【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】13

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(※これは余談になりますが)、このような時、私が思うのは、
このような矛盾や不整合が生じるのは、《『外縁起』を中心に考えているから》だろうということだ。
 (貴方は矛盾や不整合だとは思っていないかもしれませんが・・・。
  道元が薪と灰の例を出した時“前後際断せり”と言わざるを得なかった理由、
  ワッチャゴッタが浮遊する識を探した理由、
  《自身についての内省と改善・向上、目標》を飛び越え、
  《他者の過去を吟味し、審査し、断罪し、然るべき報いの到来を望む》のも、
  そのように、悪人は死後地獄で報いを受けるべきという発想も、
  三世に跨る業果も、すべて『外縁起』の話だ。)
シッダッタの出家を振り返るまでもなく、本来の縁起は徹頭徹尾『内縁起』であるべきだろう。
だからこそ、アッサジと舎利弗の邂逅は、あの偈は重みがあるのだ。
 (「苦の滅」とは、《何か具体的物理的な、個物的存在・実体として「苦」なるものがあり、それが滅せられる(消失する)》
  ということではなかろう? 主観的に、自らに感受され認識される「苦」という法が、
  「苦として感受される」法が、(「苦として感受している」「自身の五蘊の“そのような在り様”が」)、
  滅せられるということだろう?)
内縁起であれば、そのような(ID:BYnV+gRJ さんが指摘しているような)矛盾や不整合は生じない。
まさに、主観的に、それしかない形で見られる、心の様相、変容であるから。主観的認識の、自覚の話になるから。
(アングリマーラの逸話は胸に迫る・・・。)
 (だから私は、縁起の相依性に対するマンセーや偏重が嫌いなのだ。
  それが(その側面が)ないとは言わない。
  が、どちらが主題であり、どちらが中心であるべきかは一目瞭然だろ?と。)
そして、たとえ内縁起であっても整合性の維持が生じるのは、まさに「三世に跨った時」だ。


(ああ、これも、似たようなことを以前書き込んだかもしれん・・・。)