたことは修行がすすめば自然とついてくる話だろうし、
意図的にどうこうする話ではないですね。
508 :
神も仏も名無しさん:2011/02/27(日) 16:38:42.95 ID:jZfbAsXv
要するに呼吸をしてるのを忘れるって事でしょ。。
今坐ったと思ったらもう一時間経っちゃったなんて状態になれば
呼吸がどうのとか感じる間もないと思うよ。
息止めの世界記録は17分らしいね
30分無呼吸とかはカルトの世界かと
たしか冬山で遭難して、無事に戻ってきた人の話が新聞にあったが
冬眠した状態だったようだ。
そういうこともあるから、別に不思議なことじゃないとおもう。
世界記録が17分とは情けないほど短いな。W
2時間くらい水に潜る奴は、いくらでもいるような気がするが、、、
君は頭の中はカルト信者と同じ構造だな
2006年12月20日15:42
カテゴリ国内ニュース医療・健康
#95 六甲山中遭難男性、奇跡の生還−実は冬眠だった?
六甲山中で遭難した兵庫県西宮市職員(男性35歳)が24日後に発見、保護され、
19日、神戸市内の病院を退院し、記者会見した。
医師付き添いの会見によると、遭難2日後の10月9日に意識を失い、31日に発見
されるまで20日以上食べ物どころか、水さえも飲んでいなかったことが分かった。
会見に同席した医師は、「体温が約22度という極度の低体温症だった。動物の冬眠に
近かったのではないか。驚異的な生命力だ」と説明した。保護時は大半の臓器が機能
停止状態だったが、現在は後遺症を残さずに回復したという。
人為的に創りだしたものじゃ無いだろう。
そういう極端な例を持ち出すのがカルト脳なんだよ。
なんでカルト脳なんだよ。カルトって言葉の意味しってるのか?
妄信するって点でだよ。
もっと数学とか物理とか勉強しろ。
そういう意味かよ。W
妄信ね。
呼吸止めるくらいで、ビビっとるなら、坐禅だってあぶないぞーーー。W
キンタマが無かったら、数学と物理でもやっとれ。
>>512 そういうことが可能なら、冬眠して100年後の未来へいけるわけだ
チャレンジしてみろよ。歴史に残るぞ。
独りじゃ失敗するかもな。100人くらい会員をつのってトライしたら
一人くらいは成功するかもしれん。
基金をつくって、もし生き残って100年後に行けたら、生き残ったもので
山分け。
ショウジョウバエだったか冷凍しても、解凍したらまた生き返って飛び始めるらしいね。
人間はもっと複雑だろうけど、コンピュータ制御された保存装置なら可能かもしれないから、
余命宣告されたガン患者なんかはそれで冬眠して未来の医療技術に期待するのもいいかもしれない。
禅というのは、冬眠まではいかないにしても、代謝をさげるという意味では、老化防止にはなるのかな
代謝を下げたいならずっと寝てろよ
代謝を下げたいから坐ってるのか?
胎息とかもそれが出来たから何?って話だろう。
521 :
神も仏も名無しさん:2011/02/28(月) 19:12:30.85 ID:L7tQctGg
さて、坐禅しても不満ばかりなら坐禅になってないな。
坐禅は日常も坐禅にすれば楽しくしかならない。
で、二つ目のテクニックとしての瞑想を紹介しよう。
テクニックにうるさい方々がいるので、遠回りの足止めになるのにテクニックを知りたいようだ。
挫相を整えよ。
そして泣け。
泣きまくりなさい。涙を流さなければならない。
泣きなさい泣きなさい泣きなさい。
泣いて涙を流して号泣することは大事だ。
これが号泣瞑想だ。泣きなさい。
「私は涙など出ない。なぜなら感情など超越しているから」などと少しでも思うなら、
それはゴミ処理上の廃人だ。灰となるしかない。
意図的に何か悲しい出来事を思い起こして無理矢理にでも涙が出ないのは重症だ。
なぜなら感情はどのような瞑想でも非常に大事なものだからだ。
おれは笑ってしまうな。W
感情が大事でも、何も泣くこたーないだろ。
泣けばその時は忘我になるかもしれんが
その先はどうなるのよ???
524 :
神も仏も名無しさん:2011/02/28(月) 19:48:54.93 ID:L7tQctGg
>>522 あくまでもオレ流だから・・・。
>>523 忘我?意味解らん。
忘我になったら、忘我になったということが自分自身でわからないだろ。
もっと元気注入せよ!!!!
忘我は我が忘れられたんだ。我は吹っ飛んだんだ。
それで、「我が忘れられたんだ。我は吹っ飛び。!!!!!!!!!!!!!」
・・・・・・と・・・・・・・・なったらおかしいだろ?
「忘我」なのに「忘我」はわからないだろ。わかる「我」は「忘」れてんだから。
「我」が
泣いて、忘我になるか? ならんだろ。
アナハタチャクラ?を緩めて、喜怒哀楽を豊かに表現するパーフォーマーには良い練習
になるだろう。
葬式に出た曹洞宗の坊主が、木魚をポコポコ叩いてる内に急に可笑しくなって、大笑い
して笑いが止まらなくなって、それがもとで首をはねられたってのがなかったけ。
可笑しくても笑ってはいかん時もある。
木魚に合わせて、落語をするとかはやらせたら面白いかもな。
「ポコポコ、
源さん ポコポコ おーい、大変だ、熊さん。
熊さん ポコポコ どうしたい、そんなに慌てて。
源さん ポコポコ てめえみたいなそそっかしい奴はいねえぞ。
熊さん ポコポコ そうか?
源さん ポコポコ 聞いて驚くな。お前は死んだんだ。
熊さん ポコポコ えーっ?驚くよ……って、それは落語の「そこつ長屋」だろ。いったい全体、何か用かい?
源さん ポコポコ 生まれたときは別々だが死ぬときも別々にしようと誓った仲のお前さ、聞いてもらいたい話があってね。こうして遠路はるばるやってきたってわけよ。
熊さん ポコポコ ひとつ長屋に住んでるじゃねえか。で、話ってなんだい?
源さん ポコポコ 山が大変なことになってるのさ。
熊さん ポコポコ 山火事かい?そりゃ大変だ。で、燃えてるのはどこの山だい?
」
坊主はそれを喜んで見るだろ。次の日が葬式だったら、条件反射で思い出して
絶対笑い出すのがいるよな。
笑う門には福来る。
しかし不謹慎はいかんな。反省。
529 :
神も仏も名無しさん:2011/03/01(火) 10:41:31.50 ID:pShVr9kE
禅宗て
不立文字と説いてるが
文字で己の宗教説明してるよな
坐禅は素晴らしいと思う。坐禅との出会いは、ここ十年の最高の出来事だ。
しかし、その喜びを具体的に表現しようとするとなかなか言語化が難しい。
自分はまだ初心者なのだが、坐禅を始めて一番よかったことって何?
「効果を期待するな」というのはよく言われるが、まあでもなんとなく知りたい。
自分の場合
坐禅歴:10か月
効果1: 体の軽安(快感覚)
効果2: 我慢強くなった
効果3: 洞察力向上(微妙だが、多少あがったような気がする)
釈迦の50年の説法で
正しいのは法華経だけ
法華経以前の教えは方便ですべて捨てなさい(禅宗、念仏、真言等のおしえ)
といわれてる
低い教えに執着すれば不幸になる
宗教は、争いのはじまり
オラが正しいを捨てねば
創価は糞だからいったらだめだよ。
535 :
神も仏も名無しさん:2011/03/02(水) 15:32:53.04 ID:bh8XXIN8
無字の公案やりまくってたら自我が死んだ・・・
自我が死んで何か変わった?
自我が死ぬと、帝釈天のインドラ網が
あらわれる
>>536 真景というものがあらわれる・・・それ以上は言わん・・・
不立文字
って言葉で表現してんじゃん
っていいだすと言語表現ではなにもできなくなる
釈尊も書き言葉はなにものこしていないし
具体的な状況に対応して口伝で弟子に喋っただけだし
釈迦の教えって、○○教が本物とかいう話も
専門家のなかではいろいろあるだろうが、
自分のように仏門は良く知らないが座禅だけはやっている者からみると、
釈迦の教えというのは座禅そのものであって、
それ以上でも以下でもない気がする
不立文字って言葉はそれだけだとわかりにくいが、
つまり座禅によって得られる自我亡失の感覚というのが
得られないがぎり、ありがたそうな名言だとか格言だとかを
百千聞いたり暗記したところで、なんの足しにもならないというのは
このスレの住人なら誰でもわかるよね
自我が死ぬっていう表現はどうなんだろうか
自分は修行途上なので自分のまずしい経験からしか語れないけど、
禅定によって自我の薄れた状態を長時間経ても、座り終わると
一応自我はもどってくる。
だけど、座る前の自我とあとの自我が同じというわけでもなく、
変な表現かもしれないが、脳内のデフラグをやったような気持ちよさがずっと残る。
これは、自我亡失によって記憶の序列コントロールを失って、すべての記憶が
並列的に浮かび上がってきた結果、それを再構成しなおすという作業がおこなわれたからではあるまいか。
こういうことをくりかえしているうちに、なにかがかわってくるような気がする。
その考えは面白いかもしれない。
イルージョン?って本に
『進化の過程で創発的に獲得された意識が、自らを生み出したメカニズムの餌食になりつつあることを警告する。
<私>が自分をすべて制御していると思い込むことで、その主である<自分>と乖離してしまい、
不安や動揺、孤独が生まれこと、そして、それを解消しようとして自殺や破壊といった行為に
いたる人間の本性に触れ、そういった<私>の平静は<自分>の存在を認め信頼することによって
のみ得られることを強調する。 』
つまり意識=<私>なんだがこれは幻覚で、実際の感官に入ってくる情報の何億分の1かの
ほんの一部だけが意識として<私>になる。リアルな自分全体からみると自我は氷山の一角どころか
殆ど無にに近いほど僅かな部分なのだ。
一旦自我を無くしても、自分本体からすれば、幻覚なのだから、また新しく自我が再生する。
このとき綺麗にリフレッシュする。
立禅やっているせいか、益々、人間嫌いになってきた。独りが一番楽しい気がしてきた。
立禅ってどんなやつ。馬歩だちのこと?
経行(きんひん)のときに、歩くことはせずに、
立禅する坊さんはいるみたいだね。
すべてが禅であり、禅などどこにもない。
言葉遊びはどうでもいいよ
座禅ていうから、わかりにくいっていうか、誤解をうむのかもね。
座禅によって到達できる境地にはいれば、そこには釈迦がいわんとしたことは
すべてふくまれ、数知れないこの世の苦悩というものも消える。
そういう意味で「禅」といわなければならないのに、なんか座ることそのことを指して
いわれるように誤解されやすいのかな
座禅や瞑想で、脳の新しい分野が開拓されるそうだ。空きのHDDがポカっと出来る感じ。
その新しい部分に、自分の望ましい習慣回路をインストールすると新しい自分が出来るそうな。
2ch中毒や、ゲーム中毒は、脳の回路によるものだそうだから、別の望ましい中毒を回路に作ればいいそうだ。
こういう実践的な効果はいいよね。
始めてから2週間くらいだけど15分でも自分はキツイな、10分から始めます。
設定が高いと挫折するので出来る範囲でOK?
>>552 すもぐり訓練じゃないから、時間設定しなけりゃいいと思うが。
>>551 下手な禅問答みたいな話よりも、そういう説明のほうが気持ちがいいね
禅が脳の未開拓な部分の開発なのだと知らない人はもったいない話だと思う。
ただ我慢とか忍耐を養うことだと誤解されすぎ
Nothing と Everything を
クラインの壺のように
グルグル経巡るわけだよ
>>550 そりゃそうぜよ。
釈迦は何もかもあらゆることをしまくってしまくったけど
結局ダメで、完全にもうだめぽ(T_T)みたいになって、
早朝に明けの明星をぽか〜っと座って見てたら明けの明星と一つになって
成道した。
禅の姿勢を正して結跏趺坐で面壁九年は明らかに達磨大師以降だろ。
面壁九年の時の生活はどのようなものだったのだろうか
知ってる方いらっしゃいますか?
参考文献とか
入門の人は最初は大変だろうが、座禅がきつくて退屈なのは最初だけ。
はじめの何ヶ月は硬い花崗岩を掘るようで少しも前に進まないが、
だんだん石灰質のような岩にかわってきて、
やがては粘土質の層をほっているような感じになる。
坐禅してる自分を見てどうこう言うと坐禅じゃなくなる。
>559
よくわかる気がする。
大変なのは最初の4日くらいで、あとはだんだん楽しくなる。たのしくて、気持ち良くて
しようがない。
永平寺とかが厳しすぎるように感ずるのは、だんだん楽しくなって、坊主が浮かれて
くるからなんだね。
今日サライを読んでたら、臨在の建長寺(鎌倉)が載っていた。まだ托鉢してるんだね。
1,3,6,8がつく日は托鉢と書いてあるから、ほぼ二日に1回の割合なのか?
