>>316 『別訳雑阿含経』の「外道問言。我死此生彼以不。阿難言。如來不説。」(外道が質問して言った。
“我”はこの世で死んであの世に生まれるのかどうか、と。阿難が言った。如来は説かない、と。)、
『中論』の「我有種種名。或名衆生人天如来等。」(“我”にはいろいろの名がある。
“衆生”・“人”・天・“如来”などと名づける。)、
>>103の『大智度論』の「如去者如人來此間生。去至後世亦如是。」(“如去”tathAgataとは、
“人”がこの世に生まれ来たように、そのように後世に去って行ったものである)と、
『テーリーガーター』130「亡者は、人間という形態(色)でもって輪廻しつつ、去って行くでありましょう。
やって来た通り、そのように、(彼は)去って行ったのです(yathAgato tathA gato)。」(正田訳)との関連、
等々の持つ意味について再考を促したいところですが、「水野先生が解決し」ていると納得し
完結されているのでしたら、残念ですが仕方ありません。
ところで、水野先生は、外教の質問「霊魂と肉体とは同一であるか別異であるか」に関して、
「そこには有情の死後の存在の有無が問題とされているのである。
このように無記説の他の項目で既に一般有情の死後の存在の有無が問題とされているのに、
更にtathAgata(一般有情)の死後の存在の有無が論ぜられることは、全くの重複となって無意味である。」
と、その論文でお書きになっていますよね。
つまり、水野先生は、「一般有情の死後の存在の有無」の質問は無記とされた、とお考えなのですが。。。