>>588>>616 Sn.1119:
suJJato lokaM avekkhassu, mogharAja sadA sato;
suJJaのabl. →「空であるものとして」「空なるものとして」「空として」 ・・・他略。
attAnudiTThiM Uhacca, evaM maccutaro siyA;
atta-anu-diTThiM
→「我(≒自己)に随う・沿う見解・・・妄執・我執」、「我(≒自己)についての・関しての見解・・・我見」 ・・・他略。
*上記 attan は、「アートマン」か「自我意識」か?「日常的分別の為の呼称」か?「実存的自己」か?
**おそらく伝統的には
『私・俺という想い、私のモノ・俺のモノという想い、私がいる・ある、俺がいる・あるという想い』
そのような見解、と読むべきなんだろうな。
***PTS辞書は anudiTThi の項で[ attAnudiTThi (q. v.) a soul-speculation. ] だとさw
であるならば「アートマンに関する見解」ということになるが・・。
evaM lokaM avekkhantaM, maccurAjA na passati iti. ・・・略。
結局、この偈だけでなく、仏典中の全ての用例に於いて、
「 attan 」を「アートマン」と解すか、「行動・思考の主体としての自己」(≒五蘊仮和合の自己)と解すか、
「実存的自己」と解すか、はたまた「真我、“真実の、煩悩に埋もれ・覆われた、本来の在り様・存在”としての自己」と・・・、
或いはまた、「肯定的に述べられている」のか「否定的に述べられている」のか、と、
文脈、前後関係等により、都度都度吟味せざるを得ないんでしょうね・・・。
そして、《「アートマン」或いは「真我」》(を、或いはそのようなものがある、と説いている)と比定できる記述があるかどうか、
なんでしょうね。
で、それ以降・それ以上の確認は、
《行じることによる、各自の、個人個人の体験・確認》(→先人或いは師の体験の追体験)
しかないんでしょうね・・・。
※いずれにしろ、1119偈のみ見るならば、否定的に述べられているわけだが・・・。