実際坐って坐禅しているだけなら、二日に1回食べれば充分な気がする。托鉢でご飯もらって
後は坐禅して、ゆったりしていれば、まさに極楽だね。
座禅が楽しくない
義務で座ってる感じがするんだけど
そんなに楽しい物だったのか
>>562 君は生活が充実しているのかも。
食事と3日に1回のオナニーしか楽しみのない生活をしていれば、目を閉じてじっとしているだけでも幸福になれる。
坐禅はたのしいよ。
永遠の恋心みたいなものだよ。
一度’それ’気づけば確実にハマる。
その上にさらに余計な追加注文しなければの話だが・・・。
座禅とβエンドルフィンの話はどう思いますか
周知のとおり脳内麻薬といわれるもので、人間は耐え難い苦痛や痛みに遭遇したときに、
自動的にそれが分泌されて、苦痛をやわらげるようにできているらしい。
座禅や瞑想の熟練者は意図的にそれを出すテクニックに習熟したものだ、
という説をみたことがあるんだけど、どうなんだろう。
ある意味、思考停止させるということは、体が瀕死状態と判断してβエンドルフィンを
だすことにつながるのかなと思ったりもするが
そのβエンドルフィンが自在に出せるようになったら悟りかもしれんね
>>565 出るのだろうが、私が疑問なのは、禅に中毒性がないことだ。
人は快に向かって爆進するという特徴がある。
禅は、セックスやオナニーの何倍もβエンドルフィンが出ると言われている。
しかし、禅は、セックスやオナニーのように中毒になることはない。
もし、本当にβエンドルフィンが出ているなら、オナニー猿のように、
禅をやりたくて仕方ない状態になるのではないかと思う。
悟りを開いたといえるほどに禅が深まればそうなるのだろうか。
つまり、未熟者ほど、βエンドルフィンは出ていない、と。
>>567 でも
>>564などは中毒に近いのではないかな
ランナーズハイもβエンドルフィンによるもので、一度それにはまると
雨でも台風でも走らないといられない人がいるというのも、
結構中毒性をあらわしているともいえるし。
モルヒネの10倍近くの効果があるというしね。
モルヒネなどの外的麻薬とちがって禁断症状がおこらないのは、
もともと体内にあるものだから、体が調整してくれるのかもしれない
未熟者ほど出ていないのは当然かと
坐禅は前頭前野の活動も活性化させるらしい。
長年修行している禅僧の前頭前野を調べると
一般人平均より少し肥大してるんだと。
そして前頭前野は、頭の良さや理性・自己抑制を司る領域だから、
脳内麻薬が出てもコントロール力も高まるんじゃないだろうか。
道元が、坐禅は安楽の法門なり、と言っているが
きちんと修行すれば色々効果はあるんだろうな。
白隠だったか、大地震だか噴火だかで危険が迫っていたとき、
ずっと座禅していたと聞いたけど、ああいう禅の達人にしてみたら、
なにをしているよりも座禅しているときが一番安心で幸福だからでしょうね
禅を苦行と思っている人はまったく誤解なのだろう
まだ、オナニーやっているの?w
そんな、つまらんことをwww
と言えるようになりたい。
>>572 それはなまじっか冗談でもないかもよ
禅をやりこんでいる人は、酒をのまなくなったとか
性欲が減ったとかいう話はわりと聞く。酒も性欲も
つまりはβエンドルフィンだとしたら、簡単な方法で
それを出せる方法があれば、ほかは必要なくなるのは自然だし
地震。オナニーだの、βエンドルフィンどころではないよ。
こういうときこそ座るのじゃ
そうだな。余震で気持悪くて疲れてきたが、肛門締めて息はいてたら少し落ち着いてきたわ。
どうせ、何も手につかないし、こういう時こそ落ち着かないとな。
>>573 とりあえずオナニーやセックスはエンドルフィン。
セックス(オナニー含む)が気持ちいいのは
行為中にエンドルフィンが分泌されているからだな。
おそらく人間の行為の中で最も手軽にエンドルフィンを出せる方法だ。
(ランナーズハイとかはえらい苦労するw)
酒はエンドルフィンとは直接関係ないと思うが
神経に作用して酩酊状態にさせ気持ちよくさせるのは同じだから
禅の達人になると酒を必要としなくなるのも分かる気がするな。
座禅し始めて半年くらいまで足が痛くて苦痛だった
座禅してないときも関節のふしぶしが痛くなり苦行そのもので
よく我慢できたと今にして思う
数年たって足の痛みが気にならなくなったぐらいに充実感がでてきた
禅宗は、お釈迦様(釈尊)が、御入滅する直前に黙って花をひねって大衆に示したとき、迦葉(かしょう)だけが、
その意味を悟ったといい、仏の真実の教えは、こうして経文によらないで、摩訶迦葉(まかかしょう)に伝えられ、
それが順に伝えられて第二十八祖達磨(だるま)に至ったとされています。
つまり、禅宗では「教外別伝(きょうげべつでん)・不立(ふりゅう)文字」と主張しています。
これは仏の経典は、月を指す指であって、月を知った後には指には何の値打ちもないとして経文を否定しているんです。
そして皆さんご存知の「座禅」によって「即身成仏」を悟るのであると言っています。
釈尊は涅槃経(ねはんぎょう)に
「仏の所説に順(したが)わざる者有(あ)らば当(まさ)に知るべし是の人は魔の眷属(けんぞく)なり」と説いています。
また「願って心の師と作(な)って心を師とせざれ」と戒めています。
禅宗が、真実の法は迦葉一人が教えの外に伝えたとして、釈尊の教説をすべて否定しています。
そして凡夫(ぼんぷ)の心がそのまま仏であるとすることは、
仏の教えに従わず仏法を破壊する天魔の所為(しょい=行為)と言わざるを得ない。
それで「禅天魔」と言われています。
尚、禅宗とは現在の曹洞(そうとう)宗・臨済(りんざい)宗・黄蘗(おうばく)宗などを指します。
心頭滅却すれば火もまた涼し
を思い出した
>>579 難しすぎて意味わかんねー
要するにどういうこと?
582 :
神も仏も名無しさん:2011/03/12(土) 00:23:53.82 ID:/+xgZEIq
禅天魔とかいうのは、日蓮宗か創価学会以外いない。。
セックスでβエンドルフィンなんか出ないだろう。
女は知らんが、男は射精する時に一気に気持ち良いだけじゃん。
俺はランナーズハイも経験あるし、死にぞこなって脳内麻薬も出たことあるけど
ここにはなんか勘違いしてる人が居るね。
停電で午後9時に電気が復旧するまで暇だったので、座禅してやり過ごした
本当はテレビやネットで地震情報を集めたかったけど
>>579 もしも禅宗関係の方なら、できれば教科書から暗記したような話ではなく、
実体験からしみでた話を聞きたいものですが
> 禅宗は、お釈迦様(釈尊)が、御入滅する直前に黙って花をひねって大衆に示したとき、迦葉(かしょう)だけが、
で検索すると、あるブログがヒットしました。
588 :
神も仏も名無しさん:2011/03/12(土) 10:21:34.24 ID:J5HO/hA3
>579
勉強になりません。W
591 :
神も仏も名無しさん:2011/03/13(日) 08:43:09.63 ID:/fmiE4e1
>>584 かんちがいでも見識不足でも、実際座ってみてその人がそう感じたり
考えたりしたことであるなら、それが事実だし意味はあると思うよ。
ここは実践スレなわけだから、一番スレちがいなのは、体験してもいないような話や、
本の受け売りみたいな話だと思う。
禅と酒が同列に語られるとはな
禅も所詮その程度のものだったってことだ
快楽を求めて精神をも堕落させるのか
坐禅でエンドルフィンなんぞでるわけないだろ・・足が痛すぎたら、それをマヒさせる麻薬として出る可能性はあるが、瞑想でエンドルフィンが出るなんてことはないよ・・出ると思ってるのは、坐ったことないやつか、はじめたばっかりのやつかどっちか。。
酒=世俗、下賎、遊興
というふうに決めるのはどうかな
ほどほどに飲めば百薬の長でもあり、気分も楽しく付き合いも盛り上がる
禅をそうかたくるしくばかりかんがえるのもどうだろう
三昧はそれに近いものだと思うよ。
坐禅で足が痛いなんて言ってる位の初心者には分からないだろうけど。
あの位の痛みでエンドルフィンが出るなら、骨折とかした人間はみんな出まくりだよw
前のレスよんでみたけど、座禅を酒やセックスと同じだというよりは、
ストレスを解消する点で共通する部分があるという話のように思う。
だから座禅でストレス解消できるレベルになれば自然酒や性欲も減る、と。
これと似たような例として、座禅を長くやっている人は過食もしなくなるようで、
特別ダイエットなんかしなくても必要以上に食べたくもなくなり、とくに肉などの
しつこい食べ物は自然に食べなくなるといいますね。
過食もストレスからといいますから
>>594 どうかなだって?
どんだけ呑気なんだよ
酒の席での醜い暴言、喧嘩や
思考判断の低下による交通事故を盛り上がりというのか
酒の効用は否定しないがそれ以上に多くの社会的問題があるだろ
自分の周りさえ良ければいいというアル中思考だな
堅苦しくとかじゃなくて禅にもそういう弊害があるなら奨励されるべきではない
>>597 当然な話だけど過ぎたるは及ばざるがごとしだね。
座禅も、あまりにスピリチュアルな領域にばかり没頭しすぎると、
現実がみえなくなり無視しがちになって社会的孤立を招くかもしれないし。
バランスは大事だね
禅とスピリチュアルを同列に語るか。
まさに人それぞれだな。
>>600 むずかしい話だけど、うちらがこうやって休日を
すごしていたり2chみてたりするのも、スピリチュアルから
超越しているわけでもないし。
また個々の脳の範囲を超えた禅というのもよくわからない
君がそう思うのは全くかまわんよ。
だから人それぞれって言ってるんだから。
スピリチュアルって言葉がまずかったかな。
オーラみたいな心霊とか霊魂とかいうのではなくて、
精神的程度な意味のつもりでした。
それはともかく、一元論か多元論かという話は
自分のなかでもなかなか解決のむずかしい課題ですね。
>>592 別に酒やセックスと坐禅が質的に同じという話ではないだろう。
坐禅をすると精神が調整されて
過剰な飲酒や性欲・食欲が健康的なレベルに抑制されるという話だろ。
スピリチュアルとは霊性のことだが、使いにくい言葉になったな。
それに霊性という言葉も、使いにくいことばになってきたな。
スピリチュアル商売や心霊術なんかによって言葉の意味が堕落しているけど、人間を動物
と区別するときに使う言葉だから、あまり不用意に落とすべきではないと思う。
幸いなことに禅という言葉は、まだ格調をたもっている。でも実体は「トンデモ系」
がいっぱいいるわけだが、こちらは瞑想に分類されて、瞑想の格調が下がってきている。
自分の中では、あくまでも言葉のイメージに関してで、順位なんてないのだが
霊性>瞑想>坐禅
だな。
ところが、霊性とか瞑想って言葉は誤解を招くので普段は使わない。
霊性とかスリピチュアルとか、そんなの妄想だよ。。
差別、分別を生むだけ。。
言葉に対する理解が偏っているから、妄想になる。言葉は差別も分別も
産まない。言葉は分別することによって、理解を促すもの。
ただしい理解に差別や分別は生まれない。どのような言葉を使おうとも
間違った理解をすれば、それは差別になる。
だったら霊性ってどこにあるんだ?
どこにも実体のないものを妄想して言ってるだけだろうに。。
609 :
神も仏も名無しさん:2011/03/13(日) 23:12:00.33 ID:I5dSs1tH
禅宗は不立文字・教外別伝(ふりゅうもんじ・きょうげべつでん)等と説き、
経文を否定している。これは凡夫である自己を過信した仏法を破壊する業(わざ)である。
涅槃経では「仏の所説に順ぜざる(したがわない)者あれば、当に知るべし、これ魔の眷属なり」と説いている。
また偽経である大梵天王問仏決疑経等の経典を引用するのは「不立文字」と矛盾相違する行為である。
従って禅は天魔の所業である、という
言葉が多いうちは悟れない
611 :
神も仏も名無しさん:2011/03/14(月) 00:18:26.30 ID:Tuy3O4rn
別に禅は仏教の専売特許でもなく、このスレには仏教には無関心だが禅はやりたい人もすくなくないようだし、
禅が自分らの教義になじまなければやらなければいいだけでは?
お釈迦様自身が経典によって悟ったのではなく、坐禅で悟ったのだから、坐こそが仏教そのものであるといって何の差支えもない。。
仏教は坐禅の一部である。応用といってもいい。たんに成果の応用もある。
しかし間違った応用もあれば、悪用というべきものも多くある。代表的悪用
としては創価がよく知られている。
坐禅に帰るべきだろう。
座禅はいまは宗教色も薄れて、合理的なフィジカルトレーニングととらえる人も多いし、
宗教論争は他スレのほうがよろしいかと
足を痺れさせるのは体に良くなさそうだけど、どうなの
血行は悪くなるからね。
だから長い時間やる場合間に経行を入れる。
以前参禅会で限界をこえて我慢してたら、しびれが一週間もとれなくて心配したことがあったよ。
禅は我慢することに目的があるわけじゃないから、無理せずに、きつくなったら経行か立禅してみるとか。
坐部がないほうがしびれないような気がする。
>>617 一週間しびれてるのは血行障害じゃなくて背骨の神経がおかしくなったからだろ
軽い坐骨神経痛になったんだと思う
神経痛と痺れと組んだ足が痺れたのでは痛みが全く違うし、
その後痛みが無いなら神経痛では無いと思うよ。
いや坐骨神経痛はしびれもあるんだよ
軽いとしびれにもならない違和感だけだったりする
一週間も血行障害が続くわけないから言ったまで
あたしゃ、30年の坐骨神経痛持ちだよ
いろいろご意見ありがとうございます。
あのときは座禅後歩けはするものの、左ひざの裏あたりにしびれが残る感じでしたが、
幸い一週間ほどで消えました。どこかの神経を痛めたのでしょうね。
それからは座禅中にしびれてきたらあまり我慢せずに崩すようにしていますが、
足をくずすときには、姿勢がわるいときとはちがって、警策でたたかれないみたいです
坐禅の初期のころは血栓を心配した。確かに痺れが残る時があって、2日くらい
続いたことがある。それからは、朝坐禅を始める前に必ず、水を一杯飲んでから
始めるようにした。運動の30分前に水を飲むと、血流が良くなる。
しかし、最近はかなり我慢してもあまり心配はないのかなと思っている。
我慢するときは、痛くなり始めてから20分間くらい死ぬ気で我慢することもある。
それ危ないよ。
1時間以上は続けない方がいいと思う。
何年も続けてると慣れて来たり、脳内物質が出たりして痛みを感じなくなるけど
ランナーズハイとかと一緒で、疲れや痛みは感じなくても肉体の組織はダメージを受けてるからね。
糖尿病体質だと血栓ができやすい。それとか血圧が高いような場合、血管の
分流部分で流速が速くなり、内部から血管を傷つける。これが血栓の原因になる。
血栓は血管の修復機能だから、修復が完了したら、これを溶かす働きもあるわけだが、
血液や血管の状態が悪いと、融けないで血栓になる。
坐禅と血栓は大いに関係あると思うのだが、たとえば菜食且つ小食など血管
や血液を良好に保つような食事を長期にわたって行っていれば、血栓
の心配はあまり無いだろうと思っている。
627 :
神も仏も名無しさん:2011/03/16(水) 20:41:56.43 ID:eGDZgyOr
いろんな立場の人がいるだろうから押し付けはしないが、
自分は座禅するようになってから、電気なんか電灯がついて、
死なない程度に食えて、雨水をしのげれば十分満足に生きていけそうだよ
そんなの坐禅する前からそうだな
ニートって欲望が低下するみたいだから
悟りもそんもんなのかね
代聖教を誹謗し、経典を捨て去り、教外別伝・不立文字を立てる禅宗は、『涅槃経』の、
「若し仏の所説に随わざる者あらば、是れ魔の眷属なり」と説かれるように天魔の所業といわざるをえません。
さらに「直指人心・見性成仏」といい、教経を用いず、坐禅によって見る自己の本性が仏性であり、
仏そのものとします。たしかに衆生はすべて仏ともいえますが、それは単なる理論上の仏であって実際の仏ではありません。
三毒強盛の凡夫の心は所詮、迷いの心であって、その心をいかに見つめても仏心を観ずることはできません。
もう2年位坐ってるけど、まったく他の事が頭に浮かばないなんて状態になった事が無い。
摂心の経験はあるかな。
一時間や二時間で座禅を本当に深めるのは相当年季が必要だと思う。
摂心では日に10時間、それを数日間つづけているうちに、思考する気力が
うせて、非日常的な状態になっていくし、魔境といわれるようなこともあるかもしれない
634 :
神も仏も名無しさん:2011/03/17(木) 12:07:11.98 ID:2UT6O0Ju
>627
それも大切だが、とりあえず先ずこういう事故に備えて「決死隊」をつくろう。
平時に年間1000万を保障
家族に恩給をつける。
名誉と引き換えに、命をささげる。
緊急時の特訓を定期的に行う。
今後の地震に備えて、緊急に必要だろう。
今のように身元の分からない50人程度では無理だな。
嘗ての騎士団のように、普段は遊んでいても、いったん何かあれば
命を投げ出して奉仕する、ある種の貴族階級をつくるべきだ。
それが自衛隊なり警察だよ
普段から坐ってばかりの役立たずこそサッサと悟って福島に突撃しろ
「ホウ酸を背負って炉に飛び込む」ような作業に、若いのを使うのは
もったいない。55歳以上の志願者からなる決死隊なら、ある意味惜しげ
もなく使える。重要なのは、普段は悠々と遊んでいること、そして
いざという時は華々しく散るということ。この美学が重要なのだよ。
三年寝太郎が起き出して
粉骨砕身働き出す時が来た
放尿時
地面が揺れないことの
有難さ
身をもって知る
男性@東京
釈尊は法華経以外は
地獄に落ちると説いた禅、真言、念仏は
即座にやめないと地獄に落ちるぞ
これらは葬式仏教で現実で幸せになったやつはいない
法華経の成立は、釈尊滅後からほぼ500年以上のちなのに不思議だね
643 :
神も仏も名無しさん:2011/03/18(金) 03:06:06.47 ID:4StmWo+F
>>641 > 釈尊は法華経以外は 地獄に落ちると説いた禅、真言、念仏は 即座にやめないと地獄に落ちるぞ これらは葬式仏教で現実で幸せになったやつはいない
葬式にかかわらないのは、華厳宗の東大寺さんだが、日蓮は葬式なしか。
>>642 お経自体、釈尊が書いたものでは無いしね。
法華経って読んだ事無いんだけど、SFファンタジーみたいなんでしょ?
