【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】13

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牛乳やバターの喩えと異なってくるのは、まさに、繋がった連続性を見るかどうかということです。
北海道の牛の牛乳から作ったヨーグルトも、宮崎の牛の牛乳で作ったヨーグルトも、どちらも、
『「ヨーグルトと呼ばれ得る縁によって」、ヨーグルトと呼ばれ、その実体はない』。
北海道のヨーグルトに苺を入れても、宮崎のヨーグルトとは無関係だ。
だから、本来は(>>346>【本当は「固有動詞、固有形容詞、固有副詞」等々によって記述しなければならない】
と、極論としてあるように、)全ては1対1対応で指示されねばなりません。
それはともかく、この時、北海道の牛と宮崎のヨーグルトの間に連続性はありませんし必要ありません。
竈の灰も、神通力によってそこに突然出現したわけではありません。
薪が くべられ、燃え、火が消えて、“そこに”灰が生じている。このような因と縁の連鎖によって、
「“そこ”(その竈の中に)に、世間的に“灰”と“呼ばれるもの”が生じている」。
長野の竈で火を焚いたからといって、鹿児島の竈に灰が生じることはない。
なぜか。 ≪そのような縁(或いは法)はない≫ からだ。
(この点は、「バターが牛乳と呼ばれない」ことと相似している。)