うちは計画停電からはずれてるけど、エアコン付けるの申し訳無くて、
今室温11度だけど結構平気なもんだね。
坐禅始めて2年位だけど、なんか基礎体温が上がった気がする。
>>644 まあ途方ない話もあるうけれど、喩えだからね。。
いいお経だと思うよ。。禅宗でも朝課に読んだり、尊重されている、日本では宗派を問わず、重要視されているお経だよ。。
だけど、日蓮宗とか創価ののせいでイメージが悪くなってるね。。
臨済宗の禅僧であり、作家の玄侑宗久さんは、福島県の三春町の福聚寺ってとこだと聞いてるけど
大丈夫だろうか。現代の禅僧では信頼できるおひとりだと思っている。
きっと地元の人の世話などで自分の安全どころではないだろうが。
法華経のほうが迷惑してるわ
餓鬼にストーカーされて
法華経はすばらしい経典だよ
>644
それは阿弥陀経だろ。立ち読みしたことある。
いろんな菩薩が宇宙船に乗ってやってくる。わけわからんかった。W
>647
無事です。
寺も無事。山門横の塀が倒れ、六地蔵が倒れ、墓地もたおれてたよ。
↑ブログに書いてあったのね。WWW
被害大きそうですね。
原発のことも不安でしょう。
禅者として何ができるか大変でしょう。
自然科学のほうにも明るい方ですから、
今後の原子力行政についてもお考えを聞いてみたいですね
652 :
神も仏も名無しさん:2011/03/18(金) 22:04:34.43 ID:MPtYVFpu
寝禅
見性って重要ですか?
>>654 重要かどうか、その見解の違いが曹洞・臨済の分かれ目なんじゃね
見性してるかどうかなんて客観性のある基準なんてないし、
本当に見性しているような人はそれをひけらかす趣味などカケラもないだろうし
>>654はそういう意味でいってるのだと思う
禅宗は
『大梵天王問仏決疑経』が偽経なのですから、そこに説かれている「拈華微笑(ねんげみしょう)」という、
釈尊が睡蓮(すいれん)の花を拈(ひね)って迦葉(かしょう)尊者が一人微笑んだ……などという話も当然、作り話です。
そもそも史実として、釈尊が涅槃(ねはん)の時、迦葉尊者はその場にはいなかったのですから、微笑みようがありません。
こんなウソの説話が宗派の根本に関わるよりどころなのですから、禅宗の存在そのものが根本的に論外なのです。
仏陀も、創価は想定外だったろうな。WWW
禅宗のことはよくしらないけど、見性すると証明書みたいのもらえるの?
見性した後実社会に貢献した人っているのかな
自己完結して終わりの人ばっかりのような
松下幸之助、鈴木大拙、中村天風、平塚らいてふ、そのたいろいろ。
意外としられていないけど、見性した人はたくさんいる。
坊さんの世界でもたくさんいるんだが、見性自体では社会的貢献できるような
レベルには至らない。もちろん見性がもつ意味は大きいのだが、社会的能力とは
また別で、これはそれなりに鍛えないとだめ。
ただし、見性したことによって、それまでほとんどボンクラだったような人が
猛勉強をして賢者になるというのはある。見性の影響は大きい。
しかし見性してもボンクラのままの人もいる。寧ろ堕落する人もいる。
見性は単なる入口に過ぎないから、それから先の修行がなければ、たいしたことは
ない。
悟りはそもそも法のためなんであって、人や社会のためにあるのではない。。
悟りが人や社会のため人あらないことはないが、そもそも世俗の利益とは別のことなのだ。
なんか間違えた、二文目。
悟りが人や社会のためにならないことではないが、そもそも世俗の利益とは別のことなのだ。。
日蓮は仏教ではなく日蓮教です。
そうかそうか
悟りが人や社会のためではないのなら
悟りの意味があるのだろうか?
でも、悟ると
心の底から喜びが湧き上がってくる
そうです
喜びのあまり
エウレカ!って叫んで
風呂から走り出てくるような感じ?
曹洞宗では○○のための禅、という何か目的をもった禅を好ましく言ってませんね。
個人的に思うに、結果として見性や悟りはその人にいい状態をもたらすことは確かだろうが、
そこにいたるまでには個人差もあるが、時間がかかる。だから何か目先の目標みたいなものを
抱いてやるような類の修行にはむかないし、そういう人はきっと途中で成果の少なさにサジをなげてしまうだろう。
だから、禅のえらい先人たちは「しかんたざ」「とにかくすわれ」「すわればわかる」のような言い方をしたのだと想像する。
そこを汲み取れない人はあまり座禅にはむかないかも
で、座ってなんかいいことあんの?
嘗てはドライブが好きだったが、いつか徒歩の旅が好きになった。徒歩はゆっくり
景色を味わえる。
坐禅は坐る旅で、これは超低速なのがいい。家だけでなく、朝の川原でも、
山裾の梅林とか、場所を変えて座るのもいい。
30分も静まれば、満ち足りた気持ちになる。
>>662 そのサイトの文書読むと座禅したくなるな
675 :
神も仏も名無しさん:2011/03/23(水) 18:45:03.90 ID:2WRBJ9ul
俺が悟るのではないな。
俺が悟られるんだな。
自我強い奴は劇的に改善する、間違いなく。
>>673 坐禅は超低速なんかじゃぜんぜんない
座している自分が地球にのっかって
自転しながら公転しながら
猛烈なスピードで乙女座方向に吹っ飛んでいってるよ
>>675 自我の弱いような人はわりとのんきに生きられるから座禅はあまり必要ないでしょ。
催眠術や暗示にかかりやすい人はそういう体質の人かな。
流されて生きてもさほど抵抗もないし。
釈迦のいわんとすることは、手法的には座禅だろうが、最終的には自我の解放だろうね。
無とか空とかいうからわかりにくいだけ
初歩的な質問なのですが、
「自我」って何ですか?
調べてもよくわからないんですが、
どなたか簡単に説明してくださいませんか?
簡単に言うと「自分と思っている意識」かな。
「意識している自分」でもいいけど。
おれはこうだ、おれがこうした、おれがこうなった、おれはこう思うってのが自我だろうね。。
おれと思っているものが自我、おれはこうだと思わなければ無我かな。。
自我って何か、自我はこうだという認識を持つものが自我、何かを知っているのが自我。。
なんも知らなければ無我なのか?
あるいはもともと自我なんてあるんかいな?
あったとしても実体ないんだよね、縁起でそうあるってだけだから。。
もともとないものをあると錯覚するするのが無明、もともとないと悟るのが、修行のはじめかな。。
ないはずのものにひっかってしまうのはおかしい、引っかからずに生きれるはずじゃないのか、引っかからないのが本来ではないのかと。。
おれというのは思いの中、認識の中、錯覚の中にしかない。。
肉体は存在するが、「おれが〜だ」というのは思考だからね。。
認知行動療法ってのは悟りにつながりそうな手法だとおもうな
自分の考え方をチェックして変えていって鬱とかを治すってのは
修行に応用できそう
いろいろな言い方があるだろうけど、なぜ自我の解放が必要かといえば、
それがあらゆる欲望の根源だからではないかな。
他人よりまさりたい、あれが欲しいこれが欲しい、他人を支配したい愛されたい、死にたくない、
老いたくない、他人から羨望されたい、いやなやつを殺したい…
こういうのはすべて「俺が、自分が」という意識があるかぎりありつづけるし、
たとえ目先の欲望が満たされたとしてもそれ以上のものをもとめはじめる。
それが生きながらにして薄まれば、そして限りなく無くなれば、どれほど生きるのが楽になるか。
それを実現するのにとてもいい方法が座禅なのだろう
欲望ってさ肉体がある限りなくならないと思うけどなあ
>>685 本能的欲望とそれ以上の欲望を区別するのじゃ!
687 :
神も仏も名無しさん:2011/03/24(木) 22:16:40.09 ID:CfssRw1I
欲望と要求は、区別したほうがいいのかな
食欲、性欲、睡眠欲という肉体にどうしても存在するものがあるけど、これも程度がある。
性欲も健全な要求程度であれば夫婦円満、子宝にめぐまれ、というむしろいいものだが、
過剰になれば性犯罪や児童ポルノみたいな方向へむきかねない。
食欲も健康をたもつために必要な分ならむしろいいものだが、過剰になれば肥満や病気になる。
というふうに、本能的なものでも、要求にとどまっているならそれは「欲望」とまではいえないと思う。
前レスに誰かいってたが、禅をやりこむと性欲や食欲がへるという話も、精神的欲望が
減じることでストレスが減り、ストレスに起因する本能的欲望も健全なものへと縮小するといえるのではないかな
正師ってどこにいるんですかぁ〜!m(._.*)m
本能的欲望がストレスに起因するのか?
過食や異常性欲がでしょ
中庸
大脳新皮質を働かせすぎるなってことだな
693 :
神も仏も名無しさん:2011/03/25(金) 11:31:03.63 ID:KH3vTawd
座禅は、大脳皮質(自我)を停止させて、
脳幹、自律神経(潜在意識、爬虫類脳、集合的無意識)
を主にすることって言い方でいいのだろうか
何も考えず、ただ坐れ
言語フレームを使わずに
世界認識するってこと
言うは易し、行うは難し
>>695 左脳が駄目になるとそういう見方になるらしいね。なんとかという脳科学者だったかが体験本書いてた。
ジルボルトテイラー。
ユーチューブでみれるよ。
もしかしたら原発事故や津波も自分の脳のなかで行われているだけで、
これは幻影なのか?
面白いね
ジルボルトテイラー
完璧な静寂なのに
エネルギーを感じる、
ってどういうことなんだろ
YouTube
脳の機能不全時の世界観、脳卒中、脳梗塞
nirvaaNa
nirvaaNa
>>698 もしかしたら、各人がそれぞれのパラレルワールドにいるんじゃないかと思い始めた今日この頃。
でも、それに気が付いちゃうと消される気がするので、知らないフリするようにしている。
誰に消されるんだよw
>>704 私を存在させている「何か」です。
本を読んでいると、その手のことに気が付いた人って、不思議と早死にしているんですよね。
どんな本だよ
そんな事言ってる奴いくらでも居るだろう
理解の仕方によって生きるモチベーションがさがっちゃうのかな
「何か」にけされるというよりか
どっちかって言ったらその「何か」の方が妄想で出来てるんじゃないか
>>698 それ絶対違う。
>>703 多世界解釈のパラレルワールドはそういうものではない。
>>705 想像だけど、羅漢とよばれる最高位の人はそんな人が多いのではないかな。
しかし、敢えて煩悩を持って菩薩として生きる人は長寿が多い傾向があると見てる。
>>707 だから「何か」というのは決して知り得ない様にできている。
知ったとしたら、こっちの都合で定義してるだなので遠ざかることにならないかな。
>>705 >>私を存在させている「何か」
それって単なる絶対他力思想じゃん
>>710 いや、そこが微妙に違うんだわ。ビックバンの前にいた存在なんだけど、俺らとその「何か」は同じなんだわ。いや、別なんだけど同じという不思議な関係なんだわ。
俺の理解と言語のレベルでは限界あるけど、俺らの体をひとつの宇宙存在だと思って考えてみると多少は理解の助けになるかもしれないんだわ。
ユング的にいうなら、711の言う「何か」は集合的無意識で、
「自分」と感じられているものは個人的無意識というものかな。
ビッグバンはどうかしらないが、もともと生物は太古からのDNAを
継承進化させてきたわけだから、無意識のなかに太古の記憶があっても
異常なことではないし
そう考えると、結局その「何か」なるものも、自分の中にあるものではないだろうか
うん。
でもいわゆる「自分」が動かしているものではない。
自我の話がでてたけど、われわれは表層的には太郎君とか次郎さんの個人的意識
というか自我で動いているようにみえるが、その奥には人類全体規模の記憶、
はては生物全体の記憶といった領域があるということかもしれないね
そういう領域を、うごかされることはあっても、うごかすことはできないのは自然かも
以前読んだ脳科学の一般人向けの本によると、
人というのは、「意識→行動」だと思われてきたけど、
実験によると、実は、意識の0.5秒前くらいに行動を開始しているという説が有力だそうです。
ということは、この意識以外の行動を引き起こしているものこそが「何か」じゃないかと思うわけであります。
ちなみに、この「何か」は、精子と卵子が受精したあと分裂を繰り返し人になるときの原動力というか
エネルギーでもあると思うわけであります。
話戻しますと、
何かの指令→行動開始→意識の後付け
というように、行動の前に「何か」が指令を出しているとすると、
我々は、その「何か」の言いなりであって、ロボット状態なのかという疑問が湧くのであります。
コレに対しては、「否定する自由はある」とその本に書いてあるのであります。
恐らく、この否定する自由こそが、大脳新皮質のなせるワザであり、
我々の苦しみの素ではないかと思うのであります。
そんな事ニューエイジ系の本のいくらでも書いてあるだろう。
内臓は自分の意識で動かしてる訳じゃ無いとかさ。
そんな事どうでも良いじゃん。
脳の構造は地層のように重層的になってる
大脳新皮質と古層の脳の分裂が常に起こっていて
その事を苦という、ってこと?
仏教は徹底した時間哲学だけど
ここでいわれているエネルギーの観点は希薄
生命現象を事後的に説明できても
なぜエントロピー増大という自然の流れにあらがって
生命のみがエントロピー減少という営みを
えいえいと行っているのかの説明はできない
>>703 パラレルワールドって SF 界で一ジャンルを形成するくらい
たくさん書かれているね
マルセル・デュシャンや稲垣足穂も同じような事いってる
あまりSFよまないからパラレルワールドよくしらないけど、
黒澤明の羅生門も一種のそれか? 同じ世界にいても、
それぞれの脳内での処理のされかたがそれぞれちがうから、
別の世界に生きているかの印象をうける
並行世界(パラレルワールド)と意識のハードプロブレム(クオリア)って関係あるんですか?
>>719 プリゴジンの複雑系とかで台風なんか説明できる
>>723 物理板の量子論専門屋にそれ言ってみろ。マジでやばいくらい反論される。
725 :
神も仏も名無しさん:2011/03/27(日) 03:01:21.94 ID:aUg3+Iz9
宗教なんて必要ない
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1242528830/ 神なんて存在しないよね(*´・ω・)(・ω・`*)ネー 24
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1300885593/ __ i`:. __
(__.`ー-::... ,rt': : :\ ,::-'",...)
,..::ア - ::::::)-:'':':'(|i(゚):(゚)テ):-:-:-::、イ::: `┬-っ
(,.::'",::' / ,....: : : : r'" ・・' く/i!: : : : :!、,:::::,<` `ニつ
`-(_λ_/: : : : : ( トェェェイ )/: : : : : : : : : ;,.,`::`つ
`-;;;;;;;:/i\二二_/" : /\;,;,;,;,;/ `'"
\:.:.:.:/ `i , :く.
`i: :i : : !": : : )
r: :i DK:!-┬"
r--`:、 /000
000O"
坐禅と見性75章不確実性とは突然か
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1300530296/ 坐禅と見性スレ避難所第1章
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11155/1296476490/ 【仏経】悟りを開いた人のスレ90【天空寺】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1296618056/ 悟りを開いた人のスレ の避難所 13
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/8276/1294520561/ 悟りを開いた人に聞いてみるスレ【人生相談】6
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/jinsei/1293371851/ [人生相談板] 悟りを開いた人に聞いてみるスレ の避難所
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/8276/1257178145/ 【秘密の】 馬鹿者の集い 【しゃべり場】その3
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1279184518/ 精神世界で癒される第40章
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/healing/1293898132/
座禅は宗教とはちがうでしょう。
それに、前レスの「何か」だって、意識のなかにあるものだとすれば、
神や造物主、といったものも科学的に説明できそうだし
神という言葉を使った瞬間に
言語的転倒が始まる
ヴィトゲンシュタインがいったように
語り得ぬものについては沈黙しなければならない
釈尊の態度も同じものだった
>>724 こういう虎の威を借りるだけで自分の意見何も言わないのうざい
>人というのは、「意識→行動」だと思われてきたけど、
>実験によると、実は、意識の0.5秒前くらいに行動を開始しているという説が有力だそうです。
たしか、「生物と無生物の間」? だったかにかいてあったね。
実際、スポーツでも意識してから動くと応答が遅れるんだよね。
無意識に動くと素早く動ける。ガッツ石松とか具志堅とかのように、反射神経だけで
動くような場合は、言語をつかうような頭は枯れるだろうな。
禅の坊主とかでも、頭の枯れたのは多いよね。もともとインテリだったような人は
修行をしても、知性を保つけれども、普通の人が悟ったりすると、具志堅級の頭に
なるような気がする。
ガッツは演技だからね。
昔クイズダービーという番組があって、そこでのガッツの正答率は50%を超えていた。
あの宮崎美子でさえ30%台だったのにだよ。
youtubeに最終回が上がってるから、確認も取れる。
いやガッツには最初から回答を全部おしえてるんだよ。それで50%だ。
自分の説に異を唱えられると、不正や捏造だと言い出す。
分かりやすい性格だな。
>>697 亀レスだけど、今youtube見たけど、科学者のこういう実体験は面白いね
脳梗塞おこしているときに、救いの電話しようとしたが番号おもいだせず、
名刺さがすけど、文字がわからなくて、難解な模様にしかみえない。人の
声も犬の鳴き声のように意味がわからない。
そのへんみてたとき、手塚治虫の火の鳥復活編だったか思い出した。
あれは脳の一部を人工脳にしたことで、人の姿が岩や無機質にみえてしまうのだったけど
>732
いや、たしか伸介だったか?わすれたが暴露していた。
それに、ガッツが演技だなんて、だれも信じないよ。W
まあべつに演技でも、天才でも、秀才でも構わんけどな。
>>734 君がそう思うなら、それで良いんじゃない
ジルボルトテイラーの話は大変興味深いけど、
つまりは左脳思考から右脳思考へ切り替えることで、
人は至福の境地にいたることができ、みながそれをできるようになれば
平和な世界がおとずれる、という話だと思う。
だけど、そういう人間やこの世界をつくったのはなにもので、なぜ
この世界はあるのかという疑問はあいかわらずわからないからね。
そこにある至福感は、あくまで生理的至福感で、神も仏も関係ないように思うが。
>>737 > だけど、そういう人間やこの世界をつくったのはなにもので、なぜ
> この世界はあるのか
それを知覚するのが、この世界があり人間がいる意味らしい。
人間は、この世界をつくったものを知覚できるまで進化するし、しなければならないらしい。
> そこにある至福感は、あくまで生理的至福感で、神も仏も関係ないように思うが。
神とか仏と言った時点で、定義論争に突入してしまう。
>>738 いやいや造った者がいるだろうなんて考えるのが迷い。
動物でも虫でも魚でも、そんなこと考えないよ、ただ生きてるだけ。。
神を知ったとかいうやつがいたら、昔の禅寺ではボコボコにされる、魔境だからだ。。
神や仏はおいといて、少なくともジルベルトテイラーの話からも、
左脳を停止させ右脳優位にすることで、涅槃のごとき至福がおとずれるということは
たしかなようだ。彼女は脳梗塞(脳出血?)によってそれにいたったが、禅者は
すわることでそこへ到達しようとするもの。目的は同じだし、特に最近発見された話でもない。
彼女は、ではどうやって普通の人がそこにいたることができると考えているのか。
そのことがちょっと聞きたかった
>>739 > 動物でも虫でも魚でも、そんなこと考えないよ、ただ生きてるだけ。。
いやいや人間と他の動物は決定的な違いがあるらしいんだわ。
それが「何か」の認識ということらしいんだわ。
ただ、人間は、大脳新皮質とやらが発達しすぎて余計な心配とか悩みを抱えるから
他の動物のようになーんも考えずに生きろや、とりあえずは!という話になるんだわ。
これが仏教的教えらしいんだわ。
んで、仏教と対をなすものとして神道があるんだが、こっちでは人は進化して「何か」を
認識するべく進化しよう、つーことらしいんだわ。
ちなみに、日本の特徴として、仏教は死の面、神道は生の面ということらしいんだわ。
だから、禅つーのは、仏教、つまり死の面の話であって、それだけやってたら
片面しかやってないことになるんだわ。
だから、禅やって大脳新皮質の過剰な働きを押さえつつ、「何か」を認識するべく進化する
つーことらしいんだわ。
ただ、この「何か」を認識つーのは、使ってない脳の97%を発達させることかもしれないし、
もしかしたら、単に、ありのままに見るつーことかもしれんのだわ。
だとすると、大脳新皮質の働きを抑えることにも関係してくるんだわ。
それは本にも書いてなかったが、「コツをつかめ」ということだろうな。
一旦そのコツを掴むと、いつでもスイッチできる。彼女は病気によってその
コツを掴んだ。だからいつでもスイッチできる。
多分、坐禅ができて、至福を感じることができるというのは、その一歩手前の
コツをつかんでいることになると思う。おそらく、かなり過激な、脳を損傷
する危険を覚悟してやるような修行をすると、次の段階のコツを一発で
つかめるのだろう。もちろんそんなことをやるべきではないと思うが、そういう
修行はたしかにある。
座禅的アプローチとしてはそうなんだろうけど、
彼女のような脳科学者なら、医学的に彼女の身に起きた状態を
再現てできるような方法をかんがえてほしいなとも思った。
脳出血によってどの神経が圧迫されたとか損傷したとかわかれば、
それを再現することも不可能ではないだろうし。
744 :
ろん:2011/03/28(月) 10:44:02.70 ID:sg+W30dc
>>741 坐禅でも、すべてが輝いて神々しい、聖なるものだ、そういう風に感じられる時節はあるけれど、
そんなのは大したことない。途中の景色でしかないからね。
普通の人に戻ってやっとおしまい。至福が持続するとか、余計なことを考えないとかそんなことではないよ。
普通の人とまったく違った人になるんじゃない、その人のもともとの個性、生きる場所に応じて人それぞれ。
禅には死というものはない、生きている時どうするかという話しかない。
生きている人が死ぬということはない、死んだときは死人だから、生きている人は死なないんだよ。。
>>741 脳の97%が使われて無いとか、右脳とか左脳とか
もう間違いだって分かってるのにw
まだこんな事言ってる人が居るなんて驚きだよ。
>>743 そういう研究はいくらでもやってるよ。
栗本慎一郎のリハビリなんかも一つの手がかりに成るだろうね。
>>745 死ぬのはいつも他人
マルセル・デュシャン
>747
栗本さんの場合右脳がいかれたんで、ニルバーナはなかった。ドライに冷静
になれたとか。
>そんなのは大したことない。途中の景色でしかないからね。
これが禅のつまらんとこだな。
至福にひたるのを恐れる。恐れる理由は分からんでもないが。
至福はしっていればいい
継続する必要はない
そうかたくなに至福を否定しなくてもいいじゃない
この脳科学者もその至福感によっていい影響をうけたわけだし
うまいもの食べたり、いい音楽や芸術を味わったりするのが楽しいのと同じことだと思うけど
おもうに、仏陀が菩提樹のもとに坐して悟りを開いたというのは幾分誤解があって
、それ以前の何十年にも及ぶ仏陀の思索の結果がそこで繋がり、結実したというべきだろう。
だから普通の生活をしていたような人がいくら坐禅をして悟ってもだめなのは明かで、
そういう例を数々みる。悟りは着火現象であって、悟りを開いたからと言って
なんもないところに火はつかんわけで、もともと馬鹿だったのが治るわけではない。
自分も何度か着火はしたが、燃え上がらなかった。だから自分には悟りなんてものは
ないと思っている。しかし小悟というようなものを繰り返すことで、思索を後押ししたり
豊かに生きることを、支えてくれるのではないかと思っている。
着火現象は、脳こうそくでも、LSDでも他にもいろいろあるだろう。がそれは準備のない
者にとっては遊園地でジェットコースターに乗ったのと同じことだろう。
それも悪くはないとおもう。
>>753 あー、これ上のやつは、6歳という可塑性が高い時期に左脳を切除したケースで、
しかも、成人してから検査したら右脳でも言語おkだったというケースだから、
要するに、右脳であってもケースによっては左脳の役割も果たすように変化しますよ
というだけのことであって、このサイトの人も右脳左脳区別論は原則として肯定しているし、
成人であるジルなんとかテイラーが左脳損傷して、言語でなくなったのは本当なんじゃね?
ところで、97%使ってないというのを否定するソースは提示してくれないか?
実際のところ何%使ってないのか知りたいんだけど。
右脳左脳というのは、たとえば座禅のはなしをするときに便宜上わかりやすいから
そうしているわけで、それを大脳皮質と脳幹とか言い換えても、わかりやすいなら
いいのだと思う。要は.、脳にはそれぞれ役割というものがあって、ここでいわれているのは
そのなかの自我や時間、空間認識をつかさどる部分を停止させることを意味するので、
それで十分ではないかな
皆様のここ数日のお話は悟りの本質を突いていて
まことに意義深う拝見いたしました。
感謝いたします。
特に
>しかし小悟というようなものを繰り返すことで、思索を後押ししたり
>豊かに生きることを、支えてくれるのではないかと思っている。
には、私のような凡庸な人間には大きな希望の灯を見た思いです。
>>755 そんなのいくらでも有るから、たまには自分でググれよ。
>>752 >自分も何度か着火はしたが、燃え上がらなかった。
自分でそう思うだけかもしれませんよ
>>749 至福とか面白いものを追及するなんて、禅でも仏教でもない。。
ドラックでもギャンブルでもゲームでも好きなことやってればいい、もっと面白いもんはいくらでもあるぞ。。
悟りは絶対歓喜だとか言って宣伝してたのはオウムだっけ・・そういうのがあると思ってるやつがコロッとやられる。。
ホントに法を求めるやつってめったにいないもんだね。。
結局自分が至福に浸りきってればいいって、どこまで低劣なんだろ。。
要するに至福の自己やろうが地獄の自己やろうが
自己を忘ずるのが禅なんやろ。
やっぱ、自我とか自我意識なんだな、問題になってるんは。
至福とかは釈迦以前のヒンドゥー教で散々やってきたわけだし。
よく考えれば、インドとかの聖者は何時も動じない至福の姿みたいなのが多いな。
○ショーや○○シュ○○○ティとか同じ類や。連中は何か途中で足踏み状態なんやな。
今回の地震が起きても至福状態だとしたら、ただの見せ物やわ。
純粋意識や純意識状態やただの意識やらゼロの意識やら宇宙意識やら全意識やら神意識やらキリスト意識、
仰山聞いたけど、そういうのは中途半端なんやろうな。
自我や自我意識を忘ずるって、めっちゃ大変なんやろうなあ。
出来そうもないわ。
至福の自己なのか、あるいは自己が消える至福なのか、わからない
じっさい脱落する前にこうなるだろうとか、こうならなければとか言う予想や期待を持つと、それはやって来ない。
すべてが消えた後にやってくるものだから・・まずは期待や求心が落ちる必要がある。
すべてがないということは比較するものがないのだから、快も不快も、安心も不安も、いいも悪いも、悟りも迷いもない。
しかし、それを悟りとか至福とか懐けてて固体化しようとしたとたんに、再び相対の世界に落ちてしまう。
「懐けて」は「名付けて」の間違い。
すべてが消えるって、まともに坐っていれば、結構簡単にそうなるけれど、そっから脱落までが長い道のりである場合がある。
すべてが消えるようになった時点で、いろいろわかるようにはなるんだけれど、それだけではまだ大悟ではない。
それが普通の坐禅というだけ・・やっとまともに坐れるようになったというだけなんだな。
ろんが大悟とか笑わせるなよw
まあ大悟とかあんまり言わない方がいんだろうけどね。。
>>752 それは重要な視点だと思うんだよね。
仏陀は元々王子でハーレムで美女とセクロスしまくりだった。
その後一念発起して苦行を続け、最後に苦行も捨て中庸の修行で悟りを得た。
竜樹もその点では同じで、若いころはやはり宮廷の美女と
セクロスしまくりだったが、途中で女漁りを止めた。
仏教の偉人たちの悟りがどういうものの上に築かれているのか考察する必要がある。
仏陀のハーレム時代・苦行時代は悟りに共に大きな影響を与えたと思う。
怒りを抱くもの、恨みを抱くもの
あるいは偽りの善を行うもの
邪の見解あるもの、諂いの心あるもの
かかる人は卑しき者であると知るが良い。
>>752 そうじゃなくて、火がついてしまって、頭の中が火事になってるのがわれわれ凡夫。
火が消えた人が仏。
原始仏教の経典にもあるぜ、涅槃、それは炎が消えたところ。。
禅とか仏教やってるというのも火だから、消さなきゃーならんねー。。
>>771 道元禅師は、14歳とかに出家して、比叡山に入り、それから中国に渡るけど、一生童貞だった。。
女難に遭わずに良かったと言っている、ま、志とか価値観が違うんだろうね、われわれとは。。
ろんも童貞だろ?
永遠の処女。。
>773
確かに。仏陀は神秘主義的苦行を否定して智慧による覚醒をしたのだ。
ところが、中国に渡って、老荘に影響されて、またどこか神秘的な禅になった。
禅のどこに神秘があるのか、僕にはわからんねー。。
悟り自体に神秘はないけどねー。。
それは「教え」(思索)による悟りなのか、坐禅による悟りなのかの違い。
仏陀の時は「教え」が中心で、坐禅つまり定は、修行の中の1つに過ぎなかった。
つまり、禅は只管打坐に見られるように、坐禅への比重が圧倒的に高いということ。
臨在の公案についても、非論理的で、仏陀は論理のとおらないようなものは完全
に否定している。
禅は仏陀の教えとは、異なっていて、むしろ、古代インドの不二一元や老荘に近いと
言える。
禅による悟りはありうるが、仏陀の方法を見直すというのもよいと思う。
自分は坐禅による修行をしているが、禅(仏教)は読まないでいた。ニサルガダッタ
マハラシやクリシュナムルティなどを読んでいた。これは、狂い加減の問題で、狂いは
ある程度必要だとは思うが、公案などのきちがい度は尋常ではない。まったくついて
いけない。まだ不二一元の方がましとおもうからだ。ところが最近原始仏教を読んで
見ると、実にすっきりと理解できる。哲学的で矛盾がない。
町野氏という悟りを開いた人がいて、プログでも質問を受けてくれるので、質問して
みたが、まったく話が合わない。彼の著作「禅友に送る書」では、かなり曹洞宗などを
批判していて言いたいことは理解できる。沢木興道老師なども批判していて、修行方法
として自分の考えと近いところもあってなるほどと思うことはある。
しかし、悟りの本質を説明することになるとまったく話が合わない。つまり論理的に
理解できないものというところに立っているから、基本的に話は合わない。だから共感
する部分があっても本質的なコミニケーションは全く取れない。
町野氏の悟りも原田雪渓やその系統も、基本的には仏教ではなくて、マハルシやマハラジ
などの系譜に近いと思う。それが禅なのだと思う。
マハルシに比べれば、方法論をもっているだけ、禅の方がましだろう。しかし
その方法論も仏陀本来の方法と比較するとどうだろうなという疑問が湧いてきた。
道程は一つじゃ無くても良いじゃない。
>>778 >仏陀の時は「教え」が中心で、坐禅つまり定は、修行の中の1つに過ぎなかった。
まず、何を根拠にしてこう言えるのかだな。。
原始仏教は、八正道(禅定を含む)と縁起の教えが中心じゃないですか?
あとは、修行に対する姿勢等のインストラクション、補助的なものでしょう。。
教えだけで、禅定がなければ悟れるわけがないし、教えなしに坐ってもどうなればいいのかわからない。。
どちらも必要だと思いますよ。車の両輪のように。
片輪では進むことができません。
>>778 >臨在の公案についても、非論理的で、仏陀は論理のとおらないようなものは完全
に否定している。
そうかんなー。。
公案と言って何を念頭に置いているかわからないけれど、
臨在録でも無門関でも碧巖録でも、論理的にすっきり説明しているところはいくらでもあるし、
また、一見非論理的に見えても、わかってしまえば、すっきり論理的に説明できる。。
法がわかればの話ですが。。
>禅は仏陀の教えとは、異なっていて、むしろ、古代インドの不二一元や老荘に近いと
言える。
不二一元は、もっと前から仏教に入っているでしょうが、禅におおいて説は成り立ちません・・というか、そこにとどまることは否定されますから、不二一元に近いと言えるかどうか。。
老荘とは明確に違うと思ういますよ、ただ、影響はあるでしょ言うが、あくまでも部分的なものです。
お釈迦様は、教えを学んでも三昧に達しても全く満足できなかった。解決しなかった。
だから、悟りが得られるまで坐を立たないと決意して、菩提樹下に坐したわけですよね。
ひたすら坐った。
そこで、すべて脱落して、明けの明星を見たときにそれと一つになっていた。
このとき、すべての疑念が氷解したわけです。
坐によって、主客がなくなる、主観を脱落するというのがポイントでしょう。。
そこからすべての迷いが来るのですから・・主観性の中で何を学んでも、考えても、根本解決には至らないわけです。。
自我の存在にって、主客の分裂によって、われわれ凡夫の迷いが生じるわけですから。。
>しかし、悟りの本質を説明することになるとまったく話が合わない。つまり論理的に
理解できないものというところに立っているから、
そうかねー。。
十分論理的ですよ、彼の言っていることは。。
もうちょっと辛づよく、付き合ってみたらいかがですか?
わからないと言っている方の思い込みが邪魔しているんじゃないでしょうか。。
とにかく、何が迷いなのかという問題ですよ。。
それさえ明らめれば、あとはすっとわかるはずです。。
多くの人は、悟りとはこういうものだという思い込みによってわからなくなってしまっている。。
原始仏教も禅も、示し方が違うだけで、本質は一緒ですよ。
>しかし、悟りの本質を説明することになるとまったく話が合わない。つまり論理的に
理解できないものというところに立っているから、
悟りを論理的に理解しようというのは、このスレの主旨からも、自分の興味からも共感できるところです。
自分は悟りというのは、脳の器質的な変革だと思っていますので、「教え」「知識」による悟りは疑問ですが、
教えや知識のない悟りは、ジルボルトテイラーさんのような偶発的な例からも、ありえると思います。
悟りって、青い鳥と同じじゃね?探しにいかなくても、今ここにある。
論理的に理解ってのもおかしなもんで
悟りを理解することと悟るって事は全く違う
泳げない人に泳ぎの方法を教えても理解出来る人出来ない人が出て来る
さらに理解しても泳げるようにはならない
それならば教えるのは最低限で後は泳がせて体で理解させた方がはやい
そのあと理論を勉強してもいいし(より深く理解出来るだろ
>>765 臨済くんの、求心やむ処、即ち無事かな?
関係ないけど無事ってのを嫌がる人もいるみたいだね。
盤珪のは無事禅だ、とか。
>>783 >坐によって、主客がなくなる、主観を脱落するというのがポイントでしょう。。
師匠誰?なんでそれを知ってる?
なんでこのスレ急にこんなに流れるようになったんだ??
震災のせいか?
座禅にでも心の平安を求めたいときかもね、現状の暗さは
>>789 その「無事」って平穏無事みたいな事無かれ主義的な無事ではなくて、
心の平安というほうが近いのでは
心の平安をいやがって、好んで苦痛をほしがるひともいないでしょ
仮にいたとしても、そのひとにとっては苦痛らしことが平安なのだから
793 :
ろん:2011/04/01(金) 01:20:15.49 ID:pVerprnu
>>788 ちがう言い方をすると、
立派に泳いでるのに、泳いだことがないとか、泳ぎ方がわからないとか、
この泳ぎ方ではマズイんではないかと思っている人がいる。。
そういう人たちに、いやそれで立派に泳いでるから、何にも直すとこないよ、と言ってそのまま泳がせる。。
はじめからそのままでよかったのだから、理論なんてあるかどうかわからないが、そのまんまだよというのが、とりあえず、泳ぎ方を教えたということになる。
なぜそのままでいいのか、が敢えて言えば理論かもしれない。
>>792 無事は返り点つけてそのまま「事無し」だよ、色即是空と同じ、実体にとらわれない、拘らないということ。
今の日本語とは違う、災難がないという意味じゃない。
無念でも観念でも、もともとのの禅の意味が、今の日本語では変わってしまってるんだと思うよ。
>>788 付け足すと、
そのまんまで、生きられる、
自分の在り方をとらえて、これでいいのかとか、悟ってないとか、そういうのかきれいさっぱりなくなってしまうのが悟り。。
しかし、これは、たしかに「そのまんま」ですよと教えられて、すぐわかる人、わからない人、わかってできる人、できない人に大きく分かれるでしょう。。
余計なお思い込みが強かったり、妄想色眼鏡が外れない人には難しいかもしれない。。
つらつら思うに、悟りとかなんとか良いもののように言うが、
こういう原子力災害のようなときに、何ができるのかなぁ
つまり現実逃避か?
単に落ち着いて対処出来るってだけかな
パニック回避機能
>>797 単にじゃなくて、すげーだいじなことだとおもうけど
それが大事なことはわかるが、結局危険なことや嫌なことは
他人がやってくれるだろう的なとこがさ…
>>799 人それぞれ役割があると考えれば良いのでは?
たとえば、人体をひとつの世界と考える。
左手が怪我して血が出てきたとする。右手でそれを押さえ血を止めようとする。
ここで、右足や左足まで左手の血を止めようとすると、ひっくり返って、しりもちをついてしまい、右手の救援活動を邪魔してしまう。
右足や左足は、病院に行くときのために待機していれば良い。
また、胃や腸は、手足の活動のため栄養を消化吸収し送り込んでやる必要がある。
肛門はいつも通り食ったものを出す必要がある。
胃腸や肛門まで左手の救護にかけつけると、結局、餓死するか便秘で腹が破裂して、左手の救護どころではなくなる。
日本をひとつの体とみたり、地球をひとつの体とみて考えてみると、また違った考えが見えてくる。
現場で危険を冒している人には感謝するのは当然だろうが、
だからといって、自分が辛い思いをしたり、苦しむことが良いとは限らない。
今、野球をやったり花見で騒ぐというのは、賛否両論あろう。
視野を広くもち、各人が出来ることを精一杯やることが大事ではないだろうか。
こういう判断は、パニックになると無理。落ち着いて冷静じゃないと無理。
でも、人は、地震などのように本能を揺さぶられるような出来事にあうとパニックになりやすい。
>>795 >自分の在り方をとらえて、これでいいのかとか、悟ってないとか、そういうのかきれいさっぱりなくなってしまうのが悟り。。
>しかし、これは、たしかに「そのまんま」ですよと教えられて、すぐわかる人、わからない人、わかってできる人、できない人に大きく分かれるでしょう。。
>余計なお思い込みが強かったり、妄想色眼鏡が外れない人には難しいかもしれない。。
こりゃ難しいでしょ。
そういうのかきれいさっぱりなくなってしまうのが悟りで『俺悟った!』と思って
酔っぱらっちゃうのが多いと思うがね。。。。
きれいさっぱりなくなったら、悟ったとか悟ってないとか思わんよ。。
どっちもつくりごとだから。。
あるものがあるだけ・・それでこと足りるでしょ。。
難しいかどうかは人によるんじゃない?
>>802 そうですけどな。
さらに求道せなならんのだ。
熱烈得ようとしたら間違いだったの手元の悟り。
もとから悟りや仏やで散々踊り狂って、
得ようとしないようにという、トコろ。
他にも2chはアホな勘違い悟り屋がいるからとっちめてくださいな。
>>803 最後の一行以外にはだいたい同意。。
求道じゃないけどね、修行をしないという修行、坐り続けるということでしょう。。
道がわかったあとの修行。。
僕がとっちめる義理はないし、とっちめてもとっちもてもわいてくるでしょうから。。
>>804 あんたかっこいい、格好いいヤツやん。
胸元に飛びついてスヤスヤしたいねん。
修行をしないという修行をしたいなあ。
けど難しいよ。
今の航空会社のpilotは飛行はほぼオートだで。
着陸難しいの。難しいよ。手動だでな。
それと同様で着陸むずい。
>>805 ありがとう。。
わかってますよ・・これではまだ小悟だろうから。。
人によって道は違うだろうし・・着陸できるのやらどうやら。。
しかし、難しいとわかるのがすごいね・・まあ、ぼちぼちやってみますよ、というくらいしか言えないですわ。。
>>806 「小悟」ってなんや!!!?
しかも離陸してもないのに着陸できるかどうか、とか言うな。
人によって道が違う、と思ってるのはあんただけや。
>>806 あんた何か違うわ。
ワシ引退するから
禅系のスレと瞑想系スレはあんたに全部任せた・・・。
809 :
ろん:2011/04/02(土) 02:58:22.37 ID:s37g1Ha+
>>807 離陸って何だよ・・それが悟りじゃないのか?
自分だけがわかる喩えを使ってもわからんよ。。
>>808 引退する前に、離陸っどういう意味で言っていたか説明していってくれ。。
なんか違うって言ってるのに任せるのか。。
信頼されてんのかされてないのかわからんのー。。
魔境の経験あったら教えて
811 :
ろん:2011/04/02(土) 14:48:51.59 ID:s37g1Ha+
まあ、今の僕は、悟りとか仏教とか関係なしに、忘れてただ生活する、仕事するってとこかなー。。。
坐がまだ足らないという思いがあるから、もうちっと坐ろうというのはあるけど。。
悟ってるとか悟ってないとか、考えるうこと自体が、おかしい、無駄なことだとは分かる。。
道は一つと言えば一つだ。
しかし、人それぞれ縁が違うから、どういうきっかけでどうなるかというプロセスは、人それぞれ。。
いんちき関西弁のおっさんは、もう引退しちまったのか・・もうちっと出てきてもらえるとうれしいのだが。。
コテハンが来るとたいていクソスレになるよな
原発ひどいことになってるらしいけど、これって魔境だよねw
>>811 インチキ関西弁って俺のことかね?
インチキで悪かったな。
あー【着陸】の説明やな。
着陸はあれだよ。
宇宙船が宇宙空間に着陸するねん。
着「陸」というとおかしいんやがね。
宇宙空間に道なんかありまへんで。
あー【離陸】の説明やな。
離陸はあれだよ。
宇宙船が宇宙空間に離陸するねん。
離「陸」というとおかしいんやがね。
宇宙空間に道なんかありまへんで。
あー【離陸】の説明やな。
離陸はあれだよ。
宇宙船が宇宙空間に離陸するねん。
離「陸」というとおかしいんやがね。
宇宙空間に道なんかありまへんで。
818 :
ろん:2011/04/02(土) 20:56:08.66 ID:s37g1Ha+
ふーん、よくわかった。。
聞くのが間違いだったんだな。。
819 :
ろん:2011/04/02(土) 21:01:48.69 ID:s37g1Ha+
宇宙空間つったって、今僕らがいるところも宇宙空間やで。。
>>819 そらそうよ。聞くのが間違いや。
だからなんなや。わしら宇宙空間におるで。
宇宙はええよ、ほんまに。とにかくガラガラや。
>>820 あなた友達とかいるの?
宇宙人じゃなくて、地球人の話。。
ついでに言うとTOMODACHIじゃなくて、友達の方。。
>>821 友達?
そんなんおらんよ。一人もいないよ。どうして?
TOMODACHIと友達って何か違うの?
俺の高校生の頃の妄想の定番が
ツトム・ヤマシタの GO を聴きながら
宇宙空間を浮遊しているというものでした
824 :
ろん:2011/04/03(日) 01:21:36.89 ID:657YAOCQ
>>822 宇宙はええよ、とか言うから聞いてみたのさ。。
TOMODACHIというのは、アメリカの日本援助作戦・・地震が起きてちょっぱやで空母がやってきて、援助物資配っていったのよ。。
いやいや、地震起こした当事者かもしれんのになーと僕なんかは思うんだけどねー。。
>>824 ほんま宇宙はええよ。今まさにおいら宇宙遊泳してるねん。
地球も宇宙なら宇宙遊泳やろ。
やはりTOMODACHIは米軍のことか・・・・・・・・・・・・・・・・・。
それはこれ以上深入りしちゃあかん。
あんたそれやめといたほうがええで。
こっちでできるかぎり調べてみますし、対策してみるがね。何でもできるし、わし如来やで!
実践スレなのにごちゃごちゃ話してるのはどういうこと
827 :
神も仏も名無しさん:2011/04/03(日) 05:46:34.57 ID:jUlNdnZg
糞コテトラップになった
828 :
ろん:2011/04/03(日) 07:01:20.04 ID:657YAOCQ
>>825 そうか・・・じゃあ調べて報告してくれ。。
頼んだで〜。。
こういうつまらん虚栄心の連中が自分は悟ったと語ってるんだからねw
830 :
ろん:2011/04/03(日) 13:40:19.08 ID:657YAOCQ
悟った、悟った、悟ったで〜〜。。
あっはっは。。
今から坐禅してみるよ
がんばれよ〜。。
>>833 「偉い」ってことは、何か基準があるってことなんだよな。
理性で行うことはすべて基準があるんじゃね?脳ってそういう使い方できる器官だし。
社会生活とか基準持たなきゃできないし、ほとんどの人が在家だろ。
基準を外すことが目的ならLSDやきのこで充分。
それとは関係ないけど、833の坊さん絵的にかっこよすぎw
>>835 「かっこいい」ってことは、何か基準があるってことなんだよな。
人をかっこいいとかエライとか素敵とか思うのは本能的なもんでしょ
ベートーベンやモーツァルトが人気あるのはどこかに基準があるはずだよね、
なんていったところで誰でもそれをマネしたり説明できたりするわけでもないように
838 :
ろん:2011/04/05(火) 09:50:57.61 ID:hJrxTYfZ
かっこいいとか偉いって別に思って悪いこたないけど、あんまりものを考えてないやつが多く使う言葉じゃないか・・本当はどういうことに価値があるのか、、あんまり考えてないやつだと思うぜ。。
結局のところ自分の信じる世界に生きるしかない
仏教はよくしらないし、縁起というのも詳しくしらんが、
偽善でも売名でもなく他人の役に立つというのは、
理屈ぬきでいいことだ
ある人の役に立ってる事が、別の人の害に成る事なんていくらでも有る。
世の中表裏一体、見る方向によって善悪はいくらでも変わる。
そうはいってもなぁ、子供のため家族のためって思えるから、
働くこともできるだろ。自分がいることを喜んでくれる存在もない、
ただその日の糧のためにだけ生きて働いているだけなら、生きててもむなしい。
何か自分が役にたっているという感覚は、生きるためにどうしても必要だとは思うが。
縁起ってのも自分的にはそんなふうに解釈している。
そういや、昨日妻子をなくした被災者が練炭自殺されたそうだが、心中お察しする
仕事をしてれば誰かの役には立ってると思うが。
縁起はそんなものでは無いし。
出家とは世間どこ吹く風でメシ食ってる極道だぜ。。
そもそもお釈迦様の教団は、世間の役になんぞっまったく立たない、生産活動もしない、乞食集団だ。。
死者のためにお経を読むなんてこともしなかった。お経なんぞなかったんだから、当たり前だが。。
世間の役に立ちたい人は、仏教なんぞに関心持たずに、ドラッカーでも読んで、お国のために働けばいい。。
人の役に立つ人になりなさいと学校の先生は言う。大変結構だが、真実を知らないまま、人に尽くしさという、国家、社会の奴隷というか、従順な子羊を育てあげる、エデオロギーでしかないのさ、そんなもの。。
>>839 そうじゃなくて、もともと賢いものは、世間の言うことに惑わされずに、一人真実の探求をするものだよ。。
あなたもあなたの理解の範囲で信じている世界に生きている。
いや、僕は何にも信じてないよ、目の前にはパソコンがあり、机があり、そういう五感で確かめられるもん穂以外は何も信じない。
信じる必要もない。
847 :
哲学者:2011/04/05(火) 16:18:03.88 ID:DmyOnhIA
「役にたつ」ってのもわるくはないが、ちょっと感じが強すぎるかもしれない。
人と人の関係というか、ふれあいというか、そういうものが生きていくために必要という
感じで書いた。
それをおおげさにいうと、友情とか愛だとかになるのかもしれないけど、
もっと普通な意味での袖すりあうのも多少の縁的なものでもいい。
おたくが2chにくるのもそういうものがまったくないのはつらいからじゃないのかな
なんにも生産的なことをしていない原始仏教徒たちも、そういうものはあったのでは
君は仏教には向かないな
というか仏教の本を一冊も読んだことが無いだろう
一人真実の探求なんていうのはいいが、結局こうやって他人の聞き手を
必要としているのは、つまり人は一人ではなんの意味もないということじゃないのか
やっぱ社会になにかしら役に立たないと悟りも意味無いと思うね
社会から隔離して悟るんだったら
金持ちが一生覚醒剤やりながら悩みなく生きてるのと同じだと思うな
社会に役に立つか役に立たないか、という基準。
だれかに頼るのでなく自分に頼れ
だれかに頼るのでなく法に頼れ
禅宗とか神経質に脳のトラップ外せって言ってると思うし、それは必要なんだろうさ。
でも、だからって否定君になってたらそれも二元論のイデオロギーでないか?
門外漢からは「それ考えすぎじゃね?」と感じるほど探求する性質の仏教が、
自他不二の感覚とかドラッグで簡単にできるものだけを指して小悟だ大悟だいってるわけじゃあるまいよ。
思考やら理性やらで行う部分も大切じゃん。全体性つーか。
糞コテは脳と身体を分離して捉えることを小悟と言ってるだけじゃないのか。
何を指して悟りというのか、俺も知らないんだけどね。
>>850 僕は一人でいてもおんなじだけどね。
ずーと一人でいた時期もあったし。。
探求していた時期は一人だったよ。
ひとりで、今に落ち着けるというのが第一歩で、そこまではたどり着いたのだろう。
あるがままというやつ・・そこからさらに進まなければならないのだと思っているよ。。
百尺の竿の先から、さらに一歩進まなければならない。。
一人でいられなければ、半人前というか、生きてる意味ないと思うぜ。。
春は花・・それだけで喜びがある。。
半人前 or 一人前
生きている意味がある
or
生きている意味がない
そう生きる意味を決め付けることも無かろう
鉄人28号やアトムのフィギュアがあれば無上の幸福にひたれる人だっているわけだ。
人生いろいろさ
人生エロエロ。。
悟りがあれば、迷いがある。
よって悟りという視点から迷いを断ずるというのは、仕方がない、仏教として間違っているわけじゃない。
そうじゃなくて、迷いに気づかず、迷いによって、二元対立に陥るのが良くないということになる。。
いやー何でもいいんだっつったらそれもありだけど、誰もそんなこと言ってる人はいないんだよ、お釈迦様でも達磨さんでも。。
迷悟も表裏なら対立でねーか?
だから悟に取り憑かれるのはよくない。
どーだ?これが悟だ参ったか、はっはっっは!という人になってまう。
迷いを払わず悟りを求めず。
真っ白のキャンバスに白地がなくなるまで絵を描ききってこそ自分になれる。
自分って何?
多元対立が迷いだと思っているような人は、そもそも2chなんてやらんだろ
対立があってそれを超える思考にたどり着くことで人は進歩する
866 :
神も仏も名無しさん:2011/04/06(水) 18:41:19.11 ID:A3VabIVz
>>861 あれ、ぽったん
こんなとこでなにしてんの
ろんだよ
868 :
神も仏も名無しさん:2011/04/06(水) 18:51:53.36 ID:A3VabIVz
へー
一人でやっててどっかまで行きました
っつって自分語りして竿の先からさきばしりとか言ってるから
すっかりぽったんかと
もしかして同じ人だったり…
まーおしゃべりが過ぎるのは、煙草のせいかもしれんねー。。
しかし、ここはおしゃべりするところだろー。
そう目くじら立てることもあるまい。。
870 :
神も仏も名無しさん:2011/04/07(木) 06:36:28.56 ID:DChO29Ts
禅、禅、禅
871 :
本当にあった怖い名無し:2011/04/07(木) 10:46:48.99 ID:+TtOD4Nt
一日体験座禅会に行ったら、
行く前までは、心療内科とかとは無縁だった私が、
突然、頭痛や幻聴がして、発狂して裸足のままお寺を逃げました。
今は、心療内科を受診しています。薬も飲んでいる。
みんな、坐禅とか辞めた方がいいと…個人的には思う。
へんな宗教のじゃないの?
>>871 抑圧の壁が薄くなって決壊したんじゃない?
まっとうになっていく方行性だよ。。
デトックスが起きていると言うこと。。
>>871 気功の本に書いてあったけど、座禅やって朦朧としているところに棒で叩かれると精神病になる確率が高いらしいよ。
坐禅で朦朧となるなんてことはないよ。
頭がはっきりして、意識がクリアーになる。。
その分抑圧や妄想もよく見えるようになるというのはあるが。。
スッキリし過ぎて頭痛くなる事は良くある。
>今は、心療内科を受診しています。薬も飲んでいる。
>みんな、坐禅とか辞めた方がいいと…個人的には思う。
それは良くあるケースです。多分、診療の効果が出て来ています。
本当は、一日坐禅会に行ったというのは夢なのですが、現実と勘違いしているのです。
実際には狂っていたのですが、その現実を見たくないので、夢とすり替える現象が
出ているのです。
まぁ、やばい集団もあるから、自分の身は自分で守ろう。
某新興宗教では手軽に神秘体験を得させるためにメスカリンとか
LSDまがいのものを使ってたと聞くしね
座禅はもっとまじめで小細工のないものです
>>828のロン氏
調べたけどよくわからんね。きっといつもの陰謀論やで。
ワシは電信柱見て悟ったが
ワシ悟ったときは、自分が悟ったんじゃなくて
目の前の電信柱と景色が悟ったんやで。
ワシはいなかったんや。
何もかもがキレイに見えたんや。
イルミネーションとか最高に感動したで。あんなにキレイに見えたの初めてやったぞ。
満開の桜もやばかったな。酒飲みながら花見してる平安貴族みたいな気分やったぞ。
Dr.ヒルルクは桜見て悟ったんやろうなあ。
霊雲和尚ってのは桃の花見てさとったらしいな。
ただその後は世の中に疎くなったな。
世間はなくなってもうた。
社会だけがそこにはあった。
880 :
ろん:2011/04/07(木) 18:23:00.84 ID:/5NVeJMQ
>>879 >きっといつもの陰謀論やで。
なんじゃ、任せとけみたいなこといった割には、たいしたことないの〜〜。。
電信柱と景色が悟ったか、いいこというね〜。。
わしはもともとなかったー・・外だけがあったーっと。。
ぼくは、それに近くなってもすぐ自我にもどっちまうからなー。。
まあ自我も大切だからいいんだけど。。
Dr. ヒルルクってググったら、ワンピースが出てきたぞ・・マンガの話?
881 :
ろん:2011/04/07(木) 18:25:47.57 ID:/5NVeJMQ
おいらも自我を脱いでお手上げで生きるか。。
882 :
ろん:2011/04/07(木) 18:28:38.28 ID:/5NVeJMQ
世間あるなら世間に任せろ・・お手上げ万歳って、せったんさんも言ってたなー。。
奥田民生の歌にもある、人に任せて僕らは行こうだったかな。。
色気あるなら色気に任せろ。。
>>880 DR.ヒルルクはワンピースというマンガに出てきたんや。
というか劇場版をこの前テレビでやってたのを見ただけやがね。
それと自我ってゆのは何かの勘違いやで。
自我に戻るとか、自我を脱いでとかはないで?
自我があるときとないときのロンちゃんに違いあんの?
884 :
神も仏も名無しさん:2011/04/07(木) 19:15:12.25 ID:9UlanB2w
>>871 脱宗教の座禅は+
宗教の座禅は-
宗教は-だから
>>883 >それと自我ってゆのは何かの勘違いやで。
自我に戻るとか、自我を脱いでとかはないで?
自我があるときとないときのロンちゃんに違いあんの?
まあ我執があるかないかということなんですけどね。。
あと勘違いでも、どこかで自分があるように思っちゃうじゃないですか。。
おれはこうだという思いに振り回されれば、業が生じ、因果に落ちるわけですよね。。
自分という思いが、いろんな勘違いを生んで惑いに落ちてしまうんじゃないでしょうか。。
まあそれも実体がないと言えばないんでしょうが、実体がないといって解決、悟りというわけではない。。
まあそのままで悟りですよーでもいいし、その通りでもあるんだろうけど、僕はなんかすっきりしない時がある。。
すっきりすればいいだけなのかもしれんけど。。
887 :
ろん:2011/04/07(木) 20:39:52.34 ID:/5NVeJMQ
このPCだとどうもコテが抜けるなー。。
接心って、例えば週末とかに一人接心をやることは可能ですか?
その際、なんか注意点はありますか?
禅を組んでもどうも進歩が遅いようなので
一度底的にやってみようかなと思うんだが。
本格的にざふや線香も買った。
一人ではどうしても甘えがでないかな
それと、集団でやると、他人にみられているという意識が一種の緊張になって、
雑念を消す働きにもつながる。接心やるつもりなら、禅寺へいってみては
>>889 甘えはでるよな
アスリートもトレーナー雇うのは練習を組み立ててもらうほかに
叱咤激励してくれる人がいないとギリギリまで自分を追い込めないかららしいね
一人で練習するとこれでいいかってなるし
>>885 そら禅だけの話やないな。見性が禅の専売特許やないのと同じで。
禅なら、そう【空】【無我】【無自性】ってことになんのかな。
極めて危険なとこであると思うねん。
禅なんか知らない宗教と関わりない人が見性体験の類をすると、必ず落っこちるやろな。
自殺とかしなきゃええがな。
>>885 >あと勘違いでも、どこかで自分があるように思っちゃうじゃないですか。。
おれもおもっちゃうんやで。
>自分という思いが、いろんな勘違いを生んで惑いに落ちてしまうんじゃないでしょうか。。
>まあそれも実体がないと言えばないんでしょうが、実体がないといって解決、
そやけど?自分ある自分ない実体ない実体あるも断見とちゃいますか?
>悟りというわけではない。。
ありがとう。
本願招喚の勅命なり
>>889 正直、禅寺で本格的にやると脱落しないか心配があるw
まあそれが甘えといえば甘えなんだけど、
もう少し自力で禅能力をアップさせてから
禅寺に挑戦しようかなとか思ってるんだけど。
>>890 なるほど。師家はトレーナーのようなものか。
今日は四月八日、灌仏会(かんぶつえ)。花祭。
日本の未来を信じよう
895 :
ろん:2011/04/08(金) 20:50:38.71 ID:sxLQv2uW
>>891 そうかもしれませんね。。
>>892 >おれもおもっちゃうんやで。
思ってもいいんでしょうが、勘違いとわかってるんじゃないですか?
だから、あんまり執着しないのとちゃいまっか?
僕はそんな感じだけどなー。。
>そやけど?自分ある自分ない実体ない実体あるも断見とちゃいますか?
断見という言葉の使い方が不正確と思いますが、理としてあるとかないとか言っても意味ないはわかります。
自分を振り返らないというか、すでに忘じきっていることを信じるっていうのかなー。。
ホントは感覚としては、ただ外を見て生きるだけという感じなのだけど、それでいいんだと思いますけどね。。
あるとかないとか言ってないで。。
>本願招喚の勅命なり
むずい言葉知ってますねー。。
南無阿弥陀仏ですかー、最後は。。
896 :
ろん:2011/04/08(金) 20:55:57.97 ID:sxLQv2uW
人間関係ってめんどくせーと思ったけど、嫌われてもいいんだと悟ったわ。。
嫌われても、よく思われなくてもいいと思うと、ほんとに楽だなー。。
みんな仲良くとかウソくさー。。
なるべく争わないようにくらいでいいんだろうな。。
それ以上は不可抗力・・嫌うやつは勝手にしろーだ。。
以上ひとり言でした。。
897 :
ろん:2011/04/08(金) 22:08:41.56 ID:sxLQv2uW
私が思う私は本当の私ではなく、ただの思いなのだ。。
しかし、正しい思いだってある。。
他が思う自己は本来の自己でなく、ただの思いなのだ。。
しかし、他の思いが大切なときもある。。
夢の中を現実的に生きる、現実の中を夢見ながら生きるのだ。。
言葉はなんの役にもたたんから、座禅するんでしょう
おまえらは、震災にたいしても、中立で見れている?
>>895 >自分を振り返らないというか、すでに忘じきっていることを信じるっていうのかなー。。
>ホントは感覚としては、ただ外を見て生きるだけという感じなのだけど、それでいいんだと思いますけどね。。
>あるとかないとか言ってないで。。
それ時間の流れの問題やないですか?
ヴィパッサナーとかやってる人ならよくわかってんちゃいます。
現在を意識的に生きて、まあ観察するというか。
ワシは観察するというと時差というか誤差が生じるような気がするんで
何と言うか現在に巻き込まれるようにしてるんやけどね。
時の流れとひとつになるっちゅうか。doingよりbeingですかね。
主客が一つになるなら、主観的時間と客観的時間も一つにならにゃならんやろうし。
時空(時間と空間)でっか?そういう意識的な生活は心がけとります。
妄想ばっかりしてると睡眠時間が長くなるような気がして嫌なんで。
地震もうええわ。原発ももうええわ。
21世紀を予言してるような映画のセリフあったな。アルパチーノの。
「人類が神の創造物だと?私は警告したんだ。私は事あるごとに警告した。
それでも人間どもは、ネジ巻き式のレーシングカーみたいに走り回っている。
車体には100kgはありそうな貪欲という塊を積んでね。
新世紀は、目の前に迫ってきている。
欲深なエディ・バズーンをよく見ろ!まさに新世紀を創造する典型的な人間像だ!
ああいう人間がこれから、ぞくぞくと生まれてくる。
ただ欲望だけを鋭く研ぎ澄まして、己の我欲という目的に向かって、
我武者羅に突っ走る人間ども!エゴでできた大聖堂を打ち立て、
光ファイバーを使って世界中に欲望の網を張り巡らす。
金メッキをされ、札束の色に染まった退屈な夢に油をさしながら、
粗野な皇帝として君臨し、やがては自らを神と見なす。
だがその先はどこへ行く?!この地球はどうなる?
次から次へと欲望に走る人間ども!空気は汚れ、水は腐り、
蜂蜜は放射能の味がする。」
「オベリスクはドンドン広がっていくだ。加速度を増しながら・・・・。
心の準備をする余裕もない。未来なんてない時代に未来を売ったり買ったりしている。
人類は、破滅へと暴走する列車だ。
未来に向けて突っ走る、エディー・バズーンそのものだ!
神の創った地球にこぶしを突っ込んでレイプし、素知らぬ顔をして指をなめると、
最先端のパソコンのキーボードに歩み寄って、目の玉が飛び出るほどの金額を打ち込む。
報いは必ず来る。エデイー、そろそろ罰を受けるときだ。
今更あがいても手遅れだよ。腹はパンパンにふくれ、股間には激痛が走り、
目は真赤に充血し、お前は救いを求めて絶叫する。
しかしどうだ!そこには誰もいない。
お前は一人ぼっちだ!お前は神のちっぽけな創造物さ・・・。
たぶん神は、人間を買いかぶり、サイコロを振りすぎたんだ。
そして、見捨てた・・・」
『ディアボロス/悪魔の扉』より
神とかどうでもいい
ナウシカ「
>>899、アセンションスレへお帰り. この先は お前の世界ではないのよ」
禅の達人って、震度7の地震が来たら、どういう態度・行動をするんだろう?
あるお坊さんが阪神淡路の時パニックになったと正直に告白してた。
それで自分はまだまだ未熟で修行が足りないと思ったらしい。
909 :
ろん:2011/04/09(土) 20:56:08.53 ID:/bYLjitQ
過剰も欠如もないよ・・無我なるがゆえに。。
あっはっは、ただ酔っぱらって思いついたこと書いただけだ。。
910 :
ろん:2011/04/09(土) 21:01:30.20 ID:/bYLjitQ
自分を捨てて他のために尽くすって、まあ理想だろうけど、いいことやなー。。
利他というのか・・今まで嫌いだったが、最近目覚めてしまった。。
実行できているとは思わんけどね。。
物のために則となる 用いて諸苦を抜く・・
洞山大師に三拝。。
911 :
ろん:2011/04/09(土) 21:03:36.54 ID:/bYLjitQ
>>900 そんなにゴチャゴチャ言うってことは、あんまりわかってないんじゃない。。
もっと単純ですっきりしたものだよ、禅は。。
912 :
ろん:2011/04/09(土) 21:05:32.33 ID:/bYLjitQ
妄想もいい自我もいい現実もいい・・あっはっは、何でもいんだよ。。
やれやれ
あいかわらずのあほやの
914 :
ろん:2011/04/09(土) 21:27:43.69 ID:/bYLjitQ
あほがいちばん。。
諸行無常
すべては変化する
諸法無我
かたちは一時のものである
一切皆苦
うまくいくことはなにもない
涅槃寂静
生きている間以外の時のほうが良いに決まってる
>>909-912 分かったけど、1レスにまとめてくれないかな。
せいぜい3、4分の間隔しか空いてないのに
連投しまくるのは可読性が損なわれるので止めて欲しい。
917 :
ルパピヨン〜〜〜〜〜(/ ̄▽)/ 〜ф"":2011/04/09(土) 23:54:07.79 ID:O8NXH824
>>915 > 諸行無常
> すべては変化する
なにひとつとして、恒常の存在は無い。
> 諸法無我
> かたちは一時のものである
ありとあらゆる真理は、わたしが無い、あなたが無い。
> 一切皆苦
> うまくいくことはなにもない
あらゆる事は、思いどおりにはならない。
> 涅槃寂静
> 生きている間以外の時のほうが良いに決まってる
他にこき使われる奴隷ではなく、その場の主人公であれ、それが自由である。
>>914 あほにまで順番つけたいとか…
とか言ってるうちにろんくんのTOMODATI登場じゃん?wwww
>>910 ん?ろん道人、はじめからワシらを試しおって、お人が悪い。
ワシは今、三千世界が滅んでしまったかのような仏頂面やでwwww。がはは。
それにしてもキレイさっぱり捕らえどころもなく無一物人のようやな。
あほ?愚神礼賛
>>905 ゆくかわのながれはたえずしてしかももとのみずにあらずは鴨長明やないかな。無常w
>>907 禅僧が何事にも動じないというのは思い込みやで。仏像にでもなればええやないか。不動マネキンや。
はー、月を差す指か。月は都機。芸術家は美を失ったら終わりやぞ。
ワシは愛と美は失えないんや。
ワシも今日は酔おう。
キリスト教で神を人格神としてしまった経緯を言おう。
実は悟りも同じなんや。禅僧も同じように説くからこそ弊ありや。
仏性や精明や主人公や真人や他の面目野郎も同じや。良寛でさえ珠玉と言ってしまうバカさ加減。
道元さん言っとるやないか一心は宇宙と。
結晶の如く宝ありや?アホか?法で無しはあらざらんやぞ。
小さな自己で受けたり如意?小さな皿で受けたら少ないままやないか。
お猪口で受け取るな滝の水。これで神はちっちゃな人格神。
受けよ果なき大杯。
これが愛や。これが美しさや。
滝行は全身打たれるものや。手のひらだけ打たれて何とする。
洗礼は水の中にドボーンや。頭に水一杯だけかけて何とする。
人格神は所有物。されど神は所有されざり。
生悟りは所有物。されど悟りは所有されざり。
ああ、幸あれ!
ニーチェの有名なキリスト教批判があるけど
あれを乗り越える説得力のある言葉を
キリスト教の側から聞いたことがないんですけど
922 :
ろん:2011/04/10(日) 04:51:55.58 ID:40wf1/qO
おっさんも今日は全開やのー。。
要するにすべてのすべて。。
すべてが悟っているのであって、ちっぽけな誰か一人の悟りなんてものはないと。。
一心は宇宙か。。
>>918 TOMODACHIじゃないでー。。
ストーカーやわ。。
924 :
ろん:2011/04/10(日) 04:55:54.76 ID:40wf1/qO
もともと無一物なんやなー・・おれはよく忘れちまうんだけどなー。。
925 :
ろん:2011/04/10(日) 05:01:28.65 ID:40wf1/qO
もともと無いものは捨てられないかー。。
926 :
ろん:2011/04/10(日) 05:18:57.51 ID:40wf1/qO
自もなく他もなく、すべてがある。。
>>921 にえtzsちぇの人生自体が説得力のある批判だから
今日2ちゃんスレで知ったんだけど
小池龍之介て真宗の勘違いくんが生家(寺)の単立化したんだってね
「世襲坊主の寺の私有化」だよ
いい加減「練習」やめて欲しいね
人生には本番しかないんだよ
>>922-926 連投は、
レス数を無駄に浪費し(1スレ1000レスまでです)
スレが読みづらくなって、迷惑なのでやめて下さい
なんか飄々としゃべっているなかに、妙な強がりのような姑息さを感じる。
多弁は無用
931 :
本当にあった怖い名無し:2011/04/10(日) 15:37:45.08 ID:dP0j7JkE
坐禅を一日体験したら、いきなり幻聴が聞こえるようになった。
そのまま、二度とそのお寺には行かずに、
精神科で統合失調症と診断され、今リスパダール(リスペリドン)
を飲んでいます。
坐禅でいきなり統合失調症とか俺だけ?って思ってネットで検索したら、
楽天ブログ 坐禅安全神話の嘘 で、俺とほぼ同じ症状が書いてある。
また、坐禅をしたら幻聴に! でも同様。
932 :
本当にあった怖い名無し:2011/04/10(日) 15:43:56.84 ID:dP0j7JkE
>931のつづき
神秘的なものや超自然的なものを求める心がある人が、坐禅をやると必ず魔境に入る、
というのを聞いたことがあるけど、
俺はそういうんじゃなかった。
しかも、神秘的なものに憧れてるヤツなんて、精神世界の本棚の近くいけばたくさん
いるし、人口の何パーセントかが当てはまると思う。
つまり、人口の何パーセントかは、坐禅をすると、すぐに魔境に入るわけだ。
俺は禅寺を中傷するつもりはないが、少なくとも危険信号程度に思っておけ。
俺の場合、
『刺し殺してやる!』『恨んでいる!!』っていう声が一日中リピートして、
夜も眠れなかった。発狂した。体がかってに動いた。
肉体はどこも傷ついていないのに、痛みで時間が止まるほど体全身が
切り裂かれるように痛かった。
何やっても病気に成る人は居るんだから、こんな所に出入りせずに
薬を飲んで治癒する事に専念しなさいな。
あなたの文章をみたところ、なんとなくアグレッシブな印象です。
だから刺し殺してやるとかいう声も、あるいは内面がうかびあがってきた結果かもしれず、
今後あなたが気持ち穏やかになるためには、それをなんとかしなくてはいけないかも
座禅がというよりも、あなたの心になにかありそう
薬は一時的にはいいでしょうが
935 :
坐禅:2011/04/10(日) 18:58:59.95 ID:hsltIyDi
お釈迦様は、ブタガヤの菩提樹の下で坐禅をされ、7日7晩の禅定の後に、悟りの境地に入られました。
「坐」は、日本の言葉で「すわる」といいます。「すわる」とは、落ちついて動じない、とか、静止する、
定着する、などの意味だと辞典にあります。要するに、動かないように安定させることです。
身体を落ちつけて動じない形に安定させ、心を一ヵ所に集中し定着させる。
その身と心とを融合統一し、身心を一如に安定させるのが呼吸です。
そこで身・息・心の統一調和をはかるのが「坐」だということになります。
禅では、「定慧円明」といって、定は必ず慧を発し、
慧は必ず定に基礎づけられ、打って一丸となった円かに融け合って明らかなものでなければなりません。
禅の目標は、実にこの「我に在る菩薩」を「見」るところにあるといってもよいでしょう。
それを「見性[けんしょう]」といっておりますが、見性して観自在の自由自在、
思いのままの日常行為をするところにこそ、禅はあります。
忙しくなると、坐禅するのを忘れる。 覚えていても、焦りからか、とても
1時間もゆっくり坐っておれない。
別に1時間と決まってる訳じゃない
また派手に揺れるんやな。地震はもうええわ。
ワシの修行が中断するかと思うたわ。
ワシの禅定は天地を有し有されアッシュやで。
されども愛は忘れざりけりや。
断崖から眺める空と海。空海かいな。
青空と海とセッ○○するが我が奥義や。
その場その場でそれになるのがワシの修行や。
言葉がみだれてるよ。緻密な瞑想をした方が好いと思う。自分の問題は焦り
だけどあなたのは、なんだろう。
俺が、俺が…
ワシが、ワシが…
最近座禅するより寝てる方が悟りに近いような気がしてきた
寝てるのは死に一番近い
只管打坐で電源脱落
945 :
ろん:2011/04/12(火) 16:57:29.63 ID:sGd0M9Ac
>>939 >その場その場でそれになるのがワシの修行や。
そうそう、自分に関わらなければ、目の前に答えが出てる。。
自分がどうにかなるのが仏だと思ってるといつまでも埒が開かん。。
いつも答えの真っただ中。。
>>945 ろんちゃん地震大丈夫かいな?
あんた僧侶やろ?曹洞宗の。
どんな経緯で徹底したんや?
めずらしいんやな。
947 :
ろん:2011/04/13(水) 00:42:53.78 ID:M/XbmM0e
>>946 いやいや、僧侶じゃないよ。。
いつも煩悩の真っただ中、ただの俗人です。。
曹洞宗のお寺で坐ったことはある、接心に行ったことはあるけどね。。
・・地震はねー、、なぜか僕が風呂に入ってるとき余震が来る。。
おいらが風呂に入るのが悪いんかなーなんて。。
948 :
本当にあった怖い名無し:2011/04/13(水) 06:40:01.22 ID:9pzPmuW1
『坐禅はただ足を組んでボッーとしているだけだから、坐禅で統合失調症とかありえん』
俺は鬱で放心状態になり、何も考えられず、自分もなくなって、『無我の境地』になったことが
あちます。これを足を組んでやれば、坐禅になるんですね。
つまり、坐禅とは、足を組んだ姿勢で、鬱の放心状態を人為的つくりだすことなんですね。
なんて、言ったら『違う』って言うだろ。
『精神が安定する』とか『功徳がつめる』なんてのも、
立派な『霊的な働き』
『霊的な働き』である以上、合わない人には、幻聴など、マイナスの効果があるんだぞ。
これは、強い薬には必ず副作用がともなうのと同じ原理。
もし、坐禅が何の副作用もない、ただボッーとするだけのものだったら、
『価値のない、時間を無駄にすごすこと=坐禅』となる。
俺の場合、
発狂して、家族に三人がかりで取り押さえられた…けな?記憶がよくない。
でも、発狂や幻聴はあった。
それと、俺の経験では、坐禅って『本当は功徳など積めず、むしろ負の修行』なんじゃないか
と思う。
俺には、魔術の修行が一番合う。一番幸せで、精神が安定する。
典型的天魔禅。
w
魔術の修行って、マリックとかセロとかか
>>947 風呂でっか。そりゃわしも同じやな。水面は思ったより揺れるんよ。
三大やばいは
入浴中・うんこの最中・座禅中
裸で逃げるのはずいし、うんこ蒔いて逃げるのはずいし、坐禅してると足が痺れて逃げられへん。
だから結跏趺坐で禅はやめたんや。イスに坐ってやることにしたわ。
ワシは結跏趺坐で坐りっぱなしってのが大嫌いやねん。
せやから坐禅なんかほとんどせんよ。
日曜に10km以上歩いて禅というのが性に合っとるな。
ワシんとこにでっかいローマ風呂あるで。
今度泳いでんちゃんとこ往くから覚悟しいやw
>>940 ワシの狂った発言を真面目に受け取らんように。あんたもワシと変わらんのだがw不思議や
>日曜に10km以上歩いて禅
歩行禅?
954 :
本当にあった怖い名無し:2011/04/14(木) 13:37:11.10 ID:KY9ug5dK
禅宗って、自分に都合の悪い教えを、『気の迷い』『天魔禅』などと決めつけて、
『見ざる』『気がざる』にすぐ陥るよね。
禅宗の住職さんを人格者だと思っている人もいるけど、私があった何人かはすごく感じが悪かったよ。
2chに居る禅の人も、みんな感じ悪いというかキチガイじゃんw
ろんとかポったんとかw
956 :
ろん:2011/04/14(木) 13:40:15.93 ID:ScDJMftR
>>952 あっはっは、うんこしてたとしても、蒔きながら逃げるやつはいないやろ。。
歩いて禅もいいだろね、今は桜が咲いてるし。。
しかし、いろいろ忙しいおいらは、ゆっくり花見してるヒマもないわ。。
ゴールデンウィークに、東北にでも行くかな・・花見に。。
温泉とかたぶん空いてるでしょ、事故のせいで。。
僕は坐って禅の方がすき・・やっぱり落ち着くからね・・時間がないときは、外の音に耳を澄ますくらいかなー。。
そういうのを日本語で 偏見 て言うんだよ
ひとつ勉強になったねw
>957 →>954
959 :
ろん:2011/04/14(木) 13:41:52.93 ID:ScDJMftR
でも禅って、キリスト教みたいな博愛方向ではなくて、
きわめて個人的なものだから、他者に冷淡というか、無関心というのは
別に不思議ではない気もする。
961 :
本当にあった怖い名無し:2011/04/14(木) 13:44:51.22 ID:KY9ug5dK
>949
『魔術』とはどのようなものかも知らずに、人を天魔禅とか決めつけるのはどうかと思うが。
せめてその前に、『天魔禅とはどのようなものか』『魔術とはどのようなものか』説明した上で、
俺とどう関係するかを説明しないと、
論理の飛躍と言わざるを得ない。
それと、
禅宗は単純思考な人が多いから『魔術は魔の術ー!!』と決めつけて、すぐ思考停止するけど、
よく知った上で言わなきゃ『人として』だよ。
西洋神秘伝統IMN というサイトが、実際には、『魔』ではなく『神聖』である
、高等魔術について説明している。
禅宗が『気の迷い』と決めつけて思考停止しているものの中にも、善いものはいっぱいあるのに、
あ〜あ…。
962 :
本当にあった怖い名無し:2011/04/14(木) 13:45:40.42 ID:KY9ug5dK
963 :
ろん:2011/04/14(木) 14:05:10.44 ID:ScDJMftR
地球滅んだって、仏なんだから、そりゃー天魔だろ。。
世のため人のためという有為いじゃないからねー、、正義とか善とかお国にのためとか、そういうっことが大事な人から見たら天魔にしか見えんかもしらん。。
>>961 そうじゃなくて関心がないだけだと思うよ・・そんなことやる必要性が感じられないと言うだけ。。
964 :
ろん:2011/04/14(木) 14:07:45.31 ID:ScDJMftR
中国禅で、仙道とかも一緒に学んだ人は、風水とか占いとか魔術的なことも知ってると思う。。
しかし、日本の禅は、そういうのとあまり関わりがないだろう。。
要するに力、エネルギーをどう操るかと言うのが魔術・・密教とか修験道の人が詳しいんだろうね。。
965 :
ろん:2011/04/14(木) 14:10:12.81 ID:ScDJMftR
でも曹洞宗のお寺は観音経をよむよ、あれは魔術そのものだと思うけど。。
うちのひいじいさんは曹洞宗のおぼうさんだったが
呪術師的なことしてたらしい
友達のぼうさんのおじいさんもぼうさんだけど
虫よけの術とか使ってたと言ってたよ
百年前は当たり前だったと言ってた!
>>962 読んだけど
その人糖質の毛が元々あったんだろ
声が聞こえて魔術やったあたりなんてもうね
969 :
ろん:2011/04/14(木) 19:15:08.92 ID:ScDJMftR
>>968 そう、リチャード・コシミズも言ってるよね。。福島原発は、放射能のカモフラージュだって。。
英語のソースだと、9.11の次は3.11、さらにはHiroshimaの次は、Hukushimaだなんて書いてるところもあるらしい。。
要するに、アメリカ・・というか、その背後にいる闇の権力者たちが仕組んだものでしょう。。
今は陰謀論として、裏情報でしかないけれど、そのうちどんでん返しが起こって、裏情報だったものが、真実の歴史になるう日も来るかもしれない。。
満州事変も自作自演・・日本軍がやったと誰も信じなかったのと同じこと。。
970 :
ろん:2011/04/14(木) 21:11:01.50 ID:ScDJMftR
来年も自作自演ハルマゲドンが起こる可能性がなきにしもあらず・・そのまえに、最後の審判妄想のやつらが自滅してくれることを祈るよ。。
世界中が大変なことになる、その予行演習を今年に体験してるのかも知らん・・日本人はね。。
まあ、以上のことが妄想であってほしいと思うが・・どうもねー。。
971 :
ろん:2011/04/14(木) 21:12:25.39 ID:ScDJMftR
日本は神の国だから・・なんてことを信じたくなってしまう・・オレとしたことが。。
972 :
ろん:2011/04/14(木) 23:45:13.62 ID:ScDJMftR
やるとしたらアメリカではなくて、あそこでしょ
あそこって?
>>972 ぎゃーー、右におる御老体はデヴィッド・ロックフェラー暗黒卿やないか。
銀行潰しの極道ども(>_<)金が全てのヘイ○○ー○やな。
何や、ろんちゃんの言う僧侶と同じやないか。
ろんたんの師匠はせったんさんやろ?禅スレではめっちゃ有名人やで。
川上雪担さんのことやろ?ポッたん禅師ではないわな。
せっちんはいきなり下ネタ連発しといて明朝には法雷爆撃というスターやった。
↓求心力ある人っていうんかな。見るたびに笑ってまう。円かな人。
http://mimizun.com/log/2ch/psy/1127825483/
976 :
ろん:2011/04/15(金) 18:47:57.35 ID:CkA9o22Y
>>975 うん、せったんさんの寺行ったよ。。
しかしそのスレ・・おもろいけど、完全にダマされてるんちゃうかなー。。
あっはっは、待ってるだけで、どんどんエロメールが来るっていうのは、みんなサクラというパターンじゃないかな?
ちゃんと会えるやつは違うんだろうけど。。
ところでヘイ○○ー○って何だ?
>>976 まあ、経緯は知らんけど。どうなんやろね。
わし根っから淡泊やから女色を好まないねん。英雄にはなれへんな。
何かビートルズの歌にヘイ何とかっていうのがあったな。
J○○○とJ○○○と同じとしてみたんや。深い意味ないで。
歪曲的比喩表現はわしの癖や。ろんたんの風呂と同じ竜宮城。
ああ、車の走行音、カラスの鳴き声、風鈴の音色、なんでも長広舌。
万有の主アッラーフの御名において。
ムスリム的なのもええがな。
暗黒の勢力と闘う。いやすでに闘っておる。
やるかやらないかの問題や。
そういう人が増えてくれたなら、わしは死んでええ。
貴様、宇宙とセックスしろ。
それだけでええんや。
980 :
本当にあった怖い名無し:2011/04/15(金) 20:09:18.30 ID:+3BRuSXG
>979
何言っているかわからん。お前こそ糖質じゃない?
というか、禅寺のお坊さんって、人格者きどりだが、自己中心な凡人なんだよ。
ただの、『自己中心的な凡人』が、普通に会社員してる、っている程度なら、そんな奴ザラ
だから、まあいいんだよ。
ただ、そういう奴が、『宗教関係者』となり、宗教的な意味で、人の上に立つから善くない。
坐禅して人格者になんかなれないよ、そういう幻想を持った自己中になるだけだよ。
ちなみに、俺も凡人だが、人格者を粧ったり、人の上に立ちたいとは思わない。
あいつら、本当は、自己中なんだから、無理に気取るなよ。
981 :
本当にあった怖い名無し:2011/04/15(金) 20:19:00.74 ID:+3BRuSXG
坐禅の幻聴から解放された俺は、糖質なんかじゃない。
その証拠に、今は、新しい学年のはじまりで始業式やら、オリエンテーションやらで、
暇だから2ちゃんの時間が多いが、
まったく問題なく学校生活を送っている。
それに、
夢のなかで旧友に会う夢を見ると、ほぼ100%次の日に旧友に会ったりする。
夢のなかで、妹がインフルエンザになるのを予言したり、
夢のなかで、『テストでこの辺でるぞー!!』と先生に言われて、実際にそうなったり。
なんだか禅宗って、魔女狩りとか異端審問とか平気で行っていたことのカトリックに似ている。
科学で証明されてない霊的パワー=悪って、すべての未知の力を悪魔に結びつけた、
あの中世カトリックに似ているよ。
そういうのは、これからの時代は置いていかれるはず。
例えば、禅宗のお寺にほとんど人が来なくなって、ただ住職さんだけが寂しく坐禅して、
そのうち、自分でも意欲がわかなくなって、
廃れて行く…
そうなると思う。
それに、お告げとかも『今日はお告げを聞くぞ』って念じて毎日寝てるけど、
『今日はお告げは聞きたくない』って念じれば絶対来ないし。
禅宗は、昔のおぞましいカトリックに似てるよ。今の少しマトモになったカトリックじゃなくて、
異端審問とか、魔女狩りとか平気で行いそうな感じ。
昔のヤヴァいカトリックの生まれ変わりじゃない??
982 :
本当にあった怖い名無し:2011/04/15(金) 20:23:43.93 ID:+3BRuSXG
>910
俺が会った住職さんは、そんなんじゃなかったぞ。
俺がまじめに幻聴で悩んでたときも『気の迷いです』で終了。何が利他だ?
薬を処方しておいて、薬害が出たら、『気の迷いです』で終了する医者は、人間としてどう?
そのまま、無視してスルーしやがったんだ。
しかも、『あなたの気の迷いを正します』とかお説教をはじめる。
自称人格者だけど、人格障害者のまちがいじゃないの??
それと、
ここにいる全員、想像してみるんだ、自分がたった一回の修行で激しい幻聴体験を体験したら、
すごく困るよな?
なのに、見放す、それが禅宗。
>>980 わしは禅宗の坊主に参じたことは一度もないけどな。
禅なんかどうでもええしな。
「禅宗」「禅寺」「禅」という砦みたいのが
あんたの中にあるんやろなあ。
そんなに拒絶するならわしと会合するかね?
984 :
ろん:2011/04/15(金) 21:01:57.65 ID:CkA9o22Y
>>977 へーえ、根っから淡泊っているんだねー。。
書き込み時間がすごいゾロ目だけど。。
>>978 なんとなくわかるかなー。。
>>979 陰謀論的なもん、調べだしたら止まらんで―。。
おもろいけどねー。。
>>981 未知でなくて、そんなもん、二千年前から解明されてんだよな。
無知なオカルトヤロウの敗北は既に決定している。
おつかれちゃんですた。
魔術でなおったと言ってる人は精神科にかかった方がいいぞ
絶対悪化してる
色即是空空即是色
何かな空と色に挟まれて生きるしかないんやな。
だから板挟みで何がなんだかよーわからんのね。
実体がないといってもいけない、実体があると言ってもいけない。
己事究明は人生の一大事とかいうが、己なんてよくわからない不可思議なんやね。
般若心経は、無い無い無い無いの連続やわね。
要するにワシらの書き込んできた考えなんか無い。
定盤星を認むることもまた実体ありと認めることになるんやろうなあ。気をつけなければ。
>>987 超魔術で有名なMR.マリックはね、昔本当の魔術師だと思われて
ガンを治してくださいとか重病をなおしてくださいという人が
いっぱい来たらしいんやね。
魔術ねー。
魔術というか、仏教の六神通ってなんなんやろね。
天眼通(てんげんつう) - 五眼(ごげん)の一。神通力により、ふつう見えないものを見通す超人的な眼。
天耳通(てんにつう) - ふつう聞こえる事のない遠くの音を聞いたりする超人的な耳。
他心通(たしんつう) - 他人の心を知る力。
宿命通(しゅくみょうつう) - 自分や他の人間の前世を知る力。
神足通(じんそくつう) - 機に応じて自在に身を現し、思うままに山海を飛行し得るなどの通力。
漏尽通(ろじんつう) - 仏のみが持つとされる通力。
こんなん出来るヤツおんのかいな。神々くらいやろ。
991 :
本当に会った怖い名無し:2011/04/16(土) 21:38:09.59 ID:PI6uZ9dg
>989
知りもしない奴が魔術について語りだしても、不毛な議論にしかならないので
(魔術じゃなくても、習ったことのない学問をいきなり論じても意味がないのと同じ)
とりあえず、西洋神秘伝統IMN
http://anima-mystica.jpn.org/imn/ みてから
論じてみよう。
それと、魔術と超能力はちがうよ。
禅宗はさ、神秘主義=悪、魔術=悪、と単純思考に決めつけすぎなんだよ。
神秘主義だから、特別カルトになりやすいわけじゃないんだ。
俺の知っている限りでは、イスラム教のスーフィズム、シュタイナーの人智学あたりが、
神秘主義ではマトモ。
神秘主義=悪って単純に決めつけるレヴェルが、安易な新興宗教と同じレヴェルなんだよ。
>>991 あなたの怒りは理解できる。その出来事は傷ついたろうと思う。
単純思考というか、まあそういう傾向は俺も感じるw
理由が何であれ、魔術、予知夢は現象としてはある。
それを意識するな、だったら納得いくが、否定するのは行き過ぎだと俺も思う。
ただ、あなたが魔術にいくのは自由だけど、禅に対する恨み、怒り、みたいなものは
捨てた方が良くないか。今は大丈夫でも、負の感情をもったままだと魔術が黒いものに
変わる危険があると思うんだ。
シュタイナーの人智学がマトモって…ヤバイな
現在のドイツにおいて
シュタイナーがどういうポジションか
知らないだろ、おまえ
995 :
本当に会った怖い名無し:2011/04/17(日) 08:27:27.84 ID:2G3NdpnL
>992
あなたの怒りは理解できる、魔術に行くのは理解できる…と。
ありがとうございます。やっと理解して下さいました。
これを機に禅宗への恨みを忘れたいと思います。
996 :
本当に会った怖い名無し:2011/04/17(日) 08:29:09.76 ID:2G3NdpnL
>990 普通に自分の前世の記憶くらい、思い出せる奴いっぱいいるよ。
俺の場合、古代ドルイドの時代に、ドルイドになるための修行中に死んだw
語りだしたら切りないから、やめとくけど、それくらいで神通力とか大げさすぎ。
ぶっちゃけ、禅が好きでオカルト攻撃してるのはおれだけどさw
俺は禅の人間じゃないぜ。
2ちゃんで攻撃受けたのを恨んでるのか?
それともリアルに禅の人間から攻撃受けたのか?
恨みってなによ。
自分が信じてるなら、他人が理解しようとしまいとやればいいじゃない。
他人が理解してくれないから腹たてるなんて、筋ちがいもいいとこ
禅だって、自分で信じられるからやってるわけで、他人からほめられるからやるわけではない
>>991 ワシ神秘主義好きやで。
仙術とか興味津々やしな。
ロンちゃん、魔術さん、ありがとう。
みなさん楽しかったよ。
ほな、さいなら。
